つながりロシア(11)インタビュー 極東の「右」ハンドルとポスト帝国の想像力|ワシーリイ・アフチェンコ 聞き手=東浩紀+上田洋子

初出:2020年2月28日刊行『ゲンロンβ46』

東浩紀 ぼくは最近、極東ロシアを含む満洲と日本の関係について考えています。そんなとき、アフチェンコさんの『右ハンドル』(2009年、邦訳2018年)に出会いました。ソ連崩壊後の混乱期に、ウラジオストクが中古自動車を通じて日本と親密な関係を築いていたことをこの本で知り、興味深く感じました。

 ウラジオストクは、シベリア鉄道の終着点でもあります。ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、皇太子時代、シベリア鉄道の起工式のためにウラジオストクに行く前に日本に立ち寄っています。日本では大津事件★1で有名です。

ワシーリイ・アフチェンコ 地理や気候の観点からすると、ウラジオストクも広義の満洲に含まれますね。ぼく自身は二度ほど日本を訪れています。東京、横浜、京都、奈良、大阪、それに淡路島の洲本にも行きました。こんどは北海道に行って、日本の北方を探ってみたい。サハリンや沿海州と似ているのではないかと思っています。

極東の右ハンドル、モスクワの左ハンドル

 『右ハンドル』に書かれている歴史的・社会的なできごとはすべて事実なのでしょうか。

アフチェンコ はい。その部分はドキュメンタリーです。『右ハンドル』は複数のジャンルが交わる作品です。ドキュメンタリーであり、創作でもある。数字や社会学的な部分とは別に、叙情的な部分があります。登場人物としての「ぼく」が一人称で日本車やウラジオストクの街に関するエピソードを語る。そこで語られるのは個人的なエピソードであり、個人の人生の物語です。編集者はこの作品を「ドキュメンタリー小説」と規定しました。

右ハンドル(群像社、2018年)

 作品内では車は「日本娘」と呼ばれ、女性として扱われています。車を意味するロシア語の「マシーナ машина」という単語が女性名詞なので、女性が連想されたのかなと思いました。もし主人公が女性だったならば、車は男性になるのでしょうか、それとも女友達になるでしょうか。

アフチェンコ 主人公をだれにするかは作者の欲望の問題でしょう。ぼくの場合は自分に似た人物を描くほうが簡単だった。けれども主人公はもちろん女性でもありえます。車を表す男性名詞「アフトモビーリ автомобиль」もありますしね。そもそもいろんなバージョンがありえるでしょう。たとえばシベリアのクラスノヤルスクの作家ミハイル・タルコフスキーは『トヨタ・クレスタ』(2009年)という小説を書いています★2。この小説では『右ハンドル』とはすこし異なり、男女の愛が主題になっている。そこではトヨタ・クレスタは主要登場人物のひとりとして、車を超えた役割を担っています。タルコフスキーと会ってみて、極東やシベリアにおいては車が特別なものであることを再確認しました。

 『右ハンドル』の「右」に政治的な意味は込められているのでしょうか。

アフチェンコ もちろん政治的な意味はあります。

 世界の交通を考えると、ふつうは左側通行なら右ハンドル、右側通行なら左ハンドルになりますよね。右側通行で右ハンドル、というのは極東特有でしょう。この、「右側通行右ハンドル」は、政治的にどういう意味を持ちえるのでしょうか。

アフチェンコ ロシア語の「右」(プラーヴイправый)という言葉にはふたつの意味があります。「右側にある」ことと、「正しい」ことです。「左」(レーヴイ левый)も「左側にある」というだけでなく、「非正規の」「正しくない」といった意味を持っている。

 車が右側通行のロシアでは、もちろん左ハンドル車が主流です。モスクワの中央政府は90年代、極東で右ハンドルの日本車が増えていくと、繰り返し不満を表明しました。右ハンドルは危ない、追い越しの際に相手が見えないし、そもそも対向車の運転手が見えないじゃないかと。けれども、これまで極東で右ハンドル車が運転されてきたなかで、とくに困難が生じたことはありません。人々は右ハンドルに慣れて、運転を楽しんでいます。右ハンドル車には、道路から路傍に出るのが楽、といった利点もある。だから、極東で右ハンドル車に乗っているひとにとっては、右でも左でもどちらでも問題ない。他方、左ハンドルでしか運転したことのないひと、たとえばモスクワのひとは、右ハンドルなんてとんでもないと思っているのです。

