SFつながり(1)物語と非物語のあいだで|名倉編

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初出:2018年12月28日刊行『ゲンロンβ32』
 今号から新連載「SFつながり」が始まる。 二〇一六年より、翻訳家・書評家の大森望氏を主任講師とする〈ゲンロン 大森望 SF創作講座〉を開講している。またゲンロンカフェのイベントシリーズ「大森望のSF喫茶」は五年で二六回を数える長寿人気企画となっている。「SFつながり」は、SF創作講座・SF喫茶をはじめとして、ゲンロンとSFによってつながった書き手によるリレーエッセイ。初回は〈SF創作講座〉第一期受講生であり、『異セカイ系』で第58回メフィスト賞を受賞した名倉編氏による、「言葉遊び」をめぐるエッセイをお届けする。(編集部)
   言葉遊びがすきだ。
   小説とか文章を書くとき。そこでしか書けないものが書けないか。まず考える。  その媒体でしか書けないこと。そのタイミングでしか書けないこと。そのお題でしか書けないこと。  たとえば今回の条件は「『ゲンロンβ』という媒体」で「デビュー作『異セカイ系』発売から2ヶ月」それから題材として「『異セカイ系』への反響などを踏まえつつ」「次回作に向けた取り組みや意気込みなど」というのもいただいてる。  こういう制約から「ここでしか書けないもの」を逆算するのがじつは自分に合ってて。  それはぼくが言葉遊びがすきなこと。それから『異セカイ系』にも関わってくる。
   制約条件のなかでいちばん特異なのは媒体だと思う。『ゲンロンβ』。ここはほかの場所とはちがう。  たとえばここではすこし説明を入れれば「家族的類似性」という言葉をつかってもたぶん問題ない。  家族的類似性。ウィトゲンシュタインの概念で。ここでは『ゲンロン0』の第2部「家族の哲学」で紹介されたことでおなじみ。
「わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけることができない。なぜなら、一つの家族の構成員のあいだに成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じように重なり合い、交差し合っているからである。――だから、わたくしは、〈ゲーム〉が一つの家族を形成している、と言おう」★1
 たとえばAさんの目はお母さんそっくりで。眉はお父さんそっくり。お母さんとそのお姉さんはせっかちなとこが似てて。そのお父さんとは笑い方が似てる。  それぞれがべつの部分で似てて。全員に共通の性質はない。  そういう家族的類似性がなんで生まれるかって言うと。単純にはセックスだと思う。Aさんのお母さんとお父さんは結婚するまえは他人で。だから一切似てなくてもかまわない。そういうふたりがなんで家族的類似性をもつかって言うと。どっちにも似てるAさん――こどもがいるから。  ただここで引き返す必要がある。セックスだけを家族のつながりの根拠であるかのように言うと養子や不妊のひとを排除してしまうし。そもそもウィトゲンシュタインが家族的類似性という言葉で言おうとしたのはセックスとかないゲーム――ひいては言語ゲームについてだった。  セックスはひとつの例であってぜんぶじゃない。だから一般化して抽象化するとこうなると思う。家族的類似性を生むのは「2つ以上のものに似ること」。  1つのものに似るのはコピー。2つ以上のものに似ることで、それまで他人だったものが事後的につながる。  ところで。 『異セカイ系』というタイトルを見てみよう。
   もちろん言葉遊びがきっかけだった。異世界(転生)×セカイ系=異セカイ系。思いついたとき。おっしゃ。って思った。  Aさんとお父さんとお母さんみたいに。「異セカイ系」の「異」は異世界転生にそっくりで「セカイ」もなんとなく面影がある。「セカイ系」のとこなんかセカイ系にそっくりだ。  つまり「異セカイ系」という言葉遊びは「異世界」と「セカイ系」のこどもで。これほどわかりやすくなくてもあらゆる言葉遊びは同じように家族的類似性をもつと思う。というか。「言葉遊び」ってあまりにも「言語ゲーム」だ。  重要なのは「異セカイ系」が生まれるまで「異世界」と「セカイ系」は――Aさんのお父さんとお母さんのように――他人だったってこと。お父さんとお母さんの恋がそうだったように。「異世界」と「セカイ系」は偶然結びつけられた。ぼくに。  星座に似てる。あの星とあの星とあの星とあの星とあと3つ並んだあれでオリオン。どこがやねん。って小学生のころ思ったけど。まったく結びつけられる必然性のない点と点をつなぐとひとはそこに物語を見てしまう。まるで無意味を埋めるみたいに。
   物語。  って言葉がでると。うっ。ってなる。ちょっと構える。  ぼくのなかで「物語」は基本的にあまりいい意味じゃない。  なりたてとはいえ小説家としてどうなのって思わなくもないけど。や。むしろ大事で。物語をつくるからこそ物語にはちゃんと警戒しないといけない。  物語はときに凶器になる。差別や虐殺や戦争を正当化するのはいつも物語だった。もちろん悪い面ばかりじゃない。ぼくたちは電車にのるにも横断歩道わたるにも箸をもつにも物語に頼ってる。  そういう広い意味で物語をとらえたとき。つまらない。ってのもある。要するに秩序化されてる。ひとつの標識にひとつの指示。ひとつの物語にひとつの解釈。ひとつの言葉にひとつの意味。つまらない。  こどものころ。横断歩道は溶岩の海に点在する島々だった。もちろんそれも物語だけど。もとあった物語にべつの物語を注入する。バグらせる。それが遊びで。そここそが(ぼくにとって)重要。溶岩の島々としての横断歩道は横断歩道と溶岩の島々の両方に似てるこどもで。同時に横断歩道でも溶岩の島々でもない謎の不気味ななにかでもある。  言葉遊びもそう。たとえば369はただの数。でもそこに「ミロク」とフリガナをふるとちょっと不気味になる。ぜんぶ3の倍数なのもぞわぞわしてくる。m69w(ミロク)でもいい。こんどは視覚的な点対称性が気になりだす。もう。ひとつの言葉にひとつの意味じゃない。ひとつの言葉が複数の過剰な意味をもちだす。  言葉はなにかを意味するための道具。と思われてる。と思う。その「道具としての言葉」という物語をぶち壊しにする。それが言葉遊びにできることで。だからぼくは言葉遊びに魅力を感じるんだと思う。

