アンビバレント・ヒップホップ(20) 筆記体でラップする 〜マンブル・ラップ論〜|吉田雅史

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初出:2019年08月30日刊行『ゲンロンβ40』

1 おしゃべりの音楽性


 前回の連載では、オートチューンを用いた歌唱方法について議論した。いまやラップ・ミュージックになくてはならない存在といえるほどに一般化したこのヴォーカルエフェクトは、元々は外れた音程を修正するために開発されたソフトウェアだった。しかし本来の目的と異なり、設定により極端に音程を修正することで、ロボットの声のような効果を生む。特にカニエ・ウエストがその全編でオートチューンを用いた『808s & Heartbreak』が2008年にリリースされヒットすると、多くのラッパーが自らの楽曲にこの手法を取り入れるようになる。結果的に「ロボ声」は、数多くのヒット曲で響くようになる。僕たちはその「ロボ声」にポップさを感じているのだ。別の言い方をすれば、その声色/音色には万人に伝わるようなエモーションすら備わっている。なぜそんなことが起こるのだろうか。

 オートチューンのルーツは、第一次大戦後に各国のトップたちの通話を極秘に保つために開発された「暗号機」であるヴォコーダーだった。オートチューンの機械化されたロボ声にも、過剰な感情や物語を「暗号化」する効果があるのではないか。だからカニエは、個人的体験の強烈さを生声の歌で伝えるのではなく、むしろロボ声で中和した。結果としてそれは一般に開かれ、受け入れられた。そのまま受け止めるには、個人的すぎて、重すぎる物語を、暗号化して語る。そのようにしてカニエは、同アルバムに収録された11曲を、万人に伝播するほど良いエモーションが散りばめられたポップ・ソングに仕立て上げた。興味深いことに、機械的なロボ声こそが、ひとりの人間の「生」を伝える、媒介となったのだ。簡単にまとめるなら、それが前回の議論の骨子だった。

 オートチューンがもたらす興味深い事象は、他にもある。実はオートチューンが暗号化するのは、感情だけではない。ロボ声というフィルターが過剰に被せられることにより、言葉の意味もまた、不明瞭になる。音程が矯正されることによるエフェクトを手に入れるのと引き換えに、言葉の発音は聞き取りづらくなるからだ。一方で、言葉の意味が文字通りに伝わらなかったとしても、ラップがラップでなくなってしまうわけではない。なぜなら、言葉の意味を捨て去ったとしても、ラップは音楽だからだ。それはフロウ──発語された言葉の音としての流れ──を持つ。音程を持ち、強弱のアクセントを持ち、個々のテクスチャー(=音質)を持った音声が、リズミカルに配置されるのだ。実際、オートチューンで意味が聞き取りにくくなったラップは、むしろリスナーには積極的に受け入れられているようにも見える。

 そのようなラップの音楽性は、様々な角度から証明されるだろう。たとえば、その言葉の意味をほとんど理解できない人間にも、ラップ・ミュージックは受容されてきた。つまりヒップホップの黎明期から、「洋楽」として英語のラップを聞き続けてきた日本人が多くいることこそが、ラップの音楽性の証ではないか★1

 あるいは、ラップが言葉である前にまず音の塊であるということは、ラップが誕生した理由を考えてみても明らかだ。70年代初頭、ブロンクスのDJたちは、観客を音楽に乗せるために、ラジオのDJの影響もあって自らマイクを握り、ビートに合わせたしゃべりや掛け声で観客を煽るようになる。彼らは観衆を一層激しく躍らせるために、歌のないインストのパートを反復する手法を発見し、発展させる。このダンスに特化した、いわば踊れるパートを継ぎ接ぎした音楽には、歌のない分だけ、そこに言葉を乗せる余地が生まれる。従って、観客を盛り上げるためのしゃべりが、洗練されていくのだ。始めはDJ自らが担当していた「しゃべり」は、MCたちの仕事へと分業化される。そして、MCイング=ラップは発展の一途をたどる。

 だがこの時点では、ラップは、DJのプレイするブレイクビーツの効果を最大化するために用いられる、脇役にすぎなかった。それは、リズム面で完全にビートとシンクロしながら、コールアンドレスポンスの手法──DJの名前や、テンションを上げるためのフレーズを復唱させる手法──で、観客にライブのパーティ=ヒップホップとのさらなる一体化を要請した。彼らの身体を余すことなく音楽に捧げるよう、扇動した。ラップの言葉は、意味である以前に、音楽だった。

