記号的には裸を見せない──弓月光と漫画のジェンダーバイアスについて|さやわか

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初出:2019年07月19日刊行『ゲンロンβ39』

 今年4月、ウェブメディアに掲載されたあるインタビュー記事が、SNS上で話題になった。記事のタイトルは「『ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい』。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか」という★1

 タイトル通り、楠本は集英社の月刊誌『ココハナ』で連載中の「赤白つるばみ・裏」第12話(2019年2月号掲載)で、登場人物に上記の台詞を言わせた。作中に漫画家が登場して、『ガーマレット』なる、集英社の『マーガレット』がモデルの雑誌について、次のように語るのだ。

ガーマ[引用者註:『ガーマレット』のこと]はジェンダーバイアスのかかった作品が結構多いのでそういうのは絶滅するといいなって思います。
え だってジェンダーバイアスに『よいジェンダーバイアス』とか『許容範囲のジェンダーバイアス』なんてないんですからなくなった方がいいですよね?
作家さんも編集さんもこれくらいいちいちめくじらたてるほどのことではないとか現実の社会がそうなのだからそれを反映しているだけだという考えの人もいるのかもしれませんがそれを容認するってことは、この状況を恒久化させるのに一役買うってことですよね。


 この主張は作者の持論らしく、上記インタビューで楠本は少女漫画誌がジェンダーバイアスのかかった作品を載せることについて、より詳細な批判を行っている。そこで彼女が問題視するのは、作家や編集者が、無意識のうちに偏った性意識で物語を作ろうとすることだ。

そこまではっきりとは流石にもう誰も描きませんが、端々に出てくるんですね。だからかえって、悪意すらもなく、性別に基づく偏見が、偏見と意識されずに少女漫画・女性漫画の中で垂れ流されている


 楠本は作品の掲載誌である『ココハナ』についても「どちらかというと保守的な考え方の掲載作品の多い漫画雑誌」だとしている。『マーガレット』は楠本のデビューした雑誌で、『ココハナ』も同誌の流れを汲んでいる。つまり彼女は、自らが生まれ育った少女漫画誌や女性向け漫画誌に対して意識向上を求めたいのだ。

 



 たしかに『ココハナ』は女性向け漫画雑誌の中でも、ジェンダーについて保守的な考え方が強い。たとえばここ数年の人気作で言うと、2014年にドラマ化されてヒットした藤村真理『きょうは会社休みます。』がわかりやすい。これは男性経験のない33歳事務職OLが酔っ払って会社のイケメンアルバイトと一夜を共にし、そこから恋愛に発展することで「女らしく」なっていくラブロマンスだった。また、現在の同誌の看板連載のひとつには、東村アキコ『ハイパーミディ 中島ハルコ』がある。林真理子の小説が原作で、50代の女性社長が若い女性に「男に対してこうすべき」「愛人はこうあるべき」などの恋愛指南を行う内容だ。

 楠本がインタビューで「保守的な考え方」があると言ったのは、こうした作品のことに違いない。しかし彼女の進歩的な意見に対するネットの反応は、共感ばかりではなかった。毀誉褒貶の内容は多岐にわたっていて、すべて紹介する余裕はない。ただ筆者もこのインタビューを読んで、楠本の問題意識は理解できるものの、問題は彼女が思うより込み入っているのではと感じた。なぜそう思うのか。よく言われるように、漫画は記号性を重んじて成り立つ表現だからだ。

 



 漫画に用いられる記号でよく知られているのは「顔の上に雫のマークを描いたら、その人物は焦っている」といった「漫符」と呼ばれるエモーションアイコンだ。これを筆頭に、漫画は「こう描かれたら(記号表現)、こういう意味だ(記号内容)」という体系を歴史的に築いてきた。その中には「イケメンはアゴが長い」「ツインテールは幼さのある女性」「壁ドンは恋愛における押しの強さを示す」など人物の特徴を表すものから、「あだち充が描く、後ろを向いて片手を上げたキャラクターは去って行く」など状況や行動を意味するものまであり、漫画家は画面上にそれら記号を配置して作品を作る。漫画が記号的であるとは、極論すれば漫画が「絵」で描かれていながらも「文章」のように、記号の連なりとして読めることなのだ。

