日本思想の150年──知識人、文学、天皇(冒頭部分)|苅部直+大澤聡+先崎彰容+東浩紀

初出:2018年10月26日刊行『ゲンロンβ30』
 2018年10月、批評誌『ゲンロン』は第I期を終える。「第I期終刊号」と冠した『ゲンロン9』では、過去に特集した「現代日本の批評」、「ロシア現代思想」、「ゲームの時代」のそれぞれを補完する三つの小特集を収録する。
 「ロシア現代思想III」では五木寛之氏、沼野充義氏、東浩紀の鼎談を収録したほか、ミハイル・バフチンの未邦訳草稿を初邦訳。「ゲームの時代II」では、辻田真佐憲氏、土居伸彰氏、松下哲也氏、山本貴光氏の論考を収録している。
 ここに冒頭部分を掲載する共同討議「日本思想の150年――知識人、文学、天皇」は、「現代日本の批評IV」として位置づけられる。連続企画「現代日本の批評」はこれまで、1975年以降の日本の批評史を検討してきた。ではその前史に、日本の批評/思想は、どのようになされてきたのか。日本思想史研究者の苅部直氏と先崎彰容氏、批評家の大澤聡氏と東浩紀が、日本近代思想を再考し、現代日本を照らし返す。
 明治150年にあたるこの年に、節目となる記念碑的座談会をここにお届けする。(編集部)

 

東浩紀 今年は明治維新から150年の節目の年であり、また来年には代替わりも予定されています。そこで本誌では、「日本思想の150年」というテーマで、苅部直さん、先崎彰容さん、大澤聡さんをお迎えしてお話をうかがうことにいたしました。

 今日の討議では、たんに歴史を振り返るのではなく、日本思想のアクチュアルな可能性を取り出せればと考えています。いま日本の政治的言説は、右/左、与党/野党、保守/リベラル、改憲/護憲、安倍政権支持/「反アベ」といった対立が先鋭化し、たがいに連動して身動きが取れない状況になっています。150年の複雑な歴史を辿り、読者がそうした対立を逃れる視座を確保できればと思っています。

 討議にあたり、まず先崎さんと大澤さんに、そのような狙いをお話ししたうえで、「いま再注目すべき著作」を事前に選んでいただきました。今日はそれをもとに討議を進めていきますが、まず読者の方に申し上げておきたいのは、この座談会はけっして網羅的な振り返りをする場ではないということです。150年の思想史を数時間で語り尽くせるわけはなく、この座談会でも多くの重要な人名が落ちていると思います。また、この討議は、『ゲンロン1』から『ゲンロン4』まで、ぼくと大澤さんを中心に3回に分けて行った「現代日本の批評」という長い企画の、補足的な第4弾という位置づけにもなっています。今日は、1975年以降の40余年を検討した「現代日本の批評」の時代から、さらに100年さかのぼるかたちで、いまの日本の言論状況をつくり出している歴史や環境について再考できればと考えています。

 ここからみなさんの話をうかがっていくわけですが、議論の焦点になりそうなことをさしあたって三つほど考えてみました。ひとつめは知識人の役割です。日本の知識人は150年の歴史のなかでどのように大衆と向き合ってきたのか。また日本の知識人にとって大衆とはなんだったのか。ふたつめが文学と思想の関係です。日本では文芸批評が思想の機能を担ってきたとよく言われますが、なぜそれが必要だったのか。これは、苅部さん、大澤さんの関心である「教養」の問題と大きく関わります。また「現代日本の批評」の企画と直結する問題でもあります。そして最後に天皇の問題です。リストに挙がった著作を読み直して、日本の思想家たちが天皇という存在の意味について、さまざまなかたちで考えつづけてきたことをあらためて実感しました。くしくも来年は代替わりが予定されており、天皇とは日本思想にとってなんだったのか、すこしでも触れることができればと思います。

