つながりロシア(8) 親族制度のその先へ 初期ソ連のヒロイン達の冒険――家族の破壊から巨大な家族へ|北井聡子

初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

 1991年のソ連崩壊後の十数年間、ロシアは社会的な大混乱を経験したが、他方でジェンダー/セクシュアリティにおける多様な表象がメディアに溢れた創造的な時代でもあった。その一つに、ジェンダー研究者のI・ジェレプキナが「待望の国家的ヒロイン」と呼んだアニメ『マシャーニャ』が挙げられる★1

 O・クヴァーエフによるこの作品は、2001年からインターネットの配信が開始され、2002年にはテレビへと移行、放送は2006年まで続けられた。タイトルと同名のヒロイン、マシャーニャは20代の女の子とされるが、その体は凹凸がなく、丸く大きな顔に数本の髪の毛といった風貌で、青いミニスカートを履いている以外には男女の判別は付け難い。物語の特徴は、マシャーニャの辛辣なユーモアと、印象的なキーフレーズの狂気じみた反復、そしてお決まりの「ヒヒヒ」という笑い声。その笑い声の渦の中で、日常の諸問題は不条理にも霧散してしまう。彼女はパンクロックのボーカルでもあり、出産の直前に「妊娠したサイバ―・ゴシックロリータのダンス」を踊って男たちを失神させたりもする。そんな彼女のハチャメチャではあるが、全ての価値を転倒してしまうポジティヴな姿に当時の人々は魅了されたのだった。

 しかし現在のロシアでは、マシャーニャや、あるいは同時期に人気を博したレズビアンをコンセプトとしたデュオ t.A.T.u のような存在が、公的なメディアに登場することは難しくなっている。プーチン大統領は2006年あたりから、少子化対策のために伝統的な家族制度を強化する政策を推し進めている。2013年には日本でも大きく報じられた所謂「同性愛宣伝禁止法」が施行され、これにより非伝統的な性関係、即ち男女間の愛以外の関係をプロパガンダした場合は罰金が課される事態となっているのだ★2。西側から激しい非難を受けたこの法案を成立させた中心人物は、現上院議員のE・ミズーリナである。彼女は「子供を生んでいない女性は高等教育を受けるべきでない」等、時代錯誤的な発言を繰り返し、堕胎と離婚の規制の強化、多産の奨励などロシア正教の価値観に基づく超保守的な政策を次々に打ち立てている★3

 さて、1991年以降に起こったこの一連の動き、即ち、旧体制の崩壊と、それに続く家族やジェンダー規範がゆらぐ束の間のリベラルな時代の到来、そしてそれが過ぎ去った後に唯一の指導者に導かれる強力な家父長的秩序へと回帰していくというプロセスは、実はロシアにとっては2度目の経験だ。本稿が扱いたいのは、1度目の経験、つまり1917年の十月革命と、それに続く家族を巡る議論である。


 共産主義世界では家族制度は死滅する――この考えは、自明の真理として初期ボリシェヴィキに広く共有されていた。初期のソ連社会において、血縁ではなく、理念で結ばれた同志たちの共同体が待望された背景には、内戦と世界大戦による大量の孤児の発生など、現実に起こっていた家族制度の崩壊があったと言われる。そして十月革命後、ソビエト政権は国家による家族の破壊という人類史上類を見ない政策に着手した。1917年12月の政令で、宗教婚は市民婚へと移行し、離婚は夫婦のどちらかの申立によって許可されることとなる。翌18年の家族法においては同居の義務の撤廃(第104項)、財産の個人所有(第105項)が確認され、さらに将来全ての子供は集団で育成されるという前提の下、養子縁組が禁止された(第183項)。1918年以降も議論は継続され、1926年には事実婚が認定されるに至っている。しかし、1924年にレーニンが死去した後、社会は徐々に保守化しはじめる。1928年には農業の集団化と重工業を重視した第一次五カ年計画が開始されたが、これはスターリン体制の確立を告げるものだった。家族に関するラディカルな議論も、30年代には完全に否定され、1936年には家族強化キャンペーンが大々的に展開されることとなる。

