つながりロシア(12) 文学の「死」の後の文学の運命|松下隆志

初出:2020年5月25日刊行『ゲンロンβ49』

現代ロシア文学という「物語」を読む

 コロナ禍により、わずか数ヵ月の間に世界の有り様が激変した今となっては遠い昔のことに思えるが、去る2月末に初の単著『ナショナルな欲望のゆくえ――ソ連後のロシア文学を読み解く』を出版社「共和国」より上梓した。2015年に北海道大学に提出した博士論文を基に、『ゲンロン6』に寄稿した論考★1を加え、章構成の変更などを含め全体的に読みやすく加筆修正を行っている。 現代文学というテーマ上あまり時間が経つことは望ましくなかったので、とりあえずこうして形にできたことに安堵している。

『ナショナルな欲望のゆくえ――ソ連後のロシア文学を読み解く』(共和国、2020年)

 ソ連崩壊からはや30年が経とうとしている。拙著が扱っているのは、おもに90年代と00年代の二つのディケイドにおけるロシア文学のプロセスである。幸い、近年は現代ロシア文学の翻訳が進み、様々な作家のテクストに日本語でアクセスできるようになった。一方で翻訳される作品には偏りもあり、作家たちの背後にある共通の問題意識や文脈までは把握しづらい現状もある。そこで拙著では、ただ個々の作家や作品の分析に留まらず、現代ロシア文学の展開をひとつの「物語」として読み解くことを試みた。

 もちろん、それは容易なことではない。ソ連時代のように文学を体制/反体制といった単純な構図で語れるような状況にはもはやないのだ。日本同様にジャンルの多様化も進むなか、ある書評家が、現代文学の膨大な作品を寄せ集めたところで、できあがるのはせいぜい相互に関連のないバラバラの「リスト」だと嘆いたのも無理はない★2。「リスト」を「物語」に変えるには、軸となるキー概念を設定し、分析対象を取捨選択する必要がある。

 そこで目をつけたのが、90年代のロシアで大流行したポストモダニズムだった。もともとウラジーミル・ソローキンというポストモダン作家の研究や翻訳をしており、彼の創作の背景を深く掘り下げてみたかったというのもある。さらに、日本のオタク文化にポストモダン性を見いだし、「データベース消費」や「動物化」といった独自のポストモダン論を展開した東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)も念頭にあり、欧米のそれとはかなり異質なロシア版のポストモダニズムを起点に現代ロシア文学のプロセスを考察してみれば面白いだろうと考えた。

 博士論文を書き上げてから本にするまでにはさらに数年を要したが、その間にロシアのポストモダニズムを思想の面から分析した乗松亨平の『ロシアあるいは対立の亡霊――「第二世界」のポストモダン』(2015年)の刊行、そして筆者も参加した『ゲンロン6・7』でのロシア現代思想特集(2017年)があり、現代ロシアの思想・文学・文化をめぐる日本の言論状況も改善された。よって、ロシアのポストモダニズムについて改めてここで詳しく述べることはしない。右に挙げた本や特集に興味を持たれた読者は、ぜひ拙著も合わせて読んでいただければと思う。

 代わりに本稿では、拙著の主人公と言ってもいいソローキンの現時点での最新長編『マナラガ Манарага』 (2017年)について考察を行ってみたい。

書物破壊の背徳的な快楽

 批評家マルク・リポヴェツキーは「死」がロシア・ポストモダニズムのシンボルとなったと述べたが★3、ソローキンの長編『ロマン』(1985-89年、邦訳1998年) を締めくくる「ロマンは死んだ」という簡潔極まりない一文以上に、ソ連崩壊後のロシア文学の状況を直截に言い表した言葉はないだろう★4

 文学ロマンが死んだならば、もはや小説を書く意味はない。ロシアでソローキンの作品の刊行が本格的に始まったのが90年代ということもあってわかりにくいが(『ロマン』の刊行は九四年)、作者の方は九一年の『四人の心臓 Сердца четырех』 を最後に小説の執筆をぱたりとやめてしまい、活動の場を演劇や映画の脚本に移していた。つまり、ロシアでポストモダニズム旋風が吹き荒れた90年代、中心的な存在だったソローキンは文学を離れていたことになる。

