料理と宇宙技芸(4) 炒飯と「鍋の気」の謎|伊勢康平

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2021年3月24日刊行『ゲンロンβ59』
2023年4月21日タイトル更新
 本記事は有料会員限定の記事ですが、冒頭部分およびレシピ部分は無料で公開しております。どうぞご覧ください。(編集部)
 
 前回から4、5か月ほどあいてしまったが、おかげさまで無事に修論を提出できた。みなさんがこの文章を読むころには、来年度のぼくの進路も確定していることだろう。というわけで、これからはまたもとのペースで連載を継続していきたい。

 今回とりあげるのは炒飯である。ここまで、魚香肉絲ユィーシァンロウスー黄燜鶏ホワンメンジーなど、日本の読者にはなじみのない料理がつづいたが、炒飯を知らないひとはさすがにいないだろう。ご自身でつくったことのあるかたも多いはずだ。じっさい、いまやネット上で、おいしい炒飯のつくりかたにかんする情報はいくらでも手に入る。なので、いまさら目新しいレシピを提案するというのもなかなか難しい。

 そこで今回も、やはりこれまでとおなじように、炒飯をつくりだす調理の技法に秘められた哲学に注目して、少しちがった角度から炒飯を「調理」していこう。もちろん、ぼくなりに工夫をこらしたおいしい炒飯のレシピも紹介するので、そちらも楽しんでいただきたい。

1「鍋の気」という謎


 中華の炒め物について語るとき、中国の料理人はときどき「鍋の気」という言葉をつかう。たとえば、王剛ワンガンという四川の料理人は、自身の YouTube 動画で炒飯のつくりかたを説明しながら、「炒めのプロセスでは、かならず鍋の気が出るまで米を炒めましょう」とアドバイスしている。さらに「米を炒めてよい香りがしてきたあとは、鍋の気があちこちから湧きあがってから、少量のうすくち醤油を鍋の縁からかけましょう」とも言っている★1

「鍋の気」とはなにか。これは湯気や煙のことではない。というのも、彼らの説明を聞くかぎり、「鍋の気」は炒めるときだけ発生し、煮たり蒸したりしているときには出ないようだからだ。また、もし炒め物から煙が出てくるなら、それは焦げているわけだから料理としては大失敗だろう。とはいえ、王剛の料理動画をみていても、鍋からなにやら特別な「気」が出ているようにはみえない。「鍋の気」は、長年修行を積んだ料理人にとっては自明のものかもしれないが、ぼくたちにとってはじつに謎めいた概念である。これはいったい何なのだろうか。

 



 この謎を考える手がかりは、意外にもアメリカにある。
 料理研究家のグレイス・ヨン(楊玉華)は、『鑊気 The Breath of a Wok』★2という本を書いているのだが、これは鍋の気だけに焦点をあてたおそらくただひとつの料理本である。ざっくり紹介すると、この本は中華系アメリカ人である著者のヨンが、幼少期に父親から教わった「鑊気ウォッヘイ」という奇妙な言葉の意味をもとめて人生初の中国渡航を決意し、上海や香港、広東を旅する紀行ものである。そこでヨンは、中華鍋の職人や、屋台や料亭の料理人、そして農村の主婦などさまざまなひとたちとの交流をつうじて「鑊気ウォッヘイ」という言葉への理解を深めながら、自身の文化的ルーツを発見していく。さらに後半では、ヨンがおもに旅先で教わったレシピが100種以上も紹介されており、料理本としてもかなり充実したものになっている。

 すでにお気づきのかたもいるだろうが、「鑊気」とは鍋の気のことである。「ウォッ」は広東語で中華鍋をあらわす言葉だ。ヨンによれば、鍋の気はもともと広東語に特有の言いまわしで、中国文化全体ではあまり一般的ではないらしい★3。それが中国の南方出身の移民をつうじてアメリカへもたらされ、いまでは広東語圏外の中国の料理人にも知られるようになったという。そのため、アメリカの中華料理界隈ではよく鍋の気が語られるのだが、そこではもっぱら「wok hei」という言葉がつかわれている。他方、はじめに紹介した王剛ワンガンのような中国の料理人は、いわゆる北京語で「鍋気グォチィ」と発音することが多い。

