【ゲンロン11より】革命から「ラムちゃん」へ(前篇)|大井昌和+さやわか+東浩紀

初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』

 2020年9月刊行の『ゲンロン11』には、安彦良和氏と武富健治氏と東浩紀によるもの、さやわか氏と大井昌和氏と東浩紀によるもの、山本直樹氏とさやわか氏と東浩紀によるものの三つの座談会を収録し、速水健朗氏、伊藤剛氏による論文とあわせて、「『線の芸術』と現実」と題したマンガについての小特集を掲載しています。
 以下に、その二つめの座談会の前半部を公開します。ここで幾度も話題にあがっている永田洋子という女性は、連合赤軍事件の主犯のひとりとして知られます。永田をとおして見えた、学生運動とジェンダー、そしてマンガ/アニメ表現の意外な関係とは。(編集部)
※本記事は『ゲンロンβ47』に「永田洋子と「かわいい」の思想──マンガは歴史を語れるか・特別編」として先行掲載されたものです。『ゲンロン11』掲載の本編とは一部内容が異なります。

 

東浩紀 今日は物語評論家のさやわかさんとマンガ家の大井昌和さんとお話していきます。イベントのサブタイトルは「大学紛争と『ビューティフル・ドリーマー』の問題、あるいは大塚英志とジェンダーについて」となっているわけですが、押井守と大塚英志の問題を考えるうえで、まずは連合赤軍事件の中心的人物のひとりである永田洋子の人物像を問題にしたいと思っていて……。

さやわか ついにその話題が来ましたね。

永田洋子は「かわいい」か


 議論の前提として、大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』の話題から始めたいと思います。これはサブカルチャー批評史上でも非常に重要な本ですね。

大井昌和 大塚の著作のなかでもかなりいい。

さやわか この本は、永田洋子の獄中手記『十六の墓標』(1982-83年)と『続 十六の墓標』(1990年)を読んで書かれています。『続』には永田が書いた絵が出てくるのですが、大塚はその絵がマンガっぽいことに着目して、連合赤軍事件はじつは女性性の問題だったのではないかということに肉薄していく。

大井 とはいえ、二冊読むと、大塚はほとんど『続』のほうしか見ていないかんじもしますね。『続』で永田が描いたマンガっぽい絵を「乙女ちっく」と表現する。たしかに永田が描いているのは、昔の少女マンガのようなキャラクターです。

さやわか 女の子が三つ指をついて座っていて、その手前に障子やふすまではなく、刑務所の檻の格子があるという絵ですね。永田は獄中生活の途中から絵を描くようになり、大和和紀の『あさきゆめみし』や昔の浮世絵の模写も始めます。けれども大塚は浮世絵の模写についてはほとんど興味を示さない。永田をあくまでも「マンガを描く女性」として『「彼女たち」の連合赤軍』の議論を展開していく。

大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』(角川文庫)

 大塚の議論はきわめてクリアなんですよ。連合赤軍は、永田洋子を中心人物とする革命左派と森恒夫を中心とする赤軍派というふたつの党派が合体してできている。そこで赤軍派の男性原理と永田は衝突していた。そしてその原因は、大塚によれば、ほんらい永田が同世代の「花の二四年組」のマンガ家たちと同じ「かわいい」感性を持っていたにもかかわらず、それをうまく表現できなかったことにあった。それゆえに、そこで感じた違和感が攻撃性へと転化して、リンチ殺人という悲劇が起きることになった。その「かわいい」感性が刑務所に入ってから開花したのが、マンガ的な絵だということですね。
 これは図式的にわかりやすいというだけでなく、かなり説得力があります。永田洋子だけでなく、植垣康博、坂口弘、坂東國男などの回想録も読んでみましたが、たしかに赤軍派と革命左派はかなり性格がちがう組織なんです。赤軍派は京都の大学生が中心なのに対し、革命左派は京浜地区の労働者が母体になっています。ジェンダー的にも、赤軍派が男性中心の集団だったのに対し、革命左派は看護学校の生徒なども入っていて、女性がかなり多い。永田自身も共立薬科大学の出身です。そして現実に、この性格のちがいが衝突して諍いが起きたことが、山岳リンチ事件の出発点にある。いわゆる「水筒事件」です。

さやわか 赤軍派が南アルプスに山岳ベースを作る。そこにあとから革命左派が合流する。そこで革命左派が水筒を持っていなかったことが、赤軍派から「山を甘くみているんじゃないか」と問題視されたという事件ですね。