★1 『ウィトゲンシュタイン全集』第八巻、藤本隆志訳、大修館書店、一九七六年、七〇頁(第六七節)。

『異セカイ系』の感想とかさがしてエゴサするのはもはや日課になってる。さすがに発売から2ヶ月経っておちついてきたけど。それでもいまもちらほら感想あったりして。うれしい。ほんとうにほんとうにうれしいです。  感想見ててちょっとほかではないんじゃって思うのが。小説に限らず。いろんなジャンルの作品や作家さんの名前がいっしょにあげられて「~に似てる」「~を思い出した」「~の影響を受けたのでは」と言われることが多いこと。じっさい『異セカイ系』はいろんな作品から影響を受けて書いたので。まさに我が意を得たりというものやよくぞそこに気付いてくださいました! ってのもあるんだけど。じつはその作品。見たことも読んだこともない。ってこともある。そもそも『異セカイ系』の帯で東さんがあげてくださった新井素子『……絶句』も執筆時点では未読で。発売後にあわてて読んだ。★2  ただし謎はすでに解けてる。そのことについての東さんの説明はこうだ。そもそも東浩紀は新井素子に多大な影響を受けてる。その東浩紀に多大な影響を受けた名倉編の作品が(直接読んでなくても)新井素子の作品と共通性をもつのは当然だ。と。  そう。ここでは家族的類似性によって「読んでない本に似る」というふしぎな現象がいともたやすく説明される。ほかのぼくが知らない作品も同じく説明されると思う。あいだになにか挟まったり。共通の親がいたり。遠い親戚だったり。  重要なのは他人であったはずのものがあいだになにか挟むことで結びつけられること。当然それは他者と連帯するための手がかりになるし。また。その系譜を辿ることは自己の――物語の――偶然性を自覚する契機にもなる。  またしても言葉遊びに立ち返ってみる。
  《本歌鳥居(鳥居みゆきソング・ブック)》って言葉遊びをつかったことがあって。けっこう。いやかなり気に入ってる。もちろんこれは高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の登場人物中島みゆきソング・ブックと芸人の鳥居みゆき、それから本歌取りという技法をかけてる。「本」に「ブック」、「歌」に「ソング」、「取り」に「鳥居」が対応し。この言葉遊びそれ自体が本歌取りといえなくもないという何重にも重なった偶然がこの言葉遊びを支えてる。そう。偶然。この言葉遊びは自分でヤバすぎると思ってるけど。そのすごさの大半はぼくの手柄じゃない。たまたま中島みゆきというシンガーソングライターが存在し。ソングブックがあり。高橋源一郎が小説の登場人物に奇妙な名前を与え。鳥居みゆきがおもしろく。ある技法が「本歌取り」と呼ばれた。どれもぼくが仕組んだことじゃない。ただの偶然。  点と点を線でつなぐとひとはそこに物語を見る。いちどできあがった物語はそれがまったく無関係の点を結んだ偶然の産物だなんてちょっと思えない必然っぽさを身に纏う。でもそれはまちがいなく偶然生まれた。あらゆる物語はあるときまで無関係で偶然でバラバラの非物語だった。  書いてるとわかる。『異セカイ系』の主要なアイデアのいくつかは書いてる途中に思いついた。これしかない! って必然的なアイデアはどうしようもなく偶然に生まれる。きのう見た映画。なんとなくつけた設定。ちょろっと足したなんてことない文。それがいつのまにか物語になって血の気がひく。 『ロミオとジュリエット』が存在しなかった時代が存在する。『桃太郎』がなかったときがある。あたりまえのその事実はでもちょっと意外だったりする。物語と思われてる物語はまだいいほうで。物語はそれが物語であることを隠蔽する。生まれた瞬間やいなかった時代。起源と系譜を隠蔽する。  言葉遊びはバラバラの非物語が物語に結びつく瞬間を冷凍保存して見せてくれる。  だから。言葉遊びがすきだ。
