日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(1) 人生について考えると抽象が気になってくる──4月29日から6月10日|田中功起

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初出:ゲンロンβ50 2020年6月26日発行

日付について


 ぼくは日付のついたテキストという形式に興味がある。  そもそも日付は社会的なものである。読み手も、書き手も、日付を通してそのときの社会状況を思い出す。いまはコロナ禍の中で、ぼくは緊急事態宣言下からそれが解除された時期にかけてこれを書いている。そして、あたり前だけれども、日付はとても個人的なものである。ぼくはいま家事をしつつ、妻と出産に向けて準備を行っている。

 

 日付のあるテキストは、そのひとがいつどんなときに何を考えていたのか、社会的背景と個人史の双方を結びつける 。ひとの考え方は変わる。例えば2011年3月10日に書かれたテキストと2011年3月20日に書かれたテキストがあれば、その間の大きな断絶を想像できる。3・11の震災がその間にあるからだ。 震災を経てそのひとが何を考えるようになったのか、二つの日付のあるテキストはその変化を記録する。もちろん、ぼくの場合は「作品」(「プロジェクト」という呼び名の方がしっくりくるけど)にも制作年が残るから、日記がなくても社会背景は参照されやすいけれども。

 

 これからここで書いていくのはいわゆる「日記」ではない。日記は基本的にはその日のうちに書き終えるものだし、推敲や校正などはいちいちしないだろう。むしろ密かに書かれるものかもしれない。だが、公開を前提にしたこのテキストは推敲があり、編集による校正が入り、著者校があり(さらに念校もあるかも?)、その上で公開される。個別の日付ではなく書き始め から原稿確定までの長さで記される。それでも個人的なことを書いていくわけだから、誰かの手が入り、公開を前提としていたとしても、やはり「日記のようなもの」だ。

 

 では、なぜ日記なのか。いや、なぜ日記のようなものを書くのか。

アーティストの人生は無意味?


 少し回り道をする。こうして書き始めるまですっかり忘れていたんだけど、個人的なことは無意味なことだと、ぼくはずっと思ってきた。いや、正確には「作品」は、アーティスト個人の人生とは切り離して 考えられるべきだと思っていた。アートスクールでのモダニズム教育(教わったというよりは独学だったかな)を通過したことによって、潔癖症になったのかもしれない。作品は作品のみで判断されるべきで、それを作ったアーティストがどんな人生を送っていようが、それが作られた社会背景がどうであろうが、それらは副次的なものである。その「作品」を作ったアーティストでさえも、自分が作ったものの意味を十分には理解していない。作品自体の緻密な分析によってだけ、はじめて その作品の意味や価値が見出される、という具合だった。これは対話型鑑賞という、作り手の言葉に左右されずに作品に含まれる要素のみで作品を理解しようとする考えにも近いけど、同時にアーティスト(の人生や社会背景等々)と作品を引きはがすことによって批評的な距離をもつ、というフォーマリズム批評の態度でもある。  かといって、アーティストの存在を、自分がアーティストであるにもかかわらず無視しなくてもいいはずだった。かつてのぼくは批評家的な見方を内面化するあまり、いつの間にかアーティストの人生なんて無意味だと思うようなねじれを自分の中に抱えていた。

 

 これはさすがにおかしい。  ぼくはいま、自分の人生が半分ぐらいにさしかかる歳になって、やっぱりそれは違うのではないか、と思い始めている。他者との協働(動物/無生物との協働をイメージしてもいい)で、集団としての制作をしている場合でさえも、「作品」はひとりの人間からはじまり、結局のところそのアーティストの署名の中に閉じてしまう。作者性はどこまでいっても 消えることはない。ぼく自身が消えてしまえば、「田中功起」として何かを新たにはじめることはできなくなる。

