革命と住宅(1) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(前篇)|本田晃子

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2021年1月27日刊行『ゲンロンβ57』
 ゲンロンβでの連載『亡霊建築論』や、『ゲンロン11』掲載の論考「ソ連団地の憂鬱」が大好評の本田晃子さんによる、新連載がスタートします。社会主義革命の理想の先には「家(ホーム)」からの解放があった──「家」の否定の上に築かれた労働者たちの「ソ連的住まい」の思想と歴史を論じる「革命と住宅」、どうぞお楽しみください!(編集部)
 
前篇
 革命は「家」を否定する。

 経済的な重荷としての家、家族の容器としての家、あるいは所有や愛着の対象としての家──それらはすべて革命が破壊・解体しようとしたものだった。スーザン・バック‐モースは著書『夢の世界とカタストロフィ』のなかで、「資本主義の基盤が、家庭生活においては個人の家(ホーム)を意味する私有財産だとするなら、社会主義は『反・家(アンチホーム)』である必要があった」[★1]と述べている。このような社会主義の「反・家」の思想は、直接的にはエンゲルスの著書『住宅問題』(1872-1873年)に起源している。同書内でエンゲルスは、都市労働者の住宅問題、すなわち深刻な住宅不足やスラムなどの劣悪な住環境の出現は、資本主義体制そのものに由来していると述べる。そして労働者の住宅の所有を援助することでは、問題は解決されないと主張した。彼によれば、これらの住宅問題は労働者が住宅をはじめとしたあらゆる所有の枠組みの外に出ること、「いっさいの伝来のきずなから解きはなされた、空とぶ鳥のように自由なプロレタリア」[★2]に変容することによってのみ、究極的に解決される。プロレタリア化された社会では、労働者は経済的にも心理的にも「家」に束縛されることなく、必要に応じてある拠点から別の拠点へと自由に移動する、ノマド的存在となるのだ。

 十月革命によって、ソ連では所有の対象としての、あるいは家父長的な家族制度の拠りどころとしての「家」は否定された。それでは人びとは、いったいどこで、どのように暮らすことになったのだろうか。「家」の否定の上に築かれたソ連的住まいとは、いったいどのようなものだったのだろうか。前回の連載『亡霊建築論』では、物理的実体としての建築ではなく、それ自体がイデオロギー装置であるようなイメージとしての建築──ロシア・アヴァンギャルドの《労働宮殿》からスターリンの《ソヴィエト宮殿》、フルシチョフの新《ソヴィエト宮殿》計画まで──を論じた。それに対して今回の連載『革命と住宅』では、十月革命直後から連邦解体までのソ連型集合住宅の変遷を論じていきたい。エンゲルスによれば、労働者の住宅問題の解決と社会主義体制の確立は不可分の関係にあったわけだが、ソ連における労働者住宅の現実は、政府が掲げる理想の住宅イメージとは常に著しく乖離・矛盾していた。労働者住宅はソ連のプロパガンダ戦略の要のひとつでありながら、同時にそのイデオロギー的欺瞞を暴露しかねない危険性も秘めていたのである。さらには労働者住宅の理念自体も、アヴァンギャルド建築家たちが活躍した1920年代からスターリンの独裁体制が確立された1930年代、そしてフルシチョフによる集合住宅の大量供給が始まった1950年代にかけて、激しい変動を繰り返してきた。

 これからソ連住宅史に踏み込んでいくうえで、連載初回の今回と次回は、いまだ19世紀の社会主義住宅の理念が影響力を有していた1920年代のソ連における労働者住宅をめぐる議論を取り上げたい。この時代に登場したのが、旧来の家の否定の上に作り出された新しい家、コミューン型集合住宅「ドム・コムーナ дом коммуна」だった。ドム・コムーナの背後には、住空間を物理的に共同化・集団化することによって、社会主義的な生活様式「ブィト быт」をもった「新しい人間」を作り出すという、壮大な実験があった。今回はこのドム・コムーナの理想がどのような経緯によって生み出され、建築家たちの手によってどのように具現化されたのかを見ていきたい。

