つながりロシア(6)ウクライナ正教会独立が招いたさらなる分断|高橋沙奈美

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初出:2019年04月19日刊行『ゲンロンβ36』
 1月7日は、東方正教会のクリスマス(降誕祭)である。ユリウス暦を用いている正教会では、私たちが用いているグレゴリオ暦より13日遅れのこの日に、キリストの生誕を祝う。2019年1月6日、つまり降誕祭の前夜、正教世界には新しい「独立教会」が誕生した(ということになっている)。それが、新生ウクライナ正教会(Orthodox Church in Ukraine, PTsU)だ。

 東方正教会は、カトリックやプロテスタントと同じキリスト教である。かつてローマ帝国には、ローマを筆頭として、コンスタンティノープル(現トルコ領イスタンブール)、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの5つの総主教座が存在した(古代総主教座)。395年のローマ帝国の東西分裂後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルを中心とした教会典礼や慣例は、西のローマ・カトリック教会のそれとは異なる発展を遂げた。これが東方正教会である。7世紀以降は、イスラームの進出により、ビザンツ帝国は縮小し続けた。1453年にコンスタンティノープルは陥落し、オスマン帝国の支配下で、キリスト教徒は少数派となってしまった。しかし、東方正教会においては、古代総主教座は歴史的に重要な存在として、現在まで尊重されている。

 9世紀に入ると、東方正教会はスラヴ民族の居住地域へと拡大した。正教の信仰を布教するための拠点として、各地に府主教座が作られていく。地域や民族の教会が発展するにつれ、府主教座は複数の高位聖職者が管轄する教区を束ねる独立した教会組織としてまとまりを持つようになった。それらは「独立教会」と呼ばれ、高位聖職者を独自に叙聖する権限を持ち、教会の管轄領域で起こる問題に独自に対応するようになった[★1]

 ところで東方正教は、ビザンツ、オスマン、ハプスブルグ、ロシアと、帝国において発展したキリスト教である。近代以降、帝国が崩壊し、国民国家が創設されると、独立教会の在り方も再検討され始めた[★2]。ある民族が多数派を占める国民国家が創設された場合、そこに独立した正教会の設立が認められるべきか否か。独立正教会は、国民国家の領域を超えて、ディアスポラとなった民族の教会をも管轄とみなすことができるか否か。移民の国アメリカは、自前の正教会を持つことができるか否か。これらは皆、正教世界でしばしば議論されてきた問題である。今年、新しくウクライナにも独立教会が承認されたわけだが、後述するように、その一連のプロセスは異例づくめだった。ウクライナ正教会の独立は、もともと分裂していたウクライナの正教会に、これまで以上に深刻な分断を招いている。

1 教会独立前夜


 私はもともとロシアの正教会、より詳しくはソ連時代の文化資源としての正教を研究していた。それが2013年秋から14年の春にかけて起こったユーロマイダン(「尊厳の革命」とも称される)を契機に、ウクライナの正教会に関心を寄せるようになった。ユーロマイダンは、当時の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが、欧州連合加盟準備のための協定調印を凍結したことに不満を抱いた市民のデモに端を発する。平和的な市民運動はのちにデモ隊と治安部隊の武力衝突に発展し、結局、キエフの中央政府は事実上崩壊した。これをロシアにシンパシーを抱く親露派(ヤヌコーヴィチもその一人)と、欧州加盟を望む反露勢力の対立として理解するのはわかりやすい図式ではある。しかし、実際のデモ参加者の相貌は、極右ナショナリストから正義と民主主義を訴えるリベラリストまでさまざまだった。そして、彼らはそれぞれこの国の将来をどうするのか、独自の理念を広場の演台から熱く訴えたのだ[★3]

 驚くべきは、正教会の聖職者にもユーロマイダンに積極的に参加し、演台に上る者が現れたことだった。これまで正教会の聖職者は、政治的危機の際には発言を恐れ、黙っている傾向が強かった[★4]。それがユーロマイダンでは、彼らはウクライナの主権と真実、正義、自由、人権の尊重といった「ヨーロッパ的価値観」を訴える演説を行った。このような聖職者たちの姿に、正教会刷新の可能性を見出した研究者は少なくない[★5]

 しかし、ユーロマイダンの後、ロシアによるクリミア併合とウクライナ東部における両国の戦争によって、ロシア・ウクライナ関係は過去最悪の状態に陥った。ユーロマイダンから5年が経過した今もなお、経済、教育、文化、あらゆる側面において、ヒトの交流やモノの流通が制限される状況にある。ウクライナ正教会の独立によって、そこに宗教も含まれることになった。

