亡霊建築論(1)ロシア構成主義建築と、アンビルトのプログラム|本田晃子

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初出:2019年04月19日刊行『ゲンロンβ36』

はじめに

「建てられた」建築の背後には、無数の「建てられなかった」建築が存在する。政治的・経済的・技術的な理由によって、あるいはそもそも実現することを念頭に置かずに設計されたために、建築物はアンビルトとなる。それらは実体をもたないがゆえに、場所に縛られず、時にメディア空間のような普遍的で抽象的な空間を漂いもする。あるいは、まさしく亡霊のように人びとに憑りつき、彼ら彼女らを操りもする。このような建築の亡霊を ――その一世紀足らずの短い歴史にもかかわらず ――とりわけ多く生み出したのが、ソ連という国だった。もしかすると、ソ連という国家自体も、一種の未完の建設プロジェクトとみなせるかもしれない。この連載では、このようなアンビルトの建築からなるソ連(建築)の歴史を、読み解いていきたい。

さて、ソ連におけるアンビルト建築は、社会主義体制の成立と崩壊という二つの時期に特に集中して現れた。社会主義体制の建設期、ソ連では建築への過大な期待と希望が、しばしば逆説的に建設計画の実現を困難にした。というのも、社会的に重要な施設であればあるほど、その建設には新しい共同体それ自体の建設が投影されたからだ。実際、ソ連最初の大規模建設プロジェクト《労働宮殿》から、連載第三回目で論じるスターリンの《ソヴィエト宮殿》、そして第四回で論じるフルシチョフの《ソヴィエト宮殿》にいたるまで、新生国家の象徴となるはずであった建築プロジェクトは、軒並みアンビルトに終わっている。いわばソ連は、建築によって自らを表象(represent)することに失敗し続けた。ソ連の国家体制は、この埋められることのない空虚の上に築かれたのである。

ソ連の解体期である一九八〇年代にも、再び亡霊のようにアンビルトの建築が出現しはじめる。官僚主義に支配された建築界、そして徹底した規格化によりもはや建築家を必要としなくなった建設の現場に対し、ソ連の若手建築家たちは、密かに外へと表現の場を求めた。彼らは非公式のルートを通じ、国際的な建築コンペティションに応募しはじめたのである。しかし海外渡航の困難な彼らにとって、応募できるコンペは「建てる」ことを前提としないものに限られていた。その結果、たとえば日本の建築雑誌『新建築』主催の、コンセプトを競うタイプのコンペでは、謎のロシア人建築家たちが毎年のように上位入賞するという事態が生じた。実はロシアのアンビルト建築は、海を渡って日本にまで漂着していたのである。これについては連載の最終回で詳しく論じる予定だ。

もうひとつ、二〇世紀のアンビルト建築を語る上で無視できないのが、マスメディアとの関係である。写真が発明されたとき、その最初の被写体となったのは建築物だった。建築物は長時間の露光の間も動き回ったりはしないからだ。建築物は写真、後には映画の被写体となることで、本来の場所から切り離され、メディア空間を流通するイメージへと変容していった。さらには、オリジナルとは異なる、あるいはオリジナルをそもそももたないヴァーチャルな建築が、メディア空間に次々に生み出されていった。詳しくは次回に譲るが、セルゲイ・エイゼンシテインの映画『全線――古きものと新しきもの』(一九二八年公開)では、ル・コルビュジエ風のモダニズム建築が、現実のル・コルビュジエの建築(一九三〇年代半ばに竣工したモスクワの《ツェントロ・ソユーズ》ビル)に先駆けて実現されている。未完に終わったスターリンの《ソヴィエト宮殿》も、ソ連映画の仮想世界では、無事建設されている。これらの建築イメージは、実現が困難な上に、その場から動かすことのできない実際の建築物よりも、はるかに優れた(そしてリーズナブルな)プロパガンダの手段として、メディア上で活躍することになったのだった。

