つながりβ(1) きれぎれ|亀山郁夫

シェア
初出:2017年4月14日刊行『ゲンロンβ13』
今号から始まった巻頭リレーエッセイ「つながりβ」は、ゲンロンカフェにお迎えしている多彩なゲストの方々に、日々の興味関心事、イベントへの意気込みなどを自由に寄稿いただくコーナーです。(編集部)
 
 「五匹の象」への挑戦がはじまってから、はや一二年。正確には、二〇〇五年一二月、モスクワの都心ボリショイ劇場の裏手にある安ホテル・ブダペストが原点である。ソ連製の粗悪な椅子が原因の凄まじい肩こりに苦しめられながら、「第一の象」の翻訳に没頭した。そして今、私がとりかかっているのが「第四の象」、『白痴』。「第三の象」、『悪霊』を終えてから四年半が経過したが、全四巻中まだ二巻しか出ていない。しかし、かりにもしこの「第四の象」で打ち止めにするとしたら、今の私は、まさに最終ラウンドないしはゴール直前にあることなる。マラソンで言うなら、四〇キロ過ぎ。そもそも翻訳は、脱落を許されないマラソンであり、どんなに腹が痛かろうが、足が棒になろうが、走ると決心した以上は、最後まで走りきらなくてはならない。ただし、ゴールが見えてくれば、いきおい、ペースも上がり、集中力も生まれる。それが今の私である。

 日々のストレスと疲れを癒してくれるのが、鍼と音楽。鍼については別の機会に譲るとして、ここは音楽の話にとどめるが、最近の実感として、私は着実に音楽嫌いになりつつあるようだ。長く音楽に親しみながら、正直、これほど不寛容な人間になるとは思いもよらなかった。今やほとんどが嫌いな音楽ばかりであり、聞きたいと思う音楽は数えるばかりである。聞き始めると、それこそ味がなくなるまでしゃぶりつくすという悪癖が原因なのだろう。

 ところが、そんな私に、最近、救世主のごとき存在が現れた。長年、嫌いぬいてきたモーツァルトが、なぜか耳に心地よく入ってくる。私が早い時期から親しみ、憧れてきた、暗くて、深い世界、たとえばブラームスの「悲劇的序曲」に象徴されるロマンティックな悲劇から程遠い、軽さ、明るさ。それらに拒否反応を起こしてきたのだ。私にとって最悪の音楽の見本が、何といってもオペラ『フィガロの結婚』。ところが近年、肝心のブラームスにももはや何も感じるものがなくなり、困り果てていたところに救世主が現れたというわけだ。人生の残り時間もそう長くはないので、一回一回が勝負である。わけても直近の快楽は、『ドン・ジョヴァンニ』。良き仲立ちは、YouTubeと村上春樹。『騎士団長殺し』に、天才モーツァルトはどうかかわっているのか。そんな問題にまで好奇心が及ぶようになった。ちなみに一九九〇年メト版の「地獄堕ち」の場面に、「顔なが」と思しき地獄の罪人が顔を出すのを、皆さんはご存じだろうか。

亀山郁夫

1949年生まれ。ロシア文学者。名古屋外国語大学学長。日本ドストエフスキー協会会長。2007年よりドストエフスキー作品の新訳に取り組む。主著に『破滅のマヤコフスキー』(筑摩書房、木村彰一賞)、『磔のロシア』(岩波書店、大佛次郎賞)、『謎とき「悪霊」』(読売文学賞・翻訳・研究賞)。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)で、毎日出版文化賞とロシアのプーシキン賞を受賞。
    コメントを残すにはログインしてください。