悪と幸せの問題——『テーマパーク化する地球』刊行に寄せて|東浩紀

初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

 去る6月14日、ゲンロンカフェで『テーマパーク化する地球』刊行記念の講演を行なった。ぼくにしてはめずらしく、聞き手を設けず、ひとりで話したいことを話した。この原稿が載る『ゲンロンβ38』が配信されるときも、まだネットでは視聴することができるはずだ。

 そこで述べたように、ぼくはいま、哲学と紀行文を融合させたような、新しい文体の発明に取り組んでいる。最近ロシアや中国東北部(満洲)に出かけているのは、そこで書く題材を集めるためである。旅をするように哲学すること。あるいは哲学するように旅をすること。それはすでに、『ゆるく考える』収録の「悪と記念碑の問題」や『テーマパーク化する地球』収録の「テーマパークと慰霊」といった短いエッセイで試みられている。秋刊行の『ゲンロン10』には、それをさらに発展させ、三万字ていどの原稿を寄せるつもりだ。

 ところで、そのような新しい文体が必要とされたのは、ぼくの哲学的な関心が、いままでの哲学や批評の言葉によっては、もはやうまく展開できないと感じるようになったからである。その関心について、講演では主題的に話さなかったので、ここで補足しておきたい。

 

 ぼくが最近ずっと考え続けているのは、ひとことでいえば、人間における悪と幸せの関係である。悪と正義の関係ではない。悪と快楽の関係でもない。悪とそれらの関係については、既存の哲学の言葉で十分検討することができるし、じっさいにさまざまな著作がある。そうではなく、ぼくが考えたいのは悪と幸せの関係だ。

 なぜ「幸せ」なのだろうか。




 幸せは奇妙な概念である。「幸せであること」には積極的な内容がない。ぼくたちは不幸のほうはたやすく定義することができる。貧しければ不幸だし、家族も友人もいなければ不幸だし、人々から軽蔑されれば不幸だ。しかしかといって、お金があり、家族も友人もいて、尊敬を集めていれば幸せかといえば、そうでもないところがむずかしい。目標がない人生は空虚だが、目標があったらあったでそれを追い求めているかぎり満たされることがなく、それゆえ幸せになれない。それが人間の欲望の構造である。

 幸せというのは、おそらくは、そのような構造の「そと」にあるものとして規定されるものなのだ。だから幸せは快楽とは異なる。快楽は目的の達成により生まれる。けれども幸せは達成と関係がない。ぼくたちは、たとえば、窓を開けたら予想外にあたたかな春の空気が流れこんできたり、仕事からの帰りみちに夜景の美しさをはたと悟ったり、なにげない会話のなかで長いあいだ見すごしてきた家族の癖にふと気づいたりするとき、それを幸せと感じる。そのような感覚は、欲望の構造の外部にあり、したがって哲学の――人間的主体の構造について考える現代のアカデミックな哲学の――外部にある。だから幸せについては、哲学はうまく考えることができない。幸せについては、文学や宗教のほうが多くを教えてくれる。ぼくはいま、悪について、そのような「哲学の外部」を導入して考えようとしている。だからこそ、文体においても、紀行文との融合を企てたりしているわけである。

 なぜそのようなかまえが必要になったのだろうか。じつはその背景には、20世紀という時代への関心がある。

 20世紀は戦争と消費社会の世紀である。20世紀は、2回の世界大戦があり、そのあとも冷戦があり、かつてなく多くの兵器がつくられ、かつてなく多くのひとが殺された世紀である。しかしそれは同時に、テレビが生まれ、ポップカルチャーが生まれ、ショッピングモールが生まれ、ネットが生まれ、かつてなく多くの商品が生産され、消費され、かつてなく多くのひとが幸せを追い求めるようになり、じっさいに幸せになった世紀でもある。最近話題の『ファクトフルネス』があきらかにしているように★1、20世紀において、人類の平均寿命は飛躍的に伸びたし、健康状態もよくなった。20世紀の人類はかつてなく悪を行なったが、同時にかつてなく幸せもめざした。ぼくの考えでは、この二面性こそが20世紀の本質であり、そして21世紀のいまもさまざまな矛盾の源泉であり続けている。

★1 ハンス・ロスリングほか、『FACTFULNESS』、上杉周作、関美和訳、日経BP社、2019年。





 けれども、いまの哲学の言葉では、じつはこの二面性についてはうまく考えることができない。なぜならば、そこでは戦争と消費社会は、べつに対立するものではなく、両方とも同じ「疎外」や「堕落」の帰結だとされてしまうからである。

 ひらたくいえば、哲学者は(そして哲学の語彙を身につけたリベラルな知識人は)、戦争は悪だ、収容所も悪だ、しかしテレビやショッピングモールも同じように悪で、人間から人間性を奪うものではないかと、そんなふうにいいがちなのである。哲学史に詳しいひとであれば、ハイデガーの悪名高いブレーメン講演を思い浮かべてくれれば、ぼくのいいたいことを多少はわかってもらえるだろう。ハイデガーは一九四九年に行われたその講演で、「機械化された食糧産業」と「ガス室や絶滅収容所における死体の製造」が「同じもの」だと述べた★2。この主張は政治的には厳しい批判を受けたが、哲学的にはけっしてまちがっていない。むしろ正しい。しかし、それでも、そのふたつはやはり「同じもの」ではないのではないか。むしろ両者を「同じもの」として捉えてしまうこと、それそのものが、いまの哲学がかかえる根本的な欠陥を示しているのではないか。ぼくはむかしから素朴にそのように感じてきた。

 収容所と食料工場はちがう。戦争と消費社会もちがう。けれどその素朴な直感は哲学の語彙のなかでは消える。だから、ぼくは、その素朴さを忘れないために、「幸せ」という同じように素朴な、哲学のそとの概念から考え始めてみたいのである。

 

 20世紀は戦争と消費社会の世紀である。戦争でひとは悪を行い、消費社会でひとは幸せを感じた。ぼくは、これから、悪と幸せの関係について考えることで、戦争と消費社会の関係について、そしてその両者が不可分に融合し混在し続けている現代という時代について考えてみたいと思う。それがいまのぼくの関心だ。

★2 『ブレーメン講演とフライブルク講演 ハイデッガー全集第七九巻』、森一郎、ハルトムート・ブフナー訳、創文社、2003年、37頁。





 だからぼくは、「悪と記念碑の問題」でも、「テーマパークと慰霊」でも、『ゲンロン10』に寄せるつぎの原稿でも、そしてまた遡って6年前の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』でも、人間の悪について考えるときには、いつもテーマパークやショッピングモールや郊外住宅地やポップカルチャーのそばで考えている。悪の主題と幸せの主題の混在、慰霊の主題とテーマパークの主題の混在、読者によってはおそらくはその隣接こそがぼくの文章において抵抗を感じるところなのだろうが(そしてまた『福島第一原発観光地化計画』の失敗の理由のひとつだったのだろうが)、ぼくは、逆にそれこそが本質だと考えている。

 悪のすぐそばに幸せがあり、幸せのすぐそばに悪がある。ぼくたちはそんな時代を生きている。『テーマパーク化する地球』は、それを考えるための、第一歩となる評論集である。


ぼくたちは、人間であり続けるために、等価交換の外部をいつも必要としている


ゲンロン叢書003 東浩紀『テーマパーク化する地球
2019年6月発行 四六判並製 本体408頁
ISBN:978-4-907188-31-3

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。