 現在のウクライナ領に存在する正教会は、17世紀以降、「ロシア正教会」に属していた。1917年、ロシア革命の年に、ウクライナの正教会は「ロシア正教会」のウクライナ教区ではなく、「ウクライナ正教会」として独立すべきであるという問題提起が教会会議でなされた。以後、独立は悲願となる。ところが、ロシア正教会はウクライナにおける教会独立を認めようとはしなかった。こうして、ロシア正教会との関係をめぐって、ウクライナには大きく分けて3つの正教会が併存することになった。最大かつもっとも伝統的な組織が、ロシア正教会モスクワ総主教座の管轄下に置かれた自治管理教会である「ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)」(Ukrainian Orthodox Church, UPTs)だ。他方、規模は小さいが、長らく独立運動を担ってきたのが「ウクライナ自治教会」。1917年の革命を機に独立を目指して組織された後、長期にわたって北米を中心に活動してきた。そして、もっとも新しく規模もさらに小さいが、歴代のウクライナ政権からバックアップを得てきたのが「ウクライナ正教会(キエフ総主教座)」である。この教会は1991年のソ連解体の前後に、独立問題をめぐってモスクワ総主教座と対立する形で結成された。後者2つの教会は、正教会の教会法上は「非合法」である。それはつまり、これらの教会の聖職者は他の正教会では正式な聖職者として扱われず、またこれらの教会で受けた洗礼などの秘跡は、ほかの正教会では有効と認められないということを意味する。

 本来、教会が独立を得ようとする時、その地域を管轄する教会である「母教会」の承認が必要不可欠となる。ウクライナ正教会、およびウクライナの歴代大統領は、長年にわたってロシア正教会との交渉を試みてきたが、徒労に終わった。そこで、ウクライナは交渉しても埒のないロシアの頭越しに、コンスタンティノープル世界総主教座、すなわち正教世界で「同輩中の第一人者」と位置付けられる教会に白羽の矢を立てた。そして2007年、当時のウクライナ大統領ヴィクトル・ユーシチェンコが世界総主教と会見したが、このときは問題解決には至らなかった。ところが、2017年4月に、ペトロ・ポロシェンコ大統領が交渉に赴いた際には、ついに事が動いたのだ。この背景には、ポロシェンコの力量よりもむしろ、ロシアを孤立させたいアメリカの働きかけを見るべきだろう。

 もっとも、正教会における世界総主教の地位は、ローマ・カトリックの教皇とは異なる[★6]。世界総主教はじつは名誉職的な地位であり、法的、裁治的な特権を有するわけではないのだ。だから、世界総主教がロシアの管轄であるウクライナ問題に介入するという今回の事態は、異例中の異例であった。だから、正教会のうち、ロシア教会はもとより、他の独立教会も世界総主教の承認を認めず、新生ウクライナ正教会を独立した教会とみなさないのは、世俗の政治的判断ではなく、教会法や教会慣例といった宗教的な判断なのである。

2 異例の教会独立


 新しく独立教会を承認するにあたって、世界総主教が提示した条件は、それまで分裂状態にあったウクライナの3つの主要な正教会が合同に同意することであった。だから世界総主教は、それぞれの教会の聖職者が集まり、独立教会の体制について議決することを目的とした統一公会の開催を決定した。これに対して、ロシア正教会は、自身の領域内の問題にコンスタンティノープル総主教座が無断で介入した挙句、その管轄権を簒奪しようとしていることを、教会慣例の重大な侵犯であると強く抗議した。2018年10月には、モスクワはコンスタンティノープルとのユーカリスト上の断交(宗教儀礼上の交流の停止)を宣言し、ウクライナの教会独立は「分派」の運動に過ぎないとの立場を鮮明にする[★7]

 当然、この考え方をウクライナ正教会(モスクワ総主教座)も共有し、同教会の主教たちは同年11月、統一公会に参加しないことを決定した。ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の聖職者が、この決定に反して統一公会に参加=移行することは、モスクワ総主教座の教会から除外されることを意味した[★8]