 では、あらためて問いかけよう──鍋の気とはなにか。グレイス・ヨンは、中国への旅を終えたあとでこのように語っている。


わたしは、鑊気ウォッヘイというのは中華鍋の息吹のことだと思っています。鍋が炒め物にエネルギーを吹き込むと、食材にはある特有の濃縮された風味や香りが付与されます。もちろん、鑊気という広東語の定義は料理人によってさまざまですが、シェフの多くは、まっさきに火候フォハウ(火加減)の管理について語ることでしょう。というのも、適切に熱をくわえ、短時間で料理をすることではじめて香味ヘンメイ、つまり鑊気の特徴となるよい香りを引き出せるからです。★4


 つまり鍋の気とは、中華鍋をつかい、高火力で手早く炒められた料理が帯びる特有の風味のことである。これは食材や調味料とは無関係に、鉄製の中華鍋がもつ質感だけが付与できるものだ。

 じつのところ、鍋の気を出すには業務用の強力なコンロが必要であり、一般家庭では無理だと考えるひとも少なくない。けれどもヨンは、家庭用コンロでも工夫次第で鍋の気を出せるという。工夫というのは、たとえば炒めるまえにきちんと鍋を熱する、一度に大量の食材を調理しない、むやみに鍋を振らない(料理が火から遠ざかって温度が下がる)、野菜はきちんと水気を切っておく、といったことである★5

 一見してわかるように、彼女の工夫は要するに調理中に鍋の温度を下げないという一点に尽きている。じっさい、ヨンとおなじように一般家庭でも鍋の気を出せると主張しているひとは、たいてい高温を維持(または実現)するための方法を提案する傾向がある。たとえば、おなじくアメリカの料理研究家であるジェームズ・ケンジ・ロペス゠アルトは、鍋の気を出すには高温での調理が重要だと言いつつ、wok hei ならぬ torch hei なる技法を提案している★6。これは家庭用コンロの火力をおぎなうため、炒めている最中に「トーチ」つまり携帯用ガスバーナーで料理の上から火を噴射し、コンロの火と挟み撃ちにしてしまおうというとんでもない大技である。

 ロペス゠アルトの「トーチ・ヘイ」はさすがに冗談のようにも思えるが、ともあれ中華鍋をつかってなるべく高温で仕上げるというのは、中華の炒め物をつくるにあたってとても重要なポイントではある。その意味で、鍋の気にかんするグレイス・ヨンらのアドバイスは(ほんとうに「気」が出るのかはともかく)実用的であり、有益なものだといえるだろう。

 だが、はたしてそれでよいのだろうか。鍋の気について考えるべきなのは、ほんとうにそれだけなのか。いや、ぼくたちはむしろ、鍋の気という言葉のなかにある宇宙論的な、より正確にいえば宇宙技芸的な響きを聞きのがしてはならないのではないか。

2「鍋の気」と宇宙論


 前回から間隔もあいたので、ここで復習がてら振り返っておくと、宇宙技芸(cosmotechnics)というのはユク・ホイという香港の哲学者が提唱する概念で、非常にざっくりいうと宇宙論と密接に結びついた技術のことである。とはいえ、それはある特別な技術を意味しているわけではない。ユク・ホイによると、たとえどんな時代や地域であっても、技術というのはかならずその時代や地域のもつ哲学や宇宙論と深く関係しているものであって、だから技術はつねに宇宙技芸である、ということになる。つまり宇宙技芸とは、そのような技術のありかたをとくに強調する言葉でもあるわけだ。そしてこの連載では、じっさいに中華料理を中国の宇宙技芸として考えてみようとしている。こうした背景については第1回の「麻婆豆腐」をみていただくとして、いまは「鍋の気」のはなしにもどろう。

 前回にも少し説明したが、中国の思想では、しばしば宇宙のすべては「気」からなりたっていると考える。気がさまざまに動き、変化していくことであらゆるものが形成されていくというわけだ。つまり、あらゆる物質やその運動は気によって構成されるのである。そこで、たとえばジョセフ・ニーダムというイギリスの研究者は、気の概念を説明するために「matter-energy」という言葉をつかっている★7

 そもそも調理器具である中華鍋は、中国思想的には「器」(道具)というカテゴリーに含まれる。けれども、いま説明した気の思想の観点からみれば、鍋は気でできているともいえる。とすると、鍋の気とはチィチィであり、ひいてはチィチィであるということになる──洒落にしては微妙な出来だと思ったかたがいるだろうか。それは否定できないが、ともかくここには、じつは(洒落だけではなく)意外に深い問題が隠されているのである。

