現実のすこしよこで──大量生と虚構の問題|東浩紀+上田洋子

初出:2019年11月22日刊行『ゲンロンβ43』

東浩紀 今日は「大量生と虚構の問題」と題して、この10月にぼくと上田が行なった、ウクライナとリトアニアの取材を報告します。写真の多い発表になると思いますが、刺激的な話ができると思います。

上田洋子 まず、なぜいまこのイベントを開催したかをお話しします。今年の5月に、アメリカのHBO(Home Box Office)とイギリスのSky Televisionが共同制作したドラマ『チェルノブイリ』の配信が始まりました。このドラマはインターネット・ムーヴィー・データベース(IMDb)のレビューで、過去最高の9.7点を獲得するなど高い評価を受け、事故のあったウクライナやロシアでも話題になりました。日本ではすこし遅れてこの9月から配信されています。チェルノブイリに何度も行き、事故のことはかなり知っているわれわれが見ても、このドラマはたいへんおもしろい。また、事故についてのイメージをかなり正しく持つことができるのでおすすめです。

 ゲンロンでは2013年からチェルノブイリツアーを行なっています。今年は実施することができなかったのですが、来年の実現にむけてプログラムをアップデートするため、10月の前半にチェルノブイリ・ゾーン(立入制限区域)を視察してきました。ドラマの影響でチェルノブイリの観光地化はかなり進んでいます。

 また、『ゲンロン10』に掲載した東さんの論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」の問題意識は、チェルノブイリツアーのダークツーリズムとまっすぐに結びついています。今後のツアーは、こうした問題意識を共有し、実感できるような設計にしたいと考えています。

「悪の愚かさについて」の最後では、映画『シンドラーのリスト』のロケ地の話題を出し、虚構と記憶の関係に触れています。その続きを考えるうえで、ドラマが登場したことはとても大きな意味があるはずと考えました。ぼくはいままでチェルノブイリツアー開催の意味についてあまり哲学的な言葉で語ってこなかったのですが、このドラマが出たことで、『ゲンロン』の連載とつなげて考えられるようになったのではないか。そのため、取材ではロケ地も訪れることにしました。

チェルノブイリ事故とMidnight in Chernobyl

 チェルノブイリ事故について、最近の本をひとつ紹介しておきます。アダム・ヒッゲンボサムの『チェルノブイリの真夜中』(Adam Higginbotham, Midnight in Chernobyl, Simon & Schuster, 2019)という本です。この本は、事故の進展や原子炉の構造などを細かく説明してくれて勉強になります。ぼく自身ツアーで聞いたはずの話も、やはり活字で読むと明確になる。それに加えて、関係者それぞれの人間像を丹念に追っているところが魅力的です。ドラマ『チェルノブイリ』を見たひとは、トプトゥーノフやアキーモフ、ブリュハーノフなどの顔が思い浮かぶと思います。彼らはみな実名で実在の人物をモデルにしていて、かなり現実に忠実に造形されている★1。けれども、もちろんちがう部分もある。

上田 役割ではなく、性格づけがすこしちがうんですよね。

 たとえば、科学者のレガソフはドラマではヒーローとして描かれますが、本を読むとそこまで「正義の味方」という感じではありません。当初はむしろ党の指示にしたがい、IAEAの会議で設計ミスを隠したりもしています。それがだんだん変わってくる。それによって仕事が狭まり、クルチャートフ研究所(ソ連最大の原子力研究所で、レガソフは副所長を務めていた)の所長選に落ちたあたりから行動が過激になっていく。つまり最初から党と戦ったわけではなく、はじめはいちおう妥協をしていて、でもだんだんそれがうまく行かなくなっていくんですね。自殺も未遂を繰り返していたようです。

 ドラマはそういう複雑さは切り捨て、ヒーローと悪者をはっきり分けていますね。『チェルノブイリの真夜中』の記述を読むと、逆にドラマのほうもいっそう輝いてくる。

上田 ウクライナのチェルノブイリに関係するひとたちも、ドラマでは人物の性格づけが現実とちがうことに反応しています。事故に際して、現場にいた作業員たちはそれぞれ自分の役割を理解し、できることはやっている。ドラマでは科学者のレガソフと政府高官のシチェルビナのふたりだけがヒーローであるように描かれているのは納得ができない、という話でした。

 ちなみに2006年にBBCが作った事故の再現ドラマがあり、それをNHKが放送しています★2。それを見ると、これが今回のドラマの元ネタかなと思います。場面の選択が似ているんです。ただ、そこでは副技師長のディヤトロフが、完全に保身だけのヒステリックな男として描かれている。

上田 悪役そのものでしたよね。

「俺の出世を邪魔するのか!」という感じで、きわめてエキセントリックでコミカルですらある。それに比べると、今回のドラマはみんなきちんと「人間」として描かれている。英語圏でも、チェルノブイリ事故の表象が進化したことがわかります。

プリピャチとブリュハーノフ

上田 チェルノブイリ原発には、プリピャチという衛星都市がありました。プリピャチは1970年に建設されて86年の事故で全住民が避難したので、たった16年間しか存在していません。存在している間中、ずっと新しい町であり続けた。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の取材に続いて今回もガイドをお願いしたオレクサンドル・シロタさんは元プリピャチ住民で、いまも町の記憶を保存する活動を行なっている方ですが、彼は9歳のころに事故にあっています。だから、彼にとって、町の記憶は子どものころの記憶そのものです。だから、シロタさんはプリピャチに対して、ある意味で美化されたユートピア的なイメージを持っている。プリピャチ住民の平均年齢は20代でした。

 5万人弱の人口のうち3割ほどが子どもだった。これは日本の原発立地自治体との大きなちがいですね。日本では原発があるのは時代から取り残された土地というイメージが強い。だからこそ深刻な社会問題になる。

