浜通り通信(51)外枠から考える|小松理虔  

初出:2019年03月22日刊行『ゲンロンβ35』

 国道六号線は「トラック」の国道だ。ロッコクをドライブしていると、とにかくトラックをよく見る。どこかに荷物を運ぶ貨物トラック。砂利を運ぶ大型のダンプ。畑から戻る軽トラや、どこぞの工事関係車両……だけではない。ここ最近、石炭の輸送車を見る機会が特に増えた。ぼくにとってロッコクは生活道路であり、どんなトラックが走っているかなんてこれまでは全く気にも留めなかったが、このところ観光客をガイドする機会が何度かあり、車を運転しながら、何か話題にできることはないかと考えていたときに、ふとトラックが目に入るようになった。


 いわきは相変わらず石炭の町である。過去のぼくの連載で、いわきが旧産炭地であること、地元の小名浜港は、その石炭を運び出す港として整備されたこと、全国の原発が止まり、これまで「古い」とされてきた石炭火力発電所が再び脚光を浴びていることなどを紹介した。かつて京浜工業地帯へと石炭を運び出し、日本の近代化を支えた小名浜は、世界中から石炭を買い集め、福島県沿岸の火力発電所へ供給する拠点へと姿を変えている。石炭を運ぶトラックもまた、小名浜をターミナルとし、小名浜港にある東京電力のコールセンター(貯炭場)と、小名浜にほど近い常磐共同火力勿来発電所を往復しては、発電所に石炭を供給している。小名浜の臨海工業地帯から火力発電所までのたった数キロの区間で、何十台ものトラックを目にすることができるだろう。

【図1】ロッコクを走る石炭輸送車。荷台のギザギザが特徴

 石炭を運ぶトラックは、土砂を運ぶ通常のダンプと少しだけ形が違う。荷台の表面が平ではなく、薄い突起が縦に何列も並んでいてギザギザしているような形に見えるのだ。それが常磐共同火力発電所の「石炭輸送車入り口」に吸い込まれていくのを見たときから、このトラックが石炭輸送車であることがわかり、それからというもの、この荷台のトラックが気になって仕方がなくなった。他のトラックは何を運んでいるかわからなくても、このトラックは石炭を運ぶトラックなのだと一目でわかり、視界に入ってしまうのだ。それに気づいてしまった人は、もうその存在を無視できなくなる。「あ、まただ」「またあのトラックだ」と、その姿を追いかけてしまう。ロッコクの数キロだけ異常増殖する石炭の輸送トラック。意識しなければ素通りしてしまうだろうし、ましてその区間にいなければ見えてこない。その幻のようなトラックは、原発が爆発してもなお、いや、爆発したからこそ、この地が石炭というエネルギーの供給地であり続けていることを教えてくれる。そのことは、震災から八年が経った今でも変わりはない。

【図2】常磐共同火力勿来発電所のそばの県道を走る石炭輸送車。車体の色(会社)は違うが形状は同じだ

 常磐共同火力勿来発電所の敷地には、これまでになく新しい石炭火力発電所の建設も進んでいる。IGCCと呼ばれ、石炭をそのまま燃やすのではなく、一旦ガス化・燃焼させてタービンを回し、さらにその排ガスの熱を利用した蒸気でもう一度タービンを回すという発電所だ。その「異形」はロッコクからも見ることができるが、一本海側へと入った県道から見える風景のほうがインパクトがあるだろうか。美しい太平洋、陸と海を寸断する防潮堤、そして、その陸に暴力的に挿入される火力発電所。三者の織りなす景色は、エネルギー生産とはどのようなものなのかを雄弁に語ってくれる。

【図3】現在建設中の最新型のIGCC。このスケール感は、近くに降り立ってみないとわからないかもしれない(2019年撮影)

 最新式のIGCCは復興のシンボルである。そればかりでなく、発電所は多くの人たちの生活に欠かせない電気を作る。電気がなければ私たちの生活はもはや成立しない。だからこの発電所は、私たちの生を支える場所でもある。しかしその復興のシンボルは、かつてあった町を埋め立てた土のうえにあるのだった。多くの人たちの便利や快適に比べれば、この町の存在など取るに足らないちっぽけなものかもしれない。しかし、本当にちっぽけだろうかとも思う。町のうえに土を盛り、コンクリートで固め、そこに巨大な要塞のような新しい発電所を建てざるを得ないという事実。エネルギー産業の暴力性、復興の二面性を考えずにいられない。