1.『何をなすべきか』と理想のコミューン


 19世紀、ロシアを含むヨーロッパ諸国の主要都市では、工業化とともに都市人口の増加と過密化が急速に進み、とりわけ労働者たちは著しく劣悪な環境で生活することを強いられた。しかしその一方で、労働者の住環境や住宅難に対する社会的関心も高まっていった。例えば工業化がいち早く進んだイギリスでは、ロバート・オーウェンによる《ニュー・ラナーク》(1800年)、タイタス・ソールトによる《ソルテア》(1850年)、ジョージ・キャドバリーによる《ボーンヴィル》(1879年)など、大都市からある程度離れたよりよい環境に、工場経営者自身の手によって職住近接の工場村が築かれていった。これらの「ヴィレッジ」では、労働者住宅のみならず学校、図書館、スポーツ施設なども併せて整備された。当時のイギリスの企業家たちは、人道的見地からのみならず生産効率の向上という観点からも、労働時間外の労働者の心身のケア=管理を重視したのである。

 一方同時期のフランスでも、シャルル・フーリエが農業に重点を置いた自給自足の共同組合的コミュニティ「ファランステール」を構想していた。このファランステールの中心に位置するのが、1800人程度の労働者とその家族を収容するための集合住宅である。フーリエ自身がファランステールを実現することはなかったが、彼の影響下でいくつかのファランステールが実際に建設された。なかでも比較的成功し現在まで良好な状態で保存されているのが、企業家ジャン・バティスト・アンドレ・ゴダンによって建設されたギーズのファミリーステール(Familistère、1859-84年)である。このファミリーステールには、学校、公園、図書館、劇場、プールなどの教育・レクリエーション施設のみならず、主婦の家事・育児の負担を軽減し、彼女たちの社会参加を促すために、公共食堂や保育園などの施設も併設されていた。

 ファランステールの影響は遠くロシアまで及んだ。農奴解放やナロードニキ運動において中心的役割を果たした社会主義者ニコライ・チェルヌィシェフスキーは、逮捕後に獄中で長編小説『何をなすべきか』(1862-63年)を著すが、同作の主人公ヴェーラ・パヴロヴナの夢のなかに、労働者の理想郷として巨大なガラスのファランステールが姿を現すのである。


 だがあの建物、あれはなんだろう。あれはどういう建て方なのだろう。現代にはこんな建築はない。これを暗示する建物が一つあるだけだ。サイデンガムの丘に立っている宮殿がそれだ。鉄とガラス、鉄とガラスだけで出来ている。いやそれだけではない。これは建物の外側にすぎない。これはその外壁で、内側にはほんとうの家が、巨大な家がある。その家は鉄とガラスの建物によって、箱に入れられたように、包まれている。この内側の家はなんという軽い建て方だろう。窓と窓との仕切りはほんのわずかで、窓は大きく広く、外壁いっぱいにひろがっている。[★3]


 文中のサイデンガムの丘の上の宮殿とは、1851年のロンドン万博の際にジョセフ・パクストンによって設計されたいわゆる水晶宮のことで、チェルヌィシェフスキーはロンドンを訪れた際に、この先端的な建築物を直接目にしていた。そしてガラスの巨大なオランジェリー内に入れ子状に収められているのが、金属の骨格とガラスのカーテンウォールからなる労働者たちの集合住宅である。注目すべきは、そこで営まれている人びとの生活だ。ギーズのファミリーステールが家族単位のフラットから構成されていたのに対し、チェルヌィシェフスキーのファランステールでは、成人は一人ひとりに割り当てられた個室に住んでいる。そして彼ら彼女らは性別によらず農場ないし工場で働き、その間まだ労働に適さない子どもや老人たちが全員分の食事を用意することになっていた。食事は居室ではなく、巨大な食堂で振舞われた。チェルヌィシェフスキーの理想のファランステールでは、すべての個人は家族という単位を経ることなく、直接共同体のなかで生活するのである。