 しかし時代は変わる。端緒となったのは、1982年にリリースされたグランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイブの「The Message」だった。サウス・ブロンクスという街に生きる主体の混迷が歌われた同曲は、作り手たちの予想に反して、ヒットする。ラップの言葉が発する「意味」と物語は、大衆に享受されたのだ。その後、単に音楽的にパーティの現場を盛り上げるに留まらなくなったラップのリリックは、メッセージ性やリアリティをますます拡大していく。それは、社会のリアリティや個々人の物語を映し出す鏡となってきた。それらはリアリティ・ラップ、コンシャス・ラップ、あるいはポリティカル・ラップと名付けられサブジャンル化するにいたる。ときに過剰なまでの意味が信仰されるようになる★2

2 筆記体でラップすること


 音から意味へ。そう聞くと、まるで人間の言語が成立するプロセスのようだ。ラップの言葉もまた、元々は音楽的なサウンドとして出発し、徐々に意味を獲得していく過程を経ていた。だが肝要なのは、それは意味を追わずとも音楽として十二分に成立することだった。

 これを端的に示している例として、フューチャーが2015年にリリースした「F*ck Up Some Commas」を聞いてみよう。まずはYouTubeにアップされている同曲のMVを見ながら、彼のラップに耳を澄ませてみてほしい。同MVは、2019年の7月時点で1億5000万回視聴されている。視聴数としても大変な数だが、注目すべきは、同曲に付いた2万3000件を超えるコメントだ。ビートも秀逸な同曲への純粋な賞賛のコメントも多いのだが、その数の多さには、とある理由がある。たとえば「なぜこの曲は暗号化されてるの?」「fhrhrkeodjfjfkekeifufifdidoってラインが最高だ」「俺はバイリンガルなんだ。英語とフューチャー語のね」といったように、フューチャーのラップを揶揄するような書き込みが目立つのだ。なかでも秀逸なのは、フューチャーは「筆記体でラップしている」というものだ。

 数多くのコメントが示している通り、フューチャーが一体何をラップしているのかを聞き取るのは困難だ。もっといえば、さっぱり聞き取れないのだ。外国語の筆記体が、まるで意味を成さない落書きに見えてしまうように。特に冒頭から登場するフックは単なる鼻歌のようでもあるし、3番目のヴァースはリズムに乗せて小刻みに口先で単に色々な音を発しているように聞こえる。とてもそれらの音がひとつにまとまって「意味」を形成しているようには思えない。たとえ英語が母語であっても、状況はそれほど変わらないだろう。前述のコメントが、そのことをはっきりと示している。ラップのリリックを書き起こし解説を共有するサイト、Rap Geniusでテクストを見ながら聞いてみてもなお、彼が本当にそのテクスト通りのリリックを発語しているのか疑わしいほどだ。

 実はこれは、近年のラップにおける、注目すべき潮流のひとつだ。マンブル・ラップ、すなわち、「つぶやく」ようなラップ、あるいは「口をもぐもぐさせながら歌われる、口ごもるようなラップ」と訳出して理解できるような楽曲群、そしてアーティストたちが、2010年代に入り存在感を示している。たとえばミーゴス、リル・ヤッティ、リル・ウーズィ・ヴァート、ヤング・サグなど、この数年間、ヒットチャートの上位の常連となっている名前も目立つ。

 フューチャーもそのひとりだ。1983年アトランタ出身。190センチ近い体躯からもたらされるその声は太く、かつ非常にパーカッシヴでもある。ジミ・ヘンドリックスを敬愛し、フューチャー・ヘンドリックスという別名も持つ。確かに彼の無骨さが目立つ歌唱は、ブルースから引き継がれるような情感を宿しているようだ。

「F*ck Up Some Commas」においても、言葉の意味は理解されずとも、彼ならではの歌唱で大衆を惹きつける。同曲はヒットし彼の代表曲のひとつとなっている。

 ともあれ、この「マンブル」が興隆したのには大きくふたつの理由を挙げることができそうだ。まずひとつは、ラップのサウンド面の流行がもたらした理由だ。そしてもうひとつは、ラップの言葉が内在している性質に由来するものだ。