 火力発電所のすぐ近くには、八年前の津波で破壊された防潮堤の残骸が遺構として残されている。津波の力があまりにも強く、もともとあった防潮堤が破壊され、その隙間から大量の海水が街に流れ込んだ。勢いを増した水は、海岸に沿った家屋を破壊し、岩間町では一八八戸が全半壊の被災。直接死で一〇人が亡くなった(いわき市ウェブサイトによる★1)。町を守ることができなかった防潮堤は、あの津波の威力の凄まじさを私たちに伝えてくれる。この悲劇が未来に再現されないことを祈るばかりだ。

【図4】津波で破壊されたかつての防潮堤は、津波の被害を伝える震災遺構として保存された

 古い防潮堤に代わり、新しく完成した高さ七・五メートルの防潮堤は、町を安全にしてくれるかもしれないが、同時に海と町を寸断してしまった。考えてもみれば、この岩間から東北の沿岸部は数百キロにわたって防潮堤が築かれているのだ。東北の浜辺はどこも、海沿いの山を削って土を作り、その土で町を埋め立て、土で壁を作った。だから震災はいつだって「土」のことをぼくたちに考えさせる。いや、震災ではなく「復興」のほうが正しいかもしれない。復興は、いつだって「土」の問題を問いかけるのだ。


 この遺構と発電所に挟まれるようにして、岩間町の共同墓地がある。こんなふうに、敷地のすぐ目の前に墓地があるという発電所をぼくは見たことがない。墓地は、ここに暮らす人たちがいたことを語る何よりの存在だ。火力発電所が稼働し、ここに暮らしがあったことを知る人がいなくなっても、きっとこの墓地が歴史を語り継ぐことになるのだろう。

【図5】共同墓地と火力発電所は道路を1本挟んだだけの関係だ。ここに眠る死者たちは何を思うだろうか

 しかしこの墓地、歴史は少し複雑だ。八年前に津波に被災している。多くの墓石が倒れ、敷地も崩れてしまった。それで新しく墓地のすぐ北側に移動してきた。同じ場所に再建されなかったのは、火力発電所の建設や用地取得なども影響しているのかもしれない。そしてこの墓地は、明治初期に激しい「廃仏毀釈」のあった旧泉藩の歴史を引き継いでもいる。墓地は、廃仏毀釈以前は、ここから数百メートル離れた寺院にあったそうだ。ところがその寺院が破壊され、海のそばに「共同墓地」が建設されたという。


 その後、泉藩では寺院がほとんど復興していない。だからここに暮らす人たちは「神式」(神道に則った流儀)で故人を弔う。墓碑に刻まれているのが戒名ではなく俗名であることからもそれがわかる。泉藩の廃仏毀釈は、一昨年にカオスラウンジが市街劇『百五〇年の孤独』で取り上げているので、詳しく知っている人もいるかもしれない。泉藩の廃仏毀釈は、全国で最も苛烈なものの一つに数えられるそうだ。徹底して寺院が破壊されたという。墓地の端のほうに、多くの無縁仏がある。仏の教えに従ってご供養されたものとは思えない。ただ無造作に置かれているだけだ。どのように墓石を供養すれば良いのかわからず、こうしておくほかなかったという感じにも見える。

【図6】墓地の端のほうに置かれた無縁仏たち。その奥に防潮堤の遺構も置かれている

 かつては、慣れ親しんだ土地の土に還るはずだった仏さまたち。まさか自分たちの郷土の子孫に自分の墓を破壊され、ある人はいつの間にか神式に変えられ、またある人は無縁となり、ようやく住み慣れたと思ったら、今度は津波で流され、さらには火力発電所の建設に伴って移動させられるとは思ってもみなかっただろう。土による復興。そして、その裏側にある土の否定。仏たちは今、どのようにこの火力発電所を見守っているのだろうか。

【図7】太平洋と防潮堤、そして墓地と火力発電。この風景は東北広しといえ、この場所でしか見られないだろう

放射能汚染という、土の否定

 ロッコクでは、石炭の輸送トラック以外にも、もう一つ、新しいトラックを見ることができる。こちらはトラックというよりダンプカー。車体に「環境省汚染土壌等運搬車」と大書された布をくくりつけている。福島県内各地から、双葉郡大熊町と浪江町の中間貯蔵施設に汚染された土を運搬するダンプカーである。ロッコク以外にも、常磐自動車道や磐越自動車道でよく目にすることができる。とにかく何台も何台も、このダンプカーが道を走っている。その車列は、想像を絶する大量の土砂が双葉郡に集められている、という事実を轟音とともに伝えてくれるだろう。


