つながりロシア(1)ロシアから「つながり」を考える――ソ連の行列的近代について|乗松亨平

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初出:2018年10月26日刊行『ゲンロンβ30』
 今号から新連載「つながりロシア」が始まる。
「つながりロシア」は、文学・政治・文化など、幅広いテーマでロシアを語るリレーエッセイ。第一回では、『ゲンロン6』『7』で「ロシア現代思想」の特集監修を務めたロシア文学・思想研究者の乗松亨平さんが、ソ連社会に特徴的な「行列」について語る。(編集部)

ロシア現代思想と「誤配」


「つながりロシア」の第1回、まずは、昨年『ゲンロン』本誌で組まれた「ロシア現代思想」特集を振りかえっておきたい。

 東浩紀のデビューがソルジェニーツィン論であることや、ゲンロンのチェルノブイリ・ツアーのことは、『ゲンロンβ』の読者ならたいていご存知だろうが、それでもロシアに対する近年の東の肩入れには、怪訝な思いでいる方も少なくあるまい。かくいう私自身、特集の監修の話をいただいたときはそうだった。その後、1年以上に及んだ準備作業は、東と『ゲンロン』読者にとって、ロシアのなにが面白くありうるのか、考えをめぐらすプロセスでもあった。

 その答えとして私が「ロシア現代思想」特集で強調したのは、日本とロシアの近代の相似性である。日本とロシアはともに、西欧から遅れて近代化を開始し、追いつき追い越そうとする無理な努力の結果、いびつな近代を生み出した。そのようないびつな近代は、実際には珍しいものではないが、戦前の日本と冷戦期のロシア(ソ連)は、覇権を握った近代のかたちに対抗を挑み、そして敗れた代表例である。

 これを東の理論的関心に照らしあわせると、『存在論的、郵便的』(1998年)以来、東が唱えてきた「誤配」もまた、「近代の超克」の試みとして捉えることができる。「誤配」は「否定神学」に代わるものとして構想された。ある体系には体系内では語りえないものがあり、じつはその語りえないものこそが体系を支えている、という否定神学は、近代社会の構造を突き詰めた論理だといえる。雑駁なまとめになるが、父なる神を中心に構造化されたキリスト教圏の社会において、神への信仰が衰退し、神が空虚なものと化しつつも、なおその一神教的な構造自体は保全され、空虚な中心に支えられつづけるのが近代社会だ★1。たとえば多くの資本主義論は、貨幣をそのような空虚な中心として捉えてきた。

 否定神学に代わるべき「誤配」について、東は概念的な定義よりも、イメージや隠喩、あるいは具体的実践により示そうとしてきたように思える。構造として固定化されるのではなく、偶然に生まれるつながりという「誤配」の性質上、それは必然的なことなのだろう。「誤配」は東にとっていわば未完のプロジェクトであり、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年)で、「家族」という危うさを孕んだ隠喩があえて使われたことにも、既存の構造を批判・解体するだけではだめで、それに代わる新たなつながりを見出さなければならない、という強い問題意識が伺える。

『ゲンロン』がロシアで特集を組むというのもまた、「誤配」の実践だったといえるだろう。ただ、実践としてだけでなく、内容的にも、「誤配」というプロジェクトに応えるものにしたいと思った。近代的構造に代わるべきつながりのかたち――その可能性を、いびつな近代の経験から汲みとろうとするさまざまな試みが、「ロシア現代思想」特集には盛り込まれている。たとえば右派のアレクサンドル・ドゥーギンが、そのようなつながりとして提示する「エトノス(民族)」は、運命共同体であると同時に自由な選択の対象ともされており、東の「家族の哲学」と部分的に似た関心を読みとりうることは、ドゥーギン論文への解題で記した。また、特集の2つの共同討議ではともに、デモというつながりの新しいかたち――目的を掲げないデモ、「観光客」的デモ――が語られている。