 まずは前者から見てみよう。そこにはいわば、ラップ・ミュージックのダンス・ミュージックへの先鋭化とでもいえる現象がある。現在ラップ・ミュージックでチャートインするような楽曲でも、そのいくつかは、必ずしも単に「ヒップホップ」という言葉で括れなくなってきている。ヒップホップの派生でありながらも、ヒップホップから逃れ出るように独自の進化を遂げる「トラップ」と呼ばれるサブジャンルが興隆しているのだ★3

 90年代からアメリカでは東西間でスタイルを競い合っていた音楽ジャンルとしてのヒップホップだが、2000年代になると一挙にアトランタやヒューストンを中心とする南部勢が力を持つようになる★4。その延長に生まれたトラップというサブジャンル──ドラッグの取引・製造所を指すスラングである「トラップ・ハウス」が語源となった──は、人々を躍らせ続けることを絶対命題に掲げる。そしてそのために、強固なルールを自らに課す。あるいは方程式を確立しているといっても良いだろう。
 まずテンポは70~80と、ゴールデンエイジには90〜100が多かったヒップホップに比べると遅い。一見テンポが遅い方が、リスナーの身体を揺らすには不向きで、ダンスフロアーを盛り上げにくいのではないか。そのようにも思える。だが鍵は、この遅いテンポにこそある。実はトラップにおけるダンスは、その倍のテンポ──つまり140〜160──に合わせてなされる。ぴょんぴょん跳ねるような身体の上下運動を軸とした、誰にでも簡単に身を任せることができて、かつ、激しいものなのだ。あるいはロックのライブの縦ノリのイメージが、これに近いだろう。

 トラップはそのサウンド面においても、一定のルールが見られる。特徴的なビートを刻むドラムは、ローランド社が70年代に発売していたTR-808を模したエレクトロニックなサウンドが中心だ。電子ドラムのサウンドは、ブレイクビーツのサンプリングと比較して、クリアで、高音から低音まで、通る音をしている。余計なノイズがないからだ。中心となるのは1拍目の低い重心のキックドラムで、スネアは比較的自由に配置され、ハイハットは電子音ならではの特徴を活かして、32音符などの非常に細かい譜割で狂ったように連打されることも多い★5。そして全てのサウンドの底を支えるのは、ダンスフロアーを地鳴りさせ、オーディエンスの身体に響くベースサウンドだ。

 このようなダンスに特化したビートに乗る言葉もまた、オーディエンスをダンスさせることに注力する。つまりある意味で、それはヒップホップ黎明期のラップの言葉への回帰だ。それはラップ=MCイングの伝統に立ち返ることだ。オーディエンスを躍らせるために、DJプレイを盛り上げていた頃のように。であるならば、そこで求められるのは言葉の意味ではない。求められるのは、ビートと並走しながらオーディエンスを高揚させる、音楽的に発語される言葉だ。

 ではそのような言葉は、一体どのようにビートに並走するのか。もっと言えば、ビートに対して、リズム面でどのように配置されるのだろうか。ここで「F*ck Up Some Commas」におけるビートとラップのリズム譜を見ておこう【図1】。

【図1】「F*ck Up Some Commas」リズム譜 作成=吉田雅史

 

 この図から明らかなのは、ビートを構成するキック、スネア、ハットの配置と、フューチャーのラップの言葉(特にアクセントの付いた母音)の置き所が、ライミングのスキルや言葉の意味に重きを置きながら進化したそれまでのラップと比較して、明らかに異なっている点だ。主客転倒、と言ってもいいかもしれない。どういうことだろうか。

 本来、ラップの言葉が配置される時間軸を8分音符や16分音符のグリッドで区切るのがハイハットの役目だった。しかしトラップにおいてそれは、より自由に乱打されている。さらに2拍と4拍のいわゆるバックビートで打たれるべきスネアもまた、イレギュラーなタイミングに分散していることが多い。1拍目の牙城を死守しているキックだけが、本来の役割に従っていると言えるだろう。

 それでは一体何がトラック全体のリズムに、秩序をもたらしているのだろうか。乱打されるハイハットやスネアの代わりに、規則正しくグリッドを区切っているのは、フューチャーのラップに他ならない。フューチャーのラップこそが、メトロノームのような役割を果たしているのだ。図1でも、本来のハイハットの役割のように、8分音符で綺麗に小節を区切り、拍を刻んでいることが分かる。

