世界は五反田から始まった(18) エッセンシャルワーカー|星野博美

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初出:ゲンロンβ50 2020年6月26日発行

 日中戦争が始まった頃に五反田で活発化した無産者運動だったが、共産党員に対する弾圧が激化し、昭和8(1933)年には活動がほぼ頓挫したことは前回述べた。

 ガスマスクや落下傘などを製造する藤倉工業のような軍需工場は、軍からの受注量の増減によって雇用を調整しやすいよう、大量の「臨時工」(非正規雇用者)を雇い、業績によっては「本工」(正規雇用者)に昇格させるという誘惑をちらつかせて、都合よく働かせていた。小林多喜二たちは、大日本帝国の植民地主義と資本家の搾取に反対し、労働者の待遇改善を求めたが、時代は戦時色を増していき、労働運動はしぼんだ。

 五反田地域の無産者運動について8回ほど書いた。それは単なる偶然のタイミングだったのだが、2020年に入って新型コロナウィルスの感染拡大が日本に波及するようになり、当時の印象が私の中で少しずつ変わり始めた。

 コロナウィルスは戦争とは異なる。しかし感染拡大を防ぐために各国が国境を封鎖したり人々の行き来を制限したりすることによって、国家や自治体の首長の存在を否が応でも意識せざるをえない。そして内と外、我らと彼ら、自国と他国といった、対立概念が加速度的に強まっていることを日々感じる。

 今回経験した、いや、今後もいつ再開するかわからない「緊急事態」を通して、戦争の泥沼にはまっていった時代の庶民の生活に思いを馳せてみたい。

歴史は違う形でやってくる


 町工場で育ったからだろうか、コロナのニュースでも工場関連に反応しがちだ。

 かつて日本の白物家電の雄だった日立製作所が、医療用防護マスク(顔全体を覆うフェイスシールド)の製造を、日立市とひたちなか市、尾張旭市の3工場で開始する、という報道があった(2020年4月21日 共同通信)。

 日立製作所はさらに4月27日より、同社製マスクの一般向け販売を開始した(1箱50枚入りで税別2980円)。ところが予想を大幅に上回るアクセスが集中して混乱が発生したため、急遽抽選方式に変更した。

 一時期、営利目的の買い占めもあって極度の供給不足に陥り、各地で購入のための長蛇の列ができた使い捨て不織布マスクは、この原稿を執筆している現時点(6月6日)では供給が回復しており、近所のスーパーでもすでに投げ売りが始まっている。私は戸越銀座商店街で、50枚入り一箱908円という値崩れ品に遭遇したほどだ。それでも、決して安いとはいえない日立ブランドのマスクの人気は収まらず、6月3日に行われた第6回抽選販売でも、7万人の当選者に対してなんと814万6289人の応募があったという、異様な人気ぶりである。

 5月には、各国の国境封鎖で便数が激減した全日空が、一時帰休を余儀なくされている客室乗務員の一部を医療用ガウンの縫製にあてることを発表した(2020年5月18日 朝日新聞)。これは全日空グループが、政府の要請を受けて内部で希望者を募ったもので、医療用ガウンを製造する奈良県上牧町の縫製会社ヴァレイの縫製作業に携わるという。従事するのはパイロットや客室乗務員、地上職員などで、彼らはガウンの腰ひもを作ったり袖口に使う生地を裁断したりするのを手伝い、専門的な技術を要する縫製などはヴァレイが担当する。パイロットの石塚哲也さん(32歳)は取材に対し、「(減便で)パイロットには実質的に仕事がない。素人の私でも、少しでも医療従事者の方々の力になれれば」と語った。

 私はこのニュースに反応した。
 ウィルスの出現で壊滅的打撃を受けた業種がある。世界中の人々が頻繁に行き来した時代から、一転して空を飛べなくなった航空業界は、その一つだ。一方、急激に需要が増大し、生産が追いつかない業種もある。

 モノだけでなく、労働市場にも発生する需要と供給の著しいミスマッチ。誰もが生活の先行きを心配するなか、異業種でも仕事があるなら、まだいいほうだ。しかもこれは政府からの「要請」であって「命令」ではなく、しかも希望者を募っている。希望者は自由意思で参加するのだ……。

 そう自分に言い聞かせながらも、割り切れない思いは残った。

 それまでの生活様式を覆すような出来事が起き、ある特定の業種に従事する人々が一斉に困窮する。数か月で確実に収束する見こみがあれば、給付金や休業補償で人心はある程度収まるかもしれないが、これから先どれだけ続くかわからない。必要なのは仕事だ。

 戦前の「徴用」も、こうして始まったのだろうか。

 もしこれが戦時中と同じく、わかりやすい軍需産業を舞台に始まったなら、多くの人が「徴用の一歩だ!」と激しく反応するに違いない。しかし新しい緊急事態の前線は、戦場ではなく、医療現場である。前線で戦う医師や看護師のために取る行為なら、心理的なハードルは低くなる。第一、時代と状況によって軍需産業の範囲もめまぐるしく変わる。

 別に医療用ガウンの製造に反対しているわけではないのだ。ただ、歴史は違う形でやってくる、ということは覚えておきたいと思う。

必要不可欠労働者たち


 コロナウィルスの出現で、ここ数か月の間に様々な新しい言葉が生まれた。密閉、密集、密接の三つの「密」を避ける「三密」、小規模な集団感染やその集団を指す「クラスター」、「オーバーシュート」(感染者の爆発的増加)、「ロックダウン」(都市封鎖)、「パンデミック」(感染爆発)、そして感染拡大の中でも人々の生活を支える「エッセンシャルワーカー」などだ。

「三密」に関しては、日本独自の新型コロナウィルス対策の手法として、3C(Three Cs=Closed spaces, Crowded places, Close-contact settings)と命名され、その概念が海外へ輸出され始めた。が、その他に関しては日本語に訳さずカタカナ英語を使い、意味を曖昧にしてふんわりコーティングし、「仕事をしている感」を醸し出す、日本の悪い癖が出ている。現に昭和10(1935)年生まれの母は、日々新聞紙面を埋めつくす聞き慣れないカタカナの羅列に、「まったく意味がわからない」と嘆いている。

 中でも私が違和感を抱いたのが「エッセンシャルワーカー」だった。

 物心ついた頃に出会った売れ筋シャンプーが、1976年発売の花王の「エッセンシャル」だったため(正式名称は「花王フェザー・エッセンシャル シャンプー」)、「エッセンシャル」と聞いただけで風呂上がりに漂ってくるシャンプーの素敵な香りを思い出してしまう、悲しい昭和世代だ。しかし「エッセンシャルワーカー」の「エッセンシャル」は香りとはまったく関係なく、必要不可欠、根本的、という意味である(花王の場合は、必要不可欠、かつ、エキスが入った香りのよいもの、の両義を兼ねたものと思われる)。

 そして「ワーカー」は、労働者。つまり「エッセンシャルワーカー」は、必要不可欠労働者、を意味する。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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