北のセーフイメージ(2) 多重化するアイヌの肖像|春木晶子

初出:2020年6月26日刊行『ゲンロンβ50』

第1回
第3回

安心と恐怖のリバーシビリティ

 江戸時代にアイヌを描いた作例をもとに、蝦夷地支配の観念が疫病退散の観念と切り離せない仕方で流布していたことを見てきた。アイヌは厄災や疫病をもたらす鬼門/北東/蝦夷地の住人であり、おそれの対象であった。和人にとってアイヌを支配することは、厄災や疫病をもたらす鬼門のおそれを取り除き、安心を導くことに通じていた。

 ここまでに挙げた作例は、和人とアイヌの優劣や支配被支配関係を明白にあらわし、アイヌが疫病とともに支配される様をわかりやすく見せるものであった。

 しかし、松前藩士蠣崎波響はきょう(1764-1826)による12人のアイヌの肖像画《夷酋列像いしゅうれつぞう》[図1]は、これまで見てきた作例とは大きく異なる。そもそもこの絵には和人が描かれないので、和人とアイヌの優劣や支配被支配関係は、明示されてはいない。そのうえ描かれたアイヌの酋長たちは、おそれや支配の対象というよりはむしろ、尊敬や賞賛の対象というべき威厳ある姿で並び立てられている。

【図1】蠣崎波響《夷酋列像》(1790年、ブザンソン美術考古学博物館所蔵)

 しかし、この絵ほどにアイヌをおそれ、おそれを安心へと変えるための努力が注がれた絵は他にない。

 安心と恐怖は、表裏する。

 このリバーシビリティを利用して波響は、脅威をもたらす者から脅威を除ける者へと、アイヌを変転しようとした。のみならず、アイヌの蜂起という松前藩の失政を、善政へと反転することさえをも企んだ。

 不都合を覆い隠し、賞賛される物語へと、都合よく書(描)き変えていく。《夷酋列像》は、古今東西止むことのないその営みの、もっとも巧妙な在り方の一つを示している。

絵を彩る「歴史」

 波響の企みを読み解く前に、この絵の前提をいくつか確認しておきたい。

 日本にあれば重要文化財は間違いない《夷酋列像》であるが、残念ながらそれはフランスにある。その所在が明らかになったのは、ほんの36年前のことだ。

 1984年、10月26日の北海道新聞は、極めてセンセイショナルな、フランスからの特派員の報道を載せて、人々を驚かせた。
 それは「江戸時代“松前応挙”とうたわれた松前藩家老、蠣崎波響の『夷酋列像』の十一点もがスイス国境に近いフランス・ブザンソン市立博物館に収蔵されていた。」という記事で、従来、この波響の若年の代表作、アイヌの長老ら十二人を描いたシリーズは、早く現物が行方不明となっていて、わずかに残された下絵帳や、彩色の模写本によって、その華麗な原本が想像されるに過ぎなかった。
 それが、作者の歿後、一世紀半以上の今日、しかも思いかけぬ遠い西欧の山中に、オリジナルらしいものが、ほぼ完全な姿で突然に出現したというのだから、まことに劇的な事件であった。★1

 事件を契機に作家の中村真一郎は、雑誌『新潮』に「蠣崎波響の生涯」を3年に渡り連載し、波響と《夷酋列像》の存在を広く知らしめた。かねてから気がかりであった北辺の一貴人蠣崎波響と、幾度も読み返したスタンダールの『赤と黒』の舞台ブザンソンとが一本の線を結んだことは、中村にとってロマンチックな衝撃であった。彼ならずとも「フランスでの発見」は人々のロマンを掻き立て、未だ不明な渡仏の経緯はさまざまな憶測を呼び★2、絵が借り出されて日本で展示されるにおよんでは必ずその「フランス帰り」が宣伝文句となり衆目を集めた。

 だがそもそもこの絵は、渡仏のミステリーに引けをとらないドラマチックな制作経緯のために、北海道の歴史叙述では必須の事項とされてきた。

《夷酋列像》★3の序文によれば描かれた12人は、蝦夷地東部でのアイヌ民族の蜂起に際しその収束に尽力し、松前藩から「功」を認められた「蝦夷」の「酋長」たちである。

 寛政元年(1789)、蝦夷地東部の国後島と目梨地方のアイヌが悪政に耐えかねて和人71名を殺害した。松前藩は鎮圧隊を派遣するとともに、同地の有力なアイヌたちに協力を依頼した。それが描かれた12人で、彼らは蜂起したアイヌを説得し、戦いをおさめたとされる。説得に応じ蜂起したアイヌたちは出頭し、首謀者37名の処刑をもって事件は収束する★4

 藩主松前道広(1754-1832)は酋長らを讃え、「夷人」への「勧懲」とするために、弟の波響にその肖像を描かせたという。

 しかし、「夷人」がこの絵を目にしたという記録はない。この絵を眼差したのは、もっぱら「貴人」だった。

 完成の翌月、波響は絵を持って上洛する。京都で絵は多くの人士の目に触れ評判を呼び、著名な文人や公家衆の賛を得て、光格天皇の叡覧に供されるに至る。天覧を果たした絵を、少なからぬ大名が所望し、複数の模写が制作された★5