 そんなソローキンが8年ものブランクを経て電撃的に発表した小説が『青い脂』(1999年、邦訳2012年) だった。2013年の来日時に著者から直接聞いたところでは、射精のような激しい衝動に突き動かされ、短期間で一気呵成に書き上げたのだという。ロシア文豪のグロテスクなクローンたち、並行世界でのスターリンとフルシチョフのセックスなど、スキャンダラスな内容をふんだんに含む本作は、ソローキンの作品としては異例の10万部以上の高い部数を記録した。その一方で、国内でのポストモダニズムの流行が下火になっていたこともあり、批評家の評価は必ずしも芳しいものではなかった。

 そこでソローキンは大きな賭けに出る。2002年に発表したファンタジー小説『氷』(邦訳2015年) で、大胆に文学への回帰を宣言したのだ。「失われた精神の楽園探しの物語」と銘打たれた本作は、「原初の光」という独自の創世神話をベースに、それを心臓こころに宿す秘密教団が23000人の仲間を残らず見つけ出し、宇宙を浄化するために人類を滅ぼすという、物語性が強く前面に押し出されたものとなった。 その後、前日譚の『ブロの道』(2004年、邦訳2015年) 、結末編の『23000』(2005年、邦訳2016年) が書かれ、『氷』はトルストイ顔負けの巨大な長編ロマンに発展することになる。

 とはいえ、かつて自ら文学の死を大々的に宣言した人物の文学への回帰が矛盾を孕まないはずがない。「失われた精神の楽園探しの物語」という表看板の裏にちらつくナチス的選民思想に一部の批評家は戸惑い、文壇では作者の真意をめぐって論争が起きた★5。そもそも『ロマン』にしてからが文学によって文学の死を宣言する逆説的な試みであったわけだが、当時は文学を美的オブジェとして対象化するコンセプチュアリストという作者の立ち位置がそれを正当化していた。『氷』での文学回帰宣言は、ソローキンの創作に当初から内在していたアンビヴァレントな態度を問題化させることになったのである。

 さて、近年はロシアやヨーロッパの行く末を占う予言的な作品を書き続けているソローキンだが、2017年に発表した『マナラガ』では久々に文学それ自体を真正面から扱っている。前作『テルリア』(2013年、邦訳2017年) の流れを引き継いだ本作は、イスラム原理主義との戦争で分裂した二一世紀中葉の世界が舞台で、そこでは戦禍により紙の本の九割が失われ、残り一割は博物館や美術館に所蔵される美術品となっている。紙の本を読む習慣は失われ、もはや新たに製造されることもない。

 このポスト・グーテンベルク的な世界では、貴重な紙の本を燃やした火で料理を行う「ブックングリル bookʼn’grill」 と呼ばれる非合法なショーが、セレブを中心に流行している。その料理人は「ブックングリラー bookʼn’griller」 と呼ばれ、彼らは本を「薪」として火にくべ、「エクスカリバー」と言われる特注の剣でページを切り刻み、火の勢いを巧みに調整しながらステーキなどを焼く。主人公のゲザは世界を股に掛けるロシア文学専門のブックングリラーで、依頼人の目の前でドストエフスキーやプラトーノフの本を華麗に焼いてみせる。

 ゲザの日記形式で進む物語は、何者かによるナボコフ『アーダ』の初版本のクローン計画が露見してから急転回する。ブックングリラーの秘密組合である「キッチン」から計画の阻止を一任されたゲザは、『テルリア』に登場した航空部隊「青いスズメバチ」の助けを借り、クローン機械が隠されている北ウラルのマナラガ山へ乗り込むも、返り討ちに遭って気を失う。目覚めたゲザの前に現れたのは、フランス文学専門のやり手ブックングリラー、アンリ。彼は稀覯本の大量クローンによってブックングリルを合法化し、さらに調理の過程を自動化する装置を導入することによって、世界各地にブックングリルのレストランを開く野望を語る。料理がオートメーション化されれば、もはや料理人=ブックングリラーは不要だ。このような「革命」 を望まないゲザは抵抗を試みるが、最終的には洗脳によってアンリの仲間に引き入れられる。