集団と個人のつながり


 私自身がとりわけ興味をもっているのは、アルテミー・マグーンの論文がとりあげた、後期ソ連におけるつながりのかたちである。近代社会におけるつながりは、個人と集団の関係として問題化されてきた。たとえば、日本やロシアのように近代化が不十分な社会では、個人主義が成熟せずに、前近代的な集団主義が残っているといわれたり、逆に近代化の進展により個人のエゴイズムが助長され、集団的道徳が衰退したと嘆かれたりする。あるいは個人化とは裏腹に、近代では都市への人口集中にともない群衆という新たな現象が生まれ、個人を呑み込むその暴力性が恐怖と憧憬の対象となった。いずれにせよ、個人と集団は原理的に、片方を立てれば他方が立たない反比例関係で捉えられてきたのである。

 この反比例関係は近代の欠陥とみなされ、それを克服し個人と集団を両立させようとする、多くの試みがなされてきた。自由な個人が対話を通じて集団につながるという市民社会の理想はその代表例だが、19世紀ロシアの宗教哲学者が唱えた「ソボールノスチ(集合性)」なども、個人の自由にもとづく集団という発想自体は同じである。

 マグーンもまた個人と集団の両立を唱えるが、その理路は少々異なっている。自由な個人が確保されたうえで集団が形成されるのではなく、集団の課す不自由が強まることで個人が形成されるというのだ。ソ連の全体主義社会は、個人を抑圧するものだったと一般には理解されている。しかし後期ソ連においては、強度の集団性の押しつけが、むしろ個人主義を促進したのだとマグーンはいう。たとえば土地や建物の私有が認められなかったソ連は、だれのものでもない公共スペースにあふれていた。そうしたスペースは、表向きは「みなのもの」として集団管理することになっていたが、実際には荒れ果てて、個人が好きなように使っていた。この個人性は、集団を解体するわけではなく、あくまで集団の枠内で実現される。こうした自壊性をうちに孕んだつながりに、マグーンは新たな「コミュニズム」の可能性をみてとった。

 後期ソ連にこのようなつながりのかたちを見出した先駆者は、マグーンの論文や、『ゲンロン5』(2017年)に訳出された露米の哲学者討議でも言及された、論理学者にして小説家のアレクサンドル・ジノヴィエフである。集団規範を押しつけあっておたがいを抑制しつつ、集団からできるかぎり個人的利益を引き出そうとするのが、ソ連市民の行動原理だとジノヴィエフは喝破した。また、現代ロシアを代表するアーティストのイリヤ・カバコフと、その理論的擁護者であるボリス・グロイスが、ソ連の共同アパート(コムナルカ)をめぐる仕事で描いてきたのも、集団性と個人性がたがいを昂じさせる、こうしたつながりのかたちだといえる。共同アパートの住人の個人性は、隣人たちにたえず物理的にさらされることをとおして、事後的に発見されるものでしかない★2。これはフーコーの主体形成理論――主体は社会的規範への従属をとおして形成される――を彷彿させるかもしれないが、フーコーの考える従属が規範の内面化を意味したのに対し、ソ連における集団への従属は、他人と常時接触する住環境のような、直接的・物理的なものである。

 ひょっとすると、このようなつながりのかたちは、ソ連といういまは失われた社会を超えて、新たなリアリティを帯びつつあるのではないか。日本社会に通じる点をみてとる――たとえばラッシュ電車と共同アパートの比較――こともできるだろうが、グロイスは近著『イン・ザ・フロー』(2016年)で、かつて共同アパートを解釈したのと同じ論理でインターネットを語っている★3。実際、以前なら出会うべくもなかった人々を直接つなぎあわせるSNSは、市民社会の理想よりはるかに、無縁の人々をすし詰めにしたソ連の共同アパートや強制収容所と似ていないだろうか。充実した内面をもつ個人が対話をとおして社会全体を充実させる、という市民社会の理想は、個人→集団という順序で、個人と集団の反比例関係を克服しようとするものだった。それに対し、集団→個人という順序で、集団の直接的圧力が内面なき個人を生み出すというのが、ポスト近代の現実となるのかもしれない。