 司会役を逸脱してあらかじめ言ってしまえば、「知識人」「文学」「天皇」というこの三つの問いは、最終的に「この国で一般意志を担うのはなにか/だれか」という問題に帰結するのかなと思っています。日本の知識人は、ほんとうに一般意志に触れてきたのか。日本の文学は、なぜ一般意志の表現を期待されたのか。そして、天皇は、日本国民の一般意志とどのような関係にあるのか。

 それではさっそくですが、まずは明治初期の思想の可能性について、先崎さんから選書と絡めつつお話しいただければと思います。

● 1|明治

 

第三項としての国民主義


先崎彰容 まず明治初期で取り上げたいのは、福澤諭吉と西郷隆盛と陸羯南くがかつなんの三人です。竹内好の解釈に則れば、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)は、日本の近代化のマニフェストであり、1945年までの日本のあるべき流れを最初に指し示した書です。対して、西郷の『南洲翁遺訓』(1890年)は、反近代の価値観を主張した最初の本として、右からも左からも評価されてきた。西郷は、征韓論を主張した人物として批判されることも多いのですが、『南洲翁遺訓』を読むと、征韓論的な西郷とは別の側面、近代に懐疑的なもうひとつの西郷像が浮かび上がってくる。「近代主義の福澤」対「反近代主義の西郷」という竹内図式は、明治思想史の紋切り型としてある一定の有効性があった。そこに、ややマイナーな陸羯南の「国民主義」を導入することで、対立を突破したいというのが、まずはぼくの意図です。

 明治初期の政治思想に関しては、最近、小林和幸『「国民主義」の時代』(2017年)、松沢裕作『自由民権運動』(2016年)といったすぐれた研究が現れています。それらを読むとわかるのは、当時はどんな政治的立場においても、天皇を基軸にして立憲主義体制をつくることが、ほぼ共通了解になっていたということです。つまり明治初期の政治的対立は、どのような権力をつくるのかではなく、だれが権力を運営するのかというヘゲモニー闘争の側面が強い。たとえば、自由民権運動は明治思想史では権力対反権力の図式、つまり保守対リベラル図式でしばしば理解されますが、陸羯南は、自由民権運動は民権を主張しているのではなく、幕末以来の不平不満を吐露しているだけだと批判しています。このような「だれが政府の運営をするのか」という権力争いを、松沢は「戊辰戦後デモクラシー」と表現しました。

 つまり、戊辰戦争により所属先がなくなってしまった大量の人々が現れたこと、また戦功を挙げた者たちが、当然の権利として自己の発言権の拡張を目指し運動したことが、日本のデモクラシーの原点にある。その観点からすると、自由民権運動とは、要は所属先をなくしアイデンティティーの危機に陥った人々が、もういちど武士の身分に戻るための運動にすぎないとも言える。以上のような補助線を竹内図式に入れてみると、明治の思想はけっして近代と反近代という二項対立に還元できなかったことがわかります。

 近代日本のデモクラシー運動の原点がアイデンティティー・クライシスにあったというのは、じつに興味深い指摘ですね。

先崎 平たく言えば、おれたちは戦争で勝ったんだから発言権を与えろ、というのが明治期のデモクラシーです。そこで発言権が与えられなかった人々の最大勢力が自由民権運動であるにもかかわらず、歴史教科書などでは突出して高い評価を受けている。