 そう。そのとき革命左派はすでに山中にアジトをもっていた。でもそれは奥多摩のバス停から歩けるような場所で、赤軍派の本格的なベースとはちがっていた。そのちがいは革命左派の家庭的というかのんびりした性格を表していたんだけど、赤軍派はまさにそここそを執拗に責める。だからこれは、赤軍派と革命左派のどちらが連合赤軍の主導権を取るかの問題でもあって、永田はこの件でとても屈辱を覚えた。そこで彼女は、一種の反撃として、赤軍派の遠山美枝子を批判することになる。遠山は赤軍派の幹部の妻で、特権的な存在として扱われ、化粧やパーマをしていた。それを永田は「兵士としてどうか」と攻撃する。主導権を握りたい赤軍派も、舐められてはいけないとそこに同調する。山岳リンチの総括の連鎖はここから始まったんです。

 つまり、赤軍派の男性原理と革命左派の原理が衝突したという大塚の見方は、基本的に正しいんですね。ただ、問題は、大塚が永田をほかの女性と区別していないことにある。たとえば大塚は大槻節子という女性の文章も参考にしています。大槻はリンチで殺されるのですが、恋多き女性でした。死後出版された手記『優しさをください』には、いかにも少女趣味的なポエムが並んでいる。「誰かを愛したいのです。たった一度、過去にあったように、もっと深く、もっとひたむきに、もっと真摯に、もっと全的に、やさしく、厳しく、熱く――」★1といった感じです。

さやわか 高野悦子『二十歳の原点』のような感傷的な文章ですね。

 まさに少女マンガなんです。だから、大槻を典型的な「かわいい」感性の女性だというのはわかる。彼女は六九年の羽田闘争事件で、恋人の関与を警察に自供してしまう。『優しさをください』に、自供の背景に警官への恋慕があったことが記されています。のちには革命左派の向山茂徳の恋人になりますが、彼の処刑のきっかけもつくってしまう。とにかく恋愛に振り回されているという印象で、その是非はともかく、若い健康的な女性という感じはする。
 けれどもそれは永田とはまったくちがうんです。永田の文章では、女性性や身近な恋愛の問題がまったくリアリティをもっていない。それが抽象的な共産主義の言葉に直結してしまっている。いまの言葉でいえば、じつに「セカイ系」的なんですね。そしてその弱点を自覚してもいる。

さやわか 永田は、わたしは性愛がわからないとずっと書いていますね。

 そうなんです。大槻の健全さとはまったく異なり、永田は「愛するとはなにか」「感情を持つとはなにか」という、はるかに手前の段階でつまずいてしまっている。そしてそのつまずきすら、生硬なイデオロギーの言葉で語られている。
 たとえば永田が、恋愛や人間的感情に対して否定的だった自分を反省し、『十六の墓標』で書いているのはこんな文章です。「こうした傾向が進歩的でないことは、実際に心からの恋愛をすれば、あるいは自分が女であることを自覚させられる経験をすれば感覚的にせよ気づくことができる。ところが、心からの恋愛も女であることを自覚させられる経験もしなかった私は、連合赤軍の敗北に至るまでこの傾向をもちつづけた。だから、私は婦人解放を願っていたにもかかわらず、家父長主義にたいして何一つとして闘えなかった。反対に、試行錯誤的な恋愛を「自由恋愛」とみなして抑圧し、家父長主義を女の側から支えていくことになってしまったのである」★2。じつに硬い。永田は、イデオロギーに囚われていた自分を批判するのすら、イデオロギーの言葉でしかできない。『十六の墓標』にはこの手の文章がたくさん並んでいる。ぼくはそれがすごく興味深いと思ったし、永田の特異性だと思ったんですね。

さやわか 聞いていると宗教者のような印象すらある。

 当時の左翼学生はかなり性的に自由です。くっついたり離れたりしている。じっさいずっとアジトに一緒にいるわけだから、自然にそうなる。けれど永田にはその意味がさっぱりわからない。セックスイコール結婚であり、それは男女がパートナーになって闘争することであり、だから幹部からの承認も必要だと教条主義的に考えている。『十六の墓標』にはその勘違いについての反省も繰り返し書かれていて、「性愛的感情よりも結婚の形式の方を重視していた当時の私は、彼女のこの発言[恋愛についての相談]を理解できず」「当時の私のこのトンチンカンな対応を思うと赤面する」という文章があったりする★3。このぎこちなさはもはや一周まわってかわいい(笑)。ぼくはじつは、手記を読んで永田洋子に人間的にかなり惹かれてしまったんですよね。