 以下、激動の1920年代に生み出された二人の「新しい女」――A・コロンタイ『三代の恋』(1923年)の主人公ジェーニャとS・トレチヤコフ『子供が欲しい』(1926年)の主人公ミルダ――の像を比較し、初期ソ連の家族を巡る議論がどこまでラディカルなものだったかを振り返りたい。またこの動きは全体主義体制下の社会にどのような遺産を残したのかについても考察する。

 議論に入る前に、もう一点確認しておきたいのは、スターリン体制下の家族制度における特殊な要素である。K・クラークによれば30年代中頃のソ連は、個別の核家族への回帰が見られると共に、スターリンを族長とする国家全体のシンボリックな家族が併存した時代であったという。そこでは後者への帰属が強く求められる一方で、実際の血縁家族もそれを強化するものとして奨励されていた。ただし国家の利益と血縁者の利益が衝突した場合には、後者、即ち血縁の絆は破棄されるべきものとみなされていた。そしてそれを象徴するのが、実の父親が反革命分子に援助を行っていると密告し強制収容所送りにしたパブリク・モロゾフ少年である★4。モロゾフ少年の国家への忠誠は、英雄的行為として顕彰されていく。彼の物語は教科書に載り、小説や詩、オペラ化されてプロパガンダに利用された。

 つまり全体主義体制下のソ連とは、スターリンを唯一の父とした国家全体の大家族が出現した時代であったのだ。家族を破壊しようと血道を挙げていた国家が、前代未聞の巨大な家父長的家族を形成するまでの間に何が起きたのか、その連続性を考えてみたい。

ジェーニャとミルダ

 では、2作品を簡単に紹介しよう。一つ目は、革命政権において唯一の女性閣僚となったコロンタイの短編小説『三代の恋』である★5。『三代の恋』は、母娘三代の恋愛遍歴の物語である。彼女たちはそれぞれ、時代の規範から逸脱した恋をしてきたが、ここで問題となるのは孫娘の「新しい女」ジェーニャである。ある日彼女は、妊娠したが時間がないので堕胎したいと母オリガに相談を持ちかける。「お腹の子の父は誰か?」という母の問いに、ジェーニャは「分からない」とだけ答えるのだが、その後、母の新しい夫アンドレイを含む複数人との間に恋愛感情抜きに乱交関係を結んでいることが判明する。苦悩するオリガに対し、ジェーニャはアンドレイを愛している訳ではないので、母の気持ちが理解できない。彼女は、母親のような「愛し方」では仕事はできないと言って、革命を遂行すべく家を出ていく。

 続いて取り上げるのはフォルマリズムの作家で詩人マヤコフスキーらと雑誌『レフ』を刊行した男性作家トレチヤコフの戯曲『子供が欲しい』である★6。ヒロインのミルダは恋愛に無関心であったが、ある日、自分に「子供を持ちたい」という気持ちが芽生えていることに気づく。そこで彼女は共産主義的な観点から見て理想の子を産む為に、「優生学」に従って祖父の世代から100%プロレタリアートの男性を探しはじめるのであった。そして建設工のヤコブを相応しい相手であると一方的に決めて「あなた自身はいらない。精子だけが必要だ」と、子供ができるまでセックスしてくれるように頼み込む。彼はこの突拍子もない申し出に驚き、またリーパという恋人がいるために当初はまともに取り合わないのだが、次第に誘惑に屈し、結局ミルダは妊娠に成功する。時は移って1930年。作品執筆時からすると近い未来にあたるこの年、健康的な子を競う「子供展覧会」が盛大に開催されている。この品評会でミルダとヤコブ、そしてリーパとヤコブの両方のペアの子が同点で1位を獲得し、物語は祝祭的な雰囲気で幕を閉じる。