 だとすれば、メトロノームのようにごくシンプルに規則的に拍を打つ言葉は、リズミカルと言えるのだろうか。それはオーディエンスをどのように高揚させるというのだろうか。それは本当に、意味を捨てた分だけ、音楽的なものとなっていると言えるのだろうか★6

 事実として分かっているのは、それらが大衆に受け入れられていることだ。多くのダンスフロアーで、あるいは多くのベッドルームで、多くのリスナーを熱狂的に踊らせていることだ。それらは、少なくともある種の「中毒性」を有しているのだろう。だからこそ、サブスクリプションサービスで、リスナーに繰り返し再生ボタンを押させるのだ。

3 ラップと呪術


 ではその中毒性の正体とは一体何なのか、考えてみたい。そのために次に見るのは、マンブル・ラップ興隆のふたつめの理由だ。それはラップの言葉自体が孕む特性に由来している。「マンブル」とは、必ずしもボソボソと小さな声でつぶやくラップを指しているのではなかった。むしろそれは、ときとして大声で歌われる。しかし意味よりも音に特化することで、曖昧に開かれる口や、ぶっきらぼうな発声により、意味としては「不明瞭さ」にフォーカスするようなラップなのだ。

 ラップを言語として捉え直し、この「不明瞭さ」について考える上で、井筒俊彦の議論を参照したい。1956年に英語で書かれた書物『言語と呪術』で井筒は、言語の持つふたつの機能、ロジックとマジックについて考察している★7。言語は論理であるとともに、呪術であるというのだ。井筒はあらゆる言語に見られる呪術的側面を指摘していく。そして特に詩は、最初期から常に呪文であったことを強調する。古代人は、韻を踏んだ詩に何か秘められたものを信じた。だから神託や予言は韻文であったし、祈祷、呪詛、祝福の文章は通常、韻律形式だった。井筒はさらに、これら古代から続く精神は、ヴァレリーやリルケ、マラルメのような詩人の詩や言葉にも生きていることを指摘する。端的に、詩とは呪文である。

 井筒によれば、マラルメはそのことを次のように強調している。詩人がもたらす詩的言語の位置付けとは、「日常的用法の言語に含まれるあらゆる呪術的可能性の完全なる現前化」だというのだ。マラルメはさらに続ける。

それはどれほど完璧かというと、例えば〈絶対詩人〉が「花!」(fleur)という言葉を発話すれば、「その中へと私の声は何らかの輪郭[つまり、空気中にあたかも花の外形を描く物理的音声]を送り込み、日常的な花とは何かまったく異なるもの、甘美にして、決していかなる花束にもない、まさにイデアそのものが、記憶の彼方なる深みから音楽的にそこに現れ出る[つまり、言葉を発することによって引き起こされる空気のはかない振動]」★8


 マラルメは、声を発話したときの「物理的音声」が、発語された単語のイデアを「音楽的」に現前させるという。さらにヴァレリーも、この「物理的音声」の様態に着目している。彼によれば、日常生活の厳粛な瞬間や重要なとき、典礼や誓い、あるいは子どもをあやしたり苦しんでいる者を和らげようとする際、共通するのは言葉が「特別な調子」で発せられることだという。意味は重要ではなく、「口調」「声の抑揚」こそが人々に直接語りかけるのであり、それが呪術的な効力を有するのだという。

 言語の呪術性が効果を発揮する結果として、たとえば法廷において朗読される判決文は、絶対的な効力を持つ。では同じように言語の呪術性を前提とするとき、ラップはどのような効力を持つのだろうか。なかでも特に、今回取り上げているマンブル・ラップについてはどうなのか。それはダンスフロアーで、一体どのような効力を持つのだろうか。

 全ての言葉は呪術的な効果を潜在しているが、しかしその効力がいつも表れるわけではない。意味は重要でなくとも、それは「特別な調子」で発せられる必要がある。井筒は、たとえそれが「意味をなさない絶叫」であっても、聴衆と歌い手の双方に「催眠的な興奮状態」を生むことができるという。しかしそれには、条件がある。それは、「韻文形式」で発されたり、あるいは調子が「整って」いる必要があるというのだ。