 政治的な寓話のように聞こえます。ロシアに右側通行で右ハンドルの地域はほかにもありますか。それとも極東という地域に特有な現象ですか。

アフチェンコ 極東では右ハンドル車が過半数を占めている。つい最近までは90パーセントが右ハンドルでした。いまは減少傾向にあるとはいえ、乗用車はまだ右ハンドルが多いです。ロシアを西に行けば行くほど、右ハンドル率は減っていきます。シベリアでは半々くらい、ウラルではさらに減って、モスクワではほとんどいない。あたりまえですが、日本から遠ざかるにつれて少なくなるのですね。

 なるほど。

アフチェンコ モスクワは1990年代半ばから2000年代にかけて、右ハンドルの禁止を試みていました。けれども毎回反対運動が起こり、禁止はできなかった。数百万人が右ハンドル車に乗っているので、そう簡単にはいきません。そこでモスクワはやり方を変えた。車の関税を大きく引き上げたのです。もちろん反対運動は起こりましたが、税金は容赦なく上がった。こうして右ハンドル車の市場価格も上がることになりました。

「右」や「左」という言葉にはもちろん複数のメタファーがあります。それこそぼくの『右ハンドル』の軸にあったものです。ウラジオストクではもともと左ハンドル車だったのが、右ハンドルになる。住民はその状況を客観視している。それに対してモスクワは右ハンドルで運転したこともないのに、問題視して、禁止しようとする。するとこんどはモスクワの態度が問題となり、モスクワと極東の関係における火種となる……。

 右ハンドルは自由の試みであり、ステレオタイプの克服なのです。ロシアは大きな国で、地方はそれぞれ異なっていて、それぞれ固有の特色を持っている。中央政府は本来、すべての地方が多かれ少なかれ満足している状態を保たなければならない。ところがモスクワは、そうした地方ごとの特色を理解できない。こうして、右ハンドルは経済的、技術的な問題だけでなく、政治的な問題になった。

 それどころか、右ハンドルは文化的な事象にもなりました。車についての新しい特殊用語(ジャーゴン)が生まれています。日本にはなかった言葉が、ロシア語と日本語の名称との相互作用のなかで育まれていくのです。トヨタ・ソアラは極東では「サイラ сайра」(サンマ)と呼ばれています。ランドクルーザーは「クルザーク крузак」、ハリアーは「ハリョーク харёк」(イタチ)、日産ウイングロードは「ヴィノグラード виноград」(ぶどう)。つまり、日本語の響きがロシア語にうまくフィットした言葉がいくつもあったんですね★3。こうして、車は車以上のもの、極東の生活様式になりました。

 今後ロシアにおいて、極東とモスクワの関係はどのように変化するべきだと思いますか。

アフチェンコ 90年代から2000年代にかけて、極東はロシア政治のなかで打ち捨てられていました。極東はモスクワに忘れ去られていると感じていました。だからぼくたちは勝手に生きてきた。日本車、中国製の衣服、韓国製の食料品で、独立独歩の生活を築いていたんです。だからこそ、右ハンドル禁止の試みには、追い打ちをかけられたように感じて傷ついた。

 ちなみに、右ハンドル禁止に対する抗議運動がある意味功を奏したのか、ついにモスクワは極東に目配りをするようになりました。プーチン大統領はしばしば極東を訪問しています。2012年にはウラジオストクでAPEC首脳会議が開催されました。この会議にあわせて建設された新しい橋(金角湾横断橋およびルースキー島連絡橋)にもモスクワから資金が出ている。つまり、極東、とくにウラジオストクはすこしずつ注目されるようになったということです。