 チェルヌィシェフスキーは、ロシアにおける女性運動の先駆者としても知られる。『何をなすべきか』の主人公ヴェーラによって築かれたコミューンは、さまざまな事情で家族から逃れてきた女性たちが働きながら共同生活をおくる場として描かれている。これらの描写からも明らかなように、彼の考える女性の社会参画にとっての最大の障壁とは、家庭にほかならなかった。女性を私的空間へと囲い込み、家事や育児といった無償労働に従事させる家族という枠組みの解体なくして、理想のコミューンの実現はありえない。実際に、住宅の社会主義化をめぐる議論のなかで主要な争点となったのが、家事や育児の公共化だった。家庭という性別分業からなる密室ではなく、性別によらず個人が直接社会に接続されるための住まい──チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』は、そのような社会主義住宅の理想をロシアにもたらしたのである。

2.革命と生活の共同化


『何をなすべきか』は出版後すぐに発禁処分を受けたが、レーニンをはじめ当時のロシアの左派知識人に多大な影響を及ぼした。十月革命当時、彼らの脳裏に同作に描かれたようなファランステールの理念があったことは疑いない。では革命後レーニンやボリシェヴィキの指導者たちは、どのような住まいに住んでいたのだろうか。

 武装蜂起によって政府機関を占領し、ソヴィエトへの権力移行を宣言したのち、ボリシェヴィキの幹部たちはまずはペトログラードのスモーリヌィ学院に拠点を置いた。だが間もなく、《アストリヤ》などペトログラードの中心部にあるホテルを接収し、これらの一流ホテルに移り住む。その後首都がモスクワに移転すると、レーニンやその妻クルプスカヤらは、クレムリンからほど近いホテル《ナツィオナーリ》に引っ越している。これら革命家たちが住むホテル=集合住宅は、「ソヴィエトの家 Дом Советов」と呼ばれた。ソヴィエトの家の住人には家族ごとに部屋が割り当てられていたが、食事は部屋ではなく共用の食堂、つまりかつてのホテルのレストランでとることになっていた[★4]。なおこれらの住まいでは、家賃や光熱費はすべて無料だった[★5]。家事に煩わされる必要のないホテルでの集団生活は、皮肉ではあるが、ある意味では社会主義の理想の住宅にかなり接近していたといえるかもしれない。

 ボリシェヴィキの接収によってホテル不足に陥ったモスクワでは、1923年に36のホテルにおける党員の収容の停止が宣言されている[★6]。だがもちろん、快適なホテル暮らしが許されたのはあくまで一部の上級幹部のみだった。大多数の党員や労働者らは、勤務先の工場の寮やバラック、革命後に割り当てられた住宅の一部を利用して、「新しいブィト」に基づく共同生活を開始していた。

 ただし、今でいうところのルームシェアやハウスシェアは、革命以前から都市の労働者たちにとっては比較的ポピュラーな生活様式だった。ロシアの都市人口は、1811年にはロシア帝国の人口の6.6パーセント程度に過ぎなかったが、1914年には18パーセントにまで上昇していた。革命前のサンクト・ペテルブルグでは、1室当たりの平均居住者数は約6名(ヨーロッパの主要都市の2倍)[★7]に達していた。多くの労働者が家賃負担を少しでも軽減するために共同生活をおくっていたのだ。だが革命後には、これらコミューン単位の住居に「新しいブィト」、すなわち社会主義的生活様式が導入される。はたしてこれらの住まいでは、人びとはどのような暮らしをおくっていたのだろうか。