 この記号性があるからこそ、読者は漫画の意味内容を素早く理解できる。人が驚くべき速度で漫画のページをめくり、短期間で10冊も20冊も読みこなせるのはそのせいでもある。90年代以降は、相原コージと竹熊健太郎による『サルでもかけるまんが教室』(小学館、1989)や『マンガの読み方』(別冊宝島EX、1995)などを通し、読者もそうした漫画の定型性や記号性へ敏感になっていった。

 



 しかし当然のことだが、漫画の記号の中には性別と関連するものも含まれている。しかも、それはただ漫画に「女性(男性)」を意味する記号があるというだけでなく、漫画という表現形態が必然的に「いかにして女性らしさ(男性らしさ)を記号的に描くか」を追求する側面も持つ、ということでもある。記号の連なりを洗練させて、ラストシーンまで簡要に物語内容を伝えることを目指すのだ。文章を書く際、より読みやすくなるようレトリックを吟味するのと同じだ。

 もちろん楠本が言うように、作者や編集者が保守的な考え方に縛られ、ジェンダーバイアスを無意識に追認してしまう漫画はある。また読者の側も、今日では漫画の記号性に自覚的で、記号表現から意味を与えられることを楽しみ、快感すら覚える。彼らは記号に満ちた作品を「ベタなラブコメ」「あるある展開」などと評価し、その言葉は必ずしも作品を貶めるものでなくなっている。

 しかしだからこそ、そうした傾向を批判する際には注意が必要になる。「偏見」という言葉から「記号」という言葉までの距離は、そんなに離れていないのだ。偏見がジャンルの元来持つ記号性と不可分だと考えなければ、乗り越えるのは難しい。楠本の主張にはそこが欠けており、だからこそネットでの彼女への反論には、楠本の絵がまさしく記号を利用しながら「美しい女性」を描いていることを指摘するものも見られた。こうした反論を避けるためには、漫画が記号から作られていることを前提にせねばならない。ならばむしろ漫画が「男性らしさ」「女性らしさ」などの意味を生み出すことを自覚的に利用したほうが、最終的にジェンダーバイアスを否定するのに効果的であるはずだ。

 



 その具体例を挙げよう。ここでは他ならぬ『週刊マーガレット』で1975年に連載された、弓月光の『ボクの初体験』を取り上げる。

 弓月光は1968年にデビューした大ベテランの漫画家だ。デビュー以来『月刊少年ジャンプ』『ヤングジャンプ』『ビジネスジャンプ』など集英社の雑誌で描き続けており、80年代には『ボクの婚約者』『みんなあげちゃう♡』などの代表作があった。キャリアは50年を超えているが、1990年に開始された作品『甘い生活』のセカンドシーズンは、今なお『グランドジャンプ』(集英社)の看板連載として続いている。

 弓月の作品のほとんどはコメディで、しかも非常にエロティックなことで人気がある。上記の作品はいずれも性に積極的で勝ち気な女性ヒロインが登場し、男性主人公にキスを迫ったりセックスを迫ったりし、すぐ裸になって、だいたいは実際に行為に及ぶ。その過激さから、『甘い生活』の直前に連載された『シンデレラ・エクスプレス』『HOT STUFF』の二作は有害図書指定も受けた。いかにも過激な「男性向け」の作家といった感がある。

 ところが実は、弓月はもともと少女漫画からデビューし、しかもかなり長くそのジャンルで活躍していた作家でもある。彼は高校時代に少年漫画誌の新人賞へ投稿して佳作となったが、その際に審査員から「少女漫画向きの絵だ」とコメントされたという。それもあって彼は少女漫画の絵を模写して覚え、集英社の少女漫画誌『りぼん』の新人賞で準入選となりデビューした。

 ここで重要なのは「少女漫画向きの絵」という言葉だ。それがどんな絵なのか、漫画を読んだことがある人には何となくイメージできる。それはなぜか。私たちが「少女漫画らしさ」のコード、少女向けとされる漫画が使う記号の体系を漠然と掴んでいるからだ。弓月はそのコードを覚えれば少女漫画になると考え、模写することで学んだのだ。

 そして少女漫画の絵柄を使って弓月が『りぼん』や『マーガレット』で描き始めたのは、後に男性向け雑誌でやるのとさして変わらない内容の漫画だった。彼は「少女漫画らしさ」のコードに沿った絵柄で描けば、内容は自分の好きなようにしていいと考えたのだ。そうした作品の代表例が『ボクの初体験』だ。すなわち、男性が主人公で、勝ち気なヒロインが登場し、女性は性に積極的という作品で、これはのちに弓月が男性向けの媒体で描くものと内容的にほとんど変わらない。違いは、読者の性別でなく、年齢に配慮して調整された過激さの度合いくらいだ。