 以前はモスクワに対して激しい反感がありました。極東は自分たちでやりくりしているのに、国がまた愚かな政策で邪魔をしてくる、と思われていたのです。極東に注目が集まるようになって、こうした反感はおさまりました。

 極東はロシアの中央から関心を持たれて、経済的支援を受けられたので、いまは満足している、ということですか。あるいは、それ以上のアイデンティティを確立しようと考えているのでしょうか。

アフチェンコ じっさい、モスクワから関心を持たれるようになって安心した部分はありますね。極東全体を見ても、ぼく自身としても、モスクワの政策に対して納得のいかないところが少なからず残っている。しかし、それは独自の政治的アイデンティティを持ちたいということではありません。モスクワはロシアの首都で、極東はモスクワに倣っている。とくに文化的な基準がそうですが、政治的、経済的にもモスクワ志向です。それは逃れられない。「極東分離主義」が存在すると言われることもありますが、それはないとぼくは考えています。いい加減な主張をしているひとが数人いるに過ぎない。いずれにせよ、そうした広範な住民感情はありません。

 極東には分離主義の運動を育むような土壌は存在しない。極東人もモスクワとの格差を感じずに快適な生活がしたいというだけです。モスクワに親戚のいるひとも少なくありませんし、ほかの地域と同じ生活をしていると思いたいわけです。いまは政府もそういった方向に進んでいるように思います。

ウラジオストクの日本車文化

 自動車は、敗戦後の日本の経済的成功の象徴でもありました。自動車はいまでも日本人のアイデンティティを支えています。『右ハンドル』で面白かったのは、そのような日本車が日本海を渡ってロシアの極東にたどり着き、あらたに別の地域のアイデンティティを担ったという事実でした。たいへん興味深い現象です。

アフチェンコ これは東京とモスクワの関係とは異なる、20世紀末から21世紀初頭にかけての極東におけるローカルな現象でしょう。ウラジオストクの住民はとにかく日本車に詳しいんです。女性も子どもも、だれもが日本車の車種を言い当てることができる。それどころかどの車にどんなモーターがついているのか、3Sとか、1JZとか、その型番まで知っている。

 ぼくたちはソ連という、そもそも自動車の数が少なく、一般人が車を買える可能性の低い国に暮らしていました。そこに突然自動車が大量に現れた。最初はものすごく安くて、中古でも状態のいいモダンな日本車が300ドルくらいで買えた。まるで宇宙船のように思えたものです。オートマで、ボタンがたくさんあって…… ウラジオストクには一時期、日本車に対して信仰のようなものすらありました。日本車をめぐる犯罪も多かったし、日本車ビジネスも発展した。これは特殊なメンタリティであり、アイデンティティでもあるでしょう。

 いまは世代が変わって、90年代には爆発的だった日本車人気はやや下火になり、マニア的な知識を持っているひとは減りました。新しい世代はそもそも車が身近にある環境に育っているので、ぼくたちの世代ほど車に執着していません。

 本でも書いたのですが、日本車はウラジオストクにやってくると、ヘッドライトの表情が変わって見える。日本では違う表情をしています。日本から極東の状況がどう見えているのかはわかりません。ほかの国、たとえばオーストラリアやニュージーランドでも同じように中古の日本車が販売されているのかもしれない。そこでも同じ現象が起きたのか、それともウラジオストクが特殊だったのか、ぼくにはわかりません。

 日本で「右ハンドル」のような事例があるかというと、アニメーションが思い浮かびます。日本人はアニメーションを日本のものだと思っていますが、そもそもはアメリカのディズニーを真似て作ったものです。アメリカから輸入されたものが、日本ではすこしずれたかたちで発展し、アイデンティティになっている。考えてみれば自動車もそうですね。戦後の日本はアメリカのものを持ってきて、それを独自に発展させて、自分たちのアイデンティティにしたところがあります。同じことが沿海州と日本のあいだで起こっている。

アフチェンコ 日本はアメリカ文化を日本化し、われわれはさらにそれをロシア化した、それはそのとおりです。ただ、日本ではアニメを自前で作っていますが、極東では車を自前で作ってはいません。極東で興ったのは関連産業ですね。車は日本のものでも、修理、メンテナンス、チューニングなどに携わる業者が現れた。これは日本のサービスとは異なる、極東独自のものになっています。

