空白を横断する怒りの批評 「『現代日本の批評 1975‐2016』再考」レポート|峰尾俊彦

シェア
初出:2017年2月10日刊行『ゲンロンβ11』
 いったい誰がこのような展開を予想し得たのだろうか。去る2017年1月13日に開催された「『現代日本の批評 1975-2016』再考――共同討議全3回完結記念」は、タイトルにもあるように、『ゲンロン』において3回にわたって特集された「現代日本の批評」の完結記念イベントとして行われた。登壇者として共同討議「現代日本の批評」の中心メンバーである東浩紀氏と大澤聡氏に加え、外部のメンバーとして『神々の闘争』(2004年)、『光の曼荼羅』(2008年)などの折口信夫論で知られ、現在の文芸誌でも最も精力的に活動する批評家のひとりである安藤礼二氏、ロスジェネ世代の論客として出発し、『長渕剛論』(2016年)や『非モテの品格』(同)などの文化批評の書き手として精力的に活躍する杉田俊介氏を招き、多角的に共同討議「現代日本の批評」の意義を検証していく。それが、このイベントの趣旨である(以下本稿では敬称略)。

共同討議「現代日本の批評」は『ゲンロン4』で完結した
 
 筆者(峰尾)は、共同討議「現代日本の批評」の構成担当者として「現代日本の批評」に参加してきた。第3回まで大好評のうちに迎えられた「現代日本の批評」の完結イベントということで、正直に言えば筆者は本イベントが、内部のメンバーは誇りを持って共同討議の意義を語り、外部のメンバーは別の視点から共同討議の面白さを伝えていくというような、ありがちな「出版記念イベント」になる、と考えていた。しかし、批評の現状はそれを許さなかった。実際にイベントがはじまってみれば、筆者の予断はあっという間に覆されてしまう。本イベントで繰り広げられていたのは、安藤、杉田という外部のメンバーによる苛烈な「現代日本の批評」に対する異議申し立てであった。そう、「現代日本の批評」の完結を記念すべきはずの本イベントは和気あいあいと批評の未来について語り合うどころか、昨今では珍しく容赦なく批判がぶつかり合う荒れた展開となったのだ。

 では、その光景はどんなものだったのか。結論を先取りするならば、本イベントは、批評の現状への「怒り」をめぐるものとなったように思われる。筆者は本稿の冒頭で、誰がこのような展開を予想し得たのかと記した。しかし、本イベントにおける「怒り」を目の当たりにしたいまとなっては、この展開は予想できてしかるべきものであり、また必然だったのだと言わなくてはならない。以下、本レポートでは、実際のイベントの構成と同様に、安藤による「現代日本の批評」へのコメント、安藤コメントにまつわる討議、杉田による「現代日本の批評」へのコメント、杉田コメントにまつわる討議、という順に繰り広げられた主要な論点をまとめ、筆者の感想も交えながら、当日の白熱した議論を再現してみたい。

柄谷/浅田史観からこぼれ落ちたもの


 まず、安藤は柄谷行人、浅田彰が作り上げた批評史には、大きな負の側面があったのではないかと問題提起する。例えば、浅田彰は澁澤龍彦をはじめとする幻想小説の領域、あるいは吉本隆明の批評といったものを読む価値がないと切り捨てていった。しかし、この切り捨てられたものにこそ真の「批評」の可能性があるのではないか。そして、ゲンロンの「現代日本の批評」は、柄谷と浅田による偏った批評観を無前提に引き継ぎ、澁澤や吉本の豊かな可能性を取りこぼしてしまったのではないか。このように安藤は「現代日本の批評」の拠ってたつ前提を否定してしまうのだ。

吉本隆明や澁澤龍彦らを重視する自らの批評観を忌憚なく語る安藤礼二


 安藤の語る『批評空間』によって切り捨てられた批評の可能性。それは、80年代のメディア環境に大きく結びついている。安藤にとって「批評」の経験は、河出文庫、角川文庫、サンリオSF文庫などの文庫出版の隆盛によってもたらされた。例えば、80年代の角川文庫のラインナップには、横溝正史や江戸川乱歩といった当時メディアミックスが積極的に行われたミステリ作家の著作とともに、吉本隆明の『共同幻想論』(1968年)や『言語にとって美とはなにか』(1965年)が並べられていた。ミステリと批評がフラットに並ぶアナーキーな出版状況は、河出文庫における澁澤龍彦やサンリオSF文庫におけるディレイニーやディックのようなメタフィクションとともに、批評への偶然のアクセスを可能にする。この系譜こそが安藤にとっての批評の原体験であり、浅田たちが切り捨てた批評の可能性にほかならない。このように、安藤は自らの経験からもうひとつの批評の系譜を語っていく。同時に、はっきりと柄谷浅田に対する思い入れはまったくないのだ、と断言する。

 この安藤の浅田彰や柄谷行人に対する切断要請は、イベントの前提を根底から覆す爆弾のようなコメントである。しかし、まだまだ安藤は止まらない。安藤の刃は、「現代日本の批評」史観のみならず、アカデミズムにまでおよぶ。そこでターゲットなるのは東浩紀の出身院でもある「表象文化論」だ。なんと、安藤は大学院の存在価値を全否定し、特に表象文化論が批評にとって諸悪の根源であるとまで語るのだ。曰く、表象文化論は外国語も満足に学んでおらず、文学的教養を壊してしまった。表象文化論系の連中は詩人を気取りながらナルシシズムしかないつまらない文章を書いている。マラルメをはじめとして批評は詩と強く結びついているはずなのに、大学院はそのような詩=批評を教えられると僭称する夜郎自大を体現するような場であり、批評をダメにした張本人なのだと畳み掛けていく。

峰尾俊彦

1985年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。文学研究。「東浩紀のゼロアカ道場」に参加。『ゲンロン』にて共同討議「現代日本の批評」の構成を担当。
    コメントを残すにはログインしてください。