 日本人は、原発事故で破棄された町と聞いても、「原発があるのは若い町だ」とはイメージしないと思うんです。じっさい福島には、若い原発職員が子どもとともに暮らす新しい町が作られていたわけでもない。ところがチェルノブイリは若いひとたちに支えられていた。トプトゥーノフはまだ20歳代前半です。そして近くに若者だらけの町もあった。いままでは重要視していなかったのですが、これは大きなちがいですね。

上田 プリピャチといえば大きな観覧車が有名です。原発事故が起こった直後にあたる1986年5月に遊園地がオープンする予定だった。それは町が若くて子どもがたくさんいるからですよね【図1】

【図1】プリピャチの観覧車。現在は多くの観光客が訪れる
 
 そのとおりです。あの観覧車にはプリピャチの性格がはっきり表れている。同じ状況は福島にはなかった。どっちがよいかということではなく、単純に状況がちがうということですね。だから原発のイメージもちがう。

上田 プリピャチは原発の町としてソ連経済を支えていました。全体が原子力産業というひとつの産業で成り立っている。『ゲンロン10』のコラムでも書いたのですが★3、そういう町のことを「モノゴロド」と言います。モノゴロドでは、子どもたちに大人になってからもその町に残って、産業を支え続けてもらわなければならない。そのためには子どものころに「この町はいい町だ」と思わせる必要がある。さもないとその子どもたちはいつか流出してしまう。子どものための福祉を充実させることは政策として重要なんです。おそらくこの観覧車もそうして設置されたのだと思います。

 プリピャチが子どものための町だったことを印象づけるもうひとつの写真をお見せします【図2】。これは事故後に住民のいない町で作業していたひとたちが、かつて子どもたちのために作られていた像を集めて置いていたあとです。おそらく、寂しさを紛らわすために集められたものでしょう。

【図2】プリピャチに置かれたクマの像。事故処理作業員たちの住まいのまわりにはこうした像がいくつも集められていた

 プリピャチはいま廃墟ですが、たんに事故前にあった町が廃墟になっただけではないんですね。事故があり、住民が退避したあと、じつは事故処理作業員たちが住んでいる。そして、その作業員たちの生活もいまや廃墟になっている。ぼくはこの二重性が重要だと思います。『ゲンロン10』の原稿では、ナチの収容所と、ナチを描いた映画のロケ地と、その両方が同じ場所で廃墟になっている例について書きました。

 ぼくからもプリピャチを紹介します。プリピャチの町そのものが、原発所長だったブリュハーノフが作ったものです。この町は5つの「小区」に分かれていて、町の西側にある第一小区に民族友好通りという通りがあります。このあたりがプリピャチで最初にひとが住み始めた地域らしくて、シロタさんの家もここにあります【図3】。ここはいままでツアーではほとんど行っていないのですが、今回は時間をかけて回りました。そのときシロタさんに言われてはっとしたのですが、同じプリピャチでも、第五小区まで行くと第一小区付近に比べて原発との距離がかなり異なってくる。プリピャチは全体が原発に近いので、それくらいの距離の差でも線量が有意に異なるらしいのです。事故のあと、プリピャチは線量が高くなかった、安全だったという元住民が現れるのですが、シロタさんによればそれは第五小区出身のひとだろうとのこと。彼は第一小区に住んでいたので、かなり被害を被ったと話してくれました。こういうのは、やはり現地に行かないとわからないですね。

【図3】プリピャチの概略図。中央広場を囲う1から5の小区に分かれる

 つぎの写真は、第一小区にある古いアパートです【図4】。外壁の「50」はロシア革命後50年の年、つまり1967年を意味しています。記念碑に記された1970年という建設年★4よりも早いことになりますが、「プリピャチ」という地名がつけられるまえから一部には建物が建ちはじめていたということらしいです。そしてこれが最初のアパートだと。だとすれば、ここにはブリュハーノフが住んでいたはずです。

 ブリュハーノフの物語についてはぜひ『チェルノブイリの真夜中』を読んでみてください。いきなり党から「チェルノブイリにソ連最大の原発を作れ」と言われ、中央アジアから引っ張り出される。原発建築の監督だけでなく、予算管理から労働者の宿舎作りまですべて任される。たったひとりでなにもない森のなかに赴任して、まずは原発からほど近い場所にコテージを作り、家族を呼び寄せるところからが話が始まります。皮肉なことに、その場所はいま「赤い森」と呼ばれる高汚染地域になっていて、近づくこともできません。彼はそんなコテージから数年かよっていたのですが、やがて労働者も増え、大きな町が必要だということでプリピャチの建設が始まります。町の建設もまたブリュハーノフの管理下にありました。つまり彼はたいへんな苦労人で、プリピャチとチェルノブイリに人生を捧げたひとなのです。ただし、党の命令と現実との兼ね合いのなかで当然ごまかさなくてはならないことも生まれ、1986年には無理なスケジュールでテストを強行した結果、あの事故を起こしてしまった。

【図4】第一小区のアパート外壁。写真中央部に「50」と書かれている

上田 ドラマ『チェルノブイリ』に付随して Skyが作ったドキュメンタリーがあり、ブリュハーノフの息子が出てきます。彼が自分の住んでいた家に行って「ここでお父さんといっしょに住んでいた。お父さんはあの日ここで電話を取って、それで出て行ったんです」という話をしているシーンがある。

 それは泣けます。

上田 ほかにも「原発だけでなくプリピャチの町全体がお父さんの両肩にのしかかっていた。彼は所長で責任を取る立場だったので、罪を負うことになってしまったんだと思う」と語っていました。