 ジェーニャとミルダは共に、嫉妬心を持たない中性的な女性であり、また恋愛感情なしのセックスを肯定している等、多くの共通点を見出すことができる。しかし両者には根本的に違う要素も存在する。それはジェーニャが性的欲望を持つ主体であり、また堕胎により生殖を拒否しているのに対し、ミルダは性的欲望を持たず、唯一生殖の為だけにセックスを肯定している点だ。即ちミルダは、みかけの過激さとは裏腹にキリスト教的価値観に従順であるとも言えるのだ。このような点を含め以下見ていくように、ジェーニャが、家父長的家族を根底から破壊するラディカルな行為体であるのに対し、その三年後に生み出されたミルダは、家族を破壊するジェーニャの振る舞いを一旦は追随しながらも、徐々に彼女のゼロの身体には、家父長的秩序が書き込まれていくことになる。さらに、『子供が欲しい』では、物語の終盤において1930年代以降の巨大な家族の萌芽が確認されることになる。

『三代の恋』――家父長的家族の破壊★7

 さて、ここまで「家族の破壊」という言葉を何度か使ってきた。しかしこの破壊される家族とは一体何だろうか。それはやはり血縁者の集まりだろうか、あるいは家計を同じくする人々だろうか。はたまた家族には、血の繋がりはなくとも精神的な絆の有無が重要だと考える人もいるだろう。このように、家族には多様な定義が想定しうる訳だが、精神分析的には、次のように説明できる。竹村和子の明晰な一文を引用しよう。

……それ(親族関係)は、親族の中における自分の地位を指し示すもの、つまり子供にとっての母や父の位置であり、同じ親から生まれた子供にとっての母や父であり、同じ親から生まれた者に対していての妹や弟や兄という位置である。そして近代の核家族の枠組みでは、父母の間には性的関係が想起されるが、それ以外の者には性的関係は想起されない。逆に言えば、親族における性的関係の規則(あるいは禁忌——つまり近親姦のタブー)が、親族間の関係を語る語彙を規定し、ひいては社会関係を規定していく★8

 非常に単純化するならば、家族とは「近親姦タブー」を核とし、「母」「父」といったような「親族関係を表す語彙」によって機能し維持されるシステムとなる。故にこの論理を受け入れた上で、逆に家族が成立不可能となる条件を考えてみるならば、それは近親姦タブーがなくなるか、あるいは言語システムが混乱した時と言えるだろう。

『三代の恋』のジェーニャに話を戻そう。彼女が関係を持った相手は、母の新しい夫アンドレイであった。確かにアンドレイは、ジェーニャと血の繋がりはない。彼はまた彼女と同世代の若者だとされており、「父」を想起させない人物である。このような巧妙な設定により、彼らの間の近親姦が前景化することは回避されている。しかし、彼女にとって、母の夫であるアンドレイはまぎれもなく父であり、親族である。

 近親者同士の愛というのは文学作品の普遍的なテーマだが、それは殆どの場合、当事者たちの葛藤を描いた「禁じられた愛」の物語として表現されてきた。それに対して、『三代の恋』の極めて例外的な点は、ジェーニャがタブーを侵害する権利を堂々と主張していることである。このことは近親姦タブーが創り出した言語の世界を瓦解させる。つまり、母を激しく混乱させるこの行為が連鎖的に引き起こしているのは、娘が母の位置を占めたり、母が妹になったり、父が子供になる、というような親族関係の位置やそれを表す語彙の混乱なのである。

彼女(ジェーニャ)が、母やアンドレイのことについて話す時、彼女の話ぶりは全体として、何かしっかりしたお母さんのようなものがあった。まるで、実際の子供か、年下の妹と弟のことについてのことについて話しているようだった。(49頁)

 付け加えておきたいのは、ジェーニャが、母オリガが前夫コンスタンチンと結婚していた時に、オリガと愛人Mとの間に生まれた婚外子であることだ。こうなるとジェーニャにとって「父」とは、アンドレイ(今の父)、M(血の繋がりのある父)、コンスタンチン(母の前夫)の誰になるのか分からない。こうして親族を表す語彙のシニフィアンとシニフィエが次々とずれていき、我々の既存の言語で把捉できない逸脱した人間が生まれていくことになるのである。