 たとえば「切断車」(ラスピール распил)と呼ばれるものがあります。関税率が上がって、製造後5年以上経過した車を輸入しても利益が出なくなったときに、ロシア人はそれらの車を切断するようになった。日本で車を切断して、部品として低い関税で輸入し、ウラジオストクでそれを溶接するのです。いささか不安が残るのですが、よく使われていたやり方で、ぼく自身切断車に乗っていたこともあります。きちんと溶接されていたら、なにも危険は起こらない。

 日本ではこんな発想はありえないでしょう。モスクワでもそうです。けれど、極東にはあるのです。いわば極東テクノロジーですね。ぼくは一時期トヨタ・カムリ・グラシア・ワゴンに乗っていましたが、これは「組立車」(コンストルクタル конструктор)でした。組み立て車というのは、エンジンとタイヤを外して、船で運んで、極東でふたたび組み立てたもの。「コンストルクタル」という言葉には玩具のブロックの意味もありますが、まさに子どもがブロックで車を組み立てるように組み立てられたのです。

 組立車では、複数の車種の部品を集めて新しいものを作ることがあるのですか。

アフチェンコ そういう車を見たことはあります。けれどもそれはあくまでも例外的なもので、ふつうはやりません。

 いちど、正面がホンダアコード、後部はトヨタマークIIという車が走っているのを見たことがあります。マークIIは本来セダンですが、ピックアップトラックになっていた。上部を切り取って、車体が小さくなっていたんです。相当なマニアが組み立てたんでしょうね。ふつうはもと通りに組み立てます。

 ロシアでは、だれかが法律の抜け穴を見つけて、それを利用する、それを国家が発見して、抜け穴を閉ざす、するとこんどは別の抜け穴が見つかり、といったことがよくあります。当初、国家は組立車を扱いかねていたので、人々は思うがままに部品を輸入していました。ただ、部品として税関を通った場合は、車のナンバーをもらうために必要な登録書類は発行されません。そこで、業者が村の老人たちから古い車の書類を買い集めました。だから、たとえば書類上は1981年のカローラなのに、じっさいは2000年のカローラが輸入されているということが起こった。その場合には、書類にはエンジンと車体を交換したというような注記が付されました。カローラにはたくさん種類があります。セダンもあればステーションワゴンもある。カローラスパシオ、カローラセレス、カローラフィールダー……まったく違う車ですが、全部カローラです。人々は古い書類を使って、ぜんぜん違う車種を登録していたのです。

 だから椿事も起こりました。ソ連時代、バルト三国のラトヴィアの首都リガで「ラフ РАФ」というバンが生産されていました。「Рижская автомобильная фабрика」(リガ自動車工場)の略称です。この車は「ラフィク」という愛称で呼ばれ、救急車などに使われていました。ハバロフスクで、このラフの書類を使って、トヨタ・RAV4を登録してのけたひとがいた。ロシア語の発音ではどちらも「ラフ」ですからね★4。国家の管理が緩かった時代の話です。

ワシーリイ・アフチェンコ

プリレーピンと新しいリアリズム

上田洋子 アフチェンコさんは作家のザハール・プリレーピン★5と仲がよいのですよね。

アフチェンコ 友人です。彼はまもなくウラジオストクに来る予定ですよ。自宅に遊びに行ったこともあります。彼の作品はとても好きですし、現代をリードする作家だと考えています。中国語には翻訳されていますが、まだ日本語の翻訳はないですよね。

上田 おふたりはどのようにして出会ったのですか。

アフチェンコ ぼくの妻がプリレーピンと同じニージニー・ノヴゴロド出身なんです。12年くらいまえ、プリレーピンの『病理 Патологии』(2005年)を読んで、感銘を受けました。彼の最初の小説で、チェチェン戦争を題材としたものです。だから、ニージニー・ノヴゴロドへの帰省の際に、彼を探してみたのです。連絡が取れたので、インタビューを依頼した。インタビューは今日と同じように、酒を飲みながら行われました。結局、プリレーピンに今後ニージニー・ノヴゴロドに来るときには連絡しろと言われ、そのあとも関係が続いています。いま、日本で翻訳が進んでいるはずのぼくの小説、『透明な枠のなかの結晶 Кристалл в прозрачной оправе』(2018年)には、プリレーピンが序文を寄せてくれました。沿海州についてのエッセイ小説です。日本の話もありますよ。