 ユク・ホイは、このような気の思想が中国的な技術の哲学の形成にわるい影響をあたえたのではないかと考えている。


張載ちょうさい〔北宋の儒家〕の気と二程〔おなじく北宋の儒家である程顥ていこう程頤ていい兄弟〕の理は、どちらも朱熹しゅき(1130-1200年)の理論に取り入れられたのだが、そこでは、気は器とおなじものとされ、理は形而上のものとされている。朱熹がいうように、「天地のあいだには理と気がある。理は形而上の道であり、生物の根本となる。しかし、気は形而下の器であり、生物にそなえられるのである」。ここではあきらかに気と器が単純に同一視されているのだが、しかし〔技術的な物としての〕器がたんなる「自然の物」とでもみなされないかぎり、どのようにして気が器に等しいものとなりうるのだろうか。★8
 ここでいう「理」とは原理原則のことだが、もともと「理」は玉石のもつ模様や物のすじめをあらわす文字だった。それがのちに、模様がはじめから玉石に刻まれているように、ほんらい物事に定められているような道理や法則を意味するようになった。朱子学をつくりあげた朱熹は、こうして形成された理の概念を古くからあった気の思想と組みあわせて、独自の宇宙論を完成させたのである。簡単にいうと、朱熹の宇宙論は、宇宙のすべてのものは気によってできているが、その生成変化は理によって規定されると考えるものだった★9

 朱熹の宇宙論はとてもうまくできている。けれどもユク・ホイは、むしろそこにこそ問題があったと考える。というのも、そこではかたちあるものがみな気となり、(理が定める)その感応や生成変化のプロセスによってすべてが説明できてしまう。しかし、それでは技術の産物としての器(道具)がいかに作用し、それによって人々がどのようにして身のまわりの世界(あるいは宇宙)と関係するかがあいまいになるからである。ユク・ホイは「気と器が単純に同一視され」ると書いているが、厳密にいえば、ここではむしろ器が気に還元されている。この還元が意味しているのは、より一般的にいえば人工物と自然物の同一視だ。

 料理を例に考えるなら、これは鍋も火も水も食材もみな感応しあう「気」としてひとくくりにされるということである。そうなると、ひと皿の料理でさえも、まるで自然現象のようにもろもろの気の感応によっておのずとできあがるかのようにみえかねない。もちろん、第2回「魚香肉絲」で語ったように、中華料理とは自然につうじる宇宙的な調和をめざすものではある。とはいえそれは、調理器具をもちいて、自然の移ろいとは異なる手順を経由しながら達成されるものだった。

 言い添えれば、朱熹にも陰陽や五行のように、気の諸相を分類し、説明するカテゴリーは存在する。けれども、そもそも気の思想に人工物と自然物の区別をあいまいにするような均質化の傾向があるのは否定しがたい。このような発想のもとでは、たしかに技術の哲学をつくりあげるのは困難になるだろう。

 



 このような気の思想の問題を受けて、ユク・ホイは明の宋応星そうおうせいという人物に注目する。宋は、気の変容のプロセスにおける人間の技術の立ち位置をはっきりさせた中国で最初の思想家だ。その思想と中華料理のただならぬ関係性についても第2回に書いてあるので、お忘れのかたは「ゲンロンα」の記事を読み返してみてほしい。

3 鍋は宇宙に突きささる


 朱子学(ひいては宋学一般)の宇宙論に対するユク・ホイの批判や、彼の宋応星への評価をみていると、「鍋の気」という言葉が意外な重要性をもっていることに気づく。

 すでに言ったように、気の思想にもとづくなら、鍋の気とは器の気であって気の気である。ここからさきほどは、気の宇宙論が技術の立ち位置をあいまいにしうるという問題を確認したわけだが、見方を変えれば、そもそも鍋の気という言葉は、中華鍋という特定の器だけが可能にする気の変容のしかたがあることを示しているともいえる。つまり気で満たされた宇宙のなかには、道具を道具としてとらえつつ、その作用を明確にしなければ語りえない気が存在するのだ。

 鍋の気とは、いわば技術によって限定づけられた気の概念だ。さらにいえば、それは気の生成変化によってなりたつ宇宙論そのものは否定しないが、その変容のプロセスのなかに鍋という器をさしはさむことで、気の思想に含まれる均質化の傾向には抵抗するような、ひとつの宇宙技芸的な概念なのである。

 