 



 しかも『ボクの初体験』の場合は、他ならぬ「男性らしさ」「女性らしさ」が作品の重要なテーマになっている。あらすじを以下に確認しよう。主人公は高校生の宮野英太郎だ。彼は純情すぎて女性と付き合ったことがなく、そのせいで冴木みちるら女生徒にバカにされ続けている。

 悲観した英太郎は海へ投身自殺を図る。しかし医師の人浦狂児が溺死寸前の彼を回収し、その脳を17歳で死んだ美しい少女・春奈の肉体に移植する。美少女として目覚めた英太郎は驚くが、元に戻りたくとも損傷した肉体の修復に3カ月はかかると言われ、為す術なく女性としての生活が始まる。しかも物語が進むと、今度はみちるの脳が英太郎の肉体に移植されてしまう。かくして英太郎は春奈の肉体を持った男性として、みちるは英太郎の肉体を持った女性として、いつか元の姿に戻りたいと思いながら、恋愛関係になっていく。

 ところが英太郎に入ったみちるは、もともと勝ち気な性格だったせいで、かつての英太郎より男らしくなって学校で女生徒にモテはじめる。一方で英太郎も、春奈の肉体に長く慣れすぎたせいで言動が少しずつ女性的になり、自分が男性だった記憶が薄れていってしまう。みちるは、本来の英太郎らしさが失われていくことにショックを受けるが、最後には完全に春奈になってしまいそうな彼を受け入れ、自分は男性の肉体のままで彼=彼女と結婚しようとプロポーズする。そんなみちるに対して、すっかり女性になってしまった英太郎は、中身が女性の男性とは結婚できないと言い、みちるに男らしく振る舞えと要求する。

 



 弓月は、この作品を何に影響されて描いたのか。『弓月光全仕事』(集英社、2019)のインタビューで語ったところによると、彼は小学生の頃からのSFファンだったという。「SF小説読んでて影響受けた部分は大なり小なりあるんでしょうね」として、執筆当時は邦訳のなかったロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』(1971)を原書で読んだエピソードを語っている。

 この小説は、富豪の老人が若い女性の肉体に脳移植されるストーリーだ。たしかに『ボクの初体験』とよく似ている。物語の終盤に出産シーンがあるのも同じだ。弓月がこれを読んだのが作品を描く前なのか、連載の途中なのかはインタビューでは曖昧にされていた。しかし影響を受けているのは間違いない。

 ただ大きく異なるのは、『悪徳なんかこわくない』のほうは老人の脳を移植しても若い女性の意識が残る点だ。手術以降、2人が脳内で会話しながら物語が進行する。そして脳内に残った女性の意識は老人にあらゆる相手とのセックスを強く勧め、彼の意識は次第にフリーセックスへと流されていく。

 性的な奔放さは弓月の好むところであるし、当然『ボクの初体験』もそこを受け継いでいるように思える。しかしよく比較すると、そうではない。なぜなら『悪徳なんかこわくない』の主人公は性別の違いを超えたセックスに目覚めていくが、『ボクの初体験』ではそうならないのだ。

 ふたつの性意識が同時に存在し、対話すらできる『悪徳なんかこわくない』と違い、英太郎やみちるの精神は固有の性意識に縛られている。だから彼らは「いるべきでない場所(肉体)にいる」違和感に苛まれ、外見から求められる「男性らしさ」「女性らしさ」などのジェンダーバイアスに思い悩むのだ。作品はコメディらしく終始明るいものの、上記のあらすじからも想像できるように、英太郎たちの追い詰められ方はしばしば悲痛さを感じさせる。

 



 弓月光がこのような作品を描いた理由を、前述した彼のデビューの経緯と合わせて考えると意味深長に思える。なぜなら女性の身体に男性の精神という設定は、あえて「少女漫画らしい絵」のコードを身につけてデビューした弓月の姿勢と重なるためだ。