 多くの場合、コミューン型住宅には個室のようなプライヴェートな空間は存在せず、1室に複数のベッドが設置されており、住人は男女に分かれてそこで寝起きしていた。ベッド数の不足から、交代でベッドを使用したり、直接床の上で寝起きしたりする場合もあった。私的所有はしばしば制限ないし禁止されており、ベッドだけでなくコートや靴、場合によっては下着までが住民の間で共有された[★8]。このような極端な共有化の背景には、反所有というイデオロギー上の理由だけでなく、貧困や生活用品の慢性的な欠乏というより現実的な理由もあった。さらに、自分の給与も自由に使うことはできなかった。住人は自分の給与の一部ないし全額をコミューンに預けることになっており、他のメンバーとの協議によって使用用途が決定された[★9]。また、住民間で性的関係をもつことや婚姻は禁じられている場合が多かった[★10]。閉鎖的で独占的な関係に陥りがちな男女の恋愛よりも、共同体全体に向けられた兄弟愛が優先されたのである。コミューン単位の共同住宅には、しばしばこのように厳格なルールが導入され、住空間のみならず、人もものも含めたあらゆる所有関係が否定された。

 しかし実際には、熱心なコムソモール(青年共産党員)であっても、規則でがんじがらめのプライヴェートのない生活に耐え切れず、コミューンから脱落するケースは少なくなかった。このようなコミューンの究極的な姿、すなわち個人の私的空間や私的所有という概念が完全に廃絶された、文字通りすべてが「透明化」された世界を風刺的に描いたのが、『亡霊建築論』の連載最終回で紹介した、エウゲニー・ザミャーチンの『われら』(1920-21年)である。同作で描かれる共産化された未来都市では、すべての住宅は透明なガラス壁で覆われており、互いの生活は完全に可視化されている。しかし人びとはそのような生活に既に完全に順応しており、不都合を感じることはない。主人公でエンジニアのD-503もまた、ガラスの集合住宅に何の疑問も抱くことなく居住する模範的な市民だった。そんな彼がコミューンを裏切るきっかけとなるのが、謎の女I-330との出会いである。D-503は、それまでの彼の性的パートナーであるO-90には感じたことのない激しい欲望──単なる性的衝動のみならず、未知のものを理解=所有したいという欲求とも結びついている──をI-330に掻き立てられる。I-330は旧世界の復興をもくろむテロリストであり、D-503が属する透明な共同体にとっての不透明な他者であるがゆえに、彼はI-330に惹きつけられるのだ。そしてこのI-330に対する執着により、D-503もまた共同体の異端者へ、「人民の敵」へと転落していく。『われら』では、異性に対する独占欲は当人のみならず共同体全体を危険にさらさす旧い「欠陥」として描かれるのである。

3.ドム・コムーナへの道


 このように、革前後に出現した多数のコミューンでは、人びとは既存の集合住宅、しかも多くの場合狭く貧弱な設備しかもたない空間で共同生活をおくらざるをえなかった。これに対して1919年の第8回党大会では、コミューンのための家、すなわち集合住宅「ドム・コムーナ дом коммуна」の建設の必要性が提唱された[★11]

 これを受けて、モスクワ市は1922年にモスクワ建築協会との共同でドム・コムーナの設計競技を開催する。大セルプホフスカヤ通りとレーニン地区の2か所に建設を想定された集合住宅には、保育園や幼稚園、図書館、共同浴場などを備えるという条件が設けられた。ただしその一方で、全体の住戸の75パーセントが家族向けの2DKまたは3DKの間取りであり、各戸に厨房が設けられ、主婦による家事労働が前提とされていた。この時点では、行政側もドム・コムーナと既存の集合住宅の違いを、明確には理解していなかったことがうかがわれる。また、プログラムによって既存の街並みと調和する組石造であることが指定されていたために、大セルプホフスカヤ通りの優勝者セルゲイ・チェルヌィショフ+ニコライ・コリの案も、レーニン地区の優勝者レオニード・ヴェスニン(のちにロシア構成主義建築運動のリーダーとなるアレクサンドル・ヴェスニンの兄)の案も、デザイン的な新規性に欠けていた。しかも建設中に想定よりもコストが膨れ上がり、共同浴室などの設備は設置されず、家賃も引き上げられた。そのうえ、当時のモスクワの深刻な住宅難もあって、本来1家族が住むはずの住戸には複数の家族が同居することになった[★12]
 