 中間貯蔵施設は、大きな問題を複数抱えている。最終処分場が決まっていないのに、中間貯蔵施設におびただしい量の土が運び込まれていること。それが「なし崩し的に最終処分場になってしまうのではないか」という疑念を生んでいること。あまりにも量が多いので、その汚染土の量を減らすため、汚染土を道路の下地などに使うことができるようになったこと。貯蔵施設の用地買収などを巡って地域に分断をもたらしていること。その中間貯蔵施設そのものが、そこにあった暮らしを根こそぎ壊して作られていること。そしてそれ以前に、放射性物質が先祖代々の土地を汚してしまったこと。数えればきりがない。

【図8】双葉町役場から東、南方向はすべて中間貯蔵施設になることを示すマップ(2018年撮影)

 汚染土の再利用をめぐっては、地元を巻き込んだ論争にもなっている。新聞記事などによれば、環境省は、二〇一六年「全量をそのまま最終処分することは処分場確保の観点から実現性が乏しい」として、「指定廃棄物」(一キロあたり八〇〇〇ベクレル超)の放射能濃度を下回ったり、濃度を下げた汚染土を、道路や防潮堤、農地の基礎となる下地として再利用する方針を決めた。環境省の提示した「一キロあたり八〇〇〇ベクレル」という基準は、原発事故による汚染に対処するための「放射性物質汚染対処特措法」に基づく基準であり、放射性廃棄物を安全に処理するための基準だ。これに対し、原子力発電所の解体などで発生する金属やコンクリートを建設資材などとしてリサイクルすることを想定して作られているのが「原子炉等規制法」であり、こちらの基準は「一キロあたり一〇〇ベクレル」である。道路の下地に使うのはリサイクル(一〇〇ベクレル)ではなく廃棄物処理(八〇〇〇ベクレル)なのだ、というロジックなのだろう。本来八〇〇〇ベクレルの汚染土は、厳重な管理下で保管されるべきであるはずだが。


 つい最近も、環境省が福島県二本松市や南相馬市小高区で、道路の下地として使うことを提案したところ、住民たちから強い懸念を表示され再利用計画が頓挫するということが起きた。河北新報は、小高区の羽倉行政区の区長が「汚染土は、当初3~5年で仮置き場から中間貯蔵施設に運ぶという約束だったが、8年近くたっても守られていない。実証というが、一度使ったら永久に置かれる懸念がある」と反発する声を伝えている★2


 そうなのだ。国は約束を破っているのである。希望的観測ばかり広め、情報発信や対話を怠り、現実に行き詰まったら、それを住民に押し付けてしまう。そして科学的合理性や経済的合理性を持ち出したりして、計画を上から飲ませようとするのだ。合意形成のプロセスのすべてをすっ飛ばし、信頼関係がないまま、あさっての方向からそのような「再利用」を持ちかけられても住民は合意できるはずがない。安全の問題でも科学の問題でもない。これは信義の問題だ。

 下地として使うだけであり、被ばく線量はゼロに近いのだろう。道路の下地に使えば経済的にも効果が大きいのかもしれない。しかし、人間が管理しきれない、半減期に何百年、何千年という時間を有するものを発電の材料として使い、安全神話にかまけて事故を引き起こし、その総括すらされないうちに廃棄の基準を緩め、全国に拡散してしまうことは倫理的に許されるのだろうか。では、その倫理的に許されないものを議論の俎上にあげるプロセスは正当なものだったろうか。住民だって感じているはずだ。なんとかしなければいけないと。だからこそ、それを推し進める側には信義が求められるのではないだろうか。


 そもそも「汚染土」とされるものも、暮らしをまとった土である。土は、野菜や米を育てる場所であるということ以上に、そこに暮らしてきた人たちのアイデンティティの象徴であり、暮らしの営みの結晶であったはずだ。それを傷つけ、汚し、「帰還困難区域」を作ってしまう。原発事故のもたらした「土の否定」を考えずにいられなくなる。

【図9】写真に写っている風景すべてが中間貯蔵施設になる(2018年撮影)

 厳重に管理しなくとも、日本では道路の下地材として八〇〇〇ベクレルまで再利用してくれるとなれば、当然、外国にとっても好都合だろう。今後数十年で人口が激減し、産業の力がなくなったとき、極東の島国は自らをバックヤード化させ、世界各地の汚染土を買い集めて処理することを産業の軸にするかもしれない。もちろんこんなことはくだらない妄想ではある。しかし、アメリカ、ロシア、中国という大国に挟まれ、経済力も労働力をも失った日本なら、そうならないとも限らない。