 さきほど紹介したグレイス・ヨンは、『炒到天涯 Stir-Frying to the Sky’s Edge』というべつの本のなかで、鍋の気とは「とても新鮮な食材がウォッ〔=鍋〕の香りを帯びるほど完璧に炒められるとき、あふれだす生気バイタリティのことをあらわす」のだと説明している★10。これを受けてあえて単純にいえば、ある料理が鍋の気を帯びているというのは、要するにとびきりおいしい炒め物の境地をあらわす表現のひとつであり、やはりこの連載で紹介してきた「調和」という中華料理の理想につうじていると考えてよいだろう(じっさい、ヨンのインタビューを受けて鍋の気とは炒め物の「味わいの調和」だと語った料理人もいる★11)。

 けれども、前回までのはなしとは異なっている点もある。それは、調和のためにかならず中華鍋という決まった器(道具)を用いなければならないということだ。

 特定の道具だけが成り立たせる調和があるというのは、べつに難しいはなしではない。ひとつ例をあげてみよう。日本のことわざに「弘法は筆を選ばず」というものがある。達人は道具のよしあしを問題にしないことを意味する言葉だが、視点を変えれば、そもそも筆という道具をつかうこと自体ははじめから決まっているともいえる。つまり、いくら弘法大師でもクレヨンで書道はできない。中華料理もこれとおなじである。中華鍋なき中華は、とりわけ中華鍋なき炒め物は、まるでクレヨンで書かれた掛け軸のようにちぐはぐなものになってしまうだろう。なぜなら、そのような料理は鍋の気をまったく帯びていないからだ。

 鍋がなければ炒め物は調和しえない。これは、裏返していえば、鍋さえあれば炒め物の仕上がりが劇的によくなる場合もあるということだ。そのため、たとえばテフロン加工のフライパンなどで中華をつくっていて、どうにも「店の味」が出ないと悩んでいるひとがいるなら、いますぐ中華鍋を導入すべきである。それだけで味わいが飛躍的に向上するかもしれない。そうなったとき、あなたは「店の味」というものがじつは多かれ少なかれ鍋の風味であり、もっといえば鍋の気であったことに気づくだろう。もちろん、ただ中華鍋を買えばそれでよいというわけではない。ここで「多かれ少なかれ」といっているのはそういうことだ。

   ***

 鍋の気についてはこのあたりにしておいて、ここからは炒飯のはなしをしよう。麻婆豆腐をはじめ、この連載で紹介してきた料理はどれも歴史の浅いものだったが、炒飯はさすがにかなり古くから食べられている。隋の楊素ようそという人物が考案した「砕金飯さいきんはん」という料理が炒飯のもとになったといわれているが、細かい歴史については諸説あり、たしかなことはよくわからない。そもそも米を炒めるというシンプルな調理法が中国に固有であるとは思えないし、この料理の由来をきちんと把握するには、中国以外の地域も視野に入れた検討が必要なのだろう★12。なので、いまはこれ以上の深入りはせずにレシピへ移ろうと思う。

 ただ、そのまえにひとつだけ補足しておこう。よくおいしい炒飯は「パラパラ」しているといわれるが、このパラパラとはどういうことだろうか。もちろん、さまざまな見解があるだろうが、ぼくはこのように考えている。パラパラの炒飯とは、米そのものがもつ水分は否定しないで、それ以外の水分をなるべく取りのぞくことでつくられた炒飯のことである。もし米の水分までなくなったら、それはパサパサになってしまうはずだ。いまからレシピをみるとき、またじっさいに炒飯をつくってみるときには、この点を意識してみてほしい。

4 炒飯のつくりかた



分量は2〜3人前。

○食材
・白米 1合
・卵 2つ
・長ねぎ 1本
・えび 3〜4尾
・ベーコン 50グラム程度
・とうもろこし 30グラム程度
・しいたけ 2個
・ほたての貝柱 1本

※材料のうち、米・卵・ねぎは必須。この3点で仕上げたものを「卵炒飯」という。あとは好みで食材を組みあわせればよいが、基本的に材料が増えるほど調理は難しくなっていく。


○調味料
・醤油 大さじ1
・塩 小さじ2

●以下はあわせ調味料にする
・醤油 小さじ1
・料理酒 小さじ1
・胡椒 小さじ1
・粉末中華だし 大さじ1弱

※五反田が誇る無添加特製の「信濃屋だし」は、なんとここでも活用できる。粉末の中華だしの代わりに、信濃屋だし大さじ1と塩小さじ1程度をまぜあわせよう。


○道具
中華鍋
 

材料一覧
 
下準備

・炊飯後ひと晩ほど置いて冷めた米(中国語では「隔夜飯グァーイエファン」という)を用意し、少量の油、塩大さじ1、片栗粉をまぜ込む。使い捨てのビニール手袋があると便利で衛生的