 そこにはポジティヴな可能性もある。マグーンだけでなく、『ゲンロン8』(2018年)で東がインタビューしたオレグ・アロンソンやエレーナ・ペトロフスカヤは、ソ連におけるつながりのかたちにそうした可能性を読み込んでいる。あらかじめ他者に開かれ、自己完結することのできない個人が、物理的で直接的な情動を介してつながれる――アロンソンとペトロフスカヤによれば、それは、規範や理念の内面化を介したつながりよりも、脆くもあり自由でもあるつながりの可能性だ。

ソ連の行列的近代


 話が抽象的になったが、ここからは具体的に、ソ連におけるあるつながりのかたちをみていこう。共同アパートや強制収容所以上に、多くのソ連市民が日常で参加せざるをえなかったつながり――行列である。

 ゴルバチョフのペレストロイカをリアルタイムで知る世代であれば、当時のニュースで映し出された、空っぽの商品棚と長蛇の行列を記憶しているかもしれない。生活物資の欠乏と、それを求める人々の行列は、初期からソ連社会にはつきものだった。ペレストロイカ期には特に悪化し、女性は一日数時間を行列で過ごしたといわれる★4。長い待ち時間を人々は前後に並ぶ他人との会話に費やし、そこで伝播した政権への不満がソ連崩壊の一因となった、という研究者もいるほどだ★5

 ジノヴィエフの風刺小説『奈落の高み』(1976年)では、ある登場人物がもっともな疑問を口にする――「行列に並ぶ代わりに、人々をもっと働かせるほうが、ずっと単純ではないかね? 生産物は増えて、行列は減るだろう」★6。だがそう単純にはいかない。社会主義のソ連において、商品流通は売買ではなく分配として捉えられた。商品は、「買う купить」というより「手に入る достаться」もの、与えられるものであり★7、後期ソ連では国民の労働意欲の低下が深刻な問題となった。生産から分有へというのが、アロンソンやペトロフスカヤが好んで依拠するジャン゠リュック・ナンシーの『無為の共同体』(1986年)の主張だが、後期ソ連はそんな「無為」を体現していたといえなくもない。

 辛抱強く待ちさえすれば目的はおのずと達される、という行列の前提は、ソ連の公式イデオロギーであった史的唯物論と合致する。原始共産制→封建制→資本主義→共産主義という段階に沿って、歴史は必然的に発展するはずだった。批評家のミハイル・エプシュテインや文化史研究者のコンスタンチン・ボグダーノフによれば、行列の根底には、確実に訪れる未来の救済を待つ通過点として、現在を捉える心性があるという★8。しかし後期ソ連は、そんな未来への信憑が著しく損なわれた時代でもあった。『奈落の高み』では、「シルリ゠ムィルリ」――「なんのことやら」といった意――という名の架空の商品を求めて人々が延々たる行列をなすのだが、いったいそれがなんなのかはじつは政府も知らない。国家行列委員会が設置され、行列記念式典が祝われ、シルリ゠ムィルリ生産工場の建設が華々しく開始されるが、建設は終わることなくやがて忘れ去られてしまう。

 アメリカの研究者アンドリュー・チャップマンは、西側と東側の近代における時間意識の差異を、行列に読みとっている。西側の近代は、時間を効率的に利用し、生産を伸ばすことに邁進した。時間は商品を生み出す資源なのである。それに対して東側では、時間は生産ではなく分配に――商品が手に入るのを待つことに費やされる★9。行列を表すロシア語 очередь には「順番」という意味もあり★10、商店の前の行列だけでなく、アパートの割り当てや自家用車の購入などの順番待ちも指した。分配に要する待機時間が、権力関係と社会的序列を規定し、行列に並ばなくてよかったり順番を抜かしたりできる特権層を生み出す。チャップマンによれば、未来の救済が信憑性を失った後期ソ連において、人々はただおとなしく行列に並び、未来を待っていたわけではない。集団への寄与をとおして序列を上げ、個人的特権を得ようとした★11。マグーンが述べていたように、強度の集団性が個人主義を促したのである。