以上がソ連のアンビルト建築をめぐる概況である。これから一年間、これらの今は亡き国家の亡霊建築をめぐるツアーに、しばしお付き合いいただきたい。

1 新しい「宮殿」

 というわけで、今回はソ連建築史の始点にして、最初の本格的なアンビルト建築となった、《労働宮殿》プロジェクトに注目する。十月革命後に勃発した内戦が終息し、ソヴィエト連邦(ソ連)が誕生した一九二二年の末、この新生国家を象徴する建設プロジェクトが始動した。それが、巨大会議場《労働宮殿》の計画である。敷地は、クレムリンや赤の広場、革命広場に隣接する文字通りモスクワの中心。それはまさしく、ひとつの建築物を建てることを通じて、ソ連の象徴的中心を作り出すプロジェクトだった。

 ところで、労働者の労働者による労働者のための国家において、「宮殿」という呼称は奇妙に聞こえるかもしれない。あるいは「労働」宮殿とは、形容矛盾のように感じられるかもしれない。しかしこの時期のロシアでは、記号とその慣習的な意味を切り離したり、意図的にずらしたり、逆転させたりする言葉の革命、新しい言語によって世界を再定義する試みが、社会のさまざまな場所で進行していた。したがってこの「宮殿」という呼称も、文字通りの意味で受け取ってはいけないのである。現に《労働宮殿》コンペのプログラムでは、《労働宮殿》は「その理念にふさわしい豊かな外観を、しかし過去の時代の特定の様式ではなく、現代的なシンプルな形態によって表現された外観を有していなければならない」★1とされていた。「豊か богатый」だが「シンプル простой」で、過去の支配階級のために作られたいかなる宮殿とも異なる、絶対的に新しい「宮殿」を発明せよ――ソ連建築家たちは、このような難題に応えることを求められたのである。

 《労働宮殿》コンペは一九二三年二月に締め切られたが、約五〇の応募案のうち、大半は旧来の「宮殿」の域を出なかった。同年五月に審査結果が発表され、第一等はペトログラードの建築家ノイ・トロツキーの案【図1】に与えられた。しかしトロツキー案は、表面的な装飾こそ抑制されているものの、基本的には新古典主義の文法を踏襲しており、「宮殿」の定義を更新する試みは不徹底に終わっている。それに対してプログラムの主旨に最も大胆に応答したのが、ヴェスニン兄弟による設計案【図2】だった。鉄筋コンクリート造のオフィスビルと円筒形の会議場を空中回廊によって連結した同案は、他のどの案とも一線を画していた。

【図1】ノイ・トロツキーによる《労働宮殿》コンペ案


【図2】ヴェスニン兄弟による《労働宮殿》コンペ案


 設計者であるヴェスニン兄弟は、古典主義を得意とする長男のレオニード、工業建築に通じた次男のヴィクトル、モダニストの三男アレクサンドルというふうに、それぞれ分野や作風を異にしていたが、互いの結束は固く、しばしば共同して設計を行った。この《労働宮殿》案では、主導権を握っていたのは末弟のアレクサンドルだった。彼は革命後、前衛画家のウラジーミル・タトリンの下で絵画を学んだり、リュボーフィ・ポポーワらとともに前衛演劇の舞台美術を手がけたりと、主に建築以外の分野で活動していた。いわばアレクサンドルは、絵画や演劇で身につけたアヴァンギャルドの理論や美学を、この《労働宮殿》を通じて建築の世界へと持ち込んだのである。