※冷めた米をつかうのが一般的だが、炊き立ての米をつかう方法もある。その場合、塩大さじ1と少量の油、分量外の卵ひとつを卵かけご飯の要領でまぜあわせればよい。料理人の山野辺仁がこれを提唱しているのだが★13、手軽なうえに仕上がりも安定するのでおすすめ。じつは今回の収録ではこちらの方法を採用している。


・卵は白身と黄身にわけておき、黄身はまぜて崩しておく
・長ねぎ(緑)はやや太めの小口切りに、長ねぎ(白)はみじん切りにする
・ほかの材料を小さく切る

※とうもろこしは切らないので、これをサイズの基準にする。ベーコンとしいたけはとうもろこしとおなじくらい、えびと貝柱はとうもろこし1個半程度のサイズにする。ベーコンは脂身をよけるのがよい。


・えびと貝柱は水気をとって軽く塩もみし、片栗粉でしめておく
 

材料の準備ができた状態
 
炒め

・煙が出るくらい十分に鍋を加熱する。テフロン加工のフライパンの場合、表面のコーティングが剥がれる危険性があるので、ここまでの加熱は禁物
・油をひいて加熱し、また煙が出るくらいまで熱したら油を取りのぞく

※これは何度も紹介してきた「滑鍋ホワグォ」という手法。鍋の焦げつきを防ぐ。


・もういちど滑鍋をおこない、少量の油で米を炒める。強火。焦げないように注意
・鍋の状態がよい場合は30秒ほどで米がパラパラしてくるので、皿に移す

※時間は目安なので、多少長くなってもかまわない。けれども、米は長く炒めるほどべたつきやすくなるので注意しよう。

 

米の下準備が完了した状態
 

・卵の白身を中火で炒める
・白身を鍋から出してまた滑鍋をしたあと、多めの油(米を炒めたときの倍くらい)を入れて長ねぎ(緑)を中火で10〜20秒ほど軽く揚げる
※中華の炒め物では、刻んだねぎを調味料のように最後にふりかけることが多い。このレシピでも、長ねぎ(白)はそのようにつかっている。けれども、ここではあえてさきに長ねぎ(緑)を素揚げしておくことで、料理がもつねぎの香りにより深みを出そうとしている。つまりぼくの炒飯では、調味料的な長ねぎの用法にくわえて、麻婆豆腐をつくるときの花椒のように、長ねぎを香辛料的にも用いているというわけだ。


・長ねぎを鍋から出して、卵の黄身を弱火で炒める
・黄身のかたちがしっかりしてきたら、えび・ほたて・ベーコン・とうもろこし・卵の白身をくわえて中火で炒める
 

卵黄とえび、ほたてを炒める
 

・えびに火が通ったら、できるかぎり火をつよくして米を投下する
・米と具材を手早くまぜてから、あわせ調味料をくわえる
 

鍋の気を引き出す伊勢
 

・鍋から「気」が出てくるのを感じたら、醤油大さじ1を鍋の縁から入れる。このとき、鍋表面の油が少ないと醤油が焦げてしまうので、必要に応じて分量外の油を少々足してもよい
・長ねぎ(緑・白)をくわえてまぜる。ねぎは余熱で十分なじむので、まぜたらすぐに火をとめること
 

完成!

5 備考


○鍋をひらく
 自分の中華鍋をもっているひとはよく知っているとおり、新しい鍋をつかいはじめるには少々手間がかかる。基本的に鉄の鍋には錆止めの加工がされており、はじめにその薬剤を取りのぞかなければならないからだ。よくある方法として、黒い煙が出るほど存分に鍋を焼いたあと、ニラなどの香味野菜を軽く炒めるというものがある。加熱することで薬剤が飛び、フレッシュな状態となった鍋に油膜が張られるというわけだ。中国語では、この一連の作業を「開鍋カイグォ」(鍋をひらく)と呼んでおり、鍋をつかいはじめるにあたって欠かせない準備だとされている。なお日本では、鍋を購入するときに代わりにひらいてくれる業者もあるが、難しい作業ではないのでじっさいにやってみることをおすすめする。たんなる曲がった鉄の板が「気」をはなつ器へとさまがわりする瞬間がみられるはずだ。もちろん、鍋をひらく際にはきちんと換気をして、やけどや火事にも十分注意すること。