 本を燃やすという行為は、国家に本の所有が禁じられた世界を描いたレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』を想起させる。 しかし、権力が言論弾圧の手段として本を燃やす焚書とは異なり、『マナラガ』で本は人々の娯楽のために燃やされる。また、『華氏451度』のトリュフォーによる映画版(1966年)では、本が失われたときのために内容を丸ごと暗記している「本の人々」が登場するが、『マナラガ』のゲザはロシア文学専門のブックングリラーであるにもかかわらずロシアの小説をまともに読んだことはなく、代わりに体内に埋め込んだ「電脳蚤」と呼ばれるマイクロチップがあらゆる作品の内容を記憶している。 ブックングリルにおいて重要なのは作品の内容ではなく、あくまで「薪」、すなわちテクストが印刷された紙という物質それ自体なのである。たとえば、作中でそのクローン化が問題となる『アーダ』に関する記述は次のようなものだ。

『アーダ』――超ヘヴィー級、脂ののった――これで焼くのは喜びに尽きる――紙は分厚い、木材パルプ紙ウッド・パルプ・ペーパー、六百二十六ページ、クロース装丁、アート紙カバー。ロドス島のマツのように燃える。一冊の『アーダ』で、どんな海産物の組み合わせだろうと、たっぷり十二人前は料理できる。ラム肉のカツレツ、ヨーロッパウズラ、リブアイが最高に上手く焼け、ノロジカの鞍下肉だって扱える。偉大な本だ!★6

 一方で、『マナラガ』にはやはりソローキン特有の文学に対するアンビヴァレントな態度が強く感じられる。ブックングリルにおいて本の内容は重要な意味を持たないにもかかわらず、本の「薪」としての価値は本の内容によって決定されるのだ。ゲザが燃やすのは基本的に一流の古典だけであり、彼が二流と見なしているゴーリキーや「ポストソ連文学」などの本を料理に用いることはない。燃えているのは、「本の物質的な価値ではなく、象徴的な価値」★7なのである。

『マナラガ』の受け止め方は様々だ。危惧される紙の書物の絶滅に対するソローキン流の回答だとまっとうに解釈する者がいる一方、「ポストソ連文学」に対する冷ややかな扱いは一部の批評家の怒りを買った★8。エヴゲーニー・ドブレンコ、イリヤ・カリーニンとともにソローキンに関する700ページもの評論集『これは紙の上の文字に過ぎない…… Это просто буквы на бумаге…』 (2018年)を編んだリポヴェツキーは、『マナラガ』において文学は「聖性の新たな源泉」となり、ブックングリルという行為は「崇拝と破壊、文学中心主義とその批判という対立を解消」するのであり、「文学中心主義は死んでいないばかりか、逆に聖なるものの無尽蔵のタンクとなる」と述べている★9。 ブックングリルのアンビヴァレントな性格を的確に言い表していると思う一方、個人的にはそれほど楽観的な感想を持つことはできなかった。

文学の「死」の後の文学の運命

 これを書いていて思い出したが、緊急事態宣言が出る前に観た三島由紀夫と東大全共闘の映画で、三島は行動は非合法でやるほかないと発言していた。文学の死を宣言した『ロマン』は検閲が緩んだペレストロイカ期のソ連でも出版されず、文字通り非合法な作品だった。『青い脂』は合法的に出版されたが、社会に害を為す「悪書」として親プーチン派の青年団体から訴えられた。今から考えると、当時のロシアにおいて文学はまだ「殺す」に値する何かだったのだ。だが、それからおよそ20年後に書かれた『マナラガ』では、文学は本当に死んでいるように見える。ブックングリルは非合法なものだが、所詮はセレブの火遊びに過ぎない(しかも、結末では将来の合法化が仄めかされている)。

『マナラガ』を一読して気がつくのは、設定が『青い脂』によく似ていることだ。未読の方のために簡単に説明しておこう。物語の始まりは2068年のシベリアで、国家のある秘密研究所で永久エネルギーの問題を解決するという「青脂せいし」なる物質の開発研究が行われている。青脂はロシア作家の創作過程の副産物としてのみ得られるとされ、作中では七体のロシア作家のクローンが現れ、実際に創作を行う。だが、できあがった小説や詩は「言語促進学者」 である語り手のコレクションとしてしか意味を持たない。一方、『マナラガ』ではトルストイやニーチェなど文豪の僭称者が登場し、自分で書いた二次創作的な作品をゲザに「薪」として提供する。クローンや僭称者たちのテクストはいずれの作品にも小説内小説という形で組み込まれている。