規範的セクシュアリティの撹乱

 さらにジェーニャは、近代家族を作る規範的なセクシュアリティである異性愛(ヘテロセシュアル)と一夫一婦制(モノガミー)をも撹乱していく。彼女は「誰のことも好きになったことはない」と言い放つのだが、それと同時に恋する者の心理を正しく表現してみせる(「もし愛したなら、いつも一緒にいたい、愛する人の為に全てを与えたいと思うでしょうし、彼のことを考え、心配したりするでしょう」〈45頁〉)。これを聞いた語り手は、そのような心理をどこから体得したのかと疑問を投げかける。そしてジェーニャは次のように答えるのである。

「どうして、私が誰も愛したことがないと思われるのですか?」―——ジェーニャは心底驚いて言った。「私は、関係を持った誰に対しても愛を感じたことがないとは言いました。でも、誰も愛したことがないなどとは、全く言っていません。」
「では、一体誰を愛しているのか尋ねてもよろしいでしょうか。」
「誰を、ですって? それは何を置いても、この世で一番ママのことを愛しています。」(45頁)

 この語り手とジェーニャとのやりとりは、読者にちぐはぐな印象を与えてきたものだ★9。というのも、語り手が尋ねたのは「彼に夢中になってしまう」気持ちをどこから得たのかという意味であって、明らかに異性を対象とする性的な愛の経験を問う文脈だった。しかし、ジェーニャの答えの「愛している」は、語り手の支配的な言語をそのまま流用しながら、その言葉の指示対象をずらし、拡大している★10。つまり欲望は本来返されるはずのない方向——〈同性の近親者〉へと向けられ、一般的には別のものと考えられている性愛と母への愛が結合するのである★11

 そしてジェーニャの撹乱的な愛の告白はさらに続く。彼女の次なる欲望の相手は、なんと一度も会ったことのないレーニンだ。

そうですね、今他の人たちも愛しています。(……)そう、例えばレーニンです……。(……)気に入って関係を持った誰よりも、はるかにレーニンを愛しています。彼の声を聞き見ることができるなら、私、何日もどうかしてしまうわ。彼の為に人生を捧げることもできます。(50頁)

 最高権威者レーニンへ捧げる愛は、象徴的な「父」への崇拝とも解釈でき、父権的秩序に回収されていく印象を与えるかもしれない。しかし興味深いことに、この発言のまさに直後にジェーニャは、「地区の書記」である同志ゲラシムのこともレーニンと同じように「彼のことも愛している。本当に愛している」(50頁)と言うのである。つまりジェーニャはここで、レーニンを自分たちのレベルにまで引きずり下ろし、彼を母や末端の党員と等価なセクシュアリティの対象として横並びにすることで、社会全体の父権的ヒエラルキーを揺るがしているのだ。

 近親姦タブーを侵害することからはじまったジェーニャの撹乱行為は、親族関係とジェンダーの一貫した家父長的秩序を危機に晒し、規範的な家族の成立を根本から不可能にする。ジェーニャの言語における「性愛」は、単数ではなく複数の人間へ、異性ではなく両性へ、近親者と族外者の区別なく向けられるものだった。このような彼女のセクシュアリティの実践は世界を再文脈化し、家族制度の彼岸をパフォーマティヴに現前させることになるだろう。即ち、そこでは「父、母、姉、弟」という親族の語彙が指し示す人間はいなくなり、水平的な関係を結ぶ「同志」のみが残ることになるはずだ。

転換期——1926年

 戯曲『子供が欲しい』の分析に入る前に、作品が執筆された1926年をとりまく状況を見ておこう。

 本稿の冒頭でも述べた1918年の初代家族法は、当代のどの国の法律と比べても格段に進歩的な内容だった。しかしボリシェヴィキの最終目標は家族の完全消滅であり、内戦が終結し、革命後の混乱が収まった時期に、この問題は再び取り上げられた。法改正へ向けた審議は1923年より開始され、国中を巻き込む大論争の末、1926年11月全露中央執行委員会で新法は可決、ここにおいて事実婚が認められるに至る。

