世界は五反田から始まった(01)「Since 1916」|星野博美

初出:2019年01月25日刊行『ゲンロンβ33』

 私の出身地、そして現居住地は、東京都品川区の戸越銀座である。祖父の代から一九九七年まで、ここで町工場を営んでいた。

 家は、五反田から東急池上線なら二駅、都営浅草線なら一駅、直線距離で一・五kmのところにある。五反田にあるゲンロンカフェまでは、「ゲンロンの道」を通って約一・二km、徒歩一七分だ。

 ちなみに「ゲンロンの道」とは、ゲンロンカフェと家との往復時にしか使わない、大人がすれ違えないくらい狭い路地を含んだ、最短距離の道のこと。そう呼ぶ人間は、私ただひとりであるが。

 これから私は延々と、五反田界隈の話をする。

 五反田については常々、何か書きたいと思っていたし、パラパラと散発的に書いたこともある。しかしこの街に対する私の異様な執着に理解を示してくれる編集者が既存の紙媒体にはおらず、これまでと同様、日記に書くしかないと諦めかけていた。

 そんな矢先、ゲンロンの東浩紀さんと上田洋子さんからゲンロンβ連載の話を頂いた。しかも、「もちろんテーマは五反田で」という。

 この時の驚きと喜びを、どう形容したらよいだろう。

 五反田がゆるされた、と思った。

 そしてその瞬間、様々な時代の記憶が噴出して収拾がつかなくなり、いかに自分がこれまで、五反田に対する思いを制限してきたかを思い知らされたのだった。
「世界は五反田から始まった」

 この連載タイトルを目にした人の九割九分は、おそらく「くすっ」と笑うだろう。いくら五反田に拠点を置くゲンロンの媒体に書くからといって、世界が五反田から始まるわけがない、サービスしすぎではないのか、と。

 しかし嘲笑は覚悟で、さらに次の句を付け足したい衝動にかられる。

「そして世界は五反田で終わる」

 一般論ではない。

 これは私が所属する世界の話である。

 私の世界は本当に五反田から始まり、おそらく五反田で終わることになっている。

 

 二〇一九年一月一日午前一一時。私は例年通り、両親とともに、白金高輪駅近くにある清正公(せいしょうこう、正式名称は覚林寺)へ車で初詣に出かけた。

 戸越銀座のわが家の車庫から路地を抜けて中原街道に出、ゲンロンカフェのある五反田駅界隈を通り過ぎ、JR山手線の高架下をくぐり抜けると、道路の名称はいつの間にか桜田通りに変わっている。そのまま桜田通りを直進し、ヴォーリズの建てた明治学院大学のチャペル(大正五年、一九一六年竣工)を左手に見ながら走り続けると、じきに高級ホテルと高級マンションに囲まれた、そこだけ二世紀ほど時代がずれているような、すすで真っ黒に染まった古い寺が左手に出現する。それが清正公だ。うちの車庫からは右折二回で到達する。

 清正公は日蓮宗の寺院で、その通称名が示す通り、加藤清正が祀られている。元祖山手七福神の一つ、毘沙門天を祀る寺としても知られるため、正月は初詣客で賑わうが、なんといってもここの特色は、戦に滅法強いといわれた加藤清正にあやかる必勝祈願だ。この寺が提供する頒布価格六〇〇円の「勝守(かちまもり)」は、港区、品川区界隈では受験に効くことで知られ、受験生を連れた参拝客が多い。この日も本殿に上がる階段には、大人の革靴とパンプスに交じって小さなスニーカーが何足か並んでいた。

 私の人生は長くも短くもないが、記憶にある限り、そして正月期間に国外にいた場合を除いて、必ずここへ初詣に来ている。結婚してよそに住む姉までがいまだにわざわざここへ来るのだから、その呪縛は相当強固なものといえよう。

 わが家の檀那寺は、五反田界隈にある曹洞宗の寺であり、日蓮宗とは何の関わりもない。しかもそれほど勝負にこだわる家とは到底思えない。だいたい、「呑気が一番」が家訓なのだから。なのになぜ、加藤清正を祀る寺にこだわるのか。不思議でならず、ある時、父に理由を尋ねた。

「俺がちっちゃい時から、じいさんに連れて来られたから」

という、あっさりした答えが返ってきた。その選択は、父ではなく祖父のものだったのだ。

 そう言われてみたら、いくつかの記憶がよみがえった。じじばばっ子だった私は、祖父母にいろんな寺社仏閣の縁日に連れて行かれたが、毎年五月四、五日に催される清正公大祭もその一つだった。じいちゃんが清正公好きだったのか……。争いを好まなかった祖父のイメージに、ますます合わない。目を白黒させる私に、父が続けて言った。

「じいさん、俺が生まれる前、あのあたりに住んでたからな」

 それから私は、自分が生まれるはるか以前の家族の歴史に関心を抱くようになった。そして生前祖父が書き残した手記をもとに一族の足跡を訪ね、『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)という本を書いた。コンニャク屋とは、千葉は外房の御宿(おんじゅく)・岩和田(いわわだ)でイワシ網の漁師をしていたわが家の屋号である。とりわけ海の荒い岩和田から戸越銀座へいたる道はなぜできたのか。岩和田の前にも道はあったのか。日本の近世における漁師の移動と一家族の歩んだ道のりが交錯した本なので、ぜひ読んでいただきたい。それはさておき、私が特に惹かれたのは、祖父と五反田の結びつきだった。

