ポスト・シネマ・クリティーク(22)「空洞化」するインターフェイス──静野孔文・瀬下寛之監督『GODZILLA 怪獣惑星』ほか|渡邉大輔

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初出:2017年12月18日刊行『ゲンロンβ20』

「深さ」と「画面」の再発明


 この連載では、毎回、劇場公開中の新作映画を1本取りあげ、「ポストシネマ」の現状を時評的に追ってきた。年内最後となる今回は、いささかイレギュラーな形式ながら、この連載で追求してきた論点にとって示唆的な意味を含んでいる言説と本論の議論とを交差させ、ここ最近に劇場公開されたいくつかの新作を適宜参照しながら、あらためて試論的にまとめておくことにしたい。

 わたしがここで参照しておきたい重要な言説というのは、ほかでもない本誌『ゲンロンβ』で連載中の東浩紀の論考「観光客の哲学の余白に」である。東はこの連載で、近著『ゲンロン0 観光客の哲学』第6章の議論──さらには90年代に発表された刺激的な初期論考「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』など所収)や主著『動物化するポストモダン』などで展開された問題意識を引き継ぐ形で、今日の視覚メディアの変化から、かりに「インターフェイス的」あるいは「タッチパネル的」と形容されるポストモダン時代の新しい主体性や世界把握の哲学的な定式化を試みようとしている。

 以上の論旨は、いうまでもなく、これまでにもポストシネマの画面が、従来の映画館のスクリーン映像やそれをまなざす観客性からラディカルに逸脱し、コンピュータのインターフェイス的な仕様(『映画 山田孝之 3D』)や、人間的な眼=キャメラアイから遊離する「多視点的」な遍在性を宿してゆくこと(『ジョギング渡り鳥』『イレブン・ミニッツ』)をさまざまに指摘してきたわたしのこの連載にも、じつに大きなヒントをいくつも与えている(というより、そもそもわたしが批評家として自己形成してゆくさい、東のこれらの仕事から絶大な影響を受けてきたので当然なのだが)。たとえば、そこで東が提起しているのが、「深さの再発明」という問題である。


 近代は「深さ」を発見した。フーコーは『言葉と物』でそう喝破した。近代人は、目のまえの世界を整理するだけでは満足しない。あらゆる場所に、「深さ」を、言い換えれば「見えないもの」を見いだそうとする。フーコーはその欲望こそが近代の本質なのだと指摘したのである。[……]

 他方、ぼくたちが生きるこの二一世紀はどうだろうか。しばしば言われるのは、ぼくたちはもはや近代に生きていない、もうだれも「深さ」を必要としていないという主張である。この主張にはあるていど説得力がある。[……]現代では、政治すら深さを失い、記号(ワンフレーズ)の組み合わせだけに基づき漂流し始めている。ポピュリズムはポストモダニズムの政治的な帰結だと言える。

 近代には深さがあった。現代には深さがない。この診断はとりあえずは正しい。しかしそれは危険な診断でもある。それは、いま目のまえで起きていることについて、あらゆる「分析」や「批判」の可能性を奪ってしまう診断でもあるからだ。[……]

 けれどもそこにはほんとうは第三の道がある。近代には戻らない、しかし浅さを全面的に肯定するのでもなく、二一世紀の現代でも通用する新たな「深さ」(浅さに還元されないもの)の可能性を探る、あるいは発明するという道がある。ぼくの考えでは、それこそが哲学がいまなすべきことである。[★1]
 ポストシネマの内実を見極めようとしているいまのわたしにとっても、この東の洞察はきわめて切実な意味を帯び、また、鼓舞されるものがある。東の明快な記述に屋上屋を重ねるのを承知でまとめれば、近代的な世界認識とは可視的な表層=「浅さ」と、それを背後で批判的に支える不可視の深層=「深さ」の二項対立(とそれらを象徴的に媒介するメディウム)を強固な前提としてきた。そして、ラカン派精神分析の影響を受けた映画理論が精緻に定式化したように、そうした近代的主体とは、ある側面では不可視の外界をスクリーンの可視的な表象としてまなざす「映画的主体」として比喩的に理解しうるものでもあった。しかし、そうした事態はまさに「スクリーンの例外状態化」=ポストシネマ化が進行する現在にあって、急速に失効しつつある。だとすれば、それでもなお、今後もさしあたり「映画的」なコンテンツを「分析」したり「批判」したりする──つまりはアクチュアルに「批評」しようとするときに重要なのは、まさにこの新たな「深さの再発明」、新たな「画面の再発明」の作業にほかならない。

今日の「画面のインターフェイス化」


 いずれにせよ、東の連載では(やはり『ゲンロンβ』で連載中の大山顕のエッセイ「スマホの写真論」の内容ともおそらくはシンクロしながら)そうした新たな「深さ」を、今後、コンピュータやVR体験、タッチパネルなどを事例に「インターフェイス的主体性」といったキーワードで描きだしてゆくことが予告されている。現代の画面が、「インターフェイス化」、あるいは「タッチパネル化」しつつあるという、そうした状況認識にしても、わたしもまたまったく問題を共有している。

 実際、今日の映画の画面も、キャメラとフィルムを前提として現実の対象を表象するかつてのスクリーンから、データとプログラミングを前提として多層的かつ双方向的にイメージを仮構するインターフェイスに接近していることはまぎれもない。たとえば、その顕著な事例のひとつが、近年の映画の画面構成でしばしば見られる、 Twitter や LINE のタイムラインの仮想的な視覚化の表現だろう。画面内の登場人物が手許の端末で目にしているインターフェイスやディスプレイが、映画の観客が見ているスクリーン上にディジタル映像で視覚化されるこの演出は、大根仁監督の『モテキ』(2011年)あたりから見られるようになり、その後、2010年代をつうじてすっかり定着したといってよい。ごく最近の新作でも、ある種の「YouTuber 批判」の映画といえるジェームズ・ポンソルト監督『ザ・サークル The Circle』(2017年)などにも同様の演出は登場する。

 こうした表現は、その画面がいまここにない不可視の現実的対象をキャメラとフィルムを媒介にして可視的に表象するスクリーンではなく、その背後に隠された現実的対象など何もないインターフェイスなのだという実感を、観客に強烈に与えるだろう。また、そうしたリアリティが極度に推し進められたのが、レヴァン・カブリアーゼ監督『アンフレンデッド Unfriended』(2014年)や佐々木友輔監督の『落ちた影/Drop Shadow』(2015年)など、全編がパソコンのデスクトップ画面上で進行する昨今の映画──佐々木のいう「デスクトップ・ノワール」の作品群である[★2]。その画面には、文字通り表象すべき「外部」など存在していないように見えるのだ。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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