 ヴェスニン兄弟案は審査員の間でも評価が分かれ、結局第三等入選の結果に終わる★2。しかし《労働宮殿》コンペの入賞作品の一般展示が開始されると、彼らの「宮殿」は瞬く間にロシアの知識人や若者をとらえた。たとえば詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは、自身が刊行にかかわっていた雑誌『レフ』誌上にヴェスニン兄弟の《労働宮殿》案を大々的に掲載し、その合理的・機能的デザインを絶賛している★3。こののち、《労働宮殿》案の周囲には、建築の革命を求める人びとが集結していった。間もなく彼らは、一切の装飾や過去の建築様式を否定し、新たな素材や技術に基づいた合理的建築を目指す、「構成主義 конструктивизм」運動を開始する。その先頭にいたのは、もちろんアレクサンドル・ヴェスニンだった。ソ連全土を巻き込むことになる建築の近代化の運動は、このように一個のアンビルト建築に導かれて、その幕を開けたのである。

2 ヴェスニン兄弟の《労働宮殿》

 ここからは、もう少し詳しくヴェスニン兄弟の《労働宮殿》案を見ていきたい。というのも、そこにはル・コルビュジエやバウハウスのような西欧のモダニズム建築とも異なる、ロシア構成主義建築独自の特徴がすでに表れているからだ。

 彼らの《労働宮殿》は、一万人弱を収容できる円筒形の大ホール、オフィスや博物館など各種施設のための地上一七階の矩形の高層建築、両者をつなぐとともに小ホールを内蔵する空中回廊からなる。大規模な集会の際には、大小のホールを連結して約一万二〇〇〇人を収容できることになっていた★4。高層建築部分は近代的なオフィスビル、大ホール部分は突きだした排気口などから工場を思わせる外観を有していた。ヴェスニン兄弟は「宮殿」を、このように過激に読み替えたのである。またこれら二つの巨大なヴォリュームと対照をなすのが、ラジオ放送局のアンテナだ。議会で決定された内容は、宮殿内にある放送局から、そのままタイムラグなしにソ連全土に報道されることになっていた。

 ソ連建築史家のセリム・ハン゠マゴメドフは、このようなヴェスニン兄弟の《労働宮殿》案を、機能性・合理性に基づいて設計されたロシアにおけるモダニズム建築の嚆矢と位置付ける。しかし、彼によれば、この案は「芸術的な表現手法」★5でもあった。つまり、本来の建築物としての機能とは別に、《労働宮殿》の姿それ自体が、来るべき共同体を示すプロパガンダ装置として機能していたというのである。そこには、アレクサンドルが手がけてきた前衛演劇のセットとの連続性を見てとることができる。

 たとえば《労働宮殿》のデザインの直接的な起源のひとつと考えられるのが、一九二一年にフセヴォロド・メイエルホリドの演出でモスクワ近郊のホドゥインカ原を舞台に行われる予定であった、第三回インターナショナルを記念するための群衆劇だ。アレクサンドルは、リュボーフィ・ポポーワとともにその舞台美術を担当した★6。群集劇とは、都市の街路や広場を舞台として用い、数百から数千人規模のアマチュアが参加する大規模な演劇である。十月革命後のロシアでは、人びとに演劇の仮想空間内で革命や社会主義を経験させ、社会主義的な心身をもった「新しい人間」を育成することが試みられた。「闘争と勝利」をテーマとしたこの一大ページェントは、経済的な理由のために実際に開催されることはなかったが、二〇〇人の騎兵隊、二三〇〇人の赤軍兵、一六門の大砲、五機の航空機、装甲車、バイク、プロジェクター、軍楽団、そして無数の観客が参加することになっていた★7。そして巨大で重々しい「資本主義の城砦」(図の左部分)から、剥き出しの骨格によって構成された軽やかな「未来都市」(右部分)へ、パレードを行う予定だった。この「未来都市」の剥き出しにされたダイナミックな構造と、建築的なヴォリュームがシンプルな線と面へ解体された《労働宮殿》のエスキスの間には、明らかな連続性が見られる。また、《労働宮殿》の特権的なファサードを欠いたデザインからは、それがこのようなマス・ページェントの参加者の視点、すなわち周囲を回遊する不特定多数の視点を前提としていたことがわかる★8。隣接する革命広場や赤の広場で集団的な祝祭が繰り広げられるとき、《労働宮殿》もまた巨大な舞台装置として機能することが期待されていたのである。