 逆に言えば、もしマンブル・ラップが、単にいくつかの言葉をもごもごと口ごもった形で発声したものというだけでは、この要件を満たさないのだ。それらは韻を踏んでいるか、あるいは、音楽的に調子が整えられている必要がある。たとえば、従来のラップにおいて、複雑に張り巡らされた目眩く押韻の連続は、それが高度なスキルに支えられていればいるほど、リスナーを興奮状態に陥らせる★9。しかし前述のように、トラップにおけるマンブル・ラップは、むしろ極めてシンプルに、メトロノームのように拍を刻んでいた。それは一見したところ、リスナーの興奮を掻き立てるようには見えないのではないか。
 それにしても、「調子が整う」とは何とも曖昧な言い方でもある。一体、どのような状態をもって、調子が整っていると判断できるのだろうか。調子を整わせるためには、いくつかの方法があるだろう。もちろんラップにおいては、元々韻を踏むことが音楽的な調子に整っていることにつながるわけだ。だがここでは、マンブル・ラップにおける、従来の押韻以外のふたつの具体的な方法を取り上げたい。

 ひとつめは任意の言葉を反復する方法だ。従来の歌もの、ラップ曲の多くにおいて、そのサビ=フックであるフレーズが繰り返されるのは、珍しいことでも何でもない。いくつかのヴァースがあって、パンチラインとしてのフックがそれらのヴァースの内容を象徴するような構造を持つケースだ。しかしマンブル・ラップにおいては、この反復が曲そのものを形作っている。ヴァースは副次的なものにすぎない。ワンアイデアで任意の言葉を反復し、それが楽曲として成立してしまう。その言葉はナンセンスであればあるほど、マンブルの非-意味性が光る。言ってみれば、暴力的な方法だ。

 たとえば2013年にリリースされヒットとなったミーゴスの「Versace」は、ブランド名のヴェルサーチをただひたすら反復するだけの曲だ。もちろんヴァースは存在するがオマケのような存在であり、あくまでもこのフックが全てといっても良いだろう。同様のコンセプトの楽曲には2017年にビルボードチャートで最高3位を記録する大ヒットとなったリル・パンプの「Gucci Gang」や2018年の「ESSKEETIT」、リル・ヨッティがミーゴスをフィーチャリングした「Peek A Boo」などが挙げられる。いずれもタイトル通りの言葉をフックで連呼しているのがポイントだ。単なるブランド名や、日本語でいうところの「いないいないばあ」に当たる「Peek A Boo」、「Let’s get it」の変形である「ESSKEETIT」というフレーズなど、反復される言葉がナンセンスであればあるほど、マンブル・ラップと呼ばれるサブジャンルを屹立させることにつながった。

 ナンセンスな言葉。マンブル・ラップが批判される理由のひとつは、たとえばコンシャス・ラップやポリティカル・ラップとは対極にある、いかにもヒップホップ的な単語を並べただけの必然性が感じられないリリックが散見されるからだ。単に耳触りがいいようなフレーズを並べること。しかし反復されることで、耳から離れなくなるフレーズは、たとえばテレビコマーシャルの世界などで後を絶たないだろう。そしてそれらは、常に過剰なアクセントやイントネーションで「整えられている」だろう。

 ではそれがリリックの中、詩の中に置かれる場合はどうか。井筒が指摘したのは、詩の中で用いられるのでなければ「かなり薄弱で平板に聞こえる言葉」さえも、韻を踏んだりリズム的に整った形式で発語されると、「驚くべき響きと印象深さを獲得」しうることだった。また、その言葉が「理解可能な意味を完全に欠いて」いる場合でさえ、それが特定のリズムに乗るとき、「声の速さや音量における一定の変調」が様々な効果を呼ぶというのだ。つまりこのリズムに乗った反復こそが呪術性を呼び込み、そのとき反復される言葉は、中毒性を帯びるのではないか。

 ふたつめに挙げたい具体例は、感嘆詞(間投詞)を語尾に置くことで、韻を踏んでいるように、調子を整える手法だ。あるいは実際には別の言葉で韻を踏んだ後に、空白を埋めるように感嘆詞を挿入する手法だ。たとえば「Aye」「Yeah」といった掛け声や合いの手を語尾に付けるといった単純なものから、「Let’s go」というフレーズであったり、車の急ブレーキの音のオノマトペである「Skrrt」──スクー!と舌を巻きながら裏声で発生する──を「勢いがある」「調子が良い」という意味で用いるといった、いくつかのヴァリエーションを持つ。

