観光客の哲学の余白に(22) 郵便的連帯と「接触」|東浩紀

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初出:2020年08月21日刊行『ゲンロンβ52』

『観光客の哲学』を刊行して3年あまりが経った。同書の主張は、ひらたくいえば観光客の増加こそが世界平和への道だというものである。じっさい現実はその方向に向かっているようにみえた。ところが新型コロナウイルスの出現で状況は一変してしまった。いまや観光客は、平和の使徒どころか危険な感染源だとみなされている。もともと観光客の存在が気に食わないひとは世界中にいた。観光なるものへの肯定的な感情が回復するには長い時間がかかるだろう。 

 この状況はぼくの出版計画も狂わせてしまった。じつは来年は『観光客の哲学』の増補版を出す予定で、いまごろは追加部分の執筆に取り組んでいるはずだった。けれどもその作業はとてもむずかしくなってしまった。いま観光客について考えることは、たんに移動の自由を議論するだけでなく、社会と「不要不急」の関係について考えることを意味している。世界中が感染拡大防止にやっきになっている現状で、観光客の無責任な移動、とりわけ国境を超えた移動を積極的に評価するためには、じつに高いハードルを超えなければならない。 

 ぼくは「ふまじめ」に価値を置く哲学を展開している。正確には、「まじめ」と「ふまじめ」の境界そのものがあいまいで確定できない、だから「ふまじめ」を排除することにはあまり意味がないし、ときに有害ですらあるという主張の哲学を展開している。それはジャック・デリダから学んだ価値観で、『観光客の哲学』も同じ価値観のうえで書かれている。 

 ところがいまや、みながその境界を引き直そうとしている。出張のようなまじめな旅行は許されるが、観光のようなふまじめな旅行は許されない。授業のようなまじめな教育はすぐに再開されるが、学園祭や部活のようなふまじめな教育はいつまで経っても再開されない。家族で公園に行ったりスポーツをしたりするまじめな娯楽──というのも変な表現だが──は奨励されるが、「夜の街」のようなふまじめな娯楽は徹底して非難される。そして、残念なことに、たいていのインテリは根がまじめだから、そのような対立が設定されるとほとんどなにも抵抗できない。権力と権力批判は、ともにまじめであることによって(正確には、まじめとふまじめの境界の有効性を信じることによって)、似た結論に辿りついてしまうのだ。 

 いま観光客について考えることは、そんな「まじめさの覇権」に抵抗することを意味する。好きなときに好きなところに行けるっていいよねと、素朴に語ることができた時代はよかったとしみじみ思う。 
 

 


 そんなわけで『観光客の哲学』増補版の刊行は順調に遅れそうなのだが、とはいえ追加部分の内容を考えていなかったわけではない。 

 ときどき述べていることだが、同書にはふたつ大きな空白がある。ひとつは第1部と第2部がうまくつながっていないことで、もうひとつは第6章がほかの章から孤立していることだ。 

『観光客の哲学』を未読の読者のためかんたんに説明すれば、ふたつの空白はふたつの問いに対応している。ぼくは同書で、「家族」の概念の再定義を試みたり、コンピュータの画面(インターフェイス)についての技術哲学的な考察を展開したりしている。にもかかわらず、なぜ「家族」ということばを持ちださねばならないのか、なぜコンピュータの画面についての考察が重要になるのか、そこはあまりきちんと答えていない。その欠落がふたつの空白に現れている。 

 だから増補版ではその空白を埋めるはずだった。そしてそこでは、ふたつの問いへの答えはともに「接触」の問題と深く関係していると議論するはずだったのだ。

 


 どういうことだろうか。ぼくは『観光客の哲学』の第四章で、「否定神学的マルチチュード」と「郵便的マルチチュード」というふたつの概念を対置している。「マルチチュード」という聞き慣れないカタカナを使ったことにもそれなりの理由があるのだが、ここでは「連帯」ということばで置き換えてもらってかまわない。連帯には否定神学的な連帯と郵便的な連帯がある。それがぼくの主張だ。 