モスクワ市内に建設されたドム・コムーナなどの位置 地図作成=編集部
 

 しかしその3年後の1925年に、やはりモスクワ市とモスクワ建築協会によって企画されたドム・コムーナの設計競技からは、行政や建築家たちの意識の変化が感じられる。

 このコンペでは、ドム・コムーナの人口は700−800名程度と指定され、そのうちの10%が独身者、30%が夫婦ないし友人同士、残りの60%が3−5名の家族とされた。そのほか、3−4階建てであること、250人が同時に利用可能な公共食堂(住人の集会所を兼ねる)やレクリエーション・ルーム、洗濯室、共同のシャワールームおよび浴室の設置、保育園と幼稚園の併設、セントラル・ヒーティングの導入などが求められた。各階には共同キッチンが配置されるが、その用途はあくまで共同食堂を利用することのできない病人や幼児の食事を用意するために限られていた。また、1人当たりの平均居住面積は6平方メートル、1戸当たりの最低面積は法定基準の下限である9平方メートルにまで切り詰められており[★13]、住民は睡眠以外の時間は基本的に共有スペースで過ごすものと想定されていたことがうかがえる。

 このように1925年のコンペのプログラムでは、プライヴェートな空間を最小限にとどめる代わりに共有空間を充実させ、家事や育児を公的サーヴィスによって代替することが意識されていた。このような転換の一因として、党内の女性に関わる社会問題を扱う女性部(ジェノデール Женотдел)からの活発な提言があった。建築雑誌『モスクワ建築』に掲載された女性部のメンバーの意見によれば、ドム・コムーナは幼児のいるシングル・マザーであっても無理なく労働し休息できる空間でなければならなかった。彼女らが建築家たちに求めたのは、出勤時に母親が子どもを預け、帰宅後にレクリエーション室で読書したりラジオを聴いたりして一休みし、共同食堂で夕食をとり、そのあとに子どもを引き取りに行けるような住宅だった[★14]
 また当時のロシア建築界では、アレクサンドル・ヴェスニンをリーダーとする構成主義をはじめ、ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる建築の刷新を求める運動が急速に勢力を拡大しつつあった(詳しくは『亡霊建築論』連載第1回を参照)。過去の様式の引用を否定し、反装飾や機能主義を掲げたこれら若手前衛建築家たちは、集合住宅の伝統的なデザインから意識的に距離をとりつつ、ドム・コムーナの設計に取り組んだ。実際にこの1925-26年のコンペで上位に入賞したデザインは、いずれもアヴァンギャルド的な傾向を有していた。

 入賞案内でも、第2等に入選したゲオルギー・ヴォリフェンゾーンとサムイル・アイジンコーヴィチの設計案【図1】は、その後労働者住宅建設組合 Рабочее жилищно-строительное кооперативное товарищество, РЖСКТ により、共同組合第1ザモスクワレツコエ連合のドム・コムーナとして1930年に実現された[★15]。このドム・コムーナは、各戸に浴室やトイレ、ミニキッチンを備えた家族向けのフラットからなるセクションと、1−3部屋で水回りを共有する寮のような集団生活のためのセクションから構成されていた。コの字型の両翼の左右にこれら居住区が配置され、保育園や幼稚園、共同食堂などの公共施設は両翼をつなぐ中央部分に配置された【図2】。
 

