スマホの写真論(4)自撮りと心霊写真|大山顕

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初出:2017年7月21日刊行『ゲンロンβ16』
【図1】チェルノブイリ原発4号炉と新石棺。昨年2016年にゲンロンのチェルノブイリツアーに参加した際に撮ったもの


 自撮りをするさまは、念写に似ている。自分にレンズを向けてシャッターを切るという行為。写真論の根幹をなす「撮影者と被写体」という対置がない自撮り写真に、いまだ違和感をぬぐえないぼくにとって、この類似にはぴんと来るものがあった。そうだ、きっと自撮りは「心霊写真」にちがいない。

 ぼくが子どものころ、心霊写真が流行っていた(後で述べるように実際には八〇年代当時すでにブームは下火だったのだが、学校でしばしばその手の写真がまわし見された)。ぼくらを震え上がらせたマンガ『うしろの百太郎』は、冒頭、一枚の心霊写真から話が始まる。つのだじろうによる、七〇年代オカルトブームの火付け役とも言われるこの作品は、念写だけでなく、霊、こっくりさん、生まれ変わり、超能力など各種不思議現象を盛り込んだ恐怖マンガだ。物語内にちりばめられたこれらはよく考えてみればそれぞれ別のものだが、当時は心霊現象としていっしょくたにされていた。これにUFOを加えればオカルト詰め合わせのできあがりだ。このような作品が写真からスタートしていたというのは興味深い。それほど写真は心霊現象に不可欠なものだったのだ。なぜだろうか。

 自撮りの心霊写真性をたしかめるべく、まずは心霊写真の歴史をみてみよう。そして、実は心霊写真が写真論の本質をついていること、その延長線上に現在のスマホによる自撮りがあるということ、さらに最後には撮影者とカメラ自体が幽霊になる、ということを述べてみたい。




 幽霊が写った写真は、写真の普及からほどなくして出現している。霊が写っている最初の写真と言われているものは、一八六一年にボストンのウィリアム・マムラーによって撮影されたセルフポートレイトだ。室内で撮った自分自身の姿のかたわらに、一二年前に死んだいとこが写っているとマムラーは言っている★1。彼はその後、心霊写真師として顧客の注文に応じ多くの心霊写真を撮った。彼のスタジオで撮影すると、死んだ肉親がちゃんと一緒に写るのだ。生者と死者の家族写真である。同様の心霊写真はアメリカだけでなくイギリス、ヨーロッパにも登場した。それにしても世界初の心霊写真が「自撮り」だとは。
 当然のことながら心霊写真は登場以降、常ににその真偽を詮索された。実際、それらの写真の多くはあきらかに二重露光やモンタージュと分かる子供だましのもので、当時の人々がこれを鵜呑みにしたとは思えない。雑誌の切り抜きを合成したものもしばしばあり、アンチ心霊写真派によって、写った霊の顔に印刷の網点があることが報告されたりもした。これに対して、擁護派の中には、実は心霊写真は霊が写っているのではなく、霊感がある者によって故人のイメージが直接感光版に投影された像であるという説を唱えるものもいた★2。雑誌で見た人物の投影像になら網点が発見されてもおかしくない、というわけだ。かなり苦しいが、ぼくが興味深いと思うのは、この説によると心霊写真は念写であるということだ。やがてマムラーは、心霊写真を捏造したかどで逮捕され裁判にかけられる。

 しかし、心霊写真館につめかけた人々にとって、それが本物かどうかは問題ではなかった。長谷正人は「心霊写真は、一部の科学者を除けば、心霊の存在の証拠というよりも死者の思いをなんとかこの世に導入したいという人々の呪術的欲望の産物だった」★3と言い、ジョン・ハーヴェイは、アメリカにおいては南北戦争、ヨーロッパにおいては第一次世界大戦勃発後の時期と心霊写真ブームが一致していることを指摘している★4。つまり人々にとって心霊写真は追悼となぐさめのためのものだったのである。

 社会が大きく変わっていくなかで、既存の宗教が人々の要求に応えられなくなったところに、近代スピリチュアリズムが台頭した。写真が普及したのはこの時期である。加えて、X線や電磁波などが発見されたのも同時期だ。これらが写真に見えないものが写ってもおかしくないという考え方を後押しした。そして写真技術的には、ダゲレオタイプからコロタイプへと進化したことで多重露光が可能になった。これらが交差したところに生まれたのが心霊写真なのである。