 否定神学的な連帯とは、なにも連帯の内実がない、その無そのものを根拠にした連帯を意味している。このように表現すると抽象的だが、冷戦終結後の左翼は多かれ少なかれその罠に陥っている。人権、民族主義、経済格差、気候変動、ジェンダー……いまでも世界にはさまざまな問題があるが、それらはすべて質的に異なり、かつてのような共通の大きな解決(革命理論)は通用しない。にもかかわらず、左翼の活動家や言論人はいまでも連帯ばかり試みている。ときには連帯そのものが自己目的化して、連帯のための連帯が増殖している。最近の例ではハッシュタグデモなどを考えるとわかりやすい。それが否定神学的な連帯である。 

 ぼくはそれに対して、否定神学的な連帯といっけん似ているが、本質では異なるべつの連帯のありかたを提案しようとした。それが郵便的な連帯だ。『観光客の哲学』ではあまりクリアに説明できていないのだが、ぼくがそこで考えたのは「無」ではなく「訂正可能性」にもとづく連帯というアイデアである。 

 ある結社をつくるとする。人権でも気候変動でもいいが、最初は具体的なテーマや行動目標に共感してメンバーが集められる。けれども時間が経つうちにメンバーは変わり、存在意義があいまいになっていく。そのようなことはよくある。そこでどうするか。否定神学的な連帯をめざす人々は存在意義の消滅を積極的に受け入れ、連帯そのものを自己目的化して結社の拡大を図ることになる。じっさいそれがいま多くの左翼が行なっていることだ。 

 しかしぼくが考える連帯はべつの道を選ぶ。郵便的な連帯においても、人々はメンバーが入れ替わることや、存在意義があいまいになることは受け入れざるをえない。けれども存在意義の消滅までは受け入れない。かわりに彼らは、メンバーの入れ替わりを契機として、結社の存在意義そのものをたえず再定義する。たとえば、いままでは人権や気候変動にばかり取り組んできたが、ほんとうはわたしたちはべつのことにも関心があったのかもしれない、だからこれらの人々が仲間になったのも必然なのだと、状況に応じて遡行的に歴史を「訂正」し、結社のアイデンティティを保ち続けるように努力するのである。ぼくは、『観光客の哲学』で、そのようなダイナミズムこそを郵便的連帯(郵便的マルチチュード)と呼ぼうとしていた。それは、連帯を根拠づける大きな物語(革命理論)を信じるわけではないが、かといって連帯を自己目的化するわけでもなく、たまたまなにかと遭遇する、たまたまだれかと仲間になるといった偶然性を貪欲に呑む込むことで、たえず連帯そのものの定義を更新していくような連帯である(なぜこれを「郵便的」と呼ぶかといえば、そこには「誤配」というぼく独自の概念が関係しているのだが、その話は複雑になるので横に措いておく)。 

 無による連帯ではなく、訂正可能性による連帯。たえず更新され拡張されるが、それでも遡行的に必然性を生産し続ける連帯。郵便的連帯をこのように定義すれば、それが「家族」の問題と深く関係していることは、もはや直感的にわかってもらえるのではないかと思う。 

 家族もまた、たえず更新され拡張されるが、それでも遡行的に連帯の必然を生産し続ける結社である。わたしたちは、どのような子や孫が生まれてくるのかまったく想像できない。彼らはもしかしたら、いまの家族のアイデンティティから外れた、許すことのできない存在かもしれない。にもかかわらず、どのような子や孫が生まれても、彼らからみればわたしたちもまた必然的な先祖でしかなく、遡行的に新しい家族のアイデンティティに組み込まれる存在でしかないのである。『観光客の哲学』の第2部で、ぼくは「家族」なるもののそのようなふしぎな性格について論じている。そのふしぎさを取り込んだとき、連帯は否定神学よりも強くなるのだ。 
 

 


 では、これが「接触」の問題とどう関係するのだろうか。ここは訂正可能性の話と異なり最近考え始めたことなので、まだ明確に整理できていない。それゆえ飛躍だらけの説明になるが、ぼくはつぎのようなことを考えている。

 郵便的連帯あるいは家族的連帯は訂正可能性で支えられる。それはよいとして、その訂正の力はどこから来るのだろうか。そこではおそらく「接触」が大きな役割を果たしている。 