 12月15日、首都キエフで開催された統一公会には、自治教会から12名、キエフ総主教座から42名と、両教会の主教が軒並み参加した。これに対し、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)から統一公会に参加した高位聖職者は、オレクサンドル(ドラビンコ)[★9]キエフ府主教座副監督とシメオン(ショスタツキー)ヴィーヌィツィア府主教の2名にとどまった。ちなみに、この公会にはポロシェンコ大統領およびウクライナ最高議会議長アナトーリー・バルビーもゲストとして「招へい」されている。

 公会の会場となったのは、ウクライナで最重要とみなされる聖ソフィア大聖堂である。ウクライナの正教会の分裂状態を考慮して、大聖堂はこれまで「博物館」として機能しており、どこの教会にも所属していなかった。公会の間中、ウクライナ国旗(宗教的シンボルではない!)を掲げた群衆が聖堂前の広場を埋め尽くし、第2のユーロマイダンの様相を呈した。公会で新しい教会の首座主教(最高位聖職者)となるエピファニー(ドゥメンコ)府主教が選出されると、ポロシェンコ大統領は教会もまたロシアからの独立に向けての確実な一歩を踏み出したと高らかに宣言した。

 この統一公会をもって、3つの正教会の「合同」を宣言することが牽強付会であることは言うまでもない。教会法や教会慣例に照らし合わせてみれば、極めて例外的に独立が「達成」されたわけだが、この独立を現ウクライナ政府は大歓迎した。いや、正しくは現ウクライナ政府こそが、教会の独立を政治的に成し遂げたのであるから、自画自賛である。

 新生ウクライナ正教会は、コンスタンティノープル総主教座の承認を得たので非合法でこそなくなったが、正教世界に「祝福されていない」状態であることに変わりはない。その上、新生ウクライナ正教会の「独立」は、ロシアからの独立にとどまり、通常の独立教会に付与されるはずの権利を完全には認められていない。うがった見方をすれば、ウクライナ正教会はパトロンをロシアからコンスタンティノープルに代えただけなのだ。コンスタンティノープルは、新生ウクライナ正教会に、当初期待されていた総主教座ではなくその一つ下の「府主教座」しか認めなかった[★10]。世俗国家ウクライナの領域外、つまりウクライナの国外に存在するウクライナ人の正教会は、コンスタンティノープル総主教座の管轄下に置かれることが取り決められた。また、コンスタンティノープル総主教座はウクライナに総主教代理を置き、直轄教会を所有する権利を持つことになった。

 結局、新生ウクライナ正教会は、モスクワ総主教座の管轄下にある正教会以上に、自治権を制限されることになった。これは推測でしかないが、コンスタンティノープルとしては、これくらいの条件を付けるのでなければ、あえてウクライナの「独立」を認めるメリットはないと考えたのだろう。一方、のどから手が出るほど「独立」の名目がほしいウクライナとしては、これらの厳しい条件も受け入れざるを得なかった。教会独立は、満を持して達成されたというより、政治的な思惑と妥協の産物なのである。

3 新生ウクライナ正教会とそのリベラルでナショナルな支持者たち


 モスクワがこの統一を喜ばないのはわかる。しかし、当事者であるウクライナの聖職者や信者たちは、統一公会とその結果としての教会独立をどう受け止めているのだろうか? 統一公会に参加しないよう、モスクワから相当の圧力があったのではないか? 統一公会に参加した聖職者たちは、いかにこの決断を行ったのだろうか? 以下では、2019年2月にウクライナの中央部・西部四州(キエフ、ヴィーヌィツィア、フメリニツィキー、ヴォルィニ州)で行った聞き取り調査から、教会独立がウクライナ社会に新しくもたらした分断について考える。なお、これらの地域では、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の教区(教会の建物と聖職者を有する信者の共同体)が、新生ウクライナ正教会へ数多く移行していることが知られている[★11]。まずは、統一公会に参加した2人の高位聖職者、シメオン府主教とオレクサンドル府主教を手掛かりに、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の聖職者や信者たちの教会独立問題への反応を見ていこう。

【図1】筆者が訪れたウクライナ4州の周辺図 作成=編集部

 

 シメオン府主教は、ウクライナ中部のヴィーヌィツィア主教区を率いる聖職者で、信者からの人望も厚い人物として知られている。彼が統一公会に参加するならば、新生ウクライナ正教会の首座主教になるに違いないと目されていた。そうしたことを踏まえての交渉が、ウクライナ政府からあったのかもしれないが、真相はわからない。モスクワ総主教座の関係者の多くが、シメオン府主教の移行を惜しんだ。