ソローキンの『行列』


 このように自壊性を高めた後期ソ連の行列を、微に入り細を穿って描いた小説がある――『青い脂』(1999年)などで知られるロシア・ポストモダニズムの旗手、ウラジーミル・ソローキンが、1985年に発表した『行列』だ。それまでモスクワのアンダーグラウンド・アート界でひっそりと活動していたソローキンのこの長編は、パリの亡命ロシア系出版社から刊行されるや話題となり、3年後には英語に翻訳された。ちょうど、カバコフやグロイスの仕事を契機に、モスクワのアンダーグラウンド・アートが西側で注目を浴びつつあったころである。

 近年ではSF的設定を用いることの多いソローキンだが、この小説は、ブレジネフ期末葉の行列のありさまをリアルに描いている。作品のなかの行列は2昼夜に及び、閉店時間になると、まだ並んでいる人々の名前と順番を控えていったん解散し――主人公のワジムは1235番(!)――、あらためて点呼に集まる。これは夜間の行列が禁じられていたためだ。こんな長蛇の列を尻目に、行列免除特権をもつ者たちがたびたび訪れ、憤怒を巻き起こす。社会主義の根本である、平等な分配という正義観念を行列は体現した。免除特権はそれを侵害するものと受けとめられたわけだが、いわゆる特権層だけでなく、退役兵や障害者、妊婦や子供の多い女性などに与えられたこの特権もまた、平等を保障するためのものである。先述のボグダーノフによれば、行列は異なる「正義」理解がぶつかりあう場所だった★12。正義という集団規範をおのおのが都合よく解釈し、個人的利益を求めたのである。

 行列は、分配を受動的に待つ集団でありながらも、その枠内で個人の能動的欲望が追求される。小説の舞台は夏の盛りで、近くに清涼飲料クワスのスタンドが出たと聞きつけた人々は、行列の向きを勝手に変えて、並んだままスタンドにたどりつく。あるいは道路沿いのアパートの中庭へと列を向け、順番にベンチに座れるようにする。「『それでみんなで座りましょうよ。なんのために立っているんです?』『そうしよう、もちろん……』『そっちに折れるだけだよ……』『うん。中庭に曲がろう、曲がろう!』『ようし……。早く行って席をとれ……』『ただ順番に、順番にね! 行列の順番でね!』」★13。既存の秩序が能動的に利用・改変され、自主的秩序がつくりだされるのだ。さらに行列は食堂へと入り込み、一杯ひっかけたワジムは酔いつぶれてしまうが、目覚めたあとでまた行列に復帰する。前後の人に順番をとってもらって列を抜けるのは、ごくありふれたことだった。

『奈落の高み』のシルリ゠ムィルリと同様、ソローキンの小説でも、人々が並んでいる商品の正体ははっきりしない。並んでいる者たち自身、それがよくわからずに尋ねあう。ただひとつ明らかなのは、それが外国製品ということだ。東欧諸国からトルコやイギリス、アメリカまで、さまざまな国がとりざたされるが、とにかく外国の、たぶんなにか衣料品――ライフル★14やリーといったジーンズブランドが噂になる――なのである。ブレジネフ期は「停滞」の時代と称されるが、経済的にはソ連が最も安定した時期であり、公式・非公式に輸入された西側の商品が市民の欲望の的となった。『行列』では、並んでいる人々がビートルズの「涙の乗車券」を口ずさんだり、レッド・ツェッペリンがライブ中に銃撃されたという怪しげな噂に興じたりする。ソ連市民が行列の先に待つのは、共産主義の未来ではなく、外部の資本主義の商品へと変わっていた。ただしその外部は、あくまでもソ連の内部で欲望されたかぎりの外部であり、ソ連の行列に並ぶことで手に入るはずのものだった。

 しかしワジムは結局、最後まで行列に並んで商品を手にすることはない。際限なき行列を雷雨が見舞い、雨宿りさせてくれたアパートの女性と一夜をともにしたのち、彼女が当の商店の係長だとわかり、商品――アメリカ製と判明――を直接もらえることになって小説は終わる。これもまた、集団規範が個人的欲望の媒体となる、後期ソ連のありさまを皮肉に描いた結末といえるだろう。