上田 アフチェンコさんの作家活動はプリレーピンの「新しいリアリズム」★6と同じ潮流にあると考えてよいのでしょうか。

アフチェンコ 広い意味ではそうです。15年ほどまえ、90年代のポストモダニズムに対する熱狂は過ぎ去って、新しい誠実さ、新しい率直さ、新しいリアリズムがはじまったとだれかが言った。そして、プリレーピン、ロマン・センチン、ゲルマン・サドゥラーエフ、セルゲイ・シャルグノフ、アンドレイ・ルバーノフ、アレクセイ・イワノフらの世代が現れたのです★7。この潮流はかなり力を持っています。

上田 プリレーピンの政治的な態度についてはどう思いますか。

アフチェンコ 彼は一貫していて、まっすぐで真摯なひとです。ドンバスの戦争に関する『地獄に落ちない人々 Некоторые не попадут в ад』(2019年)が最近刊行されましたが、とても力のある、恐ろしい本でした。彼自身がドンバスで従軍した経験に基づいた、重くて率直で憂鬱な作品です。

上田 ノンフィクションですか。

アフチェンコ 創作として書かれていますが、描かれているのはじっさいに起こっているできごとです。たとえば3年のあいだに起こったことが、1年に圧縮されていたりする。よくある手法ですね。本名で登場するひともいれば、偽名のひともいます。

 プリレーピンは右派の作家だと思いますが、『右ハンドル』の「右」には右派の意味も込められているのでしょうか。

アフチェンコ 政治的な「右」「左」の意味は何度も変わっています。とくにロシアではそれが激しい。だから、「右」や「左」という言葉でなにが示されているのか、もはや定かではないでしょう。まずは共通見解を作り直さなければなりません。

上田 たとえば作家で政治活動家のエドゥアルド・リモーノフは、極右で極左ですよね★8

アフチェンコ リモーノフは典型的ですね。プリレーピンも同じで、「自分は左派の保守だ」と言っています。保守でありながら「左」でもある。経済においては社会主義、政治においては民主主義、そこにさらに反ブルジョワ主義などが加わって……、といったふうに、左右の理念が複雑に組み合わさっている。だからそのひとが左派か右派かという議論は、いまやなんの意味も持たない。もっと細かく見ていく必要があります。

 プリレーピンはヨーロッパロシアの古都に暮らしていて、極東の右ハンドル的問題意識からは遠いところにいる。けれどもぼくの小説を「長いあいだ聞こえてこなかった極東人の声だ」と高く評価してくれました。何百人、何千人もの作家がモスクワでモスクワの問題を書いてきた。けれども極東の住民の問題はだれも書いてこなかった。ぼくはそこにうまく入ることができ、ぼくの声は人々の耳に届いたわけです。プリレーピンとは生き方も違えば、書いていることも文体も異なりますが、人生をどう見るかという点では一致するところが多い。政治についてもそうです。左と右が混ざっている。ちなみに彼はトヨタ・ランドクルーザーに乗っていますが、左ハンドルです(笑)。

ソ連解体は終わっていない

 左右が混ざっているという感覚はよくわかります。『右ハンドル』には、自分は自動車人で右ハンドル人である、ソ連崩壊後の反ソ連的な時代を経て、むしろ自分が「ソヴィエト人」だと自覚するようになった、と書かれています。いま、「ロシア人」ではなく、「自動車人」「右ハンドル人」「ソヴィエト人」であると宣言することの意味について教えてください。