 2019年2月11日、私はヴィーヌィツィアを訪れ、シメオン府主教と面談した。府主教は、統一公会への参加は自分自身の意思による決定であること、統一されたウクライナ正教会の未来への希望ゆえに新生ウクライナ正教会を支持することを述べた。しかし、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)からシメオン府主教に従った聖職者や教区は少数派である。その点に話が及ぶと、シメオン府主教は寂しそうな表情で、旧知の人びとの理解が得られない、裏切り者のように批判されると嘆いた。

 ヴィーヌィツィア市内では、府主教座が置かれた大聖堂の他に2つの教区が移行したとみなされている。しかし、じつはこれら2つの教区は共に軍施設内に位置する。現在、軍や消防署、公立学校など、公的な施設に敷設された教会は、新生ウクライナ正教会に所属するという不文律がある。これらの教会に奉仕する聖職者が移行に反対する場合、彼らは教会から追い出されることになる。ウクライナの教区教会は、ほとんどソ連解体後に組織し直されたものであるため、教区聖職者の中には教会の建物を自らの手で建てたという者が少なくない。教会を追放されるというのは、自分自身が作り上げた「家」と共同体を失うことを意味する。移行した教区に奉仕する聖職者の1人は、この件についてのインタビューに応じてくれなかった。もう1人の聖職者とは電話で話を聞くことができたが、彼は移行に合意したわけではないという。ヴィーヌィツィア市内の教区教会の移行の実情は、このようなところであった。
 2月12日、ヴィーヌィツィアを後にして、フメリニツィキー州へ入った。フメリニツィキーで訪れた移行した教区教会は、じつはシメオン府主教の生まれ故郷の村であることがわかった。教区民たちは皆、自分たちの村がシメオン府主教を輩出したことを誇りとしており、シメオン府主教の決定に、教区民たちはほとんど従ったと語ってくれた。教区教会の移行に反対したのは2、3名の信者に過ぎなかったという。

 統一公会に参加したもう1人のウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の高位聖職者であるオレクサンドル府主教については、事情がわかりやすい。ソ連が解体し、それまでのフィラレート・キエフ府主教が「キエフ総主教座」を創設してモスクワ総主教座から離反した後、ウクライナ正教会を率いてきたのは、ヴォロディームル(サヴォダン)キエフ府主教であった。このヴォロディームル府主教が2014年7月に病没し、後任にはオヌーフリー(ベレゾフシキー)府主教が着座して現在に至る。首座主教の交代に伴い、ヴォロディームル府主教の下で教会運営に携わってきた聖職者たちは一様に要職を解かれた。故ヴォロディームル府主教の下で昇進を遂げたオレクサンドル府主教もその1人なのだ。オレクサンドル府主教はオヌーフリー現府主教の下ではこれ以上の活路は見いだせない。しかも彼は42歳と主教にしてはかなり若い。野心的な主教としては、移行した方が都合がよいのである。オレクサンドル府主教は、ヴォロディームル府主教を記念する財団および博物館の組織に関わり、ヴォロディームル府主教が教会独立に向けて生前から尽力していたこと、自分たちはその遺志を継いで、教会独立の事業に参与していることを訴え続けている[★12]

 ヴォロディームル府主教時代に教会のスポークスマンを務めていた、キエフの教区教会の聖職者ゲオルギー・コヴァレンコ司祭もまた、新生ウクライナ正教会へと移行した聖職者の1人である。ゲオルギー司祭はユーロマイダンを積極的に支持した司祭でもあるが、彼の場合、移行には権力の問題と並んで、教会のリベラルな運営の問題が絡んでいる。ゲオルギー司祭は、「オープン正教大学」の学長を務めている。2016年3月に司祭が組織したこの「大学」は建物を持たない。一般市民を対象に、広くウクライナの社会問題について、キリスト教的倫理観に基づいて語ることのできる有識者を招き、講義を行っている。講義の様子はオンラインで発信され、誰でも自由に閲覧可能だ。オープン正教大学では、受講者のみならず講師も正教徒に限らず、時にカトリックやプロテスタントが壇上に招かれ、キリスト教徒の自由な対話が重視されている。