 陸羯南や谷干城たにたてきら「国民主義者」の動きを今回、とくに見ておきたいのは、彼らが「保守主義」の立場から藩閥政府を批判しているからです。当時、藩閥政府は近代化の名のもと法治主義を進めていきます。すると、新しい法律は日本人の伝統的価値観から逸脱してしまう。たとえば明治12年(1879年)に、谷干城が、軍人の死亡恩給に関する改正意見を出します。藩閥政府は戦死者の遺族にだけ恩給を支払う制度をつくったのだけど、これに対して日本の慣習では、親に渡すほうがふつうであるはずだと主張する。こういう政府批判が、保守主義の名のもとに出てきます。また、ぼくたちは、いまは天皇制と明治藩閥政府の政策を混同してしまいがちですが、さきほども言ったように、天皇の存在の重要性はどのグループでも自明の前提で、むしろ天皇によって体制を批判する動きが、これまた保守側からありました。たとえば元田永孚もとだながざねは、天皇は儒教における「天」を体現する存在だとみなして、明確に藩閥政府と切り分けた存在として考えている。つまり儒教的理念「天」によって、現実にある政府が相対化され、批判可能な視座が確保されている。このように、いまのぼくたちの目からすると古臭く見える学問を継承した人々が、近代化を進める藩閥政府に対して異を唱える状況があった。リベラルな自由民権運動とは異なる、保守側からの政府批判が存在した。

 すこし整理します。まずは一般には、福澤=近代派と西郷=反近代派で明治思想史を理解する常識がある。けれども先崎さんとしては、その両者に属さない第三項として陸羯南や谷干城ら「保守主義者」を持ってきたいということですね。

先崎 そうです。

 彼らは、西郷的な反近代主義とはどうちがうのでしょう。

先崎 保守主義者は、西郷と問題意識を共有しつつも、藩閥政府の転覆には懐疑的だった。対外的危機を考えると、国内が分裂しないようにすべきだと考えていた。だから「国民」主義なんです。また、西郷のような要人による反体制運動だけではなく、陸羯南のような在野の思想家にも注目すべきです。そして、教科書的な「政府対反政府」の二項対立をズラしてみようと。

共通目標としての「文明」


 いまの先崎さんのお話について、苅部さんからなにか応答はありますか。

苅部直 話を時代順に整理し直す必要があるでしょうね。西郷の『南洲翁遺訓』は出版こそ1890年ですが、口述されたのは明治3年(1870年)で、廃藩置県の前です。だから三つのうちではこれが最初で、福澤の『文明論之概略』はその5年後。「儒教流の故老」にとりわけ読ませたいと思って書いたと福澤は回想しています。

 先崎さんは「戊辰戦後デモクラシー」という言葉で戊辰戦争のインパクトを強調されました。同じ方向で大きなインパクトをもたらしたのが廃藩置県です。そこで武士の身分が消滅し、伝統的な紐帯が失われた。そうした混沌のなか道に迷っている人々、儒学の考えが染みついて新しい時代についていけない人々に、「文明の精神」というあらたな方向を指し示し、モラルの再確立を目指した本です。旧世代の思想に寄り添う『南洲翁遺訓』とは、ちょうど対照的な位置にあると言えるかもしれませんね。

 また、文明=西洋近代とみなし、近代と反近代の対立で福澤と西郷を位置づけるという紋切り型の問題性については、まさにそのとおりでしょう。福澤と西郷、この両者が西洋対東洋という枠組みで必ずしも考えていないことは強調しておく必要があります。『南洲翁遺訓』の遺訓第一一章に、「未開の国」に対して残忍な行為を行っている西洋は、「文明」でなくむしろ「野蛮」だと批判する有名な箇所がある。しかしその次、第一二章では、西洋諸国の刑罰の緩やかさにふれて、それは儒学の「聖人」の仁政にも通じるもので、「実に文明ぢや」と語って賞賛しています。

 こうした姿勢は福澤も同じで、『文明論之概略』は、よく誤解されるように日本が西洋とまったく同じになることを説いた本ではありません。「文明」はあくまでも人類が共通に目指すものであって、同時代、19世紀の西洋諸国もまだ文明の頂点になど達してはいないという議論です。たまたま当時は相対的に、アジアよりも進歩しているにすぎない。そもそも civilization の訳語として福澤が採用した「文明」も、儒学の経典で理想の治世を形容する最高の美称ですね。つまり福澤にとっても西郷にとっても、「文明」は伝統的な教養と矛盾するものではなく、むしろ西洋の近代文化のなかに、自分たちと共通する価値を見出していた。このふたりは、そもそも近代/反近代という図式に還元できない視野を持っていたと言えるでしょう。