 ブリュハーノフは事故後も長く生きていて、ヒッゲンボサムも本の最後でインタビューを行なっています。チェルノブイリ原発には増設計画があり、プリピャチも対岸に拡大する計画がありました。その対岸に新しい高層の事務棟を作り、最上階に彼の部屋を作る予定だったらしいんですね。そこからは新しいチェルノブイリとプリピャチの全体が見渡せるはずだった。「あなたはいろいろ後悔してないか」と聞くと、ブリュハーノフが「後悔はないが、あのビルが建たなかったのは残念だ」と答える。そのとき唇の端によだれが泡になっていて、それを奥さんが拭くという描写がある。とても悲しい気持ちになります。

上田 彼は夢の町を作りたかったんですね。

 そうなんです。たんに所長として権威を振りかざしていたという話ではない。彼にとっては原発とプリピャチの町、あわせて全体がひとつの夢の世界になっていた。その最後の完成が近づいて、でもそれが事故で駄目になって、裁判では責任を取らされてドネツクの刑務所に送られる。

上田 YouTubeにブリュハーノフたちへの刑の宣告の肉声も残っています。いま、ブリュハーノフに対して、「善悪の区別がつかなくなっていた」というニコ生コメントがありましたが、そういう話ではないとわたしは思います。ひとが自分の権限のもと、自分の能力をはるかに越えた巨大なものを作れと言われたときに、どういうふうに行動するか。そしてその行動のあとに事故が起こってしまったとき、それをどういうふうに消化するか、あるいはできないかという話です。

日本に人間ドラマはありえるか

 話が原発事故から逸れていると思われるかもしれないですが、次回のツアーではむしろこういう人間ドラマの部分に注目したい。これはぼくとしては、福島以降の状況に対する自分なりの抵抗のつもりです。日本では人間の部分をみな避ける。システムや制度の話をするのが賢いと思われます。

 ただ、それによって見なくなるものもある。どんな事故にも制度的な側面と人間的な側面がある。人間がいなければ原発もない。どんなひとがこの原発を作ったのか、どんなひとが運転していたのか、チェルノブイリはそこを物語化できている。では逆に、なぜ日本ではそれができないのか。

 日本人はそれを考えながらあのドラマを見るべきだと思います。福島を将来ドラマ化するとしたらどうなるか。チェルノブイリについてこういうドラマが撮られた以上、世界のどこかで福島のドラマが撮られる日が来るのではないか。そのとき原発職員はどう描かれるか。ドラマ化の基礎になる資料はどれくらい残っているのか。そして日本人はどういうふうに反応するべきなのか。そういうことを考えてドラマを見ると、チェルノブイリのイメージがさらに複数化する。それは、福島についていま日本人が思っていることがいかに単純か、考え直すきっかけにもなると思います。

 ちなみにHBOのプロデューサーのクレイグ・メイジンはぼくと同い年で、1971年生まれです。彼のインタビューを読むと、じっさいに「福島について撮ってくれ」という声は寄せられているらしい。日本では報道されませんが、世界の視聴者からすれば当然です。

 よく言っていることですが、チェルノブイリツアーに参加するまえとあとでは、原発事故に詳しくなること以前に、チェルノブイリという土地のどこに着目するか、その見方そのものが変わります。似た変化は物語でも可能だと思います。ドラマ『チェルノブイリ』を見ると原発職員一人ひとりの顔が見えてきて、それぞれの人生を想像するようになる。抽象的な「加害者」や「被害者」ではなくなるんですね。

上田 ここにチェルノブイリ・ミュージアムで撮った写真があります【図5】。右の方が当時原発四号機の職員で、事故が起こった日に処理に行かれたアレクセイ・ブレウズさんで、左は事故直後、石棺を作るまえにヘリコプターから鉛や砂などの放射線遮蔽物を撒く作業に参加したアンドレイ・ミシコさんです。そういう方たちとじっさいに会って「わたしは事故のときにこういう作業をしました」というお話をうかがうと、事故の状況がまったくちがって見えてきます。福島の場合、日本の組織とも関係すると思いますが、責任者以外の個人名を出さない。ドラマを作るとしても、『チェルノブイリ』のように本人を模した登場人物を出すことができるのか。じっさいの記録すら残っていないのではないでしょうか。

 福島の事故について、原発職員や廃炉作業員が顔を出し、実名で記録を残せるのかということですね。もし日本でそれがむずかしいのだとすれば、未来のドラマはたんなるファンタジーになってしまう。

【図5】アレクセイ・ブレウズ氏(右)とアンドレイ・ミシコ氏(左)

『チェルノブイリ』聖地巡礼

 
1 ファビヨニシュケス
 
 ここからは『チェルノブイリ』のロケ地の紹介に移ります。場所はリトアニアです。じつはリトアニアには、ドラマ内でのチェルノブイリ原発の撮影場所になったイグナリナ原発もあるのですが、残念ながらそちらには行けませんでした。かわりに首都ヴィリニュスで3箇所を回っています。ファビヨニシュケス(Fabijoniškės)の団地、旧文化スポーツ宮殿、そしてKGB(ソ連国家保安委員会)博物館です【図6】

【図6】ドラマ『チェルノブイリ』ロケ地の位置関係

 ファビヨニシュケスはヴィリニュスの旧市街から車で15分ほどのところにあり、ドラマではプリピャチのロケ地になっています。ここの団地は、1986年、つまり事故の年に造成が開始されました。ロケ地を選ぶうえで、この年号の符合は重要な意味を持ったのではないかと思いました。この符合そのものには本質的な意味はありません。けれども、それがあることで現実と虚構が連想でつながる。虚構が現実の「すこしよこにある」ということの意味については、またあとで語ります。
じっさいにどんな場所かというと、これがドラマのなかの「プリピャチ」です【図7】。現実のファビヨニシュケスはこういう町ですね【図8】