 首都キエフでは、ゲオルギー司祭の他にも、「リベラル派」と目される司祭の多くが新生ウクライナ正教会に移行した。ユーロマイダンの支持者であったアンドリー・ドゥーチェンコ司祭や、キエフの軍病院付属の教会で司祭を務めるオレグ・スクナーリ司祭など、活発な社会活動を展開する司祭が次々と移行し、社会的注目を集めた。オレグ司祭の教会は軍病院敷設であることもあり、これが新生ウクライナ正教会に移行したことには驚くべきではない。ただし、オレグ司祭が自ら進んで移行したことには言及しておくべきだろう。オレグ司祭は、現キエフ府主教オヌーフリーが、ウクライナ軍の精神的支援に対して消極的であることに大きな不満を抱いている。オヌーフリー府主教は、2015年に東部戦線で戦った兵士たちに「ウクライナの英雄」の称号が与えられると議会で発表された時に、満場席を立って拍手をする中、1人だけそうしなかった。また、オヌーフリー府主教に対して、病院を訪れて、傷病兵を見舞ってほしいとオレグ司祭が要請した際にも、すげなく却下されたという。オレグ司祭は私に対し、オヌーフリー府主教はウクライナの愛国者ではないと訴え、兵と共にある自分はこのような教会を支持することができないと語った。

【図2】キエフ軍病院の附属教会の内部


【図3】オレグ司祭の自宅で開かれた夕食会のようす

 
 オレグ司祭の奉仕する教会では、イコノスタスの前にウクライナ国旗が掲げてある。あたかも、神と祖国が等しく聖なるものであると訴えかけているようだ。オレグ司祭に言わせると、これを見れば、うちの教会がどこに属するのか誰にでも一目でわかる、とのことだ。実際、教会に日ごろ通っている信者でなければ、教会の建物を見ても、それがモスクワ総主教座に属する教会なのか、新生ウクライナ正教会(あるいは旧キエフ総主教座)に属する教会なのかはすぐにはわからない。私は15年以上、各地の正教会を訪れてきたが、このような光景を見たのは初めてだった。イコノスタス前に国旗を掲げることは、おそらく伝統を重んじる教会では許されない行為であろう。

 ところでロシア系の正教会では、教会を訪れる際、女性はひざ下の丈のスカートをはき、スカーフで髪を隠すことが作法となっている。これに従った服装で教会を訪れた私に対し、オレグ司祭はそうしたものは形式的なものだから要らない、必要なのは神への愛だと語った。新生ウクライナ正教会では、こうした服装規定も排除されることになった。また、ロシア系の正教会では、奉神礼(カトリックのミサに相当)は教会スラヴ語という古典語で行われるが、新生ウクライナ正教会では、誰もが理解できる現代ウクライナ語で行われている。

 新生ウクライナ正教会は、現政権の強力なバックアップを得た、ナショナルで、かつ正教の伝統にとらわれないリベラルな教会なのだ。欧州的価値観を重視する知識人、若者、あるいはナショナリズムに燃えた人びとが、新生ウクライナ正教会を支持するのである。

☆ ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の「沈黙」


 新生ウクライナ正教会およびその後ろ盾であるポロシェンコ政権に対して、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)は強い憤り、反発、悲しみを抱いている。そもそも、多くの宗教組織がそうであるように、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)は伝統と歴史の維持を非常に重視する。ジーンズをはいた女性が教会へ入ってくるのを見るや、顔色を変えて飛んでくるのは、教会に居ついているような信者のおばあちゃんたちである。また、日常使用されず、容易に理解できない教会スラヴ語こそ、典礼の言葉にふさわしい「ありがたい言葉」だと考えている信者も多い。つまり、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)に属する正教会のもっともコアな信者たち(日曜ごとに教会に通い、教義や儀礼にある程度通じている信者たち)の多くは、新生ウクライナ正教会を歓迎してはいないのである。

 さらに、ウクライナは良心の自由と政教分離の原則を憲法(第35条)で掲げる世俗国家である。教会独立問題に絡んで、ウクライナでは「良心の自由と宗教団体に関わる法」の修正法案2件が採択された。1つ目の修正は、ウクライナと交戦中の国家に本部を持つ宗教団体は、そのことをその名称に明記しなくてはならない、というもの。平たく言えば「ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)」などという紛らわしい名前はやめて、「ロシア正教会」と名乗れ、というのである。しかし、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の側からすれば、自分たちはロシア正教会から大幅な自治権を獲得したウクライナの正教会である。しかし、ウクライナのすべての宗教団体に1年以内に国への再登録を求めるという2つめの修正がこの名称変更を余儀なくさせる。ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)が名称変更を拒めば、再登録が難しくなる。