 同じ単語を小節ごとに同じ拍に置くことで、半ば強引にリズム的に調子を整える。「Aye」や「Yeah」はそれこそ無数の曲で聞かれるといっても過言ではない。21サヴェージの「Skrrt Skrrt」やコダック・ブラックの「SKRT」はタイトル通り「Skrrt」を反復する曲だし、前述のフューチャーも「Scrape」などで「Skrrt」を連発している★10

 以上のようなふたつの手法はしかし、どちらも一見、ネガティヴに捉えられかねない。というのも、押韻するというラップの基本を、スキルも持たず、労力もかけず、極めて安易な発想で回避しているように見えるからだ。単にインパクトのある、リスナー受けが良さそうなフレーズを連呼して、曲にしてしまえ。そのような単純な発想で曲が生まれ、実際にヒットを連発している。そのように見えるからこそ、多くのベテラン・ラッパーやヒップホップファンたちからは、批判の的となっているのが現状だ。

4 マンブル・ラップにとって感嘆詞とはなにか


 だが事はそれほど単純ではない。これらふたつの手法は、単に批判されるだけに留まるものではない。なぜか。その理由を明らかにするためには、マンブル・ラップにおいて「調子を整える」ために使われた言葉が、どのような性質の言葉だったのかを見直してみる必要がある。

 それはたとえば、掛け声などの感嘆詞だった。それでは感嘆詞とは、どのような性質を持つか。ジョルジョ・アガンベンの英訳者としても知られる比較文学者のダニエル・ヘラー゠ローゼンは、著書『エコラリアス』において、この感嘆詞について章を設けて議論している★11。彼が言うには、感嘆詞は、ある言語を構成する音韻体系のなかでも「変則的」な位置にある。その言語の中に含まれつつも、排除されているような音を持つ言葉。彼はこれを「ある言語から自分自身を除外する限りにおいてその言語に含まれている」言葉と表現する。たとえば、外国語の単語を発音しようとするケースを考えよう。その外国語のネイティヴの発音は別の国の言葉に移る際に変容を遂げる。そして、それは元の国の言語にも、受け入れられた国の言語にも、元々なかった形で発音されることになる。

 そしてヘラー゠ローゼンは、このような外国語のケースと同じことが、感嘆詞やオノマトペにも当てはまるというのだ。思い出してみよう。マンブル・ラップが調子を整えるために用いたのは、感嘆詞だけではなかった。それはオノマトペであり、高級ブランドの名だった。周知のように、ヴェルサーチもグッチも、日本同様にアメリカにおいても外国語だ。ミーゴスが発音する「ヴェルサーチ」や、フューチャーが発音する「Skrrt(スクー)」の音には、本来英語にはない独特の響きが含まれているはずだ。

 ここで、井筒の議論を思い出しておこう。彼が指摘したのは、詩のなかにおいて、特別な調子で発語することで「薄弱で平板に聞こえる言葉」や「意味をなさない絶叫」でさえも、呪術性を持つことだった。確かに、感嘆詞、オノマトペ、高級ブランドの名前はどれも、それ単体で複数の意味を持ちえるような言葉ではない。例えばラップの楽曲において単体でくり返し発語される場合も、ナンセンスであるいう点で「意味をなさない」「薄弱で平板」な言葉だと理解できるだろう。

 しかしよく考えてみれば、これら3種類のグループに属す言葉たちは、異なる特性を有している。確認しておきたいのは、それぞれの言葉のイントネーションとの関係性だ。感嘆詞は一定のイントネーションで発語されることで本来の意味を持ちうるし、物音や機械音を一定のイントネーションで真似るのがオノマトペだ。両者はラップのリリックで発語される場合も、基本的にはそれらのイントネーションを引きずっている。

 だが高級ブランド名については、事情が異なる。それらは発語される際に想定されるイントネーションを持つわけではない。それは単なる固有名詞なのだから。逆にいえば、いかようにも発語されうる。その意味で、ブランド名は極めて純粋な「意味をなさない絶叫」となりうるだろう。前述した引用において、マラルメが絶対詩人が発語する言葉として例に挙げていたのも「花」という名詞だった。イデアとしての花を現前させるために、この名詞をいかなるイントネーションで発語するかが、問われたのだった。