 アイヌの蜂起という一大事を契機とした絵の制作、京での好評と天覧の栄光、フランスでの発見という謎めいた行く末。歴史ドラマに彩られたその絵の魅力は、どんなところにあったのか。

「工緻精密、観者嘆絶」★6、「丹青妙麗、毫末繊巧、展観目ヲ驚ス」★7、「図像奇偉筆力精妙」★8。京都の人士たちは、こぞってこの絵の精巧さを、驚きをもって賞賛した。その驚きは、見も知らぬ蝦夷地のアイヌをあたかも目の前にしたかのような、絵の「写実」によるものであろう。「誠に蝦夷の容貌を視んと欲せば斯図に如くはなし」★9と言う平戸藩主松浦清の評と、「日本のエキゾチック・リアリズムの牙城が極まったと感銘した」★10という今日の松岡正剛の評は、そう変わるものではない。

 絵を目の前にすると、その思いがけない小ささにまずは驚く。ミニチュア細工の如き夷酋たちをあらわす絹目よりも細かい筆跡が、衣装や毛皮や皮膚や髪に、現実味をもたらす[図2]。

【図2】 《夷酋列像》より貲吉諾謁ツキノエ

 そうした効果は当時の最新の絵画技術に支えられている。第一に清朝から長崎経由で伝来した南頻派絵画の細密な写実技法を、第二に西洋の油彩画から学んだ陰影法を、波響は駆使している★11。それらはいずれも、絵があたかも現実の忠実なコピーであるかのように錯覚させる技術である。この絵を見て序文を読めば、同胞に蜂起をやめるよう説得した威厳ある酋長たちの姿が、ありありと立ち上がってくる。

 だが絵の精巧さは、歴史学者たちの批判の対象ともなってきた。この「肖像」は「実像」からかけ離れていると、彼らは言う。

 戦いをおさめた松前藩は、同地のアイヌ40名ほどを松前城下に連行し、派手な凱旋行列を行った。波響はそのときに酋長たちを見て絵を手がけた。と、考えられてきた。しかし、松前を訪れた酋長は5名にとどまり、豪華な衣装も松前藩から貸し与えられた記録があるなど、絵と史実との差異がさまざまに暴かれてきた★12

 要するに、波響は酋長たちを「実際」より豪華で立派に格好よく描いているのだそうだ。《夷酋列像》の付属文書『夷酋列像附録』★13を読むと、その演出の意図は察しがつく。

 同書によれば本作は、「麒麟閣」の故事★14に倣って企図されたという。それは、前漢の宣帝が自らの功臣11人の肖像を麒麟閣と称する楼閣に描かせたという逸話で、後世の皇帝たちもこれに倣い功臣の肖像を制作した。画論の古典である『歴代名画記』によれば、功臣の肖像は見る者への勧戒のために描かれたという。《夷酋列像》の序文で「夷人」への「勧懲」とうたうのは、これを踏まえてのことだろう。

 だが、先にも述べたようにそれが「夷人」への「勧懲」となることはなかった。描かれた功臣/夷酋たちは、貴人たちの賞賛の的となった。それは、功臣/夷酋たちが忠誠を誓う、皇帝/松前藩主の威厳を高めることに直結するものであった。だからこそ、夷酋たちの姿は決して貧弱なものであってはならず、威厳を備えた勇壮な姿がもとめられたわけだ。

 しかしそれでもなお、疑問は噴出する。例えば体育座りは、威厳ある酋長にふさわしいポーズだろうか。毛皮の靴を履かずに傍に置くのはなぜか。老婆の銀の首飾りは、伝世品と比してあまりにも大きすぎるのではないか、など。ただ単に立派に描くために演出を加えたというだけでは説明のつかない描写が、あまりに多い。

 そのひとつひとつを検討していくと、波響がこの絵に仕掛けた壮大な計画が、おぼろげながら像を結びはじめる。どうやら波響は各図に、物語の断片を忍び込ませている。そうして夷酋たちの姿に、神や英雄を重ねようとしたようだ。

疫病神から守護神へ (1)乙箇律葛亜泥イコリカヤニと大国主神

 例えば夷酋たちのなかには、おそれられる疫神に重ねられるものがある。

 厄災や疫病による国難を、それをもたらす神を祀ることで乗り越える逸話は、古くは記紀の崇神すじん天皇の代に見える。『古事記』によれば、疫病により民が尽きようとしたとき天皇の夢に大物主神おおものぬしのかみが現れ、意富多々泥古おほたたねこという人物に自身を祀らせれば祟りは止み平安が訪れると伝えたという。

《夷酋列像》のうちの一図は、この神に重ねられると考える。それは、弓矢と太刀を携え、二羽の水鳥を抱える人物。画面内に金で書かれた文字によれば、名を乙箇律葛亜泥イコリカヤニという★15「図3]。

【図3】小島貞喜《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)より乙箇律葛亜泥イコリカヤニ

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1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。

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