ポスト・シネマ・クリティーク(23)清原惟監督『わたしたちの家』|渡邉大輔

初出:2018年1月19日刊行『ゲンロンβ21』

ひとつの「家」で重なるふたつの物語

 前回、今日のポストシネマにおける画面=「深さ」の変質について述べた。わたしたちの時代の画面には、かつて二〇世紀に蓮實重彦が批評的に見いだしたような、表象=スクリーン的な画面とは異なる、「インターフェイス/タッチパネル的」とでも形容しうるような新たな性質の画面=「深さ」が現れつつあるように思える。今回も、その問題を清原惟監督の『わたしたちの家』(二〇一七年)をおもな素材に、あらためて考えてみたい。

 『わたしたちの家』は、昨年のぴあフィルム・フェスティバルでPFFアワード2017グランプリを受賞した、清原の東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第一一期の修了制作作品である。本作が劇場デビュー作となる清原は、一九九二年生まれの二五歳だが、武蔵野美術大学映像学科在学中からその作品がPFFで連続入選を果たすなど、すでにその才能が注目されてきた期待の新人だ。本作は今後も二月の第六八回ベルリン国際映画祭フォーラム部門への出品が決定している[★1]

 『わたしたちの家』のいっぷう変わった物語のおもな舞台となるのは、その題名のとおり、海辺にほど近い港町の路地に建つ一軒の二階建て古民家である。一四歳の誕生日を迎えつつある中学生のセリ(河西和香)は、クリスマスの直前に父親が失踪して以来、母親の桐子(安野由記子)とふたりでこの家に暮らしている。だが最近、母親に高史(古屋利雄)という若い恋人ができたらしいことを知り、心中穏やかではない。さな(大沢まりを)は目覚めると夜の海に浮かぶフェリーの客室にひとりで乗っている自分に気づく。なぜか自分にかんする記憶が消失していた彼女は、デッキで出会った透子(藤原芽生)と名乗る若い女性が住む家に住まわせてもらうことになる。だが、しだいに透子の行動にはどこか秘密があるように思えてくる。本作を観ている観客は、セリと桐子が暮らす家と、さなが招かれる透子の家とが、まったく同じ家だということに気づくだろう。だが、物語の中では一方が登場するシーンに他方が登場することはなく、別々の世界であるかのように進行する。

 つまり映画は、セリ/桐子、さな/透子という、それぞれふたつの異なる時間(物語)を生きながらもどこかでささやかにつながりあう二組の女性たちの姿を、同じひとつの家を舞台にたくみに交錯させて描いてゆく。一般的には「並行世界」といった用語で語られるSF的な設定に近い趣をもつ物語ではあるものの、清原はそれらの背景説明を何ら作中で明示することはない。すべては最小限に切り詰められた道具立てのなかで、物語世界の背景は最後まで「秘密」として保持される。

インターフェイス的なウィンドウの氾濫

 さて前回、わたしはポストシネマのインターフェイス的な画面=「深さ」の内実を、土居伸彰のいう「空洞化」、「私たち(性)」という用語を用いて仮説的に輪郭づけておいた。簡単に振りかえっておけば、かつての画面(映像)が映しだしていたもろもろのイメージたちは、確固とした実質をもち、一義的な意味や理想、アイデンティティを掲げていた。ところが、広範なディジタル化を被ったいまや、情報過多となった画面は何の意味ももたない代わりにあらゆる意味づけを融通無碍に乞い入れる「空洞」と化し、また、そこに描かれるひとびとは極端に抽象化されて、相互に交換可能な「私たち」へと溶解しつつある。そのディジタル映像時代固有のイメージの性質を、『21世紀のアニメーションがわかる本』の土居は「空洞化」、「私たち(性)」と名づけていたのだった。わたしは、その議論を受けるかたちで同様の傾向をさしあたりアニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』やハリウッド映画『マイティ・ソー バトルロイヤル Thor: Ragnarok』、『ダンケルク Dunkirk』(いずれも二〇一七年)などに見いだしてみた。

 結論を先取りすれば、おそらくこれと同様の傾向は、まさに『わたしたちの家』の描くイメージにもはっきりと表れていると思われる。まず、視覚的にわかりやすいところでいえば、『GODZILLA 怪獣惑星』にも指摘しておいたように、『わたしたちの家』でもまた、その作中の画面にはまさに「インターフェイス的」と形容したくなる、さまざまな「ウィンドウ」(フレーム)が氾濫していることが挙げられる。

 清原の映画では、画面手前に何らかの対象を据えることでショット内の奥行きを強調する構図が頻出するが、『わたしたちの家』でも、千田暸太のキャメラは、セリたちの住む民家をしばしばそうした奥に長く伸びる縦の構図で捉える。たとえばそれは、映画冒頭でも示される、横長のガラスを真ん中に挟んだ障子戸に四方を囲まれた掘り炬燵のある居間を、画面奥に台所が見え、そして二階に上がる階段に接した部屋を挟んだ画面手前の玄関側から写すショットなどに典型的に見られるだろう。そのショットでは、セリが炬燵机で食事をとる姿は、画面のほぼ右半分を覆う障子戸によって観客の視界からほとんど遮られているのだが、横長のガラスによって、彼女の顔の部分だけが小さな矩形のフレーム=ウィンドウで、ちょうどクロースアップショットのように縁取られて見えるのである。モンドリアンの抽象画すら思わせる幾何学的な構図で捉えられるこうしたショット群は、別の場面で印象的に登場する風にはためく洗濯物や、並んで置かれた瓶を写したエンプティショットとも相俟って、小津安二郎(とりわけ後期)の画面との類縁性を感じさせる。

 だが、話を戻せば、こうした矩形のガラスや障子をはじめ、二階にある鏡台の鏡、さなが仕事の面接を受ける喫茶店の窓枠や壁に掛かる絵画の額縁……など、『わたしたちの家』の画面にはじつに多くのウィンドウ=フレームが登場人物たちの周囲に多層的に重なりあって現れるのだ。こうした複数のウィンドウ=フレームは、さきほどのセリの顔を切りとるガラスのフレームが象徴的に示すように、映画のスクリーンというよりは、デスクトップ上にいくつも開いたウィンドウを想起させる。そして、それらのウィンドウ=フレームは、相互にフラットに重なりながらも、手前のウィンドウから奥のウィンドウが覗き見えるのだ。たとえば、さなが住まわせてもらう透子――名前に「透ける」という字が入っていることも暗示的だが――の家の部屋には、ガラス窓のうえから青みがかった大きな布が何枚も掛けられているが、麻のような素材で織られたその矩形の布は、風にそよぎながら、外の窓枠の矩形を半透明に内に透かして見せる。

 以前、東浩紀はマーク・チャンギージーの神経生物学的な知見を参照しながら、立体視(遠近法)によって象徴される近代的主体に代わるポストモダンの主体像の本質を、「透視」に見いだせるのではないかという着想を記していた[★2]。であるなら、この複数の矩形の半透明のフレームこそ、後述する幽霊的な主体や拡張現実的な時空間とも呼応する『わたしたちの家』の画面のインターフェイス性を視覚的に明示するものと呼べるだろう。

「私たち/原形質」的な「世界の見え方」

 とはいえ、『わたしたちの家』のイメージのはらむインターフェイス性は、むろん、こうした比較的わかりやすい演出以外に、さきほどの土居のいう「空洞化」や「私たち(性)」といった用語との関連からも如実に認められる。

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1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。

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