 しかし、注目したいのは、リベラルな事実婚主義へと突き進んでいった裏側で、それがもたらす苦境から女性と子供を保護する施策が同時に検討されるというアイロニカルな状況である。というのも、一般の人々の関心は、シングル・マザーを救う離婚後の「アリモニー(前配偶者扶養料)」の議論に集中していた。また当時、若者の性的退廃は社会問題化しており、事実婚を認めることで一層モラルの崩壊が起こるのではないかという懸念を多くの人が抱いていた★12

 さて、法案が可決される凡そ2ヶ月前、人々の不安が的中するかのような凶悪犯罪が起きている。レニングラードのチュバーロフ小道近くの一画で、ラブファク(農民・労働者のための予備校)に通うリュボーフィという少女が、40人にも及ぶ若者から暴行された。この集団強姦事件(「チュバーロフ事件」)は、この年の末まで連日報道が繰り返され、翌年の1月には厳罰を求める世間の声に後押しされる形で、首謀者P・コチェルギンを含む5人が死刑判決を受けている(通常のレイプは懲役数年の刑)。所謂「フーリガン хулиган」と呼ばれる若者の凶悪事件は頻繁に起こっていたが、この事件に関する報道の過熱ぶりは異常であった。

 人々が過剰な反応を示したのは、加害者全員がプロレタリアートであったことが大きいと言われる。性的退廃はこれを契機としてもはやブルジョワ的過去ではなくなり、人々は自らへの監視の目を強めることになったのだ★13。事件の首謀者が死刑になった時期と、新法施行の時期はほぼ重なるが、これが意味することを纏めると次のようになるだろう。1926年とは、十月革命以来の家族死滅へ向けたユートピア的パトスが「事実婚」の承認をもって最高潮に達した年であった、と同時に人々の潜在的な社会不安が爆発し、保守化への下り坂を一気に下りはじめた時期でもあったのだ。

父の排除から復権へ

 1926年の大論争の只中で執筆された『子供が欲しい』には、まさに上で述べた急進的な議論と保守化の二つの流れが凝縮されている。そして、この戯曲の結末では家父長的家族の復活が確認されることになるのだ。『子供が欲しい』における破壊と生成のプロセスを辿る上で、注目したいテーマは「父性」である。ヒロイン、ミルダの主張の中で最もインパクトを持つのは第13場のタイトルでもある「父はいらない」だろう。彼女は「精子だけが必要だ」と述べ、父ヤコブの排斥を開始する。そして、ここでも親族を表す語彙の混乱が引き起こされる。

 まずはヤコブの恋人リーパが嫉妬にかられ、彼とミルダが一緒にいる部屋に硫酸を持って乗り込む次の場面を見てみよう。

ミルダ「あなたは、彼が私の夫だと思っているのですか」
ヤコブ「じゃあ何だ。甥とか、爺さんなのか」
ミルダ「彼は私の夫ではありません」
リーパ「じゃ愛人ね」
ミルダ「愛人でもありません」
リーパ「では室内装飾屋、床磨きの人……」
ミルダ「私の子供の父親です」
リーパ「それって、夫じゃないの」
ミルダ「勿論、違います。私たちには合意があって、これは純粋に一時的な性格のものです。あと何日かしたら、彼は出ていきます。」(228頁)

 出産を目的としたセックスを行う男女は通常家族を作り、そして互いを「夫」「妻」と呼び合うものだ。しかしミルダはこの言語システムに参入すること拒否しているのである。この時点ではまだ、ヤコブは「子供の父」であることが認められており、システムの中になんとか留まっている。しかし、この後ヤコブが部屋から追い出され、リーパも彼の子を妊娠すると、事態は一層混乱を極めてくる。