 これに対して陸羯南『近時政論考』の刊行は明治24年(1891年)で、初出はその前年。すでに帝国憲法が発布されたあとで、帝国議会の開会をにらんで書かれたものです。こちらはむしろ、西洋近代をモデルにした国民国家のシステムをつくろうという問題意識がはっきりしている。西郷や福澤とは議論の地平が異なっている。

 あともうひとつ、藩閥政府と自由民権運動の両方が、議会を持つ立憲君主制を肯定していたと言い切ってしまうと、見落とす部分もありますね。明治15年(1882年)に板垣退助が「自由党の尊王論」という論説を公刊します(『自由党史』第五編第五章)。自由党も皇室を大事にするという自己弁護なのですが、そのなかで前年に起きたロシアのアレクサンドル二世暗殺事件を取り上げている。その裏の意味は、議会をすぐに開かないと人民の不満が昂じてロシアのようなことになり、皇室の存続も危うくなるぞと脅迫しているんですね。政府による言論取り締まりがありますからはっきり書いていないのですが、かなりラディカルな主張にもつながりうる。福澤・西郷の議論と陸羯南の時代のあいだ、明治10年代はまた独自の議論の空間があったわけです。

先崎 おっしゃるとおりで、福澤と西郷には通底するところがあります。西郷には『文明論之概略』を読むことを弟子に勧めたという話があるし、福澤も西南戦争のときには、西郷が殺されないように、戦争を停止させ裁判に持っていこうと動いている。西南戦争の年の1877年に書かれた『明治十年丁丑公論』(のち1901年に出版)では、西郷を批判する世論を批判し、全面擁護の立場に立つ。苅部さんのご指摘のとおり、福澤も西郷も「文明」に対しては同じようなイメージを持っています。儒教経由か西洋思想経由かという方法のちがいがあるものの、「文明」のイメージとして「寛容性」を強調するのは共通している。

 そしてまた、明治10年代と20年代のあいだに断絶があるというのもおっしゃるとおりだと思います。陸羯南が現れる以前、明治10年代後半には自由民権運動の過激化と終息という前史があった。ちなみに、東さんは、今日は思想と文学の関連性が論点になるとおっしゃっていたけれど、坪内逍遥の『小説神髄』が現れ、日本近代文学がかたち作られはじめたのも明治18年(1885年)ごろです。政治における反政府行動の激化・終焉と近代文学の始まりに同時性があるのは、興味深い暗合だと思います。

大澤聡 ここまでの話を受けて、ぼくなりに雑駁な整理を入れてみると、明治初期の思想が抱える二層構造を取り出すことができるんじゃないでしょうか。基底としての一層目に普遍的な「文明」観なり「近代」観が広がっていて、その上部の二層目に「西洋対東洋」や「近代対反近代」といった対立図式が乗っかっている。だから、これは西洋と東洋、近代と反近代の共在というのともちょっとちがっている。竹内好が言うところの「明治国家の二重構造」という地政学的なアポリアにも由来するこの二層性を念頭に置かないと、福澤の「興亜論/脱亜論」にせよ、西郷の「征韓論」にせよ、その実相がつかめず、ステレオタイプ的な理解にとどまってしまうわけでしょう。

 たしか、西郷の征韓論は連帯に向けた平和的な交渉を前提としつつも、それがこじれたときには軍事力を行使するという二段構えで検討されていたんですよね。そうした二重性や二面性はいたるところに胚胎していて、それを当時の布置のなかで解きほぐしてやる必要がある。けれども、たかだか50年くらいしか経っていないのに、大正期後半以降には、言論人たちの物言いを通覧していくとよくわかりますが、総じて一層目の部分がすこんと抜け落ちて、上部の「西洋対東洋」や「近代対反近代」のスケールでしか捉えられなくなってしまう。それは戦時期の「近代の超克」論や、戦後の議論にまで通底します。