 ここで注意すべきなのは、弓月が「女性向けの絵で男性向けの内容をやったから革新的だったのではない」ことだ。彼は、見た目はジェンダーを記号的に規定しても、実は中身と分かちがたく結びついているわけではないことに気づいていた。つまり絵柄が本質的に「女性向け」なる意味を持っているわけではないと理解していた。それはあらゆる記号の本質だ。記号とは元来、無内容にもかかわらず、見る者に意味を想起させるものなのだ。弓月はそれを逆手にとって、女性向け雑誌でも男性向け雑誌でも全く同じエロティックなコメディを描いた。だからどちらの読者にも衝撃を与えることができたのだ。

 弓月が記号の本質に自覚的であったことは、『週刊プレイボーイ』(集英社、2019年5月27日号掲載)に掲載されたインタビューを読むとわかる。彼は男性向け媒体の作品でも、やはり見た目で安易にジェンダーバイアスがかけられることに批判的なのだ。『みんなあげちゃう♡』のヒロイン像について語った部分で、彼は次のように言う。

弓月 少女マンガをやってきたのが生きたよね(笑)。当時のラブコメって男女がくっつくまでの過程を延々と描くのが多かったんだけど、いい年の男女が何もしないなんて変でしょ。だから僕はエッチ後の話を描きたかった。あと青年誌のラブコメによく出てくる女のコが好きじゃなくて。

――それはなぜ?

弓月 みんな男にとって都合がいいキャラばかりでしょ、意味なくパンチラしたり。僕は女のコを自分の意思を持ったキャラとして描きたかった。だから悠乃はいつも自分から素っ裸になったんです。
 弓月の「意味なく」という非難は、単に女性キャラクターが「都合がいい」、つまり作劇上のご都合主義でパンチラすることを問題にするだけのものではない。これは記号が本質的に「意味がない」ことを自覚せずなされる表現へ向けられたものだ。つまりこういうことである。青年誌の女性キャラクターは、女性の絵が記号として持たされる扇情的な意味に従って、自動的にパンチラする。裸になるにしても、パンチラと同じで、記号的な機能の現れとして裸を見せてしまう。そこには、裸になりたい、セックスがしたいという、キャラクターの意思が描かれていない。漫画家が、自らの描いている記号の意味内容へ過度に引き寄せられ、無自覚に、安易に描いただけなのだ。

 翻って弓月の作品は自覚的である。『ボクの初体験』は、本質的には意味を持たない、記号的な漫画の図像を身につけてしまったキャラクターたちが、その記号が読者に思い起こさせる「男性らしさ」「女性らしさ」から逃れようとする物語として読める。彼らがジェンダーバイアスから華麗に逃れることができれば、ストーリーとしては美しい。しかし漫画が記号で作られているがゆえに、それはなし得ない。本来は記号に意味がないにしても、意味を持たなければ記号ではないからだ。文字が、意味を伴わなければ文字として成立しないように、漫画の図像もまた、すべての意味から解放されることなどない。弓月は漫画の何たるか、記号の何たるかに自覚的であるがゆえに、それが安易に意味から逃れることを許さないのだ。だから彼の明るくて性的にあけすけな物語は、突き放したドライさや厳しさとつながっている。

 楠本まきはジェンダーバイアスのかかった漫画が「絶滅するといいなって思います」と書いた。しかしジェンダーバイアスだけを雲散霧消のように「絶滅」させられると思うなら、漫画の記号性へ十分に自覚的だとは言えない。それは青年誌の漫画とは違う意味で「都合がいい」のだ。弓月の女性キャラクターは、記号が自動的に与える意味から逃れるために、自ら裸になった。楠本もまた同様に考えられるはずだ。すなわち、女性向け漫画のキャラクターが偏見から逃れるには、作者はその姿が記号として読者に与える意味にいったん理解を示しつつ、キャラクターに自らの持つべき別の意味を主張する意思を持たせねばならない。

 この解決によっても、円満にあらゆる意味から自由になれるわけではない。記号が意味から逃れようとして、なし得ないことは、私たちがジェンダーバイアスから逃れることの難しさを物語っている。その主題に到達したことで、ハインラインのSF小説と設定を共有しつつ、弓月は漫画にしかできないことをやってみせた。彼に「絶滅するといいなって思います」という無邪気さはない。私たちは社会の中で、自らの属性で偏見に基づいて推し量られることを拒否したくとも、何かだとは思われねばならない。それを差し置いて偏見から逃れることはできない。弓月光が自覚を促すのはその事実に対してだ。

 


さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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