【図7】ドラマ内の「プリピャチ」。背景には団地が建ち並ぶ 写真提供=スターチャンネル
【図8】実際のファビヨニシュケスの様子
 
上田 現地を訪れるとずっと同じ団地が並んでいて、団地そのものが町になっているんですよね。

 団地の人口は4万人近くあります。ヴィリニュス全体が57万人なので、1割近いひとがここに住んでいることになる。現地のガイドによると、その巨大な町を数週間にわたって自由に使った、おそろしく贅沢なロケだったようです。たとえば事故後のプリピャチの夜を撮影する場面では、町全体を完全に真っ暗にするため、一戸一戸回ってすべての部屋の電気を落とさせたようです。かなり強引な要望ですが、なぜ居住者がそれを我慢したのかというと、HBOがこの地区の自治体にかなり高額の寄付をし、それによって道路などが整備される取り決めがあったようですね。じっさいに現地で撮った写真とドラマのなかの映像を突き合わせてみると、団地内の歩道が新しくなっていたり、建物が塗り替えられていたりすることがわかる。

上田 住民の自家用車も、撮影のあいだは別のところに駐車させられました。車を移動させるために、長期出張中だったひとの実家に電話をして、鍵を持って来させた例もあったという話でした。重要なのは、合成映像をほとんど使っていないということですね。そこまでして生の映像を使うのが彼らのポリシーだった。

 監督はCG処理を嫌ったようです。それはある種のリアリズムを大切にしていたということだと思います。たしかにファビヨニシュケスはプリピャチとまったく関係がない。じつは建物も似ていません。けれども86年に造成開始されたということで、どこか「ゆるやかに」事故とつながっている。そういうつながりを大切にする作家だったのではないか。同じように、ドラマ内に登場する学校のロケ地は、団地内のロシア語学校が選ばれていた。もちろんここはリトアニアなのだけれど、ロシア語学校を選ぶことですこし現実に近くしている。そのようなこだわりを随所に感じるロケ地でした。
 
2 旧文化スポーツ宮殿
 
 続いて旧文化スポーツ宮殿です。「文化宮殿」というのは旧ソ連が好んだ名称のひとつですね。

上田 いわゆる文化会館のことですね。ソ連は「〇〇パレス」という名前をつけるのが好きなんです。子どもたちがそこでなにかを見たり発表会をしたりするハレの場という意味も兼ねていたのだと思います。

 これがその宮殿のかつてのクロークです【図9】。ここがドラマのどこで使われているかというと、第二話におけるプリピャチのホテル内のバーの場面です。静止画だとわかりにくいのですが、ドラマと壁が同じです【図10】。クロークをバーに転用する感性には驚きました。他方で文化宮殿はいまは警察関係の文化事業に使われていて、音楽隊の控室もあります。ドラマではここが潜水夫の決死隊を募る場面で使われています【図11】。こっちはわかりやすいですね。装飾の金色はチェルノブイリの通称「金の廊下」を連想させます。ここでもロケ地が「似ている」という発想で選ばれている。ドラマ『チェルノブイリ』は、当然ノンフィクションではありませんが、かといって完全な虚構というわけでもなく、ある種の類似性にもとづいて作られた虚構なんですね。

【図9】文化宮殿のクローク。ドラマではバーとして撮影に使われた
【図10】ドラマ『チェルノブイリ』のバーの場面 写真提供=スターチャンネル
【図11】ドラマで潜水夫を募る場面に使われた、音楽隊の控室。金色の装飾がチェルノブイリ原発の廊下を思わせる

上田 なにか共通のものがあるんですよね。まったく同じ見た目でなくとも、同じ精神というか、同じ空気というか、「この場所ではあの出来事が起こる」と感じさせる。

 さらに加えると、文化宮殿のあと、ガイドに「横に公園がある」と言われて見に行くことになりました。そうしたら盛土がされて、慰霊碑があり、近くには十字架まで立っている。雇ったのはふつうの観光客用のガイドなので、ぼくたちが慰霊碑に興味があることは知りません。だから完全な偶然です。あとから調べて知りましたが、そこはトゥスクレナイ平和記念公園という場所で、44年から47年にかけて、NKVD(内務人民委員部。KGBの前身)により殺された700人以上の人々が埋められた場所でした。その遺体がソ連崩壊後に発見され、いまではメモリアルになっている。

 ここで重要なのは、この公園と旧文化スポーツ宮殿が隣り合っていることです。公園内にはテニスコートがあるのですが、コートの建設時も大量の死体が出てきたらしいです。ここは旧市街からネリス川を渡り、すこし東に行ったところにあります。市街に近いけれどもほどよく郊外です。そこに国家機関が土地を持っていて、秘密裏に死体を埋めていた。そして同じ理由で、戦後はレクリエーション施設に転用された。これはまさに、『ゲンロン10』の原稿で指摘した、大量死と大量生の隣接の問題です。国家保有の郊外の大きな敷地は、あるときには大量死の現場になり、別のときには大量生の現場にもなる。ここは、700人の死体が埋められた場所であり、同時にコンサートやスポーツ大会が行われる場所でもあるのです。

 そういう場所がロケ地に使われていたことも、また「似ている」の問題です。プリピャチのホテルは、大量生(レクリエーション)の場所でありながら、大量死の現場に隣接してしまった。同じように旧文化スポーツ宮殿も、大量生の場所でありながら、大量死の現場に隣接していたのです。
 
3 KGB博物館
 
 最後がKGB博物館です。KGB博物館というのは通称で、正式には「占領と自由の闘争博物館」といいます。この建物はもともと国家機関で、地下にKGBの監獄があった。地下への階段はこのとおりで、すでに嫌な雰囲気があります【図12】