 二層構造が単層化するプロセスは、思想の領域だけではなくて文学の世界でも辿ります。いまの先崎さんの話の最後につなげるなら、教科書的な文学史の整理はこうなっている。『小説神髄』で「写実」をはじめとして近代文学のミッションをマニフェスト的に提示した坪内逍遥は、しかしながら、実作である『当世書生気質』(1885-86年)ではそれをうまく実践に落とし込むことができず、近所に住んでいた二葉亭四迷による『浮雲』(1887-89年)という偶然の誕生を待つほかなかった。明治18年あたりに西洋式の近代文学のモジュールが導入され、短期間のうちに定着し、他方でその反動として尾崎紅葉や幸田露伴のような擬古典主義も出てきて、両極をゆらぎながら進化を遂げ……といった具合に、「西洋対東洋」や「近代対反近代」の構図のなかで整理されます。けれど実際には、その基層にはアーキタイプとしての「ノベル」概念が存在したはずですね。

 そもそも『浮雲』にしても、和文脈と漢文脈と欧文脈をハイブリッドさせている。これは緻密に設計した部分と天然の部分とがあります。二葉亭は『浮雲』発表後すぐに文学から離脱して、かねてからの希望であった外交の世界に工作者的にコミットしようと、ひとり悪戦苦闘するわけですが、うまく行かず、およそ20年後に文学の世界に無理やり復帰させられたときには、すっかり自然主義一辺倒の時代になっていた。それを『平凡』(1908年)でパロディ化してみせたわけです。後世にできあがる「近代対反近代」の評価軸ではどうしても一層目の部分が拾いきれないし、遠近法的倒錯が入り込む。だから、明治18年よりも前に大量に書かれた政治小説なんかも測定できず、ほとんど放置されたままなのでしょう。

 ともあれ、このタイミングで日本近代の150年間を振り返ることに意義があるとすれば、冒頭で東さんがおっしゃったように「右/左」や「政治/文学」や「保守/革新」や「翼賛/抵抗」などの二分法をいったんキャンセルして、いま言った一層目に対する想像力の回復を試みることに尽きると思う。ニセの二項対立になっている場合も多いですから。ただし、これは危うい作業で、近年のアーカイブの整備が可能にする実証性の補強に支えられていなければ、たんに恣意的なだけの概念操作になってしまいます。

個人の解体と再構築


 続いて明治中期から後半へと移りたいのですが、それはまさに文学では自然主義が登場し、文学の影響力が高まっていく時代です。思想はいかがでしょうか。

先崎 明治中期および後半の思想を考えるためには、明治28年(1895年)の日清戦争終結から明治37年(1904年)の日露戦争開戦のあいだ、つまり日清戦争後の約10年間が重要だと考えています。というのも、この時期にはじめて国家との関係性が切れる「自我」が現れ始めるからです。

 これは帝国主義の国際情勢のなかで日本が一定の成功を収め、国家目標が達成されたことによって、国家目標=自己実現の等式が取れたことに由来します。つまり個人の文学的存在(内面性)が露出してきたと解釈することができる。徳富蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』(1916年)で、最近の青年たちは天下よりもコスメチックな髪形を気にしたりすると嘆いています。天下国家を語ることが自己主張とイコールだった時代が終焉し、過剰に自己にこだわる人々が、とりわけ青年層を中心に登場してくるわけです。たとえば内村鑑三の『代表的日本人』(1894年)★1では、まだ西郷隆盛らの基礎的教養をなしていた儒教の「天」イメージに、自己を同一化できていた。内村は、『後世への最大遺物』(1897年)では、源氏物語が日本の文学ならそんなものは要らない、わたしは源氏よりもむしろ頼山陽の文章を評価する、と言っています。このような漢文脈に根ざし、公的な関心に強く裏打ちされた内村的感性が、明治中期、次第に消えていく。そのかわりに浮上してくるのが、「天」とのつながりや、公的な関心を欠落させた、内面的「自我」という奇妙な代物だった。理念も公的な世界への関心も奪われた、ぶよぶよした不定形な自分という存在。この変化を敏感に感じ取ったのが、北村透谷と高山樗牛たかやまちょぎゅうです。彼らは日清戦争前後に活躍するわけですが、公的世界の常識に沿って立身出世を語る「昼の世界」を持ちつつも、一方では、あらゆる肩書に還元できない悲哀に襲われる。漠然とした不安に満ちた「夜の世界」について饒舌なくらいに語った。この内村的感性から透谷・樗牛への変化が、明治20年代から30年代、つまり自然主義文学登場以前の明治中期に関する、おおまかな見取り図になると思います。