 もっとも、こういった一九世紀の心霊写真は、ぼくが知っている心霊写真のイメージとかなり異なる。端的にいうと、それは怖がらせるためのものではない。それどころか、心霊写真師に撮ってもらった肉親の霊との集合写真を、人々が大事にしたことがうかがえる。これには心霊写真出現以前に、肉親の死体とともに記念撮影をする習慣が生まれていたことも関係しているだろう。これは、死者をうたたねをしているかのように横たえ、あるいは目を開かせたうえで椅子に座らせ、一緒に写真を撮ったものだ。現在のぼくらから見るとかなり気味の悪い冒涜的ともいえる行為だが、一緒に写っている遺族たちに嫌悪の表情はうかがえない。むしろ慈愛の眼差しを感じるもののほうが多い。マムラーたちが撮った霊の中には、遺族に向けて同じような表情をしているものがある。つまり、愛する人が生きていようが、死体だろうが、死後の霊だろうが、それは単に撮影のタイミングの問題にすぎなかったのかもしれない。彼らにとって写真が証明すべきなのは家族の愛の存在であって、霊の存在ではなかった。

 第二次大戦後はもはやブームと呼べるようなものではなかったが、心霊写真はまだ一九世紀的な機能を保っていたようだ。例えば小泉八雲の作品やブラム・ストーカーの『魔人ドラキュラ』(後に『吸血鬼ドラキュラ』に改題)の翻訳で知られる平井呈一「エイプリル・フール」★5は一九六〇年に発表された作品だが、これは日本における怪異譚研究の第一人者、小池壮彦をして「これよりすぐれた形で心霊写真を小説の世界に閉じ込めた作品はないと思う」と言わしめた短編だ。一人の女性にまつわる謎が、ラストシーンに登場する心霊写真によって解かれる。主人公はその写真を前に涙を落とす。それは決しておどろおどろしいものではなく、悲しく愛おしいものだ。その後の時代に、心霊写真から失われてしまう美しさの最後の輝きである。心霊写真に興味のある方には一読をお勧めする。

 ちなみに日本で最初の心霊写真とされているものは、一八七八年に撮影された。興味深いのは、撮られた場所が熊本だったことから、写っているのは西南戦争で死んだ兵士の霊であるとされた点だ★6。本連載ではくりかえし、写真には場所が必要であるということについて触れてきた。インスタグラムのセレブたちが、もはや写っているものよりジオタグを重視していることと、撮られた場所によって、写っているものが霊であるとされた、ということの間には、なにやら似たものがないだろうか。「霊とインスタグラムと場所」についてはもっと深く考えたいところだが、長くなるのでまた今度にしよう。
 さていよいよ問題の、日本における七〇年代オカルトブームの心霊写真についてだ。ぼくにとってなじみ深いこれらの心霊写真を、小池壮彦は「ポストモダンの心霊写真」と呼ぶ★7。霊の存在証明や遺族のなぐさめといった明確な目的のために専門家によって撮影されたそれまでと異なり、心霊写真は目的のないまま誰でも撮れてしまうものになった。また、マムラーたちの鮮明な霊と違って、ポストモダンの心霊写真に写る彼らははっきりしない。滝の中や樹々の影などにまぎれて出現する。高度経済成長期を経て、霊はずいぶんと引っ込み思案になったものだ。「このタイプの心霊写真には、一つ、問題があった」と小池壮彦は言う。「それは写っているものが『幽霊』であるか否かを素人目には決められないことである。普通の写真の中に無理やり『幽霊』を見るのであるから、それが幽霊だという人もいれば、錯覚だという人も出てくる」「ここに『心霊写真』の投稿と鑑定というシステムが成立した」★8。冒頭の『うしろの百太郎』はまさにそのシステムについてのお話である。特に女性週刊誌とテレビが鑑定をエンターテインメント化した。

 一九世紀の霊は撮られるために出現していた。なにせマムラーの写真館へ行けば、ちゃんと肉親の霊が出てきてくれるのだ。一方、七〇年代以降の日本の心霊写真は「写っちゃった」霊の写真だ。肖像写真を「被写体が撮られることを承知しているもの」と定義すると★9、この変化は「肖像写真から盗撮へ」とも言える。ポストモダン心霊写真が恐怖、ときには呪いをもたらすのも頷ける。無許可で撮られた霊が怒っているのだ。今でも心霊スポットに行っておもしろ半分で写真を撮ることを戒める発言がよくあるが、考えてみればこれは生身の人間に対するプライバシー配慮と変わらない。盗撮画像のアップによるSNS炎上は「霊障」だ。見知らぬ人からの罵詈雑言は姿の見えない悪霊のたたりに似ている。謝罪しても何しても通じないという意味でも。