 新しい子が来る。新しいパートナーが来る。新しい同居人が来る。あるいは新しいペットが来る。そのたびに結社(家族)のアイデンティティは更新されていくが、それはつまりは、新しいメンバーとの接触が日常的に生じているからである。その現実なしにアイデンティティだけを更新しようとしても、連帯は崩壊するだけだ。じっさいにそのような崩壊は、日本の政治でも左翼・リベラル政党の失敗として観察され続けている(共産党がいまも存在感を発揮し続けていられるのは、同党がまさに接触で支えられた家族的連帯の政党だからだろう)。 

 そして、そのように考えたとき、この四半世紀ほどで一気に浸透したPCやスマホ、そしてそれを支えるネットは、まさにその「接触」を物理的で身体的な限界から解放し、拡張する装置だと捉えることができる。接触はたんなる情報の交換とは異なる。「触れること」は「触れられること」でもあり(メルロ゠ポンティが強調したように、これこそが視覚や聴覚と異なる触覚の哲学的な特徴である)、そこには自己変容が伴う。そして、この連載でもかつて指摘したように★1、じつはいま普及しているインターフェイスデザインの歴史は、触覚の導入と深い関係にある。アラン・ケイは、理想のコンピュータを粘土に喩えていた。他者に触る。触ることで他者を変える。触ることで触られ、こちらも変わる。そのダイナミズムの存在が、20世紀末に現れた双方向メディアを、出版や放送のような単方向メディアから本質的に区別している。だとすれば、それはまさに訂正可能性を支援する装置になるのではないか。偶然性を貪欲に取り込み、たえず自己を更新していく郵便的な連帯の場は、出版でも放送でもつくれないが、ネットのうえでならつくれるのではないか。 

 現実にはいまのネットはたんなる情報拡散装置になりさがっている。そこでは、できるだけ多くのユーザーに情報を届け、できるだけ効率よくお金を集めることが正義で、結果としてユーザーに届く情報も多くはなっている。けれどもただそれだけである。ハッシュタグを打つときに自分が変わる経験をするユーザーは少ないだろうし、そんな仕掛けをつくればむしろ賛同者は減るだけだ。活動家は連帯の呼びかけをどんどん単純でわかりやすいものにしていくし、ユーザーもどんどん忘れてしまう。かくして、ネットは瞬間風速の否定神学的な連帯で満ちていく。 

 けれどもネットはそうならなくてもよかった。ぼく自身、かつてはニコニコ生放送のコメントやツイッターのタイムラインにべつの可能性を見ていた。その可能性について、最近は郵便的連帯や「接触」をキーワードに考えている。 
 

 


 郵便的連帯とは、訂正可能性による連帯であり、接触による連帯であり、更新され続ける連帯である。ぼくは『観光客の哲学』の増補版で、そのような議論を展開するはずだった。 

 冒頭に記したとおり、コロナ禍下のいま、観光客について考えることはとても反時代的な行為である。それは、まじめとふまじめの分割そのものに抵抗することを意味するからだ。 

 けれども、ここまでの記述でわかるとおり、じつは問題はそれだけでもないのだ。観光客を肯定することは郵便的連帯を肯定することである。そして郵便的連帯を肯定することは接触を肯定することである。けれども、ぼくたちの時代は、接触こそがリスクだと主張し始めている。触ることで触られ、自分も相手も変わる、そんな危険で暴力的なことはあるかと訴え始めている。そのような感覚は、おそらくはコロナ禍のまえから広がり始めていた。それが感染症の恐怖をきっかけとして、一気に表面化し社会の全体を覆い尽くしたのだろう。 

『観光客の哲学』を出版したとき、ぼくはとても時代に寄り添った本を書いたと考えていた。寄り添いすぎではないかと思ったくらいだった。それがわずか3年で、時代と正面から衝突する場所に追い込まれた。きっとこれが、哲学者としてのぼくの運命というものなのだろう。 


 



★1 「観光客の哲学の余白に」第9回、第10回、第12回、『ゲンロンβ』21号、22号、27号参照。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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