チェルノブイリ後の「歴史」を生きる──『リスクと生きる、死者と生きる』草稿より|石戸諭

シェア
初出:2018年02月16日刊行『ゲンロンβ22』


 記者という仕事を一〇年以上やっていると、人生の転機になったと思える取材がいくつかある。『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)という本にも書いたように僕にとってのそれは、東日本大震災、そして福島第一原発事故の取材に尽きる。

 二〇一一年三月一一日からの社会をどう捉え、考えていくのか。震災からほどなくして現場に入った僕は、折に触れてずっと考えてきたように思う。


 僕が二〇一三年のチェルノブイリ原発ツアーに申し込んだのは、忘れもしない毎日新聞社大阪社会部時代のことだ。当時、大阪の大手ホテルによる食品偽装が世間を賑わしていて、僕は取材班の最若手として、朝から取材に駆けずりまわり、夜回りを終えて、夜中の三時まで起きて各紙朝刊をチェック(余談だが、関西の新聞社では夜三時に刷り上がったばかりの朝刊を各社で交換する慣習がある)してから寝るという生活をしていた。

 社会部記者らしい生活で、抜かれては追いかけ、節目での特ダネを狙うという毎日だった。普通の記者は休んでまで行こうと思うような状況ではないのだが、このツアーには「どうしても行かねばならない」と思っていた。

 今から振り返っても、おかしな熱量があった。その心境は拙著にも書いている。

 このときの私は、自分が震災や原発事故を書くことの意味合いについて考えていた。純粋にチェルノブイリを見てみたいという興味もあったが、それ以上に大事だったのは、一連の出来事を取材して書くにあたって「いったい自分はどんな立場で考えているのか」という意識である。
生まれ育った土地でもなければ、別に縁がある場所でもなく、所詮は第三者のメディアの人間がふらっと行くにすぎない。そんな自分がただ知りたいという思いだけで、訪れていいものなのか。
私はチェルノブイリのことをたいして知らない。観光はおろか、放射性物質に汚染され、立ち入ることすらできないと思っていた。言ってしまえば「偏見」にまみれている。だから、逆に行ってみようと思った。過去の原発事故、それも他国の話なので当たり前だが、知り合いすらいない。そんな場所でも、何かを考えられるのか──。(『リスクと生きる、死者と生きる』より)


 最初に結論から記しておくと、ツアーは何をおいても参加して大正解だった。このツアーに参加しなければ、僕の本はまったく違ったものになっていただろう。特に拙著第三章のタイトルであり、後半の重要なコンセプトでもある「歴史の当事者」という考えには辿りつかなかったと思う。


 一体、何がヒントになったのか。極めて凡庸な意見になってしまうが、結局、人であり現場である。ここでは二人の人物を紹介したい。

 一人はキエフ市内にある国立チェルノブイリ博物館の学芸員、アンドレイ・モーリンさんだ。彼は当時三一歳だった。二〇〇七年五月に教員からガイドに転身して、常勤スタッフになったと自己紹介してくれた。単純に引き算すると、事故時には四歳だったから、あまり当時の記憶はないだろう。

 前職は教員だったというのも納得の落ち着いた口調で、椅子に座った僕たちの質問に答えてくれた。

 博物館は古い街並みが続く地区の一角にぽつりとたっている。当時、入ってすぐのところで福島展を開催していた。天井には鯉のぼりも飾ってあり、福島の原発事故を伝える写真や新聞記事も展示されていた。

 広島についての展示もあった。オレンジ色の空が広がる原爆ドームの写真がなんとも印象的だ。広島の象徴として、必ず出てくる光景である。

 僕たちが博物館見学後に行くことになる原発労働者の街・プリピャチについても展示があった 。チェルノブイリ原発の近くにあった街は全住民が一一〇〇台のバスに分乗して避難した。当時のフィルムなども見ることができる。

 博物館はデートスポットになっていると聞いていたが、確かにまばらながらも二〇代前後のカップル二組とすれ違った。

 そんな博物館を見学した僕たちに、彼はこんな話をしてくれた。

 原子力の悲劇という点で日本は第一の現場ではないか。テクノロジーを手に入れても忘れてはいけない。チェルノブイリ事故後の問題は解決されていないから福島でも事故が起きた。原子力には問題があるということを忘れないようにしている。


 チェルノブイリの目から、福島のことを気にかけているというメッセージである。


 もう一人は、チェルノブイリ原発周辺三〇キロ圏内の立入禁止区域、通称「ゾーン」の中を案内してくれた立入禁止区域庁のエヴへン・ゴンチャレンコ氏だ。
彼のガイドで、僕たちは現実を知ることになる。

 ウクライナであってもチェルノブイリ原発事故はもう過去の話なんだ。


 彼は小さな、しかしはっきりとした声で語り始めた。この時期、曇天もしくは雨が多かったウクライナで、ややぬかるんだ地面を歩きながらの会話だ。

 迷彩色のジャケットとパンツ、黒のニット帽をかぶっている。帽子からはみ出した両耳にはシルバーのピアスが光っていた。表情を崩さないまま、彼は続ける。

 事故の忘却は、事故後二年を過ぎた頃から始まったと思う。それと同時に、社会で起きている問題の何もかもがこの事故のせいだという人たちも出てきた。事故を起こしたチェルノブイリ原発四号機を覆うコンクリートの「石棺」ができた頃から、人々は社会で事故のことを話題にすることもなくなっていった。今は事故が起きた年「一九八六年」という数字としてしか知らない人がほとんどだよ。 数字というのは冷たい知識だ。キエフでプリピャチ市の名前を出してもほとんどの人は知らないか、「たしか川かなんかの名前だっけ」と思う程度だろう。「この地に海外から観光客がくる」と話すと、ウクライナ人であってもみんなが驚く。観光が解禁されたと言っても、ウクライナからのツアー客は少ないからね。チェルノブイリは話題にもならないから、事故当時の記憶のまま情報が止まったという人も多い。