アフチェンコ 極東にあふれた自動車は数年にわたってぼくたちの生活を規定していました。人生を変えたと言っても過言ではない。ここで興った自動車信仰、より具体的には日本車信仰は、一連のサブカルチャーを生んだ。いつも右ハンドル車に乗っていて、車のない生活など考えられないひとたちの文化です。これが自動車人ですね。

 「ソヴィエト人」であるというのはもっと個人的な感覚です。とはいえ、世代全体とは言わずとも、あるていど新しい世代に共通するものでしょうね。ポストソ連時代に育った世代は、突然、自分が崩壊したソ連という帝国の一部であると感じる、という現象を味わうようになった。これは多かれ少なかれ、90年代に対する反作用であるでしょう。

 90年代のエリツィン政権時代には、工場や海運業、企業などがどんどん潰れていった。人々は貧しくなって、職もなく、さらに物価も高騰していきます。同時に、マスコミはソ連の聖人たちを次から次へ台座から引き落としていく。レーニン、マトローソフ、パーヴェル・コルチャーギンらソ連時代の英雄に対しても★9、ペレストロイカ期とポスト・ペレストロイカ期にはあらゆるマスコミがあからさまに侮辱をしたものです。彼らは時代遅れで無意味だと。

 けれども、こうした状況に嫌悪感を抱くひとは少なくありませんでした。そして、ぼくが「ソ連的アイデンティティ」と呼ぶところのものが生まれたのです。人々は目の前の現実を否定し、過去を思い起こした。ソ連時代の英雄は新しいアクチュアリティを獲得した。いまはソ連文学がふたたび読まれるようになってきていますが、これも部分的には90年代に対する反作用だと言えるでしょう。

 ソ連が亡霊のように復活している。

アフチェンコ そうです。これは興味深い現象です。たとえば、50年のあいだソ連に暮らし、その後20年ポストソ連に暮らしたような老人なら、ソ連に愛着を持つ理由は簡単に説明がつく。彼は若いころソ連に住んでいて、生活も当時のほうが楽しかったのでしょう。

 けれども20歳の若者が突然、いまのロシアよりもソ連時代のイデオロギーや美学のほうが自分に近いと言いだすというのは、社会学的に見てもより興味深い現象なはずです。ひとが現実を見るのをやめて、過去を振り返り、そこに未来の可能性を見ようとするとき、現実になにが起こっているのでしょうか。

 ぼくはロシアでは1991年がまだ続いていると考えています。ソヴィエト連邦は形式的には91年に存在をやめました。けれども、ソ連解体のプロセスは非常に複雑で、小さな会社を解体するようにはいかない。それはまだ続いているのです。それは、ナゴルノ=カラバフ、アプハジア、タジキスタン、チェチェンなどの戦争として続いてきた。いまウクライナ東部で起こっていることも91年の継続です。いまだにアイデンティティの模索が続いている。当時、ソ連解体は無血でなされた。けれどもじっさいは、流血が延期されただけなのです。解体のプロセスには、地震や火山の噴火のように、余震やアフターショックがあって、それがまだ続いている。この意味でソ連はまだ過去になりきっていない。古代ローマやキエフ・ルーシのような教科書に載っているだけの存在ではない。

 ロシアでは、いまだにスターリンについての議論がされている。スターリンは善なのか、悪なのか。レーニンはどうか。これらの人物はいまだにアクチュアルで、九一年がなんらかのかたちで終焉を迎えない限り、われわれとともにあり、火山は爆発し続けるのです。もちろん、そのうち爆発はおさまり、溶岩も冷めて石になるでしょう。けれどもいまはまだこのプロセスのなかにある。だから若者にすら、こうしたソ連的アイデンティティが現れてくる。

 いまのお話はとても示唆的で、感銘を受けました。なぜかというと、日本もまた1945年をいまだに終わらせていない国だと言えるからです。いまも韓国や中国ともめており、いつまでたっても大日本帝国に戻りたいと言う若いひとが出てくる。そうした状況をどう考えたらいいのか、日本の知識人もなかなか回答は見つけられない。

アフチェンコ じっさい、われわれは45年と91年によって形成された世界に暮らしていると思います。韓国の南北問題にしても、朝鮮戦争の53年があるとはいえ、やはりポスト45年の問題でしょう。