 ヴォルィニ府主教区では、教区教会の移行の問題に取り組んでいるオレグ・トルチンスキー司祭から話を聞くことができた。彼は、自分たちが今直面している状況は、映画化された遠藤周作の小説『沈黙』に近付きつつあると語った。オレグ司祭によれば、現在行われている移行は3つのタイプに分けられる。
 第1が、教区共同体と聖職者が自発的に新生ウクライナ正教会に移行するという事例で、これがいわば「正常な」移行である。2月半ばの時点で、ヴォルィニ府主教区でこのような教会が6件存在するということだ。

 第2が、公的権力の側から聖職者に圧力がかけられ、移行するというパターンで、先述した公的機関に敷設された教会の多くがこれに相当する。あるいは、公的機関に勤務する学校教員や警察官、消防士などに対し、教会の移行のために活動せよという圧力がかかる場合もある。彼らは自分の村を回って「ウクライナ教会とロシア教会、あなたはどちらに賛成か」という質問をする。当然、ほとんどの人が「ウクライナ教会」と答えるわけで、教会はこうした「世論調査」の結果、移行を余儀なくさせられることになる。ヴォルィニ府主教区でこれに相当する教会は10件である。

 第3が、強制的で暴力的な教会の占拠である。上述のような学校教員、警察官、消防士が教会のドアの蝶番をチェーンソーで焼き切り、鍵ごとドアを付け替えてしまう。非常事態に建物に突入する訓練を受けた警察官や消防士にとって、この手の作業はお手の物だ。ちなみに、彼らにはこうした活動に参加しないと減給あるいは解雇という圧力がかけられているという。鍵をかけ替えられた教会に、モスクワ総主教座の聖職者は入ることができず、新生ウクライナ正教会に所属する聖職者が新しく赴任して占拠することになるのだ。もっとも、新生ウクライナ正教会の聖職者の方も数が足りず、毎週行われていた奉神礼が隔週になるなど、宗教儀礼にも影響が出ているそうだ。ヴォルィニ府主教区で占拠された教会は9件に上る。

 私は教会を占拠された司祭の1人に会うことができた。この司祭は「ロシア語はできないから」とウクライナ語で、「ウクライナに生まれ、ウクライナに育ち、ウクライナの教会に奉仕してきた。その私がモスクワ野郎と蔑まれる」と語っていた。彼には妻と2人の子供がおり、教会の横に建てられた家に居住している。その小さな家の一角が、今や彼らの教会だ。新生ウクライナ正教会を受け入れない信者たちは、この家に集まって毎週の奉神礼に参加する。司祭の妻は、「キリスト教徒は楽観主義者なの。希望は最後まで失わない」と語っていた。

 しかし、この家も間もなく明け渡さなくてはならなくなる。村の司祭が受け取る給料は毎月100-150ドルといわれる。教会と家を追われてしまえば、司祭とその家族が生活する手段は限りなく心もとない。

【図4】ヴォルィニ府主教区の村の司祭の自宅に仮設された祭壇

 

 新生ウクライナ正教会の成立は、ウクライナの分断された正教会を統一に導くどころか、その懸隔をより一層深刻なものにした。これは、どちらの教会に真理ないし正義があるか、という問題ではない。そもそもウクライナの正教会が独立すること自体は、望ましいことである。しかし、これまで見てきたように、それは教会法の手続きに即したものとは言い難い。ウクライナにおける教区教会の移行に際しても、憲法違反が白昼堂々と行われ、それによって「迫害を受けている」と感じるウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の聖職者、信者が現れている。ウクライナの人びとは、大国間の駆け引きの結果、煮え湯を飲まされた自民族の歴史をいやというほど知っている。モスクワとコンスタンティノープルという正教世界の2大教会の対立、あるいはロシアとアメリカという大国の覇権争いの結果として生じたウクライナ正教会の独立は、この忌まわしい歴史を再び繰り返しているのである。

写真提供=高橋沙奈美

 