集団化された言葉は欲望に用いられうるか


 ここまでの話だと、『行列』はたんなるリアリズム小説に思えるかもしれないが、じつはいかにもソローキンらしい言語実験が試みられている。全編、登場人物のセリフだけでできているのだ。しかも、名前があって同定できる人物はワジムのほか数名だけで、多くのセリフは、だれともわからぬ行列中のだれかがだれかに発するものである。セリフのあいだの脈絡もほとんどない。とりわけ実験的な箇所のひとつは点呼の場面だ。名前を呼ばれて「はい」と答えるだけのやりとりが、ざっと数えたかぎりで574人――そのうちの何人かからは返事がない――にわたって続く。もうひとつの実験的箇所は、ワジムとアパートの女性リュドミーラのセックスの場面である。意味をなさない喘ぎ声のやりとりが、やはり何十行にもわたって続けられる。

 言葉から意味を奪ってたんなるインクの染みの連なりと化すような実験は、ソローキンのほかの作品でもお馴染みのものだ。だがこの二つの場面は、興味深いペアをなしている。片方では、名前とその指示対象との対応を確認する作業が延々と続き、読者にとって意味をなくしてゆく。他方では、喘ぎ声のなか、ワジムとリュドミーラがたがいをさまざまに呼びあう――「リュードチカ」「いい子」「ぼくの宝物」「素敵な子」「リュード」「ぼくのクレオパトラ」「リューレチカ」/「ワジク」「私の男の子」「私のいい子」「私の子ネコちゃん」。点呼の場面とは対照的に、言葉は対象への欲望に満たされて、対象との指示関係をくりかえし確認する。ソローキンは、『行列』の英訳新版に寄せたあとがきで、行列を「集団的身体」と呼び、ロシアにおけるその歴史をたどっている★15。言葉とその対象との指示関係が意味をなくし、個別性を失ってゆく点呼の場面が、行列の集団的身体性を表しているとすれば、ワジムとリュドミーラのセックスの場面では、言葉は代わりのきかない個人の身体と指示関係を結んで、意味を回復するかのようだ。

 しかし実際には、2つの場面は対照的であるよりはるかに似ている。点呼の場面と同様、「ああ」とか「おお」とかいう間投詞の延々たる連なりに、たまに呼びかけが挟まれるセックスの場面も、通常の読書には堪えない。ほとんどの読者は退屈し、読み飛ばしてしまうだろう。あるインタビューでソローキンは、この小説では「行列の公的で社会的な世界と、女性のアパートの親密でプライベートな世界の違いを強調したかったんです」と述べたあと、もっとも、親密な世界もやはり公的なイデオロギーに侵されていて、「プライベートな世界を残酷な社会的世界と対照できるのは、ある程度のことにすぎません」★16と留保をつける。

 だからセックスの場面で、言葉の意味の回復が図られていると単純にはいえない。行列の集団的身体においてと同様、言葉はやはり意味を奪われている。ただ、2人の呼びかけにしるしづけられているように、この場面において、言葉がたがいの身体に対する個人的欲望に満たされていることはたしかだ。2つの場面における無意味な記号が、固有名詞から間投詞に変わることも重要である。間投詞はそもそもなんらかの対象を指示しない。18世紀西欧の言語起源論争では、「情念の叫び声」がしばしばその起源とみなされた★17。そんな叫び声の連なるこの場面で、回復を図られているものがあるとしたら、言葉の意味作用ではなく、人間にそもそも言葉を発させる情念・欲望なのだといえるだろう。

 その回復の試みが成功しているかはわからない。ワジムとリュドミーラの喘ぎの連なりは、彼らの欲望を読者に伝えるにはあまりに冗長である。起源の情念を言葉に回復させたいだけなら――そうした試みは文学史に数多ある――、こんなばかばかしい長さは避けられたはずだ。これは、点呼の場面において言葉の意味作用を失わせるに要した長さと、対応するものとして理解されねばならない。『行列』の2つの場面では、個別的意味をなくし集団化された言葉を、その意味は失われたままで、個人的欲望の媒体へ転じるという試みが演じられている。それは、放置され荒れ果てた公共スペースが個人に流用されたように(マグーン)、意味を使い果たされた言葉を欲望のため転用しようとする、多分にシニカルなパフォーマンスなのだ。