 過去の帝国を忘れることはとても難しい。

アフチェンコ そして、みなさんと同じように、ぼくも帝国の人間です。

 つまり、あなたにとっても帝国は忘れられないものとしてある。

アフチェンコ 忘れようとも思っていません(笑)。もちろん「帝国の過去は忘れて、ヨーロッパの小さな国家になるべきだ」と言うひとはいます。けれどもそれは、足を切られて、「足があったことは忘れなさい」と言われているようなものです。

 ポスト帝国人の意識というアナロジーは興味深い。それはたしかに『右ハンドル』にも反映されています。ロシアと日本に共通のものでしょう。

 そもそも自動車というのは、帝国だった日本が負けたあとに、唯一手に入れたアイデンティティなんです。

アフチェンコ 大きな軍隊を失ったあとでもありますね。軍需産業もなくなりますから。

 その穴を埋めるものだった。

アフチェンコ 極東でも日本車は90年代に生まれた穴を埋めるものでした。

 興味深い問題提起をいただきました。この本が日本語に翻訳されてよかった。日本の読者がこの本を読んで考えてくれると嬉しいです。ウラジオストクには「クルマサービス Курума сервис」という名前の自動車修理会社まであるんですよ(笑)。

 なんと! こんど来たときは右ハンドル車を借りるべきかもしれませんね。今日はお会いできてよかったです。ありがとうございました。


2019年4月27日 ウラジオストクにて
通訳・翻訳・構成=上田洋子
撮影=編集部

★1 1891年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライが、京都から琵琶湖に観光に行く途中、警備を勤めていた巡査津田三蔵に切りつけられ、負傷した事件。津田はニコライが日本侵略の準備のために来日したという噂を信じていた。
★2 ミハイル・タルコフスキー Михаил Тарковский は1958年生まれの作家、詩人。映画監督のアンドレイ・タルコフスキーの甥にあたる。モスクワで生まれ、大学卒業後にシベリアのクラスノヤルスク地方に移住した。『トヨタ・クレスタ』とアフチェンコの『右ハンドル』は同じ2009年の刊行。いずれもシベリアや極東の車文化を詩的に描いた作品である。
★3 『右ハンドル』(河尾基訳、群像社ライブラリー、2018年)に収録されている「沿海地方自動車用語集」に、莫大な数の日本車の愛称が列挙されているので参照されたい。
★4 ロシア語では有声子音、つまり声帯を震わせて声を出す音のうち、b、v、g、d、zは、無声化し、それぞれp、f、k、t、cの音になる。それゆえ「RAV」は「ラフ」と発音される。
★5 ザハール・プリレーピン Захар Прилепин は1975年生まれの作家、ジャーナリスト。大学時代にロシア警察特殊部隊オモンの隊員としてチェチェンやダゲスタンの戦争に従軍。1996年、詩人・作家のエドゥアルド・リモーノフ、思想家アレクサンドル・ドゥーギン、ロックミュージシャンのエゴール・レートフらのナショナル・ボリシェヴィキ党の党員となる。反体制・極左であったのが、2014年のロシアのクリミア政策を機に親プーチン政権に政治信条を変えた。2015年からウクライナ東部戦線に志願兵として参戦し、その経験をルポルタージュ『ドンバス通信 解決するはずのことについて Письма с Донбасса. Всё, что должно разрешиться…』(2017年)、小説『地獄に落ちないものもいる』(2019年)にまとめた。その極めて保守的な思想には反発も強いが、2017年には「今年の作家」一位に選ばれるなど国民に広く支持されている。2020年にはロシア憲法改正の作業部会のメンバーにも選ばれている。代表作に『病理』(2004年)、『罪 Грех』(2007年)、『僧院 Обитель』(2014年)など。プリレーピンについては『ゲンロン6』(2017年)所収の松下隆志「ザハール・プリレーピン、あるいはポストトゥルース時代の英雄」に詳しい。
★6 1990年代のポストモダニズムの流行に対して、2000年代に興ったリアリズム復興の流れを「新しいリアリズム」と呼ぶ。
★7 ロマン・センチンРоман Сенчинは1971年、トゥバ共和国クィズィル生まれの作家、批評家。2017年よりエカテリンブルク在住。代表作に『ヨルティシェフ一家 Ёлтышевых』(2009年)、『水没地帯 Зона затопления』(2015年)など。