リーパ「私にもヤコブの子ができるのよ。つまりこういうこと。子供たちは大きくなるでしょう。ということは、私の子とあんたの子でカップルができる。そうなったらどうするの? お兄ちゃんが妹と結婚するわけ?」
ミルダ「お兄ちゃんが妹と?」
リーパ「近親姦になるわよ。自分の子をなんて名付けるの、って聞いてるのよ。」
ミルダ「確かにそうね。全くそのとおりだわ。どのように名付けようかな。名前について何も考えてなかった。父称は、ミルドヴィッチあるいはミルドヴナ、苗字は、グリグナウにしよう。」
リーパ「ほら、困ったわね。私の住所をメモって頂戴。産んだらすぐに手紙で知らせて。私も自分の子供のことを教えるわ。それから、子供たちにどこに姉妹か兄弟がいるか頭に叩き込ませるの。いいわね。」
ミルダ「ねぇ、あんたってバカね、リーパちゃん!……」(235頁)

 この二人のやりとりは「名(語彙)と近親姦」という家族制度を維持するあの二大原理であり、致命的な事柄だ。通常ロシア人の名前は、姓と名に加え、父の名から派生する父称の三つで構成される。ミルダとヤコブの子が息子であれば、本来なら父称はヤコブレヴィッチとなり、また苗字は、ヤコブのそれであるキーチキンとなる(娘であればヤコブレヴナ・キーチキナ★14)。しかしミルダは、これを母の名から作るいわば「母称」に置換し、苗字も自分のものを採用することで、父を言語の上からも抹消してしまったのだ。また「父称」の消滅は、異母兄弟・姉妹にとっては血縁関係を辿る指標を失うことでもある。よってリーパは知らず知らずに兄と妹が出会い交わることを恐れ(まるでオイディプス神話だ!)二人が接触しない方法を提案している。しかしどうやらミルダは全く意に介しておらず、次のような大胆な未来を予想する。

何年かしたら家がたつ。料理用のコンロも小さい部屋もなくなる。失業者もいなくなる。主婦もいなくなる。人々の神経も休まるわ。保育園もできる。保育園じゃなくて完全な子供の家よ。ねぇ、私たちはそこにお互いの子供たちを連れてくの。そして私たちはお友達になれるのよ。」(235頁)

 ここで、ミルダが語る来るべき集団社会は、『三代の恋』のジェーニャが切り開いた世界に近づいている。そこでは血縁者たちが近親姦タブーを守って「兄」や「妹」と呼び合うのではなく「お友達」、つまり同志になるだろうと予言されているのだ。そして、二人の女はミルダの未来予想を巡って賭けをして別れ、4年後の「子供博覧会」で再開することになる。

 ここまでミルダが父の身体を排除し、そして言語からも抹消する展開を見てきた。しかし、興味深いことに彼女の中でこれと逆行する論理が、物語の最初から発動していたことを指摘したい。彼女は純潔なプロレタリアートの子供を産むために、ヤコブの父と祖父については調査していたのに、母や祖母については全く考慮していないのだ(傍らで彼らのやりとりを見ていたヤコブの友人グリニコは、「はあ! 僕たちのお婆さんたちには興味ないんだな!」(224頁〉と叫んでいる)。つまり、彼女は「父はいらない!」言いながら、「父の系譜」や「理念としての父」を何よりも重視していることになる。そして戯曲の終盤の「子供博覧会」の場面で父なるものは、一層の高みに据えられることになるのである。

ミルダ「(……)ところで覚えてる、リーパ?」
リーパ「何のこと?」
ミルダ「賭けよ」
リーパ「え?」
ミルダ「私の負けよ」
リーパ「(子供たちを)交換しましょうよ」(236頁)

 ここでミルダは「賭けに負けた」と言っているが、これはつまり四年前に彼女が予言した「皆がお友達になる」世界が訪れず、人々が依然として親族制度を守っているということに他ならない。