 ドラマでは、原発事故の原因を探究するベラルーシの女性科学者がKGBによって捕まり、そこにレガソフが面会に来るという場面がこの監獄で撮影されています【図13】。壁の剥がれかたが完全に一致しているので、絶対にここで撮っている【図14】

【図12】KGB博物館の地下への階段
【図13】ドラマ中の監獄のシーン 写真提供=スターチャンネル
【図14】実際のKGB博物館の監獄跡。奥の壁の傷が図13のものと一致する
 
上田 完全にマニアの発言ですね(笑)。
 
(笑)。ここにもまた「似ている」の問題があります。科学者とレガソフの対面は完全に創作なのですが、史実だとしてもそれはロシアの話です。だから、リトアニアの監獄跡で撮ることには意味がないといえばない。セットでもいい。けれども、ここでも現実の「すこしよこ」を作り出している。

 「すこしよこ」とはなにか。ぼくは『ゲンロン10』の原稿の最後に『シンドラーのリスト』に触れましたが、あの映画も「すこしよこ」で撮影されています。現実のプワシュフ収容所とロケ地のリバン採石場は文字どおり隣り合っている。じっさいに事件が起きた現場で撮るのとも、完全に偽物のセットで撮るのともちがって、第三の「現実のすこしよこで撮る」というやり方があるのではないか。『チェルノブイリ』のロケ地を巡っていて、そんなことを考えました。

上田 このシーンに出てくる女性科学者は、『チェルノブイリ』のなかで唯一実在しない、あとからつけ加えられた役です。ひとりだけこういう役を入れるのも、「すこしよこで撮る」と共通すると思いました。事故処理作業員には女性もけっこういたはずですが、ドラマでは事故処理作業員で描かれるひとは医師以外は全員男性でした。だからそこで出せなかったぶん、当時もいた科学者としての女性をキャラクターとしてつくって、象徴として出したのかもしれない。

 そこも、リアルとフィクションを混ぜ合わせてつくられたものかもしれませんね。

 博物館についてつけ加えたいことがあります。それは、この博物館の展示では、1940年から90年が「ソヴィエトによる占領期」とされていることです。いまリトアニアの国家的な歴史においては、ソ連時代はすべて「占領下」ということになっている。リトアニアをソ連の構成共和国のひとつとして知ったぼくの世代にとっては、これは驚きです。これは日韓関係に似ています。日本の保守派は日韓併合は両国同意の合邦だったという。もちろん韓国は占領されたと考えている。それと同じことがロシアとリトアニアのあいだにも起きている。ロシアはリトアニアといっしょにソ連を作ったと思っているけれど、リトアニアは占領されたと考えている。だからこの博物館では「ナチの支配下での死者」と「ソ連の支配下での死者」が並べられている。

上田 ソ連支配下での死者が多いですね。

 期間が長いですから。ロシアの被害はナチよりも深刻だったというのが、リトアニアの主張です。日本ではこのあたりの事情はほとんど知られていない。逆にこれを見ると、ヨーロッパ人が日韓関係をどのように見ているのかが想像できます。

sur-vieと虚構による記憶

 ここまでの話をすこし抽象化してみます。デリダに「sur-vie」、つまり「生き残り」という概念があります。「survie」は英語の「survival」にあたる言葉ですが、デリダはハイフンを入れることで「超えるsur」「生 vie」、つまり「生を超える」という意味を持たせています。われわれは死んだあとも、虚構やひとの記憶を通して生き残ることができる。

 『チェルノブイリ』のロケ地廻りでぼくが考えたのは、この概念と「現実のすこしよこで撮る」こととの関係です。本物ではなく、かといって完全な偽物でもないものを撮る。それは、虚構を現実の「すこしよこ」のものにするということだと思います。その隣接性を、『観光客の哲学』で紹介したウィトゲンシュタインの言葉を借りて「家族的類似性」と呼んでもいいかもしれません。現実と虚構はストレートにつながっているのではなく、類似性や隣接性を介してつながっている。そして記憶とは、そもそもそのような隣接性のネットワークを作ることなのではないか。

 ファビヨニシュケスの団地は、プリピャチが「死んだ」年に生まれた。それはある種の生まれ変わりだと言える。HBOのプロデューサーは、だからこそこの場所をロケ地に選んだのではないか。オカルトのように聞こえるかもしれませんが、デリダが問題にしたのはまさにこうした感覚のように思います。集団的な記憶、歴史的な記憶をわれわれが信じることができるのは、われわれがどこかで生まれ変わりや生き残りを信じているからなのではないか。われわれは個体としては確実に死に、そのとき記憶も人格もなにもかもが失われる。それは物理的な事実です。にもかかわらず、われわれはどこかで集団が人格の一部を受け継ぐと信じている。だからこそ社会は存在できる。もしわれわれの社会がこのような条件のもとではじめて成立できるのだとすれば、生まれ変わりについての思考は単純にオカルトとは言えない。これについては『ゲンロン11』でも触れるかもしれません。

慰霊碑と政治の問題

 最後にブィキウニャ(Bykivnia)というキエフで大量の死体が発見された場所と、ヴィリニュスにあるパネリアイ(Paneriai)という虐殺の現場を紹介します。東欧では10万人単位の虐殺がいくつも起こっている。

 ブィキウニャはキエフの近くの森です。かつては市外だった。森のなかにこういう場所があります【図15】。ここはナチではなく、ソ連のNKVDによる虐殺の犠牲者が埋められた場所です。つまりスターリニズムの犠牲者ですね。いまは記念公園になっています。犠牲者は3万人くらいとも10万人くらいとも言われています。