 明治三六(一九〇三)年一月、稀に見るイワシの大漁の日、祖父はあぐり船(イワシ網漁船のこと)の沖合殿(おっけどん。漁労長)の六男として岩和田で生まれた。父親の勘助が、大漁にちなんで「漁六郎」と名付けようとしたところ、役場の人に「漁師の六男坊、そのままだっぺよ」と反対され、「あんでもかまわねえ」と思考停止して丸投げした結果、「量太郎」という名前で登記されたのである。

 その量太郎に転機が訪れたのは大正五(一九一六)年のこと。高等小学校での成績は悪くなかったが、二人の兄もあぐり船に乗っているように、このまま岩和田に残れば漁師の道しか残されていない。ちょうど祖父の母方の縁者である隣家の者が、東京の芝白金三光町で町工場を開いたばかりで、小僧を探していた。当時は見ず知らずの人を雇いたがらず、地縁か血縁で縛られた人を雇うのが常だった時代である。その双方の縁者である量太郎はもってこいの人材だった。学業に未練はあったものの、高等小学校の卒業を待たず、量太郎は上京することになった。一三歳の夏だった。

 つまり祖父は、一九一六年から清正公の近くで暮らし始めたのだった。

 祖父の手記に、清正公の話は一度も登場しない。盆暮れしか休みをもらえない大正初期の丁稚にとって、つかの間の休日に遊びに行けるところなど限られていただろう。近所の清正公で夜遅くまで開かれる縁日は、貴重な憩いのひと時だったのではないだろうか、と私は思いを巡らせた。

 その愛着が高じ、五反田で所帯を持って長男(私の父)が生まれてからも、祖父は家族を連れて清正公へ通うようになった。そして父もまた、「小さい時からそうしている」という理由で、私たちを連れて行った。わが家は世代を越え、さしたる理由もなく、一世紀にわたって清正公に通い続けていることになる。

 祖父は昭和四九(一九七四)年、戸越銀座の自宅で七一年の生涯を閉じた。私がたったいま運転してきた、五反田を中間地点とする約三・三kmの道は、はからずも、祖父の東京生活の終点と起点を結ぶ数直線なのだった。祖父は何も意図していなかったに違いないが、私はこうして必ず、一年の初めに家族の歴史を思い出させられる。それも、悪くない。

 

 さて、祖父が東京で最初に暮らした芝白金三光町というのは、現在の白金一帯を指した地名で、昭和四四(一九六九)年には消滅した。かつては地下鉄がまったく通っておらず、非常に交通不便な場所として界隈では知られていた。

 白金といえば、日本庭園の美しい八芳園やシェラトン都ホテル、三島由紀夫の小説『宴のあと』の舞台となった高級料亭「般若苑」(はんにゃえん。いまはもうない)などのように、江戸時代の武家屋敷が邸宅や高級料亭、ホテル、マンションに転じた物件が多い。「シロガネーゼ」という響きは滑稽だが、ここを高級住宅地と呼ぶのに誰も異論はなかろう。

 ところが、白金高輪駅から古川方向へ向かうと景観は一変し、町工場や古い商店がひしめきあう。いまも父のお得意さんの工場がここに二軒ある。ちょうどその、高級住宅地と庶民の町の境界線上に清正公は建っている。

 二〇〇〇年、この地域に営団南北線と都営三田線が開通し、白金台駅と白金高輪駅が誕生した時、何ともいえない違和感を抱いたことを覚えている。

「白金台」は、まだいい。しかし「白金高輪」は本来の高輪地域からは遠く、旧華族の屋敷が多かった高輪のイメージに寄生した、正直言って地名ロンダリングである。立地からしたら、「白金三光町」と名付けるのが筋であろう。しかし白金に三光町を付けると、いきなり仕舞屋(しもたや)の香りが強くなることから、強硬に反対する住民が続出したのだろう、と容易に想像がついた。

 さらに私を苛立たせたのは、上記の地下鉄二本と乗り入れすることになった東急目蒲線(従来は目黒と蒲田を結んでいた)が、蒲田を切り捨てて武蔵小杉を選び、二線に分離して目黒線・多摩川線と名称変更したことだった。

 蒲田――。映画『シン・ゴジラ』で、ゴジラの第二形態、通称「かまたちゃん」に這いつぶされてしまう蒲田は、これまた工場労働者が多く集った街である。五反田が、目黒川沿いに林立した親工場と下請け町工場の労働者を吸収する歓楽街として、大正時代から繁栄(と一応呼んでおこう)したのに対し、蒲田は多摩川沿いの大工場を背景に発展した、高度経済成長期の京浜工業地帯を象徴する街だ。祖父の工場で修業した甥は、戦後に蒲田で独立した。五反田と蒲田の発展には、一世代分の時差がある。

 その東京城南の二大歓楽街を結ぶのが、ほかでもない、東急池上線である。町工場の娘である私は、だからこそ、池上線に強い愛着を抱いている。

 目黒線は、庶民の暮らしを思い起こさせる白金三光町を抹殺し、蒲田を切り捨て、多摩川向こうの武蔵小杉や日吉と手を組んだ。どうしても過去をクレンジングしたいらしい。

『シン・ゴジラ』で、鎌倉沖から再上陸を果たした第四形態のゴジラは、武蔵小杉で自衛隊から集中攻撃を受けた。武蔵小杉の代名詞である二棟のタワーマンションをゴジラが倒すのではないかと、いまかいまかと待っていたが、倒さなかった。スクリーンに向かって、私はそっと舌打ちした。(つづく

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1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。

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