 チェルノブイリの観光地化が進んでいっても、問題の根っこには福島と大差がない「イメージの固定化」がある。観光地として開放されても、ウクライナ国内ですらチェルノブイリはまだまだ危険、というのが一般的な認識のようだった。

 一回事故が起きてしまった以上、そのイメージはいつまでもついて回り、なかなか変えることが難しい。チェルノブイリが観光地になって二年経過しても、まだ変わっていないというのが現状だった。端的に言えば、ウクライナ人はチェルノブイリを訪れない、という現実が見えてきた。

 だが、である。僕たちが知った現実はそれだけではない。

 チェルノブイリを訪れて一番強く感じたのは、「場の力はイメージを破壊する」ということだった。これは福島第一原発でも同じだが、そこに働いている作業員たちは意外と笑顔で仕事をしているし、ゼネコンの建築現場のような環境であることも見えてくる。実際に行ったことで、イメージしていたチェルノブイリとは別のものがそこにあることを知る。

 つまり、自分たちの想像力がいかに凝り固まっているかを知るのだ。


 ツアーに行く前、毎日新聞のデータベースで、「チェルノブイリ」がどのように報じられてきたかを調べた。そこで報じられていたのは、およそこんな感じだった。数字は当時のものだ。
「チェルノブイリ がん」で八〇七件ヒットし、そのうち四分の一以上にあたる二八七件が二〇一一年三月一一日以降の記事だ。福島原発の事故以降、思い出されたかのように報道が増えていることがわかる。

「チェルノブイリ」だけで調べると、五七八三件がヒットしたが、中身を細かく調べてみると事故直後の汚染状況の報道などが多くを占めていた。
福島原発の事故後は、「チェルノブイリの事例を参考にすべき」と指摘する記事も多く見られたが、ここで参考にしようと言われているのは、おもに事故後の処理や、健康被害への対処方法ばかりで、風化防止や観光については視点そのものがない。

「チェルノブイリ 観光」で検索すると、ヒットするのは九四件だった。これも一見すると多いように思えるが、中身を見てみると事故当初の欧州観光への影響など直接は関係のない記事も多く、「観光地化」に関する話題は全部で六件しかない。しかもそのうち二件は、ツアーを主宰する東浩紀さんが発表した「福島第一原発観光地化計画」の記者会見や取材記事なので、実質的には四件しかない。

 これは海外から見た福島の未来であると言っていい。何もしなければ、汚染状況にしか人々の関心は向かわない。忘却は進み、やがて記憶から消えていく。

 さて、僕たちはチェルノブイリから何を学べるのだろうか。僕は彼ら二人の態度から多くを学んだ。彼らは、日本からきた何も知らない観光客が相手であっても、チェルノブイリを訪れる最初の動機が何であっても、どんな立場の人であっても、説明のスタイルを変えずに質問に答え続けてくれた。

 彼らは自分が事故の時どこにいたか、避難者だったか否かとか、原発の近くに住んでいたかどうかとか、そんなことを自ら語ることはない。ただ、チェルノブイリ原発事故とは何だったのかを自身で問い続け、事実、そして自分はどう考えているのかを日本からやってきた観光客相手に語り、福島で起きた原発事故に想いを寄せる。

 ゴンチャレンコさんは「チェルノブイリの汚染状況は福島よりひどいかもしれない。しかし、住む人たちの感情はどこでも同じだろう。人間的な面は変わらないからだ。早く帰りたいとか、これからどうなるのか、とか……」と語っていた。

 モーリンさんが働くチェルノブイリ博物館は、歴史博物館であることがアイデンティティである。他のスタッフも含めて彼らは、歴史の中で事故が風化することに抗っていた。起きた出来事を過去のものにしないために、接点を持ってしまった誰かが語る。起きてしまったことを、興味を持ってしまった誰かに語ることで未来につなげようとする。

 彼らが、なんらかの当事者であるとするなら、それは「歴史の当事者」なのかもしれないと僕は思った。そこに刻まれた歴史を生きて、歴史を背負っている。僕も彼らのように、どこで生まれたとか、どこで育ったといった話から離れ、同時代者として経験したことを引き受けながら、仕事をしていくことはできそうだ、と。


 そんなことを考えながら、チェルノブイリをあとにした僕はやがて「歴史の当事者」という考えを膨らませて、一冊の本を書くことになる。思い返せば、帰国後の報告会で僕はこんな話をしていた。

 福島の今後を考えるうえで重要なのは「未来を提示する」ということだと思っています。


 未来はチェルノブイリを見ることで、少しばかり具体的に想像することができる。

 どんな軽薄な動機でも、興味を持ってしまったなら、その時は躊躇せずに現地にいっていい。きっと、圧倒的な現場の力を感じることになり、自分が思いもよらないことを想像してしまうだろう。

 僕たちに必要なのは、自分の想像をあっさりと超える何かに出会うこと、そのものである。

石戸諭

1984年生まれ、東京都出身。2006年立命館大学法学部卒業、同年に毎日新聞入社。岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016年1月に BuzzFeed Japan に入社。2018年4月に独立した。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)。ニューズウィーク日本版「百田尚樹現象」で第26回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。
    コメントを残すにはログインしてください。