【図15】ブィキウニャの記念碑

上田 ソ連時代にはナチの虐殺の跡地という見解が示されていた時期もあったようですが、ペレストロイカ期にNKVDによるものだと断定されたようです。

 ここを紹介したいのは、この公園をウクライナとポーランドが共同で作っているからです。有名なカチンの森事件★5の犠牲者がかなりの数ここに移送され、埋められているらしい。そのためひとつの広大な公園のなかに、ウクライナの領分があり、ポーランドの領分があり、両国がいっしょになってソ連、いまのロシアを告発するという政治がはっきり見える。犠牲者の名前を記した慰霊碑がありますが、ウクライナのひとたちは大量の名前が石板に刻まれているのに対して、ポーランド人の死者は、かなり手厚く、一人ひとりタイルが与えられています【図16】。おそらくは資金と人数の関係でしょう。慰霊碑に刻まれる名前とはなにか、考えざるをえません。

【図16-a】ウクライナ側の慰霊碑
【図16-b】ポーランド側の慰霊碑
 
 公園内には、市民の手によるものだと思いますが、ドイツの国旗色のリボンを結んだ木も見られます【図17】。つまり、ここではドイツは加害者ではない。同じキエフでも、『ゲンロン10』で触れたバビ・ヤールではドイツは絶対的に加害者でユダヤ人が被害者です。けれどもここではソ連が加害者で、ウクライナとポーランドの市民が被害者で、そこにはむろんドイツ系も含まれる。だからドイツ国旗の色のリボンを巻くことができる。

【図17】木に結ばれたドイツ国旗色のリボン

 ポーランドとウクライナは近年、ロシアに対抗するかたちでかなり政治的に連携していて、それもあってさきほどの記念碑が作られたと考えられます。チェルノブイリも、この数年でロシアの観光客は大きく減り、かわりにポーランド人が増えたようです。ブィキウニャの昔の画像をネットで検索してみると、まったく様子がちがいます。おそらくこの10年、15年くらいで巨大な公園になった。両国の大統領が参拝し連帯をアピールする。死者の政治利用ですね。

上田 ここは2001年にヨハネ・パウロ二世が来ているようです。彼はポーランド系のカトリック教皇なので、この訪問もウクライナとポーランドの関係を意識してのことだと思います。

 もうひとつ、ヴィリニュスの近くのパネリアイを紹介します。こちらはナチの犠牲者です。ここでは7万人から10万人が埋められたと言われています。この場所は鉄道に隣接していて、もともとソ連が液体燃料用のタンクを作るためにたくさんの穴を掘っていました。そこに1941年にドイツが侵攻し、その穴をユダヤ人を埋めるのに使えるぞとなった。合理的なだけに怖い話です。ここもいまは公園になっています。ここでも死者の政治利用を強く感じました。

 象徴的なのがこの記念碑です【図18】。不思議な形状をしていますが、中央の部分はあとから挿入されている。もとは左の部分と右の部分がつながったひとつの石で、左側にリトアニア語、右側にロシア語で「ソ連の人間が死んだ」と書かれていた。その記念碑を、ソ連崩壊後に割って、ヘブライ語で書かれた「ここでユダヤ人が死んだ」という石碑をまんなかに挿入したらしいんです。さらには、左右に刻まれていた文字の上に、新しい石のパネルをかぶせて「ソ連」という記述まで消してしまった。うしろ側を見ると、ひとつの大きな石が割られて、中央に別の石が挿入されているのがはっきりわかります【図19】。つまり、記念碑そのものの書き換えがなされている。これはたいへんなことです。死を記憶することがいかに政治的な行為か、よくわかります。

【図18】パネリアイの記念碑
【図19】写真16の記念碑の裏側。新しい石碑の挿入によって元の石碑が切断されている

『ゲンロン10』で取り上げる余裕はありませんでしたが、バビ・ヤールでも同じ問題がありました。ソ連時代に建てられた記念碑には、「ユダヤ人に対する迫害があった」ではなく、「ソ連市民に対する攻撃があった」と記されていた。だからそこもソ連崩壊のあと、ユダヤ人主導で新しい記念碑が建てられている。こうした記念碑の書き換えが、パネリアイではさらに明確に起こっている。この公園ではほかの場所でも、ソ連時代に作られたロシア語の記念碑の横に、必ずリトアニア語で「ここに書かれていることは正確ではなく……」と訂正の文章が添えられているという状況が見られました。さらに加えて、ユダヤ人が作ったヘブライ語の追悼碑があり、ロシア人が作った追悼碑があり、ポーランド人が作ったポーランド語の追悼碑もありという状況で、各国の記念碑が乱立し、死と慰霊をめぐる国家の政治がとても露骨に示されていた。ここでは触れるにとどめますが、じつはアウシュヴィッツでも似た状況が観察されます。アウシュヴィッツにいったひとであればご存じのとおり、あそこの博物館はなんと、犠牲者の国籍ごとに各国が追悼するかたちになっている。

 記念碑の問題はナショナリズムの問題です。国籍に関係なく死者を追悼することは、じつはほとんど行われていない。だから記念碑の建設には必ず政治的な意図が絡むし、それぞれの国の碑は、自分たちが所属する国の犠牲者だけを追悼するかたちになっている。さきほど「生き残り」の話をしましたが、個体の死を集団(群れ)が引き継ぎ克服するのはいいとして、その機能を国家が担ったときにいかに醜悪な状況が現れるか、それもまたヨーロッパに行くとわかります。記念碑は、建てればいいというものではないのです。