 しかしそれはかつてと寸分違わぬ形で、という訳ではないようだ。このやりとりの直後に、ヤコブが「私は最も重要な人物です。私が父親なんです」と皆の前に進み出て、二人の最優秀児の父ヤコブ・キーチキンとして称賛される。ここに確認されるのは、一夫一婦制の規範は壊されたものの、ヤコブは複数の妻と子を持つ唯一の「最も重要な父」となっていることである。女たちはその唯一の父との間にできた子を交換して共有するのである。その姿はまるで旧約聖書の同名の登場人物を想起させると言えまいか。即ち、後にイスラエルと名のる旧約聖書のヤコブは、4人の妻を娶り12人の子をもうけ、そして彼は全てのユダヤ人の始祖となるのだ。

 ここまで、コロンタイ『三代の恋』のジェーニャとトレチヤコフ『子供が欲しい』のミルダという二人の「新しい女」の分析を通じ、ロシア革命が目指した家族死滅の議論を検討してきた。

『三代の恋』のジェーニャは、近親姦のタブーを侵害し、言語における家族の秩序を破壊することで、親族制度の彼岸の「同志たちの世界」を生起させた。しかし彼女のセクシュアリティの実践はあまりにも急進的過ぎたと言わざるを得ない。我々は、その3年後、トレチヤコフの『子供が欲しい』において、早くも保守化の論理が発動していること、そして「父性」の前代未聞の強大化を見たのであった。

 その後のソ連社会が辿った道程を確認するならば、1936年に堕胎は禁止となり、離婚には罰金が課され、そして1944年からは10人以上の子供を持つ母親には勲章が授与される「母親英雄制度」が開始されている。その後、ソ連末期のペレストロイカの時代まで強固な家父長社会が維持されることになる。


 本稿では、この方向転換をもたらした主要な要因として1926年の二つの事件を見てきたが、さらにもう1点だけ指摘しておきたい。それは1920年代後半の男性作家や映画監督の作品には、父性喪失に対する恐怖が繰り返し描かれているという点だ。これは家族が消滅した場合でも、母が誰かと言う問題は、妊娠と出産という事実から確実に辿ることできるのに対し、父性は完全に消滅してしまう可能性があったからだろう。因みに、父性の問題についてのコロンタイが示した見解は、当事者の自由意志の認証によって確立すればよいという楽観的なものだった★15。もっとも彼女がより積極的な攻撃の対象としたのは母性であり「自分の子供だけに向けるエゴイスティックな愛情を捨て、全ての子の母となれ」という文句を繰り返していた。
 また他の男性作家たちと違い、コロンタイのみが描いたテーマに女同士の関係性が挙げられる。しかし、ここでも注意しなければならないのは、それが殆どの場合、女の絆の断絶の表したものばかりだということだ。女たちの分断は現代においても切実な問題だが、「労働者の同志」のみが生きることを許された究極のマッチョな共和国において、それは先鋭化した形で現れることとなる。この点については、今後稿を改め詳述したい。


 最後に少しだけ現在の状況に戻って終わろう。本稿の冒頭でも触れたが、現在プーチンのすすめる家族政策は、離婚と堕胎の規制にはじまり、さらには4人以上の子を持つ両親に与えられる「両親栄誉勲章」の創設(2008年)に至るまで、まるでスターリンの時代を正確になぞるかのようである。

 しかし前回と一つ違う点がある。それは、あのアニメ『マシャーニャ』だ。2006年にテレビ放送は終わったものの、マシャーニャは古巣のインターネットの世界に戻り、今も新しい作品が発表され続けている。マシャーニャは、恋人のフリュンデルとの間に生まれた息子を何故か「叔父」(ヴァージャ叔父さん)と名付けた。他方、フリュンデルとは結婚するものの、半年後に離婚する。興味深いのは、この離婚を結婚式のように皆に祝福してもらい「妻でないこと、夫でないことおめでとう!」と杯を上げ、その後も変わらず仲良く一緒に暮らしていることだ。インターネットの規制がますます強化され、保守化の一途を辿るロシアではあるが、マシャーニャたちはどこまで家父長的家族のオルタナティヴを示し続けることができるだろうか。