苅部 一般的には、青年たちが天下国家との一体感を失い、「個人主義」に陥って煩悶しはじめるのは、日露戦争のあとの現象だと言われています。いまの先崎さんのお話は、そのような自覚がすでに日清戦争後の時点で現れていたということですね。そしてその代表的論客として高山樗牛を挙げている。先崎さんが『高山樗牛』(2010年)で書いておられますし、最近では長尾宗典さんの『〈憧憬〉の明治精神史』(2016年)でも検討されていますね。日露戦争後ほど個人の自我に内閉しておらず、しかし儒学的な人間関係からはすでに切り離された、一種の中間的な「自己」が、日清戦争後に現れてきた。

 日露戦争の後になると、島崎藤村『破戒』(1906年)や田山花袋「蒲団」(1907年)などの自然主義が現れ、文学的個人主義が覇権を握ることになります。そしてそれに対して、石川啄木は「時代閉塞の現状」(1910年)で、自然主義の「私」なんて、引きこもっているだけで結局現実と触れていないじゃないかと批判することになる。先崎さんはその直前に注目するわけですね。

先崎 まさにその啄木は、樗牛をあこがれの対象と思い、批評活動を始めている。啄木は樗牛に可能性を見出しつつも、彼が晩年に日蓮という古典に傾倒し、未来志向でなくなったことに激しく失望し、批判する。啄木自身はちがう方向性を、時代を批評するための武器を求めて模索し死んでいく。

 内村から透谷・樗牛へ、そして自然主義へと時代は推移していくわけですが、内村の再読可能性はどうでしょうか。『代表的日本人』は、キリスト教的な倫理の類似物を儒教の伝統に見て、日本のイメージを再構築する本ですね。

★1 『代表的日本人』は1894年に Japan and the Japanese という題で出版され、1908年にRepresentative Men of Japan と改題・改版されているが、ここでは Japan and the Japanese の出版年を記した。

苅部 『代表的日本人』は英語で書かれた著作で、外国人に日本の文化について説明するという意図を持っています。すでに憲法も議会もできて近代国家としての制度が整い、日清戦争にも勝利した。それを達成しえた基礎にあるはずの、日本人の国民性と文化の伝統を、外国人とりわけ西洋人に説明しようとした。そこでおもしろいのは、日本の伝統思想をキリスト教風に説明するんですね。たとえば「天」は朱子学・陽明学では大宇宙・大自然を意味することが多く、その場合は cosmos と訳すのが適切ですが、内村はキリスト教の超越神を思わせる heaven を用いている。そうした性格は、新渡戸稲造がやはり英文で刊行した『武士道』(1900年)にも見られます。そうした説明によって、日本人自身が日本の文化を再認識するようにもなる。日本人は日本文化論が大好きな傾向がありますが、その原点は、この時代にあると言えるかもしれない。

先崎 1902年には岡倉天心も「東洋の覚醒」を英語で書いています。そこには、日清戦争の勝利によって日本が誤解されているので、海外に対して「日本」――岡倉の場合は「アジア」というべきでしょうが――の価値観を説明しないとまずいという焦燥感が現れている。「東洋の覚醒」は一種の戦争プロパガンダのようにも読めます。