 ひとりの人間の行動がその環境からの影響によってある程度決まってしまうとすれば、社会的・政治的な状況はその制作と作品に(プロセスを重視するプロジェクトならばなおさら)十分に影響を与えるだろう。ぼくがロサンゼルスに住んでいたことも、いま京都に住んでいることも、よくもわるくもぼくの思考と行動に影響を与える。それが安易に関連づけられるのはいやだけれども、いくらこの生活と制作を切り離してみたとしても、そこには何かしらの結びつきがある。

 

 ところで、こうした「アーティストの人生は無意味」って発想がどこから来たのかをこの機会に考えてみた。それはたぶん学生のころに読んでいた美術批評家、藤枝晃雄のテキストに関係すると思う。そこで、彼の過去のテキストたちをまとめた『モダニズム以後の芸術』などの論集を改めて読んでみることにした。ところが予想していたものと印象が違う。藤枝は、もちろん作品自体を、それに付随する先行研究も抑えつつ、分析する。しかし、状況論的な考察とそれに伴った批判を中心にしたテキストも多い。彼はアーティストの人生と作品を安易に関連づける見方は手厳しく批判するけれども、以下に引用するように、よく読むともうすこし射程が広い。
もとより芸術作品には多様な要素が混在していて一律にとらえることはできず、たとえば社会学的、心理学的、言語学的といった方向からの考察が可能であるのはいうまでもない。しかし、いまここでいうフォーマリズムとは、先のそれよりも広義に用いられており、かかる考察が可能な要素をも同時にふくむ統一体として、当の作品を芸術独自なものとして作品たらしめている骨組みをたずね、所有するものである。逆にいえば、あらかじめ秀れた表現内容があると仮定しても――そんなことはあまり考えられないことだが――それを一体化している骨組みなしに作品はありえず、それあってこそ芸術の独自性が発揮されているものをひろく指している。★1

★1 藤枝晃雄「〈あとがき〉にかえて」『現代美術の展開 美術の奔流この50年』(新装版)、美術出版社、1986年、313‐314頁。強調は原文。


 ここで藤枝が扱っている、フォーマリズム批評とはそもそもどのようなものなのか。美術批評史を研究している川田都樹子はこの本に寄稿したコラムで、フォーマリズム批評とは作品との「一目惚れの感動」によってはじまるとし、次のように述べる。
フォーマリズム批評とは、一般には得体の知れないこの非言語的・無概念的な「感動」の理由を、的確な言葉で解明してくれる手法のことであると言ってよかろう。そうであるからこそ、高度なフォーマリズム批評は万人に対して説得力を持つのであり、普遍的な妥当性を有するのである。★2
 それは作品自体を言葉により分析し、紙面上にその作品をさらに言葉によって再構成するようなテキストということである。
一枚の画面の上を、論者の眼がどの順番で、どのように動き、どの部分を注視し、どの箇所で折り返したか、それら一連の流れがまず見事に分節化され言語化される。その緻密な記述があって、さらに言語による画面の再構築がダイナミックに展開されていく。★3
 川田の考えでは、作品をしっかりと見た上で、初めて美術史との関係や先行研究の妥当性、作品の社会的・政治的背景、アーティストの伝記などなどが「次の考察対象となっていく」のだ。川田による藤枝の理解を通しても分かる ように、藤枝は、必ずしも「作品」の内部だけが重要だと言っていたわけではない。  藤枝もこう書いている。
(……)わが国の美術にフォーマリズムがあったとは思われないが、私が試みてきたのはある作品が存在するときそれはいったいどのようなものかという初歩的な記述や見方であり、その作品の内的、ときには外的な関係の追究である。そして、この初歩的な段階においてすでにわれわれは直観的に質的な価値判断をなしている。★4

★2 川田都樹子「『芸術の守護者たち』へ——藤枝晃雄とフォーマリズム批評」、『モダニズム以後の芸術 藤枝晃雄批評選集』、東京書籍、2017年、165頁。 ★3 同前。 ★4 藤枝晃雄「後記」『モダニズム以後の芸術 藤枝晃雄批評選集』、東京書籍、2017年、624‐625頁。