 こうした類似にもかかわらず、『マナラガ』から受ける印象は『青い脂』のそれに比べてはるかに軽い。たしかに前者は後者に比べて分量も内容も小ぶりな作品だということもあるが、理由はそれだけではなさそうだ。ロシア作家の創作のみから得られる青脂は、いわばロシア文学という概念が物質化したものである。青脂はたとえ地球が滅びようとも残るとされ、権力者たちもそれを手中に収めることはできない。『青い脂』でソローキンはロシア文学を極限までグロテスクに戯画化してみせ、それは生真面目な文学愛好家らを怒らせはしたものの、同時にそこにはどれほど歪曲され踏みにじられようとも消えることのないロシア文学の強度のようなものが感じられた。それに対して、『マナラガ』における書物は物言わぬ「薪」であり、燃やされた後には灰しか残らない。ブックングリル自体が、何やら文学を弔う荼毘の儀式に思えてならない。

 昨年は初となるエッセイ集の出版や作家本人に取材したドキュメンタリー映画の公開など、創作以外のニュースが多く、今は沈黙の時期だと語っていた。そんなソローキンが現在世界を覆っているコロナ禍についてどう考えているのか気になっていたが、つい先日(5月13日)、最新インタビュー★10が公開された。そこで作家は、グローバル世界とCOVID-19の遭遇をタイタニック号の氷山への衝突になぞらえ、いずれ世界秩序の転換が起きるだろうと述べている。しかし、『テルリア』ですでに「新しい中世」という来るべきポスト・グローバル世界のヴィジョンを提示したソローキンの受け止め方はいたって冷静だ。そもそもが隔離生活のようなものである作家としてのストイックなルーティンを継続しながら、数年ぶりに新作長編の執筆に取り組んでいるという。文学が死に、現実が文学的想像力を凌駕してしまったかに見える現在、それでもなお文学に何ができるのか、稀代の作家の新作に期待が高まる。

★1 松下隆志「ザハール・プリレーピン、あるいはポスト・トゥルース時代の英雄」、『ゲンロン6』、2017年、7692頁。
★2 Данилкин Л.А. Клудж: как литература «нулевых» стала тем, чем не должна была стать ни при каких обстоятельствах // Новый мир. 2010. №1. С. 140.
★3 Липовецкий М.Н. Русский постмодернизм: очерки исторической поэтики. Екатеринбург, 1997. С. 306.
★4 ここで「ロマン」は主人公の名前であると同時に、ロシア文学の伝統的な小説形式である「長編ロマン」を意味している。
★5 詳しくは拙著第八章「ナショナルな欲望の再(脱)構築――2000年代以降のソローキン」を参照されたい。
★6 Сорокин В.Г. Манарага. М., 2017. С. 120.
★7 Липовецкий М.Н. Автопортрет художника с грилем: «Манарага» и литературоцентризм // «Это просто буквы на бумаге…» Владимир Сорокин: после литературы / Под ред. Е. Добренко, И. Калинина, М. Липовецкого. М., 2018. С. 638.
★8 Данилкин Л.А. О чем на самом деле «Манарага» Владимира Сорокина // Афиша. 14.03.2017 https://daily.afisha.ru/brain/4792-o-chem-na-samom-dele-manaraga-vladimira-sorokina-obyasnyaet-lev-danilkin/
★9 Липовецкий. Автопортрет художника с грилем // «Это просто буквы на бумаге…». С. 640.
★10 Владимир Сорокин: Гротеск жизни зачастую сильнее фантазии писателя // Вся Андорра-Все Пиренеи. 13.05.2020 https://all-andorra.com/ru/vladimir-sorokin-grotesk-zhizni-zachastuyu-silnee-fantazii-pisatelya/
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1984年生まれ。京都大学非常勤講師。専門はロシア文学。著書に『ナショナルな欲望のゆくえ』(共和国)、訳書にソローキン『青い脂』(共訳)、『テルリア』(いずれも河出書房新社)、ザミャーチン『われら』(光文社古典新訳文庫)など。

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