 慰霊が外交と絡む大きな政治問題になったのは、おそらく冷戦崩壊以降の現象です。そしてそれはいまますます大きくなっている。こうしたことを日本人はもっと知ったほうがいいと思います。その流れは当然アジアにも当てはまるだろうし、従軍慰安婦像の問題もそういう文脈で考えなければならない。

質疑応答

 それでは、質疑応答に移りましょう。

大山顕 大山顕です。ぼくは団地の写真を撮っています。2017年にチェルノブイリツアーにも参加しました。

 シロタさんが住んでいたプリピャチの最初に開発された地区は、おそらく第一小区とその南西の第二小区ですよね。そこの開発時期と、それ以外の小区が作られた時期は何年くらい離れているのでしょうか。

上田 15年くらいちがっているかもしれません。プリピャチをすべて回ると、建設途中のアパートがあります。たとえば第五小区は、1986年の段階でまだ開発途中で、建築中のまま放置されている建物もありました。

大山 なるほど……。というのも、ツアーに参加した団地マニアとして指摘したいのですが、地図を見ると、シロタさんが住んでいた第一小区の民族友好通りだけ、道が南北にとおっているんです。

 ほんとうだ! つまりここはちがう計画で作っている。

大山 第一・第二地区だけ、アパートの棟の並びも南北を意識した配置になっています。ほかの地区が南北の配置になっていないのは、明らかに設計思想が切り替わっているからでしょう。レーニン通りから先は南北が基準ではなく、プリピャチ川に規定された、敷地を有効に活用するための配置に変わっている。団地を20年回っているとこういうことがわかってくるんです(笑)。

 これはすごい。本来は南北の構想だったのかもしれないですね。というのも、民族友好通りをまっすぐ伸ばしていくと、原発ではなく、ブリュハーノフが最初に作った作業員のキャンプあたりに出るんです。さきほどいま「赤い森」と呼ばれていると紹介しましたが、そこは「レスノイ」つまり「森のなか」を意味する名前で呼ばれていた。そこから第一小区にまっすぐ道を通すと、この民族友好通りになるような気がします。つまり、これは作業員のキャンプを出発点に作られた道路なんじゃないか。

大山 もう一か所、この周辺で南北に規定されている場所があり、それはチェルノブイリ原発の敷地です。チェルノブイリ原発周辺と第一小区の道だけが、川の流れとは関係なく全部南北に伸びている。つまりブリュハーノフが最初に開拓した場所だけが、南北の道になっているんですね。

 ところがそこに、ブリュハーノフではないだれかが、「チェルノブイリ原発からプリピャチまで一直線に北西に伸びる道を引く」という設計思想を持ち込んだのではないかということですね。それがレーニン通りなのですが、その終点には大きな広場がある。そこにはレーニン像が建てられるはずだった。他方で民族友好通りの北端近くには映画館があり、そこにブリュハーノフがプロメテウス像を建てています(現在は原発事務棟のまえに移転【図20】)。『チェルノブイリの真夜中』は、この両者の関係について、プロメテウス像の設置がレーニン像の設置への抵抗だった可能性を匂わせています。言うならば、レーニン通りが「国家の夢」を体現していたのに対して、民族友好通りとプロメテウス像は「技術者の夢」を体現していたのかもしれない。

大山 周囲の棟の配置もきっぱりちがうことに、その後の思想性が感じられますね。

 ここにはブリュハーノフの痕跡がある。この通りだけが、パイオニアが作った町なんですね。

【図20】ブリュハーノフが建てたプロメテウス像
 
質問者 ドラマ『チェルノブイリ』の「ロケ地巡礼」でたくさんのひとがチェルノブイリに行くようになったと思います。ゲンロンのツアーは、原発事故を一次的な案件として行なっていましたが、いわば事件の二次創作物であるドラマがトリガーになることで、体験の質はどのように変化するのでしょうか。

 その質問はぼくの関心と深く関係しています。そもそもダークツーリズムとコンテンツツーリズムはかぎりなく近いんです。というより、ダークツーリズムは、本質的にはコンテンツツーリズムだと言える。

 人間は歴史を虚構としてしか把握できません。現実に悲劇を体験したひとがその現場に繰り返し行くことがあったとしても、強迫神経症のようなもので、それは歴史にならない。現実が歴史になるためには、距離が生まれなければならない。そして距離が生まれるとは、つまり虚構が入り込むということです。

 チェルノブイリツアーにしても、そもそもぼくたちがチェルノブイリへ行ったのは福島の事故があったからです。福島をきっかけにチェルノブイリに興味を持った。すでに「二次的」です。だからぼくは、そこにドラマの『チェルノブイリ』が加わったところで、なにかが本質的に変化するとは思わない。むしろドラマが現れたことで、日本からの参加者には「福島はドラマ化できるのか」という新しい問いが投げかけられたと思います。日本では廃炉作業員の顔がいまだ見えてこないし、これからも見えてこないでしょう。福島とチェルノブイリでは状況が大きくちがう。

 チェルノブイリでは、トプトゥーノフやアキーモフやブリュハーノフがどのような人生を送ったかが、さまざまな資料によって明らかになっている。たとえばトプトゥーノフは、ロシアのMITと呼ばれているモスクワ技術物理大学を出てすぐ、チェルノブイリに来るんです。それでなぜ科学を志したかというと、幼少期を過ごしたのが宇宙基地の町バイコヌールで、そこでベビーシッターのようなアルバイトをしていたガガーリンに抱かれたからだという逸話が書いてある。そういう逸話はドラマの役作りに現実的に役立っているだろうし、チェルノブイリを記憶するときにも歴史に奥行きを与えてくれる。そういう記述を見ると、福島に欠けているのはこうした物語なのではないかという疑問も出てくる。だからぼくは二次創作的あるいは虚構的なものからはいることで、現実から問題意識が遠ざかるとは思っていません。むしろぼくたちに欠けているのは適切な虚構かもしれない。