 放射性物質はゼロにはならない。膨大な時間を費やしてその力を半減させるだけだ。かつてこの世界に核実験の時代があったことを放射性物質が教えてくれるように、福島第一原子力発電所の事故は、私たちではなく、土に取り込まれた放射性物質が語り継ぐのだろう。公文書を改竄できる政府も省庁も、土と放射性物質までは捏造することはできない。人は嘘をつき、歴史を消そうとする。自分に都合の悪いことをなかったことにできる。そして実際、そういう空気を感じないでもない。土と放射性物質だけが正しく歴史を伝えていくのだろう。


 震災と原発事故をつなぎ、語るものとしての土。災害と復興を語る土。文化と慰霊について考えるための土。文化人類学や民俗学、地質学の専門知識のないぼくの思考はここで止まってしまうが、土を通じて、直接的ではなく間接的に「311」を語ることは、健康被害や風評被害といった語りから溢れ落ちた「ふるさと(土)の喪失」を考えるための迂回路を提示することができるのではないだろうか。

【図10】そこにあった土を掘り起こし、そしてまたそこに別の土を埋めるという行為(2018年撮影)

当事者の枠を広げる「外枠の哲学」

 震災から八年が経った。今、一四時四六分の時報を聞きながら、このテキストを書いている。八年である。さすがに震災と原発事故を語ることに疲れた。なぜ疲れたかと言えば、ぼく自身が、もはや震災と原発事故の現場から離れつつあり、自分に圧力をかけなければ文章を書けなくなっているからだろう。震災直後から、ぼくは何かしらの現場に関わり、その現場で得られたものを自分なりに考え言葉にしてきた。現場に関わっていたからこそ常に考えることができたし、書けもしたのだ。その集大成が『新復興論』である。ぼくは研究者ではない。ジャーナリストでもない。だから課題に近づかない。たまたまあちらから近づいてくるものだけを自分なりに論じてきただけなのだ。


 三月が近くなると「何か福島について書いてくれ」というオファーが来る。ぼくはもはや、車窓から見えるトラックや、汚染についてたまに見聞きするニュースくらいしか、震災と原発事故を考える題材がなくなっている。だから、福島の今の現状を正しく理解するための文章など、なかなか書くことはできいない。ただ、震災とは直接関わりはないが、最終的に震災と結びついてしまう、というようなことならば書ける気がする。今仕事として関わっている水産や福祉もそうかもしれない。それらを通じて遠回りに震災を考えてしまう、ということが増えたのだ。しかし、だからこそ、震災から離れているように見える人たちとの共通の話題が生まれているようにも思える。


 ここ二年、「いごく」という、地元のいわき市が行なっている高齢者福祉の情報発信プロジェクトに関わっている。主にフリーペーパーとウェブサイトの制作が仕事で、医療や介護の先進的な取り組みを取材したり、「当事者」の方のインタビューを掲載したり、一〇〇歳を迎えた高齢者の話を聞きに行ったりと、書くべきテーマは多く、しかも自由に書かせてもらっている。ぼくは介護当事者でもなければ医師でもヘルパーでもないし、福祉の専門知識もない。結局ぼくは介護当事者の外部の目線でしか書くことができないということに気づかされた二年であった。専門的な領域の人たちからすれば、ぼくは圧倒的な素人だろう。けれど、だからこそ課題の外部にいる人たちが関心を抱けるような記事が書けるのではないかと、今ではそんなふうに素人の強みを割り切って自覚できるようになった。


 地域のなかで大活躍しているジジイやババア(愛を込めて)にも積極的に取材する。すると、先達たちの暮らしのなかに、ぼくたちが新しいカルチャーとして横文字で語りたくなる生活の知恵が脈々と受け継がれていたりするのに気づく。ジジイやババアは、昔からコミュニティデザインしてきたし、オルタナティブなスペースだってしっかり持っている。おまけに、みなさん圧倒的に手足を動かすのが得意だ。洋裁や大工仕事、切り絵、カラオケにイラスト、料理。様々な特技を持つジジイやババアが、当たり前のように存在していることを教えられた。


 そのうちぼくたちは、ジジイやババアたちと何か楽しいことがやりたいと思った。昨年、芸術展示と町歩きと文化講座を詰め込んだ「しらみずアーツキャンプ」というイベントを企画した。市内の芸術家の作品が展示されるなか、ジジババたちと一緒に作ったカカシが芸術作品として展示された。そんなふうに、自分の関心の赴くまま、素人の立場で介護や福祉を楽しんでいたら、地域の高齢者との関わりができ、飲み会に顔を出すようになり、いつの間にか、老いや死、介護に対するイメージがガラリと変わってしまった。