【図1】ゲオルギー・ヴォリフェンゾーン、サムイル・アイジンコーヴィチ案(第2等)ファサード
 

【図2】ヴォリフェンゾーン、アイジンコーヴィチ案平面図
 
 筆者はこのドム・コムーナ(現在は普通の集合住宅になっている)を何度か訪れたことがあるが、住人の話によれば、かつてドム・コムーナとして機能していた時代には、共同食堂は食事のための場所というよりも、主婦が仕事からの帰り道に立ち寄って夕食を購入する場所として利用され、実際の食事はそれぞれの住居でとっていたらしい。食事という行為を家庭から切り離そうとする試みは、必ずしも順調には進まなかったようだ。また入居の際にはかなり厳しい持ち込みの制限があり、ほとんどの家具は廃棄を強いられたという。コミューン単位の住まいのように、新築のドム・コムーナにおいても反所有・住民間の平等の観点から、しばしばこのような所有の制限が設けられていた。もっともそれ以前に、9−14平方メートルの面積に1−3人がぎゅう詰めになって暮らす室内に、前時代のデザインの大ぶりな家具を置くことは、そもそも物理的に不可能だっただろう。代わりにこれらの新築ドム・コムーナには、しばしば部屋のサイズに合わせたシンプルでコンパクトな家具が作りつけられていた。批評家のダヴィド・アルキンは、このような合理化された家具によって実現される「室内空間の最大限の自由、ものから自由になった空間の最大限の "軽さ"」[★16]を、新しい住宅の美学として賞賛している。

 空間のみならず家具までもが規格化された、ドム・コムーナの最小限の住まい――現代人の眼からすれば、それらは兵舎や監獄のように映るかもしれない。だが当時のソ連においては、まさにこのような私的空間の最小化とデザインの画一化によってこそ、ものに対するフェティッシュや「家」への感傷を克服できると考えられていたのである。

後篇は2021年2月配信の『ゲンロンβ58』に掲載予定です。

【図版出典】 【図1】Строительство Москвы. 1926. №6. 【図2】Строительство Москвы. 1926. №6.

★1 Susan Buck-Morss, Dreamworld and Catastrophe: The Passing of Mass Utopia in East and West (Cambridge: MIT Press, 2002), p. 192. 邦訳はスーザン・バック-モース『夢の世界とカタストロフィ――東西における大衆ユートピアの消滅』堀江則雄訳、岩波書店、2008年、239頁。
★2 エンゲルス『住宅問題』大内兵衛訳、岩波書店、1949年、31頁。
★3 ニコライ・チェルヌィシェーフスキイ『何をなすべきか(下)』金子幸彦訳、岩波書店、1980年、236-237頁。
★4 Лебина Н. Cоветская повседневность: нормы и аномалии. От военного коммунизма к большому стилю. М., 2018. С. 71.
★5 Там же. С. 73.
★6 Там же. С. 34-45.
★7 Gregory D. Andrusz, Housing and Urban Development in the USSR (Basingstoke: Macmillan, 1984), p. 7.
★8 Лебина Н. Cоветская повседневность: нормы и аномалии. От военного коммунизма к большому стилю. М., 2018. С. 75-77, Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 79.
★9 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 79.
★10 Ibid., pp. 79-81.
★11 Gregory D. Andrusz, Housing and Urban Development in the USSR (Basingstoke: Macmillan, 1984), p. 114.
★12 Васильева А. Опыт проектирования домов с обобществленным бытом в Москве на рубеже 1920-1930-х годов // Массовое жилище как объект творчества. Роль социальной инженерии и художественных идей в проектировании жилой среды. Опыт ХХ и проблемы ХХI века. М., 2015. С. 131, 八束はじめ『ロシア・アヴァンギャルド建築[増補版]』LIXIL出版、2015年、121-122頁。
★13 Вендеров Б. Второй конкурс Московского Совета Р. К. и К. Д. на проект Дома-Коммуны // Строительство Москвы. 1926. №6. С. 1-3.
★14 Горева Е. За коллективный быт // Строительство Москвы. 1929. №12. С. 2.
★15 Васильева. Опыт проектирования домов с обобществленным бытом в Москве на рубеже 1920-1930-х годов. С. 133-134.
★16 Аркин Д. Строительство и «мебельная проблема» // Строительство Москвы. 1929. №10. С. 7.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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