 このことを踏まえれば、ミーゴスの「Versace」が、なぜマンブル・ラップの象徴として持てはやされたのかも理解できる。「ヴェルサーチ、ヴェルサーチ」とくり返される、その「意味をなさない絶叫」、別の言い方をすれば「言葉の衣をまとったイントネーション」こそが、リスナーに催眠的な興奮状態を与えたのだ。言葉の意味が理解されないとき、むしろイントネーションこそが呪術性の主体となりうるということだ。そして外国のブランド名という「外国語」の連呼が呪術性を帯びるという事態は、ラップにおけるとある構造と同型であることに気づく。そもそもラッパーという存在は、「外国語としてのスラング」の極端な多用により、ヒット曲を量産し、アイデンティティを確立しているのだから。

 ラッパーと詩人。あるいはマラルメのいう絶対詩人とは、まるでそれが外国語であるかのように「花」と発語する詩人のことだったのかもしれない。

 



 



 最後に、ヘラー゠ローゼンの感嘆詞の議論のなかで、もうひとつだけ見ておきたいことがある。彼が感嘆詞の節の終盤で触れるのは、ダンテの『俗語論』だ。ダンテは、楽園追放以来、人間の言語は常に絶望の感嘆詞である「Heu!」から始まるのだと記した。そのダンテの言葉を引き継ぐように彼が指摘するのは、その感嘆の叫びの瞬間から、言語は存在しうるということだ。

 叫びの可能性を認めない言語は人間の言語ではあり得ないだろう。おそらくそれは、間投詞やオノマトペ、そして人間ではないものを人間が模倣する時ほどに、言語が強度を持って存在する場所が他にないからだ★12

 



 ラップ・ミュージックは商業的な成功を収め、その言葉はいまや、想像を絶するほど多くの人間に届くポテンシャルを持つこととなった。しかしだからといって、言葉の意味に過度に拘泥するのでは、ラップの本質を捉え損なうことになりかねない。

 感嘆詞やオノマトペといった、いわゆるコンシャス・ラップで語られるような「意味」とは程遠い、ナンセンスで、英語や日本語といったあるひとつの言語体系に含まれながらも、同時にはみ出すような音。そのような音すらも、リズムに乗せ、反復することで音楽として成立させてしまう。それがマンブル・ラップの特異性だった。

 そしてマンブル・ラップそれ自体もまた、感嘆詞と同じような位置に立っている。なぜなら、それはサブジャンルとしてラップに含まれながらも、従来の音楽ジャンルとしてのヒップホップ/ラップを愛する人間からは別物だと揶揄され、挙げ句の果てには排除しようという力にすら直面しているからだ。

 ラップには、意味と非-意味が求められる。ラップは音から出発し、言葉の意味を獲得した。社会や生活におけるリアリティを映し出す言葉が、求められるようになった。しかしだからといって、音としてのラップの言葉が、意味に主役の座を明け渡すことは、なかったのだ。人々は、共感可能なリアリティをもたらす「言葉=意味」を求めつつ、同時にそのリアリティから現実逃避するための「音=非-意味」をも必要とするからだ。そこに、ラップの極めてアンビバレントな性格がにじみ出ている。マンブル・ラップとは、ラップのそのような性質を改めて映し出す、鏡なのだ。

 このようなマンブル・ラップの特徴から逆照射する形で、従来のラップの輪郭もまた、浮かび上がるだろう。そしてそのとき、先ほどの疑問にも答えが出るに違いない。ラップ全般に見られる、呪術的効果とは一体何なのだろうか。

 次回はそこから、議論を進めていきたい。

 