 ぼくが介護職員だったら当然介助するだろうし、医師だったら診察しているはずだ。しかしぼくには何の専門性もない。だから、悪ふざけして楽しみながら、みなさんと交流するほかなかった。過疎化の進む旧産炭地の「課題だらけ」の人たちである。本当は、課題解決をしよう、支え合おうと大義を掲げて活動したほうがよかったのかもしれない。ところが、そこに暮らす人たちがむちゃくちゃ面白いので、課題地域なんて考える暇がなかった。楽しい人たちと楽しいことがしたい。ただそれだけだった。しかしそれが結果的に「福祉的」な取り組みになってしまっていたのだ。


 その「いごく」の取材で、最近、若年性認知症の方を取材した★3。取材のテーマは「偏見」だったのだが、その方がこんな趣旨のことを語ってくれた。「認知症と聞くと、私たちはすぐに『記憶をなくしてしまう』とか、『一人では何もできなくなる』とか、重症のイメージを持ってしまって、手厚く支援することがその人のためになると思ってしまう。けれど、それをやりすぎてしまうと、認知症はその支援に合わせて進行してしまう。誰しも初期があるのに、勝手に先回りして重症扱いして支援してしまうことが、逆に認知症を作っているのではないか」と。


 認知症とは周囲が作る病気かもしれない。その気づきは、ぼくのなかの「認知症」を大きく揺るがしただけでなく、ジジババが向き合う「過疎化」や「高齢化」、さらには「被災地」や「福島」にも当てはめられることではないかと感じた。課題が起きると、そうやって言葉によって「当事者」が作られる。そして、勝手にプラスマイナス両方のイメージが膨らみ、個々人の個性や違いを見失ってしまうのだ。支援したい側は、助けたい、寄り添いたいと思うほど、先回りして支援したくなる。一方で、ネガティブなイメージを持っている人は、勝手に重症をイメージし、一人では何もできないと支援の度合いを高めてしまう。本人を無視して寄り添いすぎる支援者になるか、勝手にネガティブになる家族になるか。その二つの方向しかなくなってしまうのだ。そしてその両者は、引き裂かれているようで、実は両者とも共依存的な関係になっている。本人抜きの、歪んだ愛情かもしれない。


 その硬直を解きほぐす鍵は、課題の内側ではなく「外側」にあるのではないだろうか。しかし外側すぎて完全なる無関心ではいけない。愛と無関心の間に、両者がつながり合う回路を作ることで、当事者性の枠を外し、大きな主語を解体し、接点を作り続けることが重要だと思う。課題の直接の当事者ではないからこそ、課題の外枠を、さらに外側の無関心の層へとずんずんと広げていくことができるのだ。医師でもヘルパーでもないからこそ等身大に医療や介護を語ることができる「いごく」のように、不謹慎な「ワクワク」を武器に、面白そう、楽しそうと人々の欲望に訴えかけ、実際に楽しんでみる。そして、その結果として、困難さを抱えている人と出会い、社会の側にある障害を自覚し、無関心に少しずつ訴えていく。

 今は仮にそれを「外枠の哲学」とでも呼んでおこう。課題の当事者の外側に欲望(ワクワク)の「枠」を作り、当事者性の枠を外側に拡張するような哲学だ。直接的に課題解決につながらなくてもいい。「つながるかもしれない」という希望を持ちながら、ゆるく関われること。それこそ素人の特権である。だから「外枠の哲学」は「素人の哲学」と言い換えることができるかもしれない。


 文学者でも研究者でも専門家でもないぼくが、大佛次郎論壇賞などという賞を取ってしまった以上、ぼくは、素人として、外枠の人間として、面倒なものにゆるりと関わっていかなければならないのかもしれない。何事も中途半端な人間である。だから「何事にも中途半端」を徹底して考えてみてもいいだろう。震災から八年。「外枠の哲学」を考えることは、震災や原発事故をまじめには考えられなくなったぼくの、震災と原発事故への新しい向き合い方である。


撮影=小松理虔

★1 「いわきの『今むがし』Vol.64」URL=http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1486946402680/index.html
★2 「常磐道への汚染土再利用 羽倉行政区が反対表明 南相馬・小高区」URL=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201902/20190204_63045.html
★3 認知症は、周囲が作る病気かもしれない」URL=https://igoku.jp/hito-4065/
「本書は、この増補によってようやく完結する」。

ゲンロン叢書|009
『新復興論 増補版』
小松理虔 著

¥2,750|四六判・並製|本体448頁+グラビア8頁|2021/3/11刊行

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1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司

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