 ここでもまた、集団から個人が生成されてゆく。(人間的)意味から(動物的)欲望へという、それ自体としてはお馴染みのポスト近代への移行は、資本主義社会では多くの場合、個人のありかたの変容として考えられてきた。そこに集団という経由地を組み込む理路を、ロシアのいびつな近代は示唆している。

 





★1 これはもちろん、いろいろと留保をつけねばならない単純化である。一点だけ補足しておくと、否定神学そのものが近代批判として現れた。哲学においてそれを代表するのが、ナチス・ドイツの「近代の超克」運動とも関わったハイデガーであるのは偶然ではない。また、19世紀末以降のロシアの宗教哲学では、西欧近代に対抗する伝統として、東方正教会の否定神学が再発見された。しかし否定神学は、近代批判というよりむしろ近代を突き詰めた論理とみなすべきであり、東はそれとは別の近代批判を模索してきたのだといえる。

★2 以下の拙論を参照。「孤独の(不)可能性――グロイス/カバコフの共同アパートをめぐって」、『思想』2018年4月号、岩波書店、56 – 71頁。

★3 一部重なる内容を以下で読める。ボリス・グロイス「芸術の真理」、角尾宣信訳、同書、25 – 40頁。

★4 Николаев В.Г. Советская очередь как среда обитания: социологический анализ. М.: РАН ИНИОН, 2000. С. 64-67.

★5 Там же. С. 47. ちなみに1917年の2月革命も、パンの配給に行列する女性たちから火がついたといわれる。

★6 Зиновьев А. Зияющие высоты // Соб. соч. Т. 1. М.: Евразия+, 1999. С. 748.

★7 Николаев. Указ. соч. С. 52-53.

★8 Эпштейн М. Очередь // Бог деталей. Эссеистика 1977-1988. М.: Изд. Р. Элинина, 1998. С. 55-56; Богданов К.А. Советская очередь: социология и фольклор // Повседневность и мифология. СПб.: Азубука, 2015. С. 400-401.

★9 Andrew H. Chapman, “Queuetopia: Second-World Modernity and the Soviet Culture of Allocation,” Ph.D thesis, University of Pittsburgh, 2013, pp. 19-21.

★10 第一次世界大戦までは、「尻尾」を意味する単語 хвост がおもに行列を表すのに使われていたという(ibid., p. 12)。英語の queue も語源はラテン語の「尻尾 cauda」である。

★11 Andrew Chapman, “ ‘Let There be Abundance! But Leave a Shortage of Something!’ Distinction, Subjectivity, and Brezhnev’s Culture of Scarcity,” Slavic and East European Journal 61:3, 2017, pp. 520-521.

★12 Богданов. Указ. соч. С. 376-379.

★13 Сорокин В. Очередь // Соб. соч. Т. 1. М.: Ad Marginem, 1998. С. 308-309.

★14 ライフルはイタリア発祥のブランドで、そのジーンズは特に旧共産圏で人気があった。

★15 Vladimir Sorokin, “Afterword: Farewell to the Queue,” trans. by Jamey Gambrell, The Queue, New York: New York Review Books, 2008, pp. 253-263.

★16 Sally Laird, Voices of Russian Literature: Interviews with Ten Contemporary Writers, Oxford: Oxford UP, 1999, p. 148.

★17 コンディヤックの『人間認識起源論』(1746年)が代表的。ただし間投詞については、「情念の叫び声」を文字で表すことの不可能性――「それらが間投詞として紙の上に一字ずつ明瞭に書きつづられると、全く正反対の感情でも殆ど同じようにあらわされる」――、自然な情念と文字言語との断絶のあかしとみなされることもあった。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー『言語起源論』、大阪大学ドイツ近代文学研究会訳、法政大学出版局、1972年、5頁。

乗松亨平

1975年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はロシア文学・思想。著書に『リアリズムの条件』(水声社)、『ロシアあるいは対立の亡霊』(講談社選書メチエ)、訳書にヤンポリスキー『デーモンと迷宮』(水声社、共訳)、トルストイ『コサック』(光文社古典新訳文庫)など。
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