★1 独立教会の制度についてわかりやすく説明したものとして、以下を参照。久松英二『ギリシア正教 東方の智』講談社、2012年、190-192頁。
★2 ソ連解体後の非承認国家や紛争地での正教会の管轄について、松里公孝の詳細な論考を参照。Kimitaka Matsuzato, “Inter-Orthodox Relations and Transborder Nationalities in and around Unrecognized Abkhazia and Transnistria”, Religion, State & Society, 37:3 (2009), 239-262; Kimitaka Matsuzato, “South Ossetia and the Orthodox World: Official Churches, the Greek Old Calendarist Movement, and the So-called Alan Diocese”, Journal of Church and State, 52:2 (2010), 271-297.
★3 ウクライナ在住のロシア語作家アンドレイ・クルコフが、反腐敗、リベラルの立場から、革命の日々の日常生活をつづった記録が邦訳されている。この作品はユーロマイダンを支持したウクライナの一知識人の立場を理解するための優れた記録となっている。アンドレイ・クルコフ『ウクライナ日記』吉岡ゆき訳、ホーム社、2015年。
★4 分離の原則に立てば、聖職者が政治的発言を控えることは妥当だと言える。しかしロシアでは、社会全体の危機に際して、教会の指導者が立場を鮮明にしないことは、指導者としての義務の放棄であると捉えられる傾向が強い。1991年8月、ゴルバチョフの改革に反対するグループがクーデターを起こした際に、当時の総主教アレクシー2世をはじめとする高位聖職者たちは、政治的な立場を明らかにしなかった(廣岡正久『ロシア・ナショナリズムの政治文化──「双頭の鷲」とイコン──』創文社、2000年、219-222)。ユーロマイダンに際しても、ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁)の高位聖職者たちは同様の沈黙を守った。
★5 Andrii Krawchuk and Thomas Bremer eds., Churches in the Ukrainian Crisis, Palgrave Macmillan, 2016.
★6 東方正教会の首位権の理解については、以下を参照。J・メイエンドルフ『ビザンティン神学──歴史的傾向と教理的主題』鈴木浩訳、新教出版社、2009年、159-161頁。
★7 Журнал Московской Патриархии. №10 (923), 2018. С. 6-9.
★8 以下、本論ではウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の聖職を離れ、新生ウクライナ正教会で奉仕することを「移行」と表現する。ちなみに、一般の信者は新生ウクライナ正教会に通ったからといって、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)から排除されるわけではない(逆もまたしかり)。
★9 正教会の聖職者は、黒僧(高位聖職者)と白僧に分けられ、前者が妻帯を禁止された修道僧であるのに対し、後者は妻帯が可能で多くは教区教会の司祭を勤める。高位聖職者は修道士としての剃髪式で修道名を授けられる。本稿では、高位聖職者の場合は、「修道名(俗名)」、白僧の場合は「洗礼名・姓」の順で表記する。
★10 東方正教会における高位聖職者(主教)の最高位が「総主教」であり、独立教会の歴史と規模に応じて、「総主教座」が認められる。ウクライナ正教会は10世紀にビザンツから正教を受け継いだ教会であるとの自認に基づき、総主教座が置かれるのに相応しいと考えていた。「府主教座」は総主教座を持つ独立教会の地方教区、あるいは歴史が浅いか小規模な独立教会に設けられる。
★11 教区の移行は建前上、教区信者の話し合いによって決定することになっている。そのため、移行した教会の数は、新生ウクライナ正教会に対する支持率を示すものとして扱われる。しかし実際には、現在政治的な圧力の下で移行する教会も多い(後述)。教区教会が移行した場合、本来は宗教団体としての再登録が必要であるが、移行した教会の数を早急にメディアで宣伝するため、自己申告に基づいた発表がしばしば行われている。移行した教会について具体的に示す地図には、以下のようなものがある。URL= https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1XQR0sfHFFiiXyGiVYqI1mNylJ9fFPdnh&ll=49.228547269329034%2C29.356627509375016&z=7
★12 Духовний заповiт. Предстоятеля Української Православної Церкви Блаженнiшого Митрополита Київского i всiєi України Володимира. К.: Фонд пам’ятiлаженнiого Митрополита Володимира, 2016.

高橋沙奈美

九州大学人間環境学研究院。主な専門は、第二次世界大戦後のロシア・ウクライナの正教。宗教的景観の保護、宗教文化財と博物館、聖人崇敬、正教会の国際関係、最近ではウクライナの教会独立問題など、正教会に関わる文化的事象に広く関心を持つ。著書に『ソヴィエト・ロシアの聖なる景観 社会主義体制下の宗教文化財、ツーリズム、ナショナリズム』(北海道出版会)、共著に『ロシア正教古儀式派の歴史と文化』(明石書店)、『ユーラシア地域大国の文化表象』(ミネルヴァ書房)など。
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