 もうひとつ見過ごすことができないのが、ほぼ同時期に進行していたカーメルヌィ劇場におけるチェスタトン作『木曜日と呼ばれた男』の舞台装置との共通点である★9。この舞台では、ヴェスニンは建築家としての知識を活かし、舞台全体を覆う巨大なセットをデザインした。近代的な大都市を表現するため、このセットの各所には実際に動かすことのできるリフトやベルトコンベヤー、さらにはバナーや看板広告、ネオンサインなどが組み込まれていた。

 「未来都市」のセットとも共通するバナーや看板広告などのディテールは、《労働宮殿》にも継承されており、この建築物が自らメッセージを発信するプロパガンダ装置でもあったことを示している。だがさらに重要なのは、その外観を特徴づける、ほとんど装飾的ですらあるアンテナだ。バナーや看板広告が所与の空間に限定された直接的なメディアであるのに対して、ラジオの電波はソ連全土に瞬時に情報を伝達することができる。そして同一の情報を共有する人びとを、空間的な隔たりとは無関係に、単一の集団へと組織することができる。《労働宮殿》はこのような非物質的なマス・コミュニケーションの拠点となることで、情報の建築という決定的に新しい方向へと、一歩を踏み出していたのである。

3 構成主義建築の展開

 プロパガンダ器官としての建築、さらには情報を組織する建築というアイディアは、一九二四年にヴェスニン兄弟によって発表された、レニングラード・プラウダ新聞社★10のモスクワ社屋コンペ案【図3】にも継承された。このコンペ案もまた、実現されることなく終わっている。
 巨大なスケールの《労働宮殿》とはうって変わって、《レニングラード・プラウダ》社屋は六メートル四方という極めて限られた敷地を前提としていた。しかし、まさにこの制約ゆえに、ヴェスニン兄弟案では空間の合理的組織化という構成主義の理念が際立つ結果となった。彼らが描きだしたのは六階建てのビルディングで、一階部分に新聞を販売するキオスク、二階部分に読書室、三階以上のフロアには編集・運営業務にかかわるオフィスが配置されていた。そしてこれらの構造は、ガラスのカーテンウォールを通して、完全に可視化されることになっていた。

【図3-a】ヴェスニン兄弟による《レニングラード・プラウダ》社屋コンペ案


【図3-b】


 また壁面には、時刻やスローガン、さまざまな情報を表示可能なスクリーンが備わっており、《労働宮殿》同様、《レニングラード・プラウダ》も建築物それ自体が情報の媒体となるよう設計されていたことがわかる。屋上には拡声器やアンテナ、路上のデモやページェントの際に用いられる投光器も設置されていた。だが《レニングラード・プラウダ》案における最も興味深い「見世物」は、何といってもガラス張りの壁面によって可視化された新聞発行の過程そのものだろう。ヴェスニン兄弟案では、報道のプロセスは文字通りの意味で透明化されることになっていたのである(現実には『プラウダ(真実)』の報道は透明どころではなく、「『プラウダ』に欠けているのは真実である」などと揶揄されることになるのだが)。そしてここでも、《レニングラード・プラウダ》が「新聞」というマス・コミュニケーションの拠点であり、情報を収集し、編集し、発信するための建築であったことを忘れるわけにはいかない。ラジオ放送に比べると新聞という媒体にはややアナログ感があるが、このプロジェクトでも物理的実体としての建築と、情報のネットワークというもうひとつの「虚の建築」(マルク・リース)が交錯していたのである。