 爆発的なブームとなった心霊写真も、八〇年代半ばには下火となっていく。ぼくは漠然と写真のデジタル化が霊を殺したと思っていた。ポストモダン心霊写真の典型として「三点認識型」と呼ばれるタイプのものがある。三つの点があると、そこに顔を見出してしまう人間の認識ぐせによるものだ。これらの多くは粒子の粗い銀塩写真ならではのもので、ピクセル画像には発生しづらい。いわばjpgの圧縮アルゴリズムが霊をも圧縮してしまったのだ。そう思っていた。しかし、デジカメの普及よりずっと以前に心霊写真は死んでいた。とどめを刺したのは一九八九年に起きた宮﨑勤事件にまつわる心霊写真騒ぎだった。新聞に載った宮﨑勤の写真に人の顔のようなものが写っているという記事を、女性週刊誌が掲載したのだ。新聞社からの抗議を受け、週刊誌は後に訂正とお詫びの広告を出した。

 小池壮彦は、その写真を見て「どう転んでも人の顔には見えないことがわかったとき、やはりこの辺で心霊写真ブームは終わるべきだろうと思った」と言っている★10。この事件のポイントは、それが捏造であったことではなく(言ってしまえばそもそも心霊写真は捏造なのだから)、あの衝撃的な事件に対して心霊写真を持ち出すのは不謹慎だと多くの人が思った、というところにある。投稿・鑑定システムがもたらしたエンターテインメントによって、心霊写真は不謹慎になったのだ。同じ「心霊写真」といえども、もはやマムラーの時代のものとは全くの別物だ。

 九〇年代終わりにはいわゆるジャパニーズ・ホラーと称される、一連のホラー映画ブームがあり、霊は写真を見限ってもっぱら動画に出演するようになる。鈴木光司原作の『リング』シリーズがその代表だ。一方、霊がいなくなった心霊写真は「腕が一本多い」「指が一本足りない」といった、被写体の身体の異変タイプに移行する。木原善彦はこれら新しいタイプの写真を、それまでの霊が関与する心霊写真と区別して「霊性写真」と名付けている。そして、これらは自分とは別の誰かの霊が写っているのではなく、「霊的な『私』」が写ったものであるという解釈がなされていることに注目し、そのことは「『私』が複数存在していることが違和感なく受け入れられる素地ができたことを意味している」という。さらに東浩紀『動物化するポストモダン』を引いた上で、この「私」の視覚的現れに複数バージョンが存在する背景には「ポストモダンのデータベース型世界」があり「かつて『向こう側』『彼岸』に存在していたのが心霊的なものだったのに対し、今日『彼岸』に存在するのは、現世に複数の表現型をもつデータベースであるということになる」と論じている★11

 自分の見ばえに各種バージョンがある、というのは現在では当たり前のことだ。「盛った」写真がそれにあたる。「彼岸」を「クラウド」に読み替えれば木原善彦が論じたことはそっくりそのままSNSにおける自撮りの描写だ。目を異様に大きくしたり、顎のラインを細くしたり、SNOWアプリで動物の耳や鼻をコラージュするといった「身体の異変」は、まさに現代の心霊写真にほかならない。そう思ってみると、毛穴が消し去られてぬるっとした皮膚はエクトプラズムに見える。自撮りは、心霊写真の歴史が向かった矢印、途切れて終わった部分から延長した線の上にある。

 もうすこし話を進めよう。この線の先には、さらに別の霊がいる。
 三浦雅士は『幻のもうひとり』(一九八一年)の中で、実は写真家こそ「幽霊」であるということを言っている。彼はまず、寺山修司が描いた、自分たちの人数を数える子供たちの様子を引く。何回か数えるのだが、どうしても一人多い。ザシキワラシがまじっているからだ。このエピソードから、三浦雅士は自分たちで自分たちの人数を数えることの不気味さを指摘する。数える人は、数える自分と数えられる自分の二つに分裂し、ついその両方をカウントしてしまう。その「幻のもうひとり」がザシキワラシなのだと。

 そして、これと同じことが集合写真を撮るときに発生するという。メンバー全員を写真におさめるには「幻のもうひとり」が必要になる。それが写真家だ。「撮影するためには一人の人間が比喩ではなくまさに具体的に同時に二つの場所に立たなければならないからだ。自分の幽霊をおびき出しでもしないかぎり、それは不可能である。そして、この不可能を可能にしたのが写真家なのだ。写真家は人々の前にあたかも幽霊であるかのように存在している」★12。写真はその誕生からずっと、カメラの背後に幽霊を備えていたわけだ。しかしこの秀逸な分析は、自撮りの登場であっけなく無化してしまった。ぼくがずっと自撮りに対して感じている、ぬぐいきれない奇妙さはここにあった。自撮りは写真家を除霊してしまったのだ。