★1 それにしても言葉の意味を理解せずにラップを楽しむとは、一体どのようなことなのだろうか。ラップを「意味」と「音」に分割するとすれば、僕たちは両者を生理的にも全く異なる過程を経て受容している。良く知られているように、大脳の左半球の機能は、主に分析的・解析的な処理が中心で、言語の統語や意味の処理はこちらが担当する。一方で右半球は、全体的・一体的な処理が中心で、感情、声の質、冗談や比喩などの理解を担当する。さらに「音楽」の基本要素「リズム」「メロディ」「ハーモニー」で考えると、リズムを認識するのは左脳で、メロディは右脳が担当するという。すると、意味を捉えることのできない外国語のラップを聞くとき──日本人が英詞のラップを耳にするとき──は、言葉の意味を処理しないことから、右脳で聞いているということなのだろうか。しかし同時に、言葉の意味が分からないからこそ余計に、そのリズム面の構造や、音韻──韻を踏んでいると思しきサウンド──を高解像度で、分析的に聞いているとも言えそうだ。むしろそれが、言葉を分からずにラップを聞くことの醍醐味ではないか。それは打楽器の演奏を楽しむ快楽に、極めて近いようにも思われる。つまり発語されたラップの言葉を聞くときには、その「意味」を左脳で理解するだけでなく──あるいはそもそも理解できる言語的バックボーンを持たずに──、その「声質」や込められた「感情」を直感的に右脳で捉えることもある。またそのフロウを「音楽」として聞くときにも、ひとかたまりのメロディとして右脳で捉えることもあれば、その構造やリズムを左脳で分析的に理解することもあるということだ。だからラップを聞く際には──その他のヴォーカル表現と同じく──脳内では極めて複合的な処理がなされており、どこかひとつの極に集中して認識するわけではないということだ。このことは、強く言葉の意味に引っ張られながらも同時に音楽であるという、ラップの特徴を示しているだろう。
★2 しかしそれでもチャートの多くを占めてきたのはダンス・ミュージックとしてのラップだ。それがギャングスタライフの「リアリティ」を映し出しているとしても、彼らの困難な生活(あるいは成功を収めたリッチな生活)や、現実逃避のためのパーティにまつわる、いわゆるステレオタイプ的な言葉で埋め尽くされている楽曲も多い。多くの場合それらに、固有の意味を見出すことは困難だ。そこで語られるのは、金、ドラッグ、酒、ラグジュアリー、車、暴力、銃撃戦といった象徴にまみれた生活だ。あるいは、そこで歌われているのは、実際の生活というよりも、ラッパーとしての生活というファンタジーかもしれない。イデアとしてのサグ・ライフを、自分なりの言葉で無限に上書きし続ける。その意味ではラップは、口承文化の延長として理解されるべきなのかもしれない。
★3 たとえば2018年にビルボードの「Top Rap Albums」の名を連ねたうち、ミーゴス、メトロ・ブーミン、コダック・ブラック、そしてフューチャーらはトラップを代表するアーティストだ。
★4 サウスヒップホップ、あるいはダーティサウスと呼ばれるそれは、単純化するならダンス・ミュージックに特化し、巨大なベースサウンドやより複雑かつノリ易いリズムパターンを特徴とする。それまでのファンクからのブレイクビーツを基礎に構築されるサンプリングミュージックから脱却するように、ベースミュージックやからの複合的な影響をミックスした強靭なリズムテクスチャーを獲得し、瞬く間にヒップホップシーンを席巻することになる。
★5 そのようなリズムの上のウワネタは、当初はブラス音を中心とした仰々しいものだったが、徐々に内省的なテクノサウンドに移行していく。
★6 確かに「F*ck Up Some Commas」のサードヴァースは極端な例のひとつではある。トラップにおける代名詞的なラップの乗せ方に、「三連符」があるだろう。しかしこちらもごくシンプルなリズムが決してメトロノーム的な拍から離れることなく繰り返されるという意味で、事情はそれほど変わらない。
★7 井筒俊彦『言語と呪術』、安藤礼二監訳、慶應義塾大学出版会、2018年。
★8 前掲書、73頁。[]内は井筒による補足。
★9 そのようなリズム面での醍醐味を有す例は無数に存在するが、本連載でも取り上げてきたケンドリック・ラマーやナズのラップは、まさにそのような「整った調子」に満ちていた。よりスキルフルであることを絶対命題とし、より複雑な韻とフロウ、そしてそれらが編み上げる複層的な言葉の意味を追求してきたラップが、コアなファンたちの期待に応えながら進化を遂げてきたことは、いうまでもない。
★10 特殊な例としては、全てのリリックが「Aye」だけで構成されているSYBYRの「A」という楽曲も存在する。この手法を揶揄するようなパロディだが、「Aye」という呼びかけは、「これからヴァースが始まる」ことを予期させる効果がある。しかしいつまで経ってもヴァースが始まらずそのまま終わってしまう同曲は、特殊な視聴体験を与えると同時に、感嘆詞(間投詞)の持つ効果を実に良く示している例でもある。
★11 ダニエル・ヘラー゠ローゼン『エコラリアス』、関口涼子訳、みすず書房、2018年。
★12 前掲書、19頁。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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