永田洋子の文体について語る三人。左からさやわか、大井昌和、東浩紀

大井 東さんはそういうのに惹かれるんですね。ぼくは、世界を認知する目が自分とまったくちがうと感じて、だめだった。

 むろんそれは大前提ですが……。いずれにせよ、彼女は大塚が指摘するような「かわいい」感性を持っているひとではないと思いました。むしろ、ふつうに愛情を持ち、ひとと付き合うのが苦手な人物だった。そこは大槻節子らほかの女性メンバーと大きく異なっている。じっさい、永田自身が、大槻らほかの女性メンバーのことが理解できなかったと、『十六の墓標』で繰り返し繰り返し書いているんですよ。大塚はそこを無視するべきではなかったと思う。

大井 なるほど。永田洋子はそのかわいい感性をその後の人生で向き合っていってる感じがやはりしますね。大塚が『続 十六の墓標』で発見するところなのですが、山岳ベースではまだその感覚を得ていない永田が、大槻さんたちからかわいいという感性を少しずつ得ていったはずなのに、あんな結果になってしまったという……。 

新人類世代とジェンダー


 では永田と大槻の差異にはなんの意味があるのか。永田は、婦人解放の問題に強い関心があるひとでもありました。でも当時の左翼運動には露骨な男女差別があった。役割差別だけでなく痴漢なども横行していた。そして永田には、ほかの女性メンバーはその性差別を自然に受け入れているように見えた。『十六の墓標』にはそこへの苛立ちもかなり記されている。『十六の墓標』は、いまの視点だと、MeTooの告発本みたいに読めるんですよ。

さやわか それはおもしろいですね!

 つまり永田には、大塚英志の読解とは逆で、大槻的な「かわいい」あり方は、むしろ男女が結託した反革命を支えているように見えたんじゃないか。だからこそ彼女は女性同志のリンチを先導することになったんじゃないか。つまり、永田はそもそも「マッチョ/かわいい」という対立の外にある。そしてそこに、いまのMeTooにつながるような現代性がある。これがぼくの見方です。

さやわか 説得力がありますね。むしろ、東さんの話を聞いていると、なぜ大塚が永田と大槻を一緒にしてしまったのかがわからなくなる。

大井 不思議ですよね。永田の絵を見て「乙女ちっく」だと直感したとしても、『十六の墓標』の遠山や大槻についての記述を読めば、永田がその「かわいい」感性をあとから身につけたとわかりそうなものですが。

 二つ理由があると思います。ひとつは世代的な問題で、大塚さんにかぎらず新人類世代の論客は、全共闘=団塊世代=家父長制的なマッチョな感性から新人類=消費社会=「かわいい」的な少女の感性へと世界は進歩したんだというシンプルな図式を好む。大塚はその図式のうえで、永田を反家父長的で反団塊世代的な感性の先駆者として見出そうとした。だから逆に女性のあいだの争いは見えなくなった。

さやわか なるほど。

 もうひとつは読み方の問題です。さきほど大井さんが指摘したとおり、大塚は『続』のほうしかまともに関心を向けていない。『十六の墓標』はかなり硬い謎めいた文章で、ふつうにこの文章を読んだら「かわいい」感性の人だとはとても思えない。永田はひらたく言えば「生き方が不器用なひと」です。それはさきほども述べたとおり、一周回ってかわいいと言えなくもない。けれど、それはポストモダンな消費社会を肯定するような大塚的な「かわいい」感性とは真逆のもので、むしろすごく生真面目で一生懸命なものです。
 ちなみにいうと、その生真面目さは植垣康博や坂口弘の文章ともちがう。彼らの回想もたしかに真面目で、イデオロギーの言葉に満ちているのですが、そちらではセカイ系的な短絡はない。社会との関係がもっと安定しているんです。その点で永田の文章はとても変わった印象を与えます。ちなみに安彦さんの『革命とサブカル』収録の対談で、植垣氏は『十六の墓標』は自分がリライトしていると述べています。でもぼくにはちょっと信じられない。文章の質がちがいすぎる。

大井 東さんがそういうところで永田に共感するのはすごくわかります。

永田洋子『十六の墓標 (上)』(彩流社)

 大塚さんには、まさにその文章の「質」が見えていない。だから『続』の絵のイメージだけで永田を語ってしまう。いささか厳しくいえば、これは文学的感性の問題です。大槻と永田の文章を並べてともに「かわいい」とまとめられるというのは、文章が読めていないと思います。