ゲルマン・サドゥラーエフ Герман Садураевは1973年、チェチェン=イングーシ共和国シャリ生まれの作家。ペテルブルク在住。代表作に『おれはチェチェン人だ! Я-чеченец!』(2006年)、『錠剤 Таблетка』(2008年)など。
セルゲイ・シャルグノフ Сергей Шаргуновは1980年モスクワ生まれの作家、ジャーナリスト、政治家。2016年より国会議員。2018年よりロシア作家同盟副会長、2019年より雑誌『ユーノスチ』編集長。2019年より大統領諮問委員会ロシア語部門メンバー。代表作に『1993』(2013年)。『身内 СВОИ』(2018年)など。
アンドレイ・ルバーノフ Андрей Рубановは1969年モスクワ州生まれの作家、脚本家、ジャーナリスト。代表作に『愛国者 Паториот』(2017年)、バイオパンク小説の『クロロフィリア Хлорофилия』(2010年)ほか。
アレクセイ・イワノフ Алексей Ивановは1969年生まれの作家、脚本家。ゴーリキー(現ニージニー・ノヴゴロド)で生まれ、幼少時にウラル地方のペルミに居を移す。ペルミ、エカテリンブルクを中心に、ウラル地方を題材とした作品が多い。代表作『地球儀を酒に変えた地理教師 Географ глобус пропил』(1995年)は2013年に映画化された。
★8 エドゥアルド・リモーノフ Эдуард Лимонов は1943年ジェルジンスク生まれの詩人、作家、政治家。1974年にソ連から亡命し、1991年、ソ連崩壊とともに帰国。極左保守を標榜する反体制活動家で、ナショナル・ボリシェヴィキ党の創始者。2007年にナショナル・ボリシェヴィキ党が解散させられた後は、後継政党「もうひとつのロシア Другая Россия」を創設し、党首となる。代表作にニューヨークの生活を描いた『おれはエージチカ Это я-Эдичка』(1979年)、『水の書 Книга воды』(2002年)など。
★9 アレクサンドル・マトローソフ(1924-43年)はソ連の英雄。独ソ戦に志願兵として参加し、19歳のときに敵の銃眼に身を挺して味方の攻撃を助けて、非業の死を遂げた。死後に英雄の称号を受けただけでなく、映画化され、各地に記念碑が建てられ、切手などにも描かれるなど、文字通り英雄化された。他方、パーヴェル・コルチャーギンは実在の人物ではなく、ニコライ・オストロフスキーの社会主義リアリズム小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932年)の主人公。内戦を題材にしたこの小説は大きな人気を集め、1942年には映画化された。ソ連の多くの都市に「コルチャーギン通り」が存在した。ソ連では架空の人物の名前が通りに冠されることは珍しかった。
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1980年イルクーツク州生まれ。ウラジオストクのジャーナリスト、作家。極東大学ジャーナリズム学部卒業。著書に『右ハンドル』(2009年、邦訳2018年)、エッセイ・ガイドブック『ウラジオストクの地球儀 Глобус Владивостока』(2012年)、幻想映画小説(キノポーヴェスチ)『ウラジオストク3000 Владивосток-3000』(イリヤ・ラグチェンコとの共著、2011年)、『透明な枠のなかの結晶』(2015年)、「素晴らしき人々」伝記シリーズ『ファジェーエフ Фадеев』(2017年)、ドキュメンタリー『オレグ・クヴァーエフ——非公式な人物の物語 Олег Куваев: повесть о нерегламентированном человеке』(アレクセイ・コロヴァシコとの共著、2019年)ほか。アフチェンコの作品はナショナル・ベストセラー賞、NOS賞、ブーニン賞など、多くの文学賞の候補作となっている。

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。

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