 建築物の物質性を極限まで切り詰め、非場所的で集団的なコミュニケーションのネットワークを構築する――このような課題を極限まで探求したのは、しかしアレクサンドル・ヴェスニンではなく、彼の弟子にして構成主義の第二世代を代表するイワン・レオニドフだった。詳しくは拙著『天体建築論――レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会、二〇一四年)を参照いただきたいが、レオニドフの名を一躍知らしめることになった《レーニン図書館学研究所》(一九二七年)【図4】以来、彼は一貫して物理的な実体としての建築を減縮する方向へと進み続けた。一九二八年に発表された《新しいタイプの労働者クラブ》案【図5】★11では、中心をなす建築物はガラスの被膜をまとった広場であり★12、そして翌年参加した南米サント・ドミンゴの《コロンブス・モニュメント》コンペ案では、天気の良い日に限ってだが、建物からは壁も屋根も取り払われて、人工気流がそれらの代わりを果たすことになっていた★13。物理的実体としての建築は、こうしてとうとう消滅してしまうのである。このような、最低限の構造すら省略しようとするレオニドフのデザインは、(当然と言えば当然だが)激しい賛否両論を引き起こし、構成主義の失速の一因ともなった。
【図4】イワン・レオニドフによる《レーニン図書館学研究所》案


【図5】イワン・レオニドフによる《新しいタイプの労働者クラブ》A案


 同様に、情報のネットワークを構築する建築という構想も、レオニドフのプロジェクトではほとんどSF的な規模にまで拡張されていった。前述の《レーニン図書館学研究所》は、図書館という情報集積の拠点であると同時に、モスクワや世界中の同様の施設とも通信網で結ばれた、いわば情報の結節点でもあった。彼の《新しい社会タイプのクラブ》や《文化宮殿》(一九三〇年)【図6】などの労働者クラブの敷地内には、必ずマストのようなアンテナや放送塔が設置されており、全連邦の労働者クラブ間で、情報の発信・受信・共有が行われることになっていた。レオニドフは師であるアレクサンドル・ヴェスニンとは異なり、特定の空間に限定された演劇やマス・ページェントよりも、ラジオや映画、テレビといったマスメディアを重視した。住んでいる場所や空間的な隔たりとは無関係に、ネットワークを介して結びついた人びとの集団――それこそが彼の考える新たな共同体の姿だったのである。そしてレオニドフの《コロンブス・モニュメント》案では、このようなコミュニケーション網は、間惑星通信にまで発展していく。

【図6】イワン・レオニドフによる《文化宮殿》案

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 ロシア構成主義建築は《労働宮殿》というアンビルトから始まり、そしてこの運動の中で生まれた大多数の作品はアンビルトに終わった。この時期のソ連の政治的・経済的混乱に輪をかけて、建築への過剰な期待が、これらの計画の実現を困難にしたことは間違いない。だがそれと同時に、そもそもの発端であるヴェスニン兄弟の《労働宮殿》案から、構成主義建築には現実の空間へ翻訳されることを拒むような性質が含まれていたと思われる。

 たとえば、ヴェスニン兄弟の《労働宮殿》案や《レニングラード・プラウダ》社屋案が舞台美術から派生したという事実は、これらの建築物と演劇の虚構空間との連続性を示している。もちろん通常の演劇とは異なり、群集劇のような革命演劇では、セットは単なる虚構ではなく、来るべき未来を示すモデルでもあった。そこから誕生した《労働宮殿》や《レニングラード・プラウダ》は、これら革命演劇の中に出現した一時的なユートピアのイメージを、建築によって現実の空間へ定着させる試みだったといえよう。だがその一方で、これらの計画案にはその起源としての虚構性、すなわち現実の都市の一部となることに抗い、そこから批判的な距離をとろうとするユートピア的なパトスが残存していたのではないだろうか。

 さらにレオニドフの一連のプロジェクトにおいて、物理的実体としての建築物は、非物質的で非場所的な情報のネットワークに置き換えられる。構成主義建築は、レオニドフという極北において、「ビルト」であることからも解放されるのだ。しかしこれまで見てきたように、物理的な制約のないより普遍的なコミュニケーションへの志向は、《労働宮殿》のラジオ放送局や、新聞報道の拠点としての《レニングラード・プラウダ》にも、認めることができる。