さやわか たしかに本編と『続』では文体が変わっている。ぼくはもともと大塚さんが考える「文学性」に違和感を覚えていて、それは『「彼女たち」の連合赤軍』を読んでも感じました。彼の文学性は、つねに「人間を描けているか」という問題に収斂していく。表現が問われないわけです。だから、たとえば大塚はニューウェーブのマンガを評価しないんですよね。

大井 岡崎京子は評価してるでしょう。

さやわか 岡崎京子については、彼女はマンガの身体が記号としてしか描けないことを、消費社会における内面への忌避と重ねて表現した、という評価の仕方なんですよね。全体的に言うと、ニューウェーブは表層的で、内面を描いている二四年組のほうがいいという議論になるんです。「人間が描けている」かどうかが重視される。彼のまんが・アニメ的リアリズム論の中心をなす「傷つく身体」の概念も同じですね。マンガの絵は記号なのだと自覚しつつ、その記号によって描けないもの、すなわち死や内面を描くものが優れている、というわけです。だからニューウェーブでも、絵にリアリズムを求める大友克洋のようなタイプには感心しない。

 それはべつの言い方をすれば社会学的ということだと思います。それは新人類世代の特徴のひとつです。彼らは批評家としてのぼくの先行世代ですが、たとえば浅田彰――57年生まれの彼は厳密には新人類といわないのですが、大きくみれば同じ世代です――はもとは経済学者ですし、大塚英志と並んで90年代に影響力をもったのは宮台真司です。90年代は社会学と心理学の時代だと言われていました。大雑把にいえば、日本の論壇における知的覇権が文学者から社会学者に変わるというのが全共闘世代から新人類世代への移行で起きたことで、大塚もまたそのなかにいる。その限界が、いま読むとジェンダー問題の理解の粗雑さに結びついているというのが、おもしろいところだと思います。

大井 大塚は民俗学ですからね。社会学者というとすごい腑に落ちる。

さやわか 『物語消費論』も社会学的ですね。彼は一方では「文学的」とは内面や身体を描くものだと論じながら、その社会学的な機能についてばかり語っている。

大井 そう。身体と内面を、なぜ、どのように描く必要があるかについては、じつはまったく語ってない。その弱点が『「彼女たち」の連合赤軍』に出ているということですね。だんだんわかってきました。

さやわか ぼくはいま『ゲンロンβ』で「愛について」という連載を書いています。いまお話しを聞いていて、そこで書こうとしていることは、まさに東さんが『十六の墓標』に見出した問題と同じではないかと思いました。現代ではセクシャリティ、家族、ファンカルチャーなど、とかく愛情を軸にした関係や評価軸が焦点になりがちです。しかし、そもそもこれらが愛情を軸にしたものだと考えること自体、古い価値観に追従している。だからそのままでは、これらにまつわる今日の我々の問題をうまく解決できないのではないか。ぼくの連載はその考えを出発点にしています。
 じつはぼくも永田と同じで、愛の問題がよくわからない。ぼくの母親は永田の一つ上の四四年生まれで、ウーマンリブの第一世代です。卒業文集に「女は社会に作られる」と書いたような女性だったんですが、ぼくの父親と結婚したら家父長的な抑圧のなかに入ってしまった。ぼくから見ると、彼女は「男女平等」を言いながら、実際にはなにも手に入れていないというモヤモヤがずっとあったんです。それは永田の置かれた状況と近いのではないか。永田は、彼女の居場所を求めて運動に入ったのだけど、現実の運動は答えを与えてくれない。

大井 それどころか女性性を抑圧されてしまう。

さやわか だからきちんと自分を確立しないまま、論戦や闘争だけが空虚にうまくなってしまう。それで革命左派のトップにまで上り詰めた。永田は、みなが平等になる革命社会を目指しているにもかかわらず、なぜ現実の運動では女が男に搾取されているのか、ずっと違和感をもちつづけていた。東さんがおっしゃったのは、その感覚のほうが「かわいい」感性より大事だということですよね。じっさい、手記を読むとひどい。アジトには女性が必ずつけられていて、男性テロリストの身の回りの世話をさせられたりする。

 当時の闘争では、おにぎりを作るとか受刑者の支援をするといった仕事はぜんぶ女性のものだったようですね。つまり女性はあくまで後方支援。永田は初期からそれに対して強い抵抗感を持っていた。そここそ、いま注目されるべきなんですよ。

