展評──尖端から末端をめぐって(2) ヌード NUDE―英国テート・コレクションより|梅津庸一

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初出:2018年05月25日刊行『ゲンロンβ25』

女性ヌードの変遷


 今回取り上げる展覧会は横浜美術館で開催中の「ヌード NUDE―英国テート・コレクションより」展である。テートのコレクションによるヌードの展覧会というだけあって、本展は西洋における美術史の足跡そのものと言っても過言ではない充実したベストアルバム的な内容であった。

 突然で恐縮だが、バラエティタレントでグラビアアイドルだった小倉優子が2004年にリリースした楽曲「オンナのコ♡オトコのコ」★1の歌詞が本展を語る上で非常に示唆的なので引用したいところだが、楽曲の著作権の問題があるため、かいつまんで説明する。

 男の子は女の子の事をいつも考えたり、追いかけたりしているものの、男の子は少し「バカ」で女の子の気持ちが全然わかっていない。それでは教えてあげましょう。この世で一番大切なのは「タイミング」であると小倉は歌う。

 



 ルネサンスの時代から長らく「女性ヌード」は理想の形態、ミューズとしての役割を担わされてきた★2。西洋におけるヌード絵画の系譜について考える際によく引き合いに出されるのが、ジョルジョーネの《眠るヴィーナス》(1510年)を起点に、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》(1538年)、アングルの《グランド・オダリスク》(1814年)、マネ《オランピア》(1863年)、ゴーギャン《マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)》(1892年)、マティス《ブルー・ヌード》(1907年)と続く流れである。画家たちはひとつのモティーフを400年にも及ぶスパンのなかで本歌取りのように捉え直していった。例えばマネの《オランピア》は、売春婦を描くことでこれまでのヌードの価値体系を転倒させようとした。またゴーギャンはヨーロッパ的な価値基準に行き詰まりを感じ、タヒチで出会った14歳の愛人をファンタジーめいた非西洋圏由来のプリミティヴな様式を織り交ぜながら描いた。さらにセザンヌは絵の具をモデルの肌の質感に擬態させるようなことは一切せず、短冊状に筆触分割されたグレー味を帯びた造形単位のそれぞれに連帯を結ばせたり、歯抜けのような塗り残しも造形単位として扱いながら絵画を自律させるような複雑極まりない絵画ロジックを生み出した。皆がセザンヌのロジックに夢中になり、現在でも彼の絵画システムを使って抽象画を描き続ける作家が存在する。そしてピカソらによって試みられたキュビスムは、文字通り様々な視点から見た形態をキューブに還元する絵画様式だが、非西洋圏の造形言語をリソースにしたり、「こうでなくてはならない」という厳密さがなかったおかげで多くの追随者を生んだ。全球的に広がった彼らの熱情は当初組み込まれていなかった幾何学的な解体と結合を次々に生み、その不定形に広がる二次創作の総体が「キュビスム」だったとも言える。さらに、本展に出展されているボナール《浴室》(1925年)を見ていくと、ナビ派★3らしく形態を装飾的なパターンとして簡略化しながらも、そのなかにたくさんの色斑やジェスチャーを同居させてみたり、色相を壊れた光のスペクトラムのように偏らせたり、絵画空間の持つ奥行きを盆のように歪めたり、鑑賞者が対象を認知するまでの時差を生み出すべくフォーカスをずらしたりと、人間の生理的な部分への踏み込みが確認できる。ボナールの絵は、ひとつの作品のなかに様々な水準の要素が連立方程式のように積み上がっている。セザンヌやピカソのように感染力の強い絵画様式こそ生み出さなかったが、それ故にボナールの絵画には未だに汲み取り切れないメッセージが詰まっている。

 以上のように、女性ヌードは高尚な美の理想的なイメージから画家たちの実験場へと移行していった。しかしこうした試みがなされても、ほとんどの場合、男性から見た女性像という視点は固定されたままであった。

梅津庸一

1982年山形生まれ。美術家、パープルーム主宰。美術、絵画が生起する地点に関心を抱く。日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させた自画像、自身のパフォーマンスを記録した映像作品、自宅で20歳前後の生徒5名と共に制作/共同生活を営む私塾「パープルーム予備校」の運営、「パープルームギャラリー」の運営、展覧会の企画、テキストの執筆など活動は多岐にわたる。主な展覧会に『梅津庸一個展 ポリネーター』(2021年、ワタリウム美術館)、『未遂の花粉』(2017年、愛知県美術館)。作品論集に『ラムからマトン』(アートダイバー)。作品集『梅津庸一作品集 ポリネーター』(美術出版社)今春刊行予定。
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