   しりとり。りんご→ごりら→らっぱ→ぱんだ。だれでも知ってる言葉遊び。  ごりらのごは。りんごのご。ごりらのらは。らっぱのら。じゃあごりらはりんごとらっぱのこども? でも。らっぱはごりらとぱんだのこどもにも見える。どうもここには親子よりもフラットで自由な家族的類似性がある。  ぼくが「ぱんだ」と言ってあなたの答えを待つあいだ。さっきあげた「2つ以上のものに似ること」はぱんだに当てはまらない。あなたが「だんす」と言ってはじめて当てはまる。でもしりとりがつづく限り。「だんす」じゃなくても「だ」をもつ2つめのなにかは来る。しりとりのプロセスひとつひとつは「1つのものに似ること」でしかないけど。それをルール化することで結果的に2つのものに似る。しりとりのルールが時間をまたがって家族的類似性を成り立たせる。  ルールを守ること。それはふつう退屈なことだと思われてる。でもそのルールが無根拠で守る必要も理由もないものだったら。バラバラだった非物語が物語につながる瞬間になる。  守る必要のないルールを勝手に守ることは知らないだれかに似る方法だと思う。これはこの文章のことを言ってる。この文章は「『ゲンロンβ』で」「『異セカイ系』への反響などを踏まえつつ」といった守る必要のない制約条件――ルールを勝手に守って書いた文章だった。そして「これはこの文章のことを言ってる」もこの文章のことを言ってる。たとえばバラバラの非物語が物語になるって。バラバラの話題が「*」でつながるこの文章のことだ。  つまりこの文章はこの文章に対する説明になってる。この文章はこの文章を説明する。あなたは今、この文章を読んでるけど。同時にこの文章に対する説明も読んでる。お得。  物語が同時にその物語の説明でもあること。メタとオブジェクトの短絡。還流。この文章は『異セカイ系』にも似てる。  で。それでおわり?  や。まだ守ってないルールがのこってるんじゃない? 「次回作に向けた取り組みや意気込みなど」。  次回作『********』にまだ一言も触れてない。ヤバい。  でももちろんあなたはすでに触れてる。この文章に。  もしこの文章がうつくしいなら。この文章は『異セカイ系』と次作『』の両方に似たこどもであるべきじゃない?  いや。片方の親――次作『』――が時間的に遅れてやってくる言葉遊びをぼくたちはすでに知ってる。  しりとり。 『異セカイ系』→「物語と非物語のあいだで」→  矢印のさきはいま書いてる。できたらぜひ読んでほしい。きっとおもしろいの書くから。どんな話か。いまは言えないけど。この文章のタイトル。物語と非物語のあいだで。『異セカイ系』は物語としてはトリッキーで異質だった。とすると。『異セカイ系』が非物語を担当するなら。この文章を挟んだむこう側は。物語? すくなくともつぎはメタフィクションじゃなくするつもり。けっこう素朴にまじめに物語するかもしれない。でもそれはつまらないことも退屈であることも意味しない。きっと。  正直。『異セカイ系』のあと。めっちゃ書きづらい。なんじゃあの『異セカイ系』とかいうやつ。なに書いてくれとんねん! 怒髪天を衝く。でも言葉遊びはむずかしいほど燃えるもの。家族的類似性をしりとりでつないで。あらたな。そしてへんな物語を書いて届けたい。届けます。
   もちろんこの文章はもうひとつのしりとりのなかにある。  リレーエッセイ。  では。僭越ながらはじめさせてもらいます。  しりとりの「り」!
★2 すごくおもしろかったのと。ここにもあまりにも偶然なエピソードがある。『……絶句』には「ペル」という名の猫が登場する。ところで。『異セカイ系』のヒロイン・イヴにゃんは執筆の途中までペルにゃんだった。たんに猫っぽい名前ということで仮おきした名前だったけど。変えたことを悔やんでる。 言葉遊びを何年もずっと考えてるとわかるけど。こういうとてつもない偶然というのは。ある。偶然そんな言葉遊びができるなんてとても信じられないような。そそ。そんな。そんなことあるう!? って偶然はじつはごろごろ転がってたりする。

名倉編

京都府出身。〈ゲンロン 大森望SF創作講座〉第1期受講生。『異セカイ系』で第58回メフィスト賞を受賞しデビュー。
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