★1 Жеребкина, И. Гендерные 90-е или Фалоса не существует. СПб. 2003. С.9. 後述するとおり、現在は公式 youtube チャンネルから動画をみることができる。
★2 同性愛宣伝禁止法を巡る状況については、次の文献に詳しい。安野直『ロシアの「LGBT」性的少数者の過去と現在 ユーラシア文庫12』、群像社、2019年。
★3 URL=https://roissya24.net/news/russia/elena-mizulina-proposed-to-ban-access-to-higher-education-for-nulliparous-women/ (2019年5月30日閲覧)
★4 Katerina Clark, The Soviet Novel: History as Ritual. Third Edition. (Bloomington: Indiana University Press. 2000), pp. pp.114-15.
★5 『三代の恋』の引用はКоллонтай А. Любовь трёх поколении // Любовь пчел трудовых. М., «Государственное издательство», 1923. により、引用箇所は本文中に(頁数)で記す。
★6 『子供が欲しい』の引用はТретьяков С. М. Хочу ребенка // Современная драматургия. 1998. №2. С. 206-243. により、引用箇所は本文中に(頁数)で記す。この戯曲は、当時は検閲や舞台装置の問題があり、結局上演されることはなかった。作品の成立に関しては次の文献に詳しい。伊藤愉「現実を解体せよ――討論劇『子どもが欲しい』再考」、『メイエルホリドとブレヒトの演劇』、玉川大学出版部、2016年、247-280頁。
★7 本論では特に言及していないが、二つの作品を読み解くにあたりこの章以降はJ・バトラーによるアンティゴネー神話の再解釈を援用している(ジュディス・バトラー『アンティゴネーの主張――問い直される親族関係』竹村和子訳、青土社、2002年)。
★8 竹村和子「訳者解説 生存/死に挑戦する親族関係――セクシュアリティ研究の理論展開」、『アンティゴネーの主張』、190頁。
★9 『三代の恋』を訳した高山旭は次のように批判している。「ジェーニャの主張には、親子の愛と異性愛との混同が見られ、元来愛の一形態としての異性愛がもつ排他的独占的な特殊性を全く軽視している点でも幼稚さがある」(高山旭「訳者あとがき」、コロンタイ『働き蜂の恋』高山旭訳、現代思想社、1969年、415頁)。
★10 この分析に際し念頭においているのは、バトラーが『触発する言葉』で示したヘイトスピーチに関する考察である。彼女は、全ての言説は引用と反復であることに触れた上で、抑圧的な言語を取り締まるのではなく、あえて一旦領有し別の指示対象に接続しずらすことで、言語そのものを無害にするラディカルな戦略を提案している(ジュディス・バトラー『触発する言葉――言語・権力・行為体』竹村和子訳、岩波書店、2015年)。
★11 因みにコロンタイは、別の論文で資本主義社会ではエロスの愛が、一夫一婦制に基づく排他的な家族を作り出すことに利用されている点を批判し、これを全ての労働者を結合させるエネルギーへと変容させることを主張していた。変容したエロスの愛は、肉体への愛を基盤に持ちつつも、実際の身体的な結合の有無は重要ではないとされる(拙稿「世界変容・ドグマ・反セックス」、『現代思想』2017年10月号、青土社、82-94頁)。
★12 Wendy Goldman, Women, the State & Revolution: Soviet Family Policy & Social Life, 1917-1936. (NY: Cambridge University Press, 1993), pp.185-253.
★13 Eric Naiman, Sex in Public: The Incarnation of Early Soviet Ideology. (New Jersey: Princeton University Press, 1997), pp. 250-288.
★14 キーチキンの女性形。ロシア人の姓は、男性形と女性形で末尾が異なる。
★15 Коллонтай А. Тезисы о коммунистической морали в области брачных отношений // Коммунистка. 1921. №12-13. С. 30.
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兵庫県出身。2014年、東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学、2018年、博士号取得(学術)。東京大学教養学部、早稲田大学文化構想学部非常勤講師、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、2019年からは、大阪大学大学院言語文化研究科講師。

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