 学生のころならば、このセンテンスを読んでも、ぼくは「作品の内的な関係を追究するべきだ」って思ってしまって、そこに「外的な関係」についての一言があることを見落としていたと思う。もちろん「外的な」ものが必ずしもアーティストの人生を意味しているわけではない。そもそも過去の自分が、作品重視のフォーマリズム批評から「アーティストの人生は無意味である」を導き出すまでにはかなりの飛躍がある。いや、フォーマリズムとは関係なく、人生に意味などないのかもしれないけど、それはまた別のときに書こう。

 

 なんだか前置きだけでずいぶん長くなってしまった。とにかく、ぼくの中で勝手に切り離していた自分の実践と人生との関係を、この日記のようなものを通して考え直してみようと思っている。

抽象の中にある恥ずかしさついて


 ここのところ、いくつかの新聞からインタビューを受けた。コロナ禍に際して、アーティストとしてどんなことを考えているのか、生活はどうなっているのか、この状況下でアートはどうなっていくのかといったことを聞かれた。そして、ぼくはこのように答えた。コロナ禍の中、抽象的な強い言葉(不要不急の外出自粛要請とか、ソーシャル・ディスタンスとか、新しい日常とか)によって人びとの生活が一律化され、それぞれの個別な生活が見えにくくされている。だからこの状況下では具体性が大切だと。

 

 実はこれは、ぼくがずっと考えてきた「抽象」というアイデアへの反省でもある。  いままでぼくはこのように考えてきた。具体的な距離による経験の差、あるいは心理的な距離によって隔てられた人びとを、共通するものや普遍性という「抽象」によって繋ぐことができるかもしれない、と。  以前ぼくはロッテルダムで、とあるホテルの部屋にイベント参加者を連れていき、詳しい説明はせずにその部屋の床の高さと、ある水位が同じであると話した。その曖昧さのまま参加者は窓から外の街を見ることを促される。その後、参加者同士の会話を通して、その水位とは3・11のときに観測された津波のことであることが分かってくる。ぼくは、3・11の被災地から遠く離れた場所に、「水位」という抽象性を使うことによって現実的な感覚を移植する。非当事者である参加者と(非当事者であるぼく自身も)、東北から遠く離れたロッテルダムで津波を共に感覚しようとした。

 しかし、3・11のような局所的な災害とは違って、コロナ禍は世界中で起きている。その中で個別具体性は無視され、むしろ抽象が世界を覆っていると思う。それぞれのひとによる現実の経験はばらばらである、ということが忘れられている。そのとき重要になるのは人びとの経験の細かな差、そこにある別々の具体性かもしれない。具体性を通してぼくたちは誰かの生を想像することができる。

 

 実はこの「抽象」への固執は、ぼくがずっと気にしている、過去の自分の発言に関連している。おそらくそれが原因でぼくは、「抽象」を自分の言葉として語り直したいと思ってきたのだと思う。それはある意味ではとてもつまらない出来事に関係する。

 

 2004年、ぼくは初めてのアーティスト・イン・レジデンスのプログラムでニューヨークのロケーション・ワンに滞在していた。まだ20代の終わりで、半年間の短いニューヨーク滞在だけでは自分には何かが足りないと感じていた。プログラムが後半にさしかかったころ、続けてどこか海外のプログラムに参加してみたいと、レジデンシー担当のナタリー・アングレに相談してみた。彼女がフランス人だったからかもしれないが、パリにパレ・ド・トーキョーという興味深いスペースがあり、次のスタディ・プログラムを募集しているから応募してみないかと教えてくれた。ぼくはそのあと、何の予備知識も英語力もないまま、選考に関わる面談のために数日間、 ニューヨークからパリに行くことになる。いまではそのスペースがニコラ・ブリオーとジェローム・サンスによって立ち上げられた実験的なアートセンターであり、ニコラが書いた『関係性の美学』を実践的に行うための場所だったということを知っている。しかし当時のぼくは何も知らなかった。