上田 ひとつだけつけ加えると、虚構の創作ということに関しては、ウクライナにも福島に似た状況はあると思います。HBOのドラマはアメリカのHBOが作っているのであって、ウクライナが作っているのではない。チェルノブイリの問題に関わるようになって、チェルノブイリに関する創作物をロシアも含めてかなり探しました。しかし目立ったもの、多くの人々に読まれて共感されるような作品は多くはありません。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』くらいでしょうか。数年前、アンドレイ・クルコフというウクライナの作家に尋ねたときにも、「チェルノブイリは簡単に書けるテーマではない。この問題を自分がもし書くとしたら、そこに取材に行って、自主帰還民の村にしばらくいっしょに住んだりする必要があるだろう」と言っていた。

 そのあいだにほかの国ではHBOのドラマのような素晴らしいコンテンツが作られている。それに対してチェルノブイリに関わるひとたちは、「あのドラマは虚構としては素晴らしいけど、ドキュメンタリーではないよね」と言って、いわば自分たちの心を落ち着けているわけです。当事者の国でそういったものを作るには、大きなハードルがある。こうした問題に外国のひとやすこし距離のあるひとがどのように関わることができるのかを考え、また、その余地を残していくことがわれわれにできることではないかと思います。

 とはいえ、海外で福島の原発事故を扱うドラマが作られるとき、どこまで実名のモデルを使えるのか。来年、門田隆将さんの『死の淵を見た男』を原作とする映画『Fukushima 50』が公開されます。あのノンフィクションは力作で実名もでてきますが、菅首相(当時)以外は基本的に「日本を死から救った英雄」としてポジティブに描かれている。だから実名を掲載できる。

 でも問題は、事件のマイナス面を描くときにどこまで実名を残せるかです。とくに被害者の名前です。海外でドラマ化されるとしたら、そこは逃れられない。日本はそこはフィクションになってしまう気がしますね。

上田 たしかにそうかもしれません。日本では記録がきちんとアーカイヴに残されないだけでなく、実名を挙げることを嫌いますよね。

 実名の公表は日本ではとても反発が強い。文化が絡むので安直な結論は出せません。それに、たとえばヨーロッパやアメリカで記念碑に大量の犠牲者の名前が刻まれていたとして、ではそれでいいのかと言ったら、そういうわけではない。一人ひとり心をこめて手作業で刻んでいるならまだ追悼の意味があるかもしれませんが、おそらくあれは機械で刻んでいる。つまりエクセルかなにかのデータを機械に流し込んでいるだけだということです。ではそのデータはどこから出てきたかと言えば、それはもともとの銃殺リストにほかならない。これはすなわち、同じひとつのリストを、かたや殺すために、かたや記憶するために使っているということです。これではなにをやっているのかわからない。

 とはいえ、日本では実名の記録のリスクばかりが語られて、実名を記録しないことのリスクのほうはあまりにも語られていないように思います。

上田 まったくそのとおりだと思います。

 今日の取材報告を通して、虚構を現実の「すこしよこ」に置くためにはなにが必要なのか、そんなことを考えてくれればと思います。
 
2019年10月23日・2019年10月30日
東京、ゲンロンカフェ
構成・注・撮影・地図作成=編集部

本対談は、2019年10月23日にゲンロンカフェで行われた公開対談「大量生と虚構の問題――チェルノブイリツアー2.0にむけて」と10月30日に行われた特別生放送「東浩紀がいま考えていること・番外編――『大量生と虚構の問題』再プレゼン」を編集・改稿し、ひとつの対談へと再構成したものです。両イベントの記録動画は、下のリンクよりお求めいただけます。

大量生と虚構の問題
URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20191023
東浩紀がいま考えていること・番外編
URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20191030

またドラマ『チェルノブイリ』は以下のチャンネルで配信されています。

<配信情報>
Amazon Prime Video チャンネル「スターチャンネルEX -DRAMA & CLASSICS-」にて配信中
【字幕版】全5話配信中
【二ヵ国語版】全5話配信中

(c) 2019 Home Box Office, Inc. All Rights Reserved. HBO(R) and related channels and service marks are the property of Home Box Office, Inc.

 

★1 トプトゥーノフとアキーモフは、チェルノブイリ原発事故発生時に原子炉の運転にあたっていた技師。ともに被曝が原因で事故発生から一ヶ月も経過しないうちに死亡した。ブリュハーノフはチェルノブイリ原発の建設当初から事故発生時まで所長を務めていた人物。
★2 2006年に制作され、日本では2011年7月22日に放送された『チェルノブイリの真相――ある科学者の告白』(Chernobyl Nuclear Disaster)を指す。詳細は下記のページを参照。
URL= http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=110721
★3 上田洋子「ロシア語で旅する世界9 アートは地方都市を変えるか」、『ゲンロン10』、2019年。
★4 チェルノブイリ原発からプリピャチにむかう途上には1970年の年号とともに市名がロシア語で記された未来的なデザインの標識がある。この標識は『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(ゲンロン、2013年)29頁でも紹介している。
★5 1940年にNKVDによってポーランド人将校ら約2万2000人がロシア、ウクライナなどの地で殺害された事件。戦後はドイツの犯行とされたが、1990年にソ連が犯行を認めた。真相はいまだに解明されきっておらず、ポーランドとロシアの対立の象徴となっている。

ゲンロン、次の10年へ


ゲンロン11
2020年9月発行 A5判並製 本体424頁
ISBN:978-4-907188-38-2

ゲンロンショップ:物理書籍版電子書籍(ePub)版
Amazon:物理書籍版電子書籍(Kindle)版

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。

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