 一九四九年にアメリカで発表されたポピュラーソングに 「I Don't See Me In Your Eyes Anymore」という素敵なタイトルのラブソングがある。また、ひと昔前のグラビアでは、顔を大写しされたアイドルの目をよく見ると、カメラマンが写っているのが確認できた(最近は修整して消すことが多い)。瞳は人体の中で唯一、鏡の機能を持つ。見ているものを映し出すという点で、瞳はカメラでありモニターである。実は幽霊たる撮影者はそこに反射した自分の姿を映している。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の第四話「視覚素子は笑う INTERCEPTER」では、殺された捜査員が手がかりとして残した写真を調べたところ、そこに写っている人の瞳に、カメラが反射して写っていないことが判明する。眼球それ自体がカメラになる時代の話だ。今後、カメラの存在はどんどん見えなくなっていくだろう。そしてその消えたカメラを「写した」ものとして心霊写真は再び復活することになる。

 昨年大ヒットした映画『君の名は。』を観てぼくが衝撃を受けたのは、その絵づくりが完全に「インスタグラム風」だった点だ。しばしば逆光によってレンズ内で光が反射してできるフレアが描かれ、クライマックスシーンではCCDイメージセンサが強い光を受けたときに発生するスミアまでもが描写されていた。いうまでもなく、これらはわざわざ描かれたものである。アニメーションなのだから、実物に向けたレンズは存在しない。つまり、存在しないカメラを執拗に描いているのが『君の名は。』という作品の特徴だ。逆光によって発生する「ゴースト」を描くことは、カメラの幽霊を描くことだ。あの作品はカメラの心霊映画である。

 その点で『リング』もカメラの心霊映画であった。呪いの元となるビデオをコマ送りすると、定期的に短いブラックアウトがあり、それは撮影者のまばたきであることが判明する。つまりあの映像はカメラを使って撮られたものではなく、貞子が見た光景が直接ビデオテープに記録されたものだった。一種の念写である。

『君の名は。』の描写は「第四の壁の破れ」を意図的に行った演出ではなく、単に「見た目にキラキラしてそれっぽい」のを目指しただけだろう。インスタグラムを筆頭とする、ネット上にある「いいね!」をたくさん獲得する絵を詰め込んだ印象だ。場面のひとつには、なんとタイムラプスを描写したものまであった。アニメでタイムラプスとは倒錯している。よく考えるととても奇妙だが、多くの人はあれを素敵な演出だと感じたことだろう。

 インスタグラムのフィルターもカメラの心霊写真だ。いまや信じられないほどの高性能レンズになったスマホのカメラだが、それで撮った写真をわざわざ「劣化」させる。画像周辺の光量を落とし、粒子を荒れさせ、セピア色にする。これらはすべて、かつてのレンズがやむなくそうなってしまっていた欠点を、わざわざ再現するものである。レンズ開発の歴史は、いかにゆがみなく肉眼と同じように写せるか、つまりレンズの存在を消すための努力であった。フィルターをかける行為は、昔のレンズの亡霊を捏造することだ。

 まとめると、心霊写真は七〇年代に一度死に、別の形で復活して現在の盛られた自撮りにつながった。そして現在起こりつつあるのは、存在しないレンズをわざわざ描くことによる「カメラの心霊写真化」である。

 冒頭の写真は昨年のゲンロンツアーに参加した際に撮影した、チェルノブイリ原発の写真である。ツアー中ずっと雨に悩まされレンズにつく水滴にイライラしたものだが、今見るとその水滴の跡こそが、撮影者としてぼくは確かにあそこにいたのだということを表しているように思える。

★1 浜野志保『写真のボーダーランド』、青弓社、二〇一五年、九六頁。
★2 ジョン・ハーヴェイ『心霊写真』、松田和也訳、青土社、二〇〇九年、一二六頁。
★3 長谷正人「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」、一柳廣孝編著『心霊写真は語る』、青弓社、二〇〇四年、七六頁。
★4 ジョン・ハーヴェイ『心霊写真』、一八七頁。
★5 平井呈一『真夜中の檻』、創元推理文庫、二〇〇九年、所収。
★6 奥山文幸「心霊写真の発生」、『心霊写真は語る』。
★7 小池壮彦『心霊写真』、宝島社、二〇〇〇年、一五二頁。
★8 同書、一五三頁。
★9 多木浩二『肖像写真――時代のまなざし』、岩波新書、二〇〇七年、一一六頁。
★10 小池壮彦『心霊写真』、宝島社、二〇〇〇年一九五頁。
★11 木原善彦「データベース化する心霊――「霊」のいる場所と「私」のいる場所』、一柳廣孝・吉田司雄編著『霊はどこにいるのか』、青弓社、二〇〇七年、六六頁。
★12 三浦雅士『幻のもうひとり――現代芸術ノート』、冬樹社、一九八一年、二〇頁。
「顔」と「指」から読み解くスマホ時代の写真論

ゲンロン叢書|005
『新写真論──スマホと顔』
大山顕 著

¥2,640(税込)|四六判・並製|本体320頁(カラーグラビア8頁)|2020/3/24刊行

大山顕

1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。
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