 そうした海外への紹介とは別に、ここでこだわりたいのもまた透谷です。思想史的に透谷が重要なのは、ラルフ・ウォルドー・エマソンの伝記をはじめて日本で書いたことだと思います。透谷はクリスチャンでしたが、信仰に徹しきれない精神状態に陥り、近年、森本あんりが『反知性主義』(2015年)で指摘したような「自然と自己との合一化」という側面からキリスト教を受け入れることになる。それがエマソンの伝記として結実した。結果として、同時代に国木田独歩が『武蔵野』(1901年)で描いたような、自然のなかでの自分探しの旅のイメージが浮上してくる。つまり、同じクリスチャンでも、内村が「天」の存在を強烈に意識できているのに対し、透谷には自己の方向性を見失い「自我」が溶解していくような感覚がある。この点は、樗牛も同じです。樗牛は「安心立命」という言葉をしきりに使います。彼は、精神の安定を支える絶対的ななにかを追い求め、「美的生活を論ず」(1901年)など一連の評論を書きますが、最終的には、なにに自己を一体化していいかわからなくなっていく。「日本主義」だと絶叫し、すぐさま「日蓮主義」にはしる。ぼくはこの透谷・樗牛の混迷にこそ、いま再読すべき可能性があると思います。

 以上をまとめると、明治中期から後期は、儒教的な強い個人の解体が進むと同時に、不定形な「自我」が浮上してくる。その成れの果てに、自然主義というラディカルに見えて、その実、青年たちの内に籠った現実への諦念が一定の共感を持って時代を代表する。そしてこの自然主義が持つ文学的特徴を、時代への批評性の不足だと批判した石川啄木がいて、明治を締めくくる。なんと言っても、啄木は、大逆事件に強い関心を抱きながら死んでいったわけですから。

苅部 エマソンを日本で最初に有名にしたのは徳富蘇峰でしょうね。儒学の伝統と、西洋思想・キリスト教受容の結節点にあるような世代。新島襄の弟子でもあります。エマソンには汎神論のようなところがありますから、儒学的な教養ともなじみやすい。最近、木村洋さんが『文学熱の時代』(2015年)で書いているように、蘇峰・山路愛山ら民友社系の論者たちの思想圏内から北村透谷も出発して、愛山と有名な論争を闘わせているんですね。蘇峰や透谷には、福澤・西郷にも見られた徳川時代の儒学との連続性と、大正期以降の「個人主義」につながる要素が、混在しているように思います。(つづく――全篇は『ゲンロン9』でお楽しみください)

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2018年8月13日 東京、ゲンロンオフィス
構成=峰尾俊彦+編集部
注=編集部


批評は再生した。人文知のほんとうの再起動がここから始まる。



ゲンロン9
2018年10月発行 A5判並製 本体382頁
ISBN:978-4-907188-28-3

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1965年生まれ。東京大学法学部教授。専門は日本政治思想史。『丸山眞男――リベラリストの肖像』(岩波新書、サントリー学芸賞思想・歴史部門受賞)、『日本思想史への道案内』(NTT出版)、『日本思想史の名著30』(ちくま新書)、『基点としての戦後』(千倉書房)など著書多数。

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1978年生まれ。批評家、メディア史研究者。近畿大学文芸学部准教授。博士(学術)。著書に『批評メディア論』(岩波書店)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書)、『1990年代論』(編著、河出ブックス)など。講談社文芸文庫の『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』の編者。『群像』にて「国家と批評」を連載中。

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1975年生まれ。日本大学危機管理学部教授。著書に『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)、『未完の西郷隆盛』(新潮選書)、『違和感の正体』、『バッシング論』(ともに新潮新書)など。現代語訳に福澤諭吉『文明論之概略』(角川ソフィア文庫)。

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。