愛について──符合の現代文化論(4) 少女漫画と齟齬の戦略(中)|さやわか

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初出:2020年4月17日刊行『ゲンロンβ48』
 前回の内容を簡単に振り返ろう。日本の古典的な少女漫画は、恋愛、結婚、出産の三つをセットとする保守的な社会規範、ロマンティックラブ・イデオロギーに沿った物語を描くものとして発達した。しかし一九七一年、山岸凉子がバレエ漫画『アラベスク』を描いて以降は、異なる潮流が生まれた。

 山岸はこの作品を、当時の少女漫画にとっては異例の絵柄で描いた。いかにも漫画的な丸みをおびた体つきではなく、ごつごつした筋肉を持つ、リアルなバレエダンサーを描いたのだ。山岸は『アラベスク』の絵を従来の少女漫画が求める記号性から脱却させることで、より本格的なバレエ漫画を描くことに成功した。すなわち、記号と意味の関係に「齟齬」を生むことで、少女漫画はロマンティックラブ・イデオロギーを描くものという定型を脱したのだ。

 前回も述べたように、「齟齬」とは「符合」の対義語である。噛み合わせを意味する「齟」と、互いに入れ違うことを意味する「齬」から成る二字熟語で、つまり食い違いを意味する。「符合」が記号と意味を結びつける行為だとすると、「齟齬」はその結びつきが一対一の形にワンパターン化するのを阻む行為だ。筆者は『アラベスク』の身体描写を、一対一の符合に固執しがちな記号と意味の関係に齟齬をもたらすものとして捉え、それが社会の固定観念を攪乱するものだとした。

 実際、山岸凉子は『アラベスク』以後、評論家の村上知彦が言う「〈家〉とのたたかい」、つまりロマンティックラブのくびきを逃れた愛情関係や家族像を題材にした作品を数多く手がけるようになる。しかし、そうした作品を描くようになったのは山岸だけではない。『アラベスク』以後の時代には、山岸と同世代の少女漫画家たちも、恋愛、結婚、出産によって愛情ある近代的家族が生まれるという、記号と意味の符合の無根拠さ、ロマンティックラブ・イデオロギーの持つ「執着的な愛」を攪乱する、すなわち齟齬を生む作品を描くようになる。それが七〇年代以降、山岸と同世代の「二四年組」と呼ばれる作家たちが少女漫画にもたらした変革だった。

 二四年組とは昭和二四年前後に生まれた、それ以前の世代とは異なる作風の少女漫画家たちを指す言葉だ。彼らは一九六八年から一九六九年ごろにデビューし、SFやファンタジーの要素を積極的に採り入れたほか、同性愛や近親愛を好んで描いたこと、また近代的家族の不和と崩壊をシリアスに描いたことなどが、特徴として挙げられる。その特徴から、彼らの作品は七〇年代を通して人気を集め、村上のような男性をはじめ、他分野の評論家や作家にも好意的に読まれた。

 ただ、男性たちが二四年組を評価することは、当初からしばしば批判の槍玉に挙げられている。たとえば漫画評論家の米澤嘉博は一九八〇年の著作で 、二四年組の作家である萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子が男性読者の人気を集めるようになった七〇年代半ばの状況について次のように書いている。


 この頃、萩尾、竹宮を求めて男性の少女マンガファンが増えつつあった。が、それは少女マンガらしからぬ世界を描く女流という把え方であったことは、後々の萩尾を誉めあげる男性達の言辞を見ればいい。少女達はHOT[引用者註:萩尾、大島、竹宮]に魅せられたのだが、男達にとっては大島弓子だけは許容できなかったのだ。それは、大島弓子について語る時に「とにかく、ネームがすごい」の一言だけであったことからもわかるだろう。
 わたなべまさこの流れにある絵。乱舞する花びら、無造作に描かれた木の葉、西洋趣味の調度、古びた洋館――それは少女マンガの装飾そのものだった。ましてや、SFでもミステリーでもヘッセでもなく、大島弓子が描いたのは少女マンガの世界そのものだった。たしかに、詩的ネームと文学趣味に彩られたペダントリーは、「高尚」さを感じさせたが、それ以上ではなかった。話は類型的であり、ドラマチックですらなく、虚構空間のリアリティもドラマツルギーも希薄なのだ。★1



 米澤は、萩尾や竹宮と違い、大島の表現は少女漫画直系のものであると指摘している。それがゆえに、以前からこのジャンルを読んでこなかった男性読者は表現技法へのリテラシーを持っておらず、正しく評価しえない。米澤が言うのはそういうことだ。

 また、ここでは大島のストーリーが「ドラマチックですらない」と評されているが、言い換えれば大島の作品は、少年漫画や劇画、あるいは二四年組と同じく六〇年代末にジャンルとして成立した青年漫画で多く見られるような、筋書きの起伏や意外性を求めて読むタイプの漫画ではなかった、と言える。

 たしかに大島の作品では、プロットが起承転結のように明快に展開するとも限らない。また現実のものではない幻想的な出来事や登場人物の見た夢の描写などが差し挟まれ、作品のリアリティレベルを見失いやすくもある。加えて、米澤が指摘する「乱舞する花びら」のように心象風景とおぼしき事物が描かれるほか、多数の台詞(発語)とモノローグ(内語)が並行して配置されもする。これらの錯綜した表現 をもとに登場人物の心情をうまく掴むことが求められる。

 それゆえ二四年組の中でも、大島については、少女漫画に触れていない読者が難解に感じたり、読みにくく感じることもあったようだ。にもかかわらず、その難解さを切り捨てて、男たちは自分たちの都合のいいように作品を解釈し、二四年組の作家を選別し、評価している。これが米澤の主張である。

 同様の批判は二四年組がブームだった七〇年代当時から、今日まで繰り返しなされている。漫画研究者の宮本大人が二〇〇〇年に、二四年組のブームについて「すでに相当の厚みと幅を持っていた、少女マンガの中から、ある種の作家・作品群のみが、言わば、語るに足る、語るべき対象として、切り出され」★2たとしているのも、同様の姿勢から男性読者の独善を指摘したものだろう。

 ただ、ここでは米澤が男性読者を、少女漫画を読みこなす「少女達」と対比して扱い、その無理解を論っていることに注目したい。この後の文章でも彼は「大島弓子は『風景』を創りあげる。その風景の中に入り込んでいけるのは、少女マンガの甘やかな夢に酔える読者達であった」と書いている。つまり彼は単に「このジャンルを読み慣れていない者には理解できない」のではなく、「そのジャンルを読みうるものにしか理解できない」ひいては「男性は少女漫画が理解できない」と主張しているのに近い。

 米澤は男性だが、こうした論調は、女性からの意見ではよりはっきりと示されることが多い。たとえば漫画家のやまだないとは、同じく漫画家のよしながふみ、菓子研究家の福田里香との鼎談で次のように語っている。

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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