大井 しかし、あの世代の連中はなぜあんなに性差別的なんですかね。リベラルではなかったのか。

 手記を読むとほんとうに深刻ですね。そもそも永田は、自分が指導者になるまえ、革命左派の指導者だった既婚者の男性にレイプされています。当時の運動のタテマエでは、男女の同志がふたりきりで一緒にいるのは危険だと考えること、それ自体が反革命的だと批判されていた。そのタテマエを信じて自宅にあがったら、強引に泊まるように迫られ、おまけに奥さんは実家に帰っていて、レイプされる。それが最初の性体験です。さらに言えば、永田の恋人で「結婚」していた坂口弘も、手記の彼女に対する記述を見ると、根深くマッチョイズムがあって暗澹たる気分になります。

さやわか 彼らの「男女平等」は、男女が同じ部屋にいても女性が文句を言わないという意味でしかなかったわけでしょう。そしてセックスを強要する。

山本直樹『レッド(1)』(講談社)

 ここらへんは、まさにこんどゲンロンカフェに山本直樹さんをお呼びしたときに聞きたいところです。ぼくが山本さんの『レッド』がいいと思った理由のひとつは、この作品が永田の視点を中心に連合赤軍の物語を語ったことにあります。『レッド』は史実にたいへん忠実に作られていて、永田、坂口、植垣の三人の手記を読むと、会話ひとつひとつの元ネタが特定できるくらいです。けれども、ぼくの読むかぎり永田の視点がもっとも多い。いいかえれば、ある意味でフェミニズム的というか、女性から見た左翼運動の欠点や弱点に共感しながらつくられている。
 ぼくは永田の人間像に惹かれているといいましたが、山本さんの描く永田洋子、つまり作中の「赤城容子」は、あるときはかわいく、あるときは非常にヒステリックに見える両義的な描かれ方をしていて、このキャラクター造形はほんとうに優れていると思いました。その点は『レッド』のなかでも遠山(天城)や大槻(白根)とはっきり異なっていて、彼らはたんにかわいい女性として絵が作られているんです。でも永田はちがう。大塚英志に見えなかったちがいが、山本さんにははっきり見えている。
 ちなみに、大塚英志は遠山美枝子も大槻節子も永田洋子もぜんぶ一緒にしてしまったわけですが、団塊世代の見方のなかでは、永田は単にヒステリックな「鬼ババ」になる。それがよくわかるのが、『レッド』の連載中に公開された若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』です。遠山は美人で、永田はヒステリーとして演出されている。だから三つの見方があるんです。団塊世代は遠山はよい女、永田は悪い女と区別する。大塚英志は両方とも「かわいい少女」として肯定する。山本直樹は遠山と永田を区別しつつ、永田の違和感に寄り添っていく。(『ゲンロン11』へ続く)
 
2020年1月9日 東京、ゲンロンカフェ
構成・注=編集部

本座談会は、2020年1月9日にゲンロンカフェで行われた公開座談会「マンガは歴史と社会を語れるか2――大学紛争と『ビューティフル・ドリーマー』の問題、あるいは大塚英志とジェンダーについて」を編集・改稿したものです。

★1 『優しさをください』[新装版]、彩流社、一九九八年、五六頁。
★2 『十六の墓標(上)』、彩流社、一九八二年、三九頁。
★3 同書、二四四−二四五頁。
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『ゲンロン11』
安藤礼二/イ・アレックス・テックァン/石田英敬/伊藤剛/海猫沢めろん/大井昌和/大森望/大山顕/小川哲/琴柱遥/さやわか/武富健治/辻田真佐憲/中島隆博/速水健朗/ユク・ホイ/本田晃子/巻上公一/松山洋平/安彦良和/山本直樹/柳美里/プラープダー・ユン/東浩紀/上田洋子/福冨渉 著
東浩紀 編

¥2,500+税|A5判・並製|本体424頁|2020/9/23刊行

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1975年生まれ。漫画家。第3回電撃ゲームコミック大賞銀賞。月刊電撃コミックガオ!にて『ひまわり幼稚園物語あいこでしょ』でデビュー。主な作品は『ちぃちゃんのおしながき』『おくさん』『明日葉さんちのムコ暮らし』『一年生になっちゃったら』など。

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1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』(青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』全5巻(LINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。近著に『世界を物語として生きるために』(青土社)。LINEマンガで『永守くんが一途すぎて困る。』(原作。作画・ふみふみこ)を連載中。

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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