 ふり返っておくと、「関係性の美学」というコンセプトは、1990年以降に台頭したある傾向をもつ表現への応答としてブリオ—によって書かれたさまざまテキストたちを出発点にしている。英国の リアム・ギリックやタイのリクリット・ティラヴァーニャなど、主にヨーロッパ を拠点にして活動する、だが必ずしもヨーロッパ人とは限らない アーティストたちが展開した方法論を対象にしている。その傾向としては、プロセス重視で(ワーク・イン・プログレスな)、人と人との「関係性」に重きを置く、観客との相互作用や集団制作を含むものだった。そこで作られるものは、いわゆる「作品」として完結せず、ある意味ではユートピア的共同体を目指す運動体として、オープン・エンデッド(終わりのない形式)に発展する。  ちなみにパレ・ド・トーキョーは現在、その実験精神がなくなって(ぼくもそこで過ごした、雑然とした共同スタジオもなくなって)、きれいな美術館になってしまったけど。

 

 だが当時、何も知らなかったぼくはまったく場違いなプレゼンをする。英語での面接をこなせるとは思えず、ニューヨークの友人に頼んで練習して臨んだんだけど、求められていたのは対話で(相互作用、つまり「関係性」が重要だったわけだし、もっとリラックスした場だった)、ぼくの一本調子のプレゼン(なぞのお笑い要素も盛り込んだけど、英語力の問題が……)は変な空気を生み、ブリオーも含め、面接の場にいた関係者に失笑されたのを覚えている。それでも誰かがそこで助け船を出してくれて、「影響を受けたアーティストは?」と答えやすい質問を投げかけてくれた。誰でもいいからいまのアーティスト、例えばフランシス・アリスあたりを答えていればよかった。しかし、自分のさまざまなビデオ作品を見せながら、ぼくは(その場で聞けばまったく唐突に聞こえてしまったはずの)「ジャクソン・ポロック」と答える。もちろんその場にいる全員が理解してくれなかった。  当時ぼくはこんなビデオを作っている。グラスにビールを注ぐとグラスからビールがあふれてしまう。そのプロセスを記録したビデオ作品。だから理解されるわけがない。いや、ポロックのポーリング(注ぐ)という手法に影響を受けてビールを注いだと思われたのなら、逆にまったく安易に見えたかもしれない。でもぼくは大まじめだった。  それ以来、このとき ポロックと答えたことの落とし前をどうやってつけられる のか、そんなことを、「抽象」という言葉を通して ずっと考えていたと思う。

 ぼくは、ニューヨークでの初めての長期海外生活の中で、メトロポリタン美術館が好きで何度か訪れていた。美術史を辿るような常設展示の流れの中でポロックの『秋のリズム(ナンバー30)』(1950年)という抽象表現主義の代表的な絵画に出会ったとき、この絵によってそれまでの絵画史の流れがまったく変わってしまったんだと感じた。このポロックの印象が強く残っている状態で挑んだ パリの面接で、準備してきたプレゼンの言葉が響かないと分かったとき、ぼくの頭の中にはポロックについて語る言葉しか残ってなかった。ポロック、つまりは「抽象」について語ろうとしたとき、ぼくはやっと自分の言葉で語ろうとしたんだと思う。まったくうまくはいかなかった けど。

 

 ぼくにとって「抽象」はそんな恥ずかしさと強さの入り交じった記憶として残っている。そして16年が経った2020年6月現在、いまでも「抽象」を通して物事を考えている。先に書いたようにコロナ禍では抽象的な強い言葉があふれている。ぼくたちにとって必要なのは、抽象的な言葉に流されることなく、具体的な生を見つめることだと思う。  そう書いているときに、子供が生まれた。妻の安堵のとなりに具体的なもうひとつの生がある。ぼくはこの日記のようなものを書くことで、具体的な生を見つめ直してみようと思う。

 

アイキャッチ画像 Project title: Precarious Tasks #6: Going up to a city building taller than 16.7m Date: April 19–20, 2013 photo courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo  

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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