 このように、構成主義建築にはその誕生の当初から、「建てられる」ことに抵抗するような、アンビルトのプログラムが組み込まれていた。しかもこのプログラムは、構成主義の批判者にも継承されていく。一九三〇年代に入ると、構成主義建築家たちのグループは、他の組織との抗争や党指導部からの圧力を受けて、解散を余儀なくされる。けれども、構成主義建築をその「現実からの乖離」、つまりアンビルト性ゆえに批判し、その理念を排除することで成立した「社会主義リアリズム」建築もまた、誕生の瞬間からアンビルトの亡霊に憑きまとわれることになるのである。
画像出典 【図1】https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/96/Noy_Trotskiy._Project_of_Palace_of_Work_in_Moscow_%281923%29_01.jpg Public Domain 【図2】Современная архитектура. 1927. №4-5. 【図3】Современная архитектура. 1926. №1. 【図4】Современная архитектура. 1927. №4-5. 【図5】Современная архитектура. 1929. №3. 【図6】Современная архитектура. 1930. №5.

 


★1 Из истории советской архитектуры 1917-1925 гг. М., 1963. С. 146.
★2 コンペの主催者であるモスクワ建築家協会の重鎮で、古典主義建築の権威でもあったイワン・ジョルトフスキーが、ヴェスニン兄弟案の優勝に強硬に反対したためであると伝えられている。Хан-Магомедов С. О. Александр Веснин и конструктивмзм. М., 2007. С. 226.
★3 Конкурсный проект «Дворца Труда»: Девиз, АНТЕНА, арх. Б. А., В. А., А. А., Весниных, 1923 г. //Леф, 1924. №4. С.59. ★4 Хан-Магомедов. Александр Веснин и конструктивмзм. С. 218-219.
★5 Там же. С. 219.
★6 この舞台のデザイン画(習作)は以下のMoMAのウェブサイトで閲覧できる。URL= https://www.moma.org/collection/works/38259?%20artist_id=6139&locale=en&page=1&sov_referrer=artist:
★7 Там же.
★8 Веснины А. и В. Творческие ответы // Архитектура СССР. 1935. №4. С. 40
★9 プーシキン劇場の公式ウェブサイトを参照。下記リンク先のトップに表示されるのが『木曜日と呼ばれた男』の舞台装置。URL=http://teatrpushkin.ru/plays/chelovek-kotoryy-byl-chetvergom
★10 『プラウダ(真実)』とは、ソ連で発行されていた二大新聞のうちのひとつ。ちなみにもう一方は『イズヴェスチヤ(報せ)』である。
★11 労働者クラブとは労働者が余暇を過ごすための場であり、政治集会や各種の自主的な教育-学習活動から単純なゲームまで多様な活動が行われた。とりわけソ連時代には、労働だけでなく余暇活動によっても労働者を管理・組織する重要な手段とみなされており、革命直後からわずか二年間の間に、七〇〇〇以上の労働者クラブが生み出された。Selim O. Khan-Magomedov, Pioneers of Soviet Architecture: The Search for New Solutions in the 1920s and 1930s, Themes and Hudson, 1983, p. 434.
★12 Леонидов И. Организация работ>ы клуба нового социального типа // Современная архитектура. 1929. №3. С. 106.
★13 Леонидов И. Конкурсный проект памятника Колумбу // Современная архитектура. 1929. №4. С. 148.
ゲンロン、次の10年へ

『ゲンロン11』
安藤礼二/イ・アレックス・テックァン/石田英敬/伊藤剛/海猫沢めろん/大井昌和/大森望/山顕/小川哲/琴柱遥/さやわか/武富健治/辻田真佐憲/中島隆博/速水健朗/ユク・ホイ/本田晃子/巻上公一/松山洋平/安彦良和/山本直樹/柳美里/プラープダー・ユン/東浩紀/上田洋子/福冨渉 著
東浩紀 編

¥2,750(税込)|A5判・並製|本体424頁|2020/9/23刊行

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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