○焼き飯・チャーハン問題
 この記事ではずっと「炒飯」と漢字で表記してきたが、米を炒めた中華料理の呼びかたとして、日本には「焼き飯」と「チャーハン」という2種類の名称がある。これらはおなじなのか、あるいはべつものなのか。すべての料理人がそれぞれ一家言をもっていそうなこの「焼き飯・チャーハン問題」について、たとえば料理人の陳建一は焼き飯とチャーハンのちがいをこのように語っている。


これは僕の独断と偏見なんだけど、チャーハンと焼き飯は違うの。チャーハンはあくまでご飯がパラパラ。焼き飯は、仕上げに醤油を鍋肌からまわし入れた名残のあるような、ちょっとやわらかくて香ばしいやつ。まあ、どっちも好きだけどね。
 大学時代に、学校のそばにラーメン屋さんがあって、ここのはおいしかったな。僕の定義でいえば焼き飯なんだけど[…]これがおいしくて、学生たちにも人気があった。僕もしょっちゅう食べてたな。★14
 つまり、味のよしあしはべつにして、仕上がりがややしっとりしているのが(おそらく日本的な)「焼き飯」であるという。陳のいう焼き飯とチャーハンのちがいは、一理あるような気もしつつ、他方で日本と中国の店(や日本の本格中華の店)がもつ厨房の火力の差が反映されているだけのような気もするが、いずれにせよぼくは、より本質的な問題はべつにあると考えている。料理研究家の玉村豊男が『料理の四面体』で指摘しているように、日本の料理用語には、直火にかける以外に、油で炒めることも「焼く」と呼んでしまう傾向がある★15。フライパンでつくる「焼きそば」や「豚肉の生姜焼き」などがその例だ(ちなみに焼きそばは中国語で「炒麺チャオミエン」という)。したがって、焼き飯の「焼き」とは厳密には炒めのことであり、焼き飯とチャーハンのあいだにちがいはない。あえていえば、「焼き飯」とは日本のあいまいな用語法が生みだした名づけのバリエーションである。これが、焼き飯・チャーハン問題にかんするぼくの考えだ。

○王剛の揚州炒飯事件

 この文章のはじめに紹介した王剛ワンガンは、ほかにも多くのレシピ動画を公開しており、とても参考になる。ところで彼と炒飯をめぐっては、ひとつ興味深いはなしがある。昨年秋に、揚州炒飯のつくりかたを紹介したべつの動画★16が原因となって王剛が炎上するという事件があったのである。というのは、王剛は2020年の10月23日にその炒飯動画を公開し、翌24日に自身の微博ウェイボーで紹介したのだが、その日はじつは毛沢東の息子・毛岸英マオアンインの命日だった。

 彼は朝鮮戦争で戦死したのだが、一説では軍の食糧のまずさに耐えきれずにこっそり卵炒飯をつくってしまい、そのときに拠点から上がった煙のせいで敵機に居場所を知られ、爆撃を受けて亡くなったとされている。そこで10月24日に炒飯の動画を紹介するのは毛岸英への、ひいては毛沢東への侮辱ではないかと一部の人々が憤って炎上させたらしい。王剛本人は、謝罪しつつもそのような意図はなかったと主張しており、はたからみてもやはり気の毒というほかない。

 それにしても、悲劇をまねいたとはいえ、戦場ですら煙を立てるほど本気で炒飯をつくってしまう毛岸英の執念には感嘆せざるをえない。たとえどんな局面であっても食にかんしては一切妥協しないという、中華料理を発明した民族としての矜恃が垣間みえるようなはなしである。



 つぎの第5回では精進料理をとりあげる予定だ。中国の精進料理は、日本のものとはまたひと味ちがったおもしろい世界をもっている。読者のみなさんには、適当に鍋を振って「気」でも出しながら、次回も楽しみにお待ちいただきたい。


撮影=編集部
場所=渋谷キッチンスタジオ


★1 王刚: "厨师长教你: '蛋炒饭' 的家常做法、这几个步骤很重要、大家学习起来"、YouTube、2018年10月22日。URL=https://youtu.be/EvE5cYNXufY(2021年2月25日閲覧)。引用箇所は2分05秒あたりから。動画には英語や日本語の字幕も用意されているが、引用の際には筆者が中国語から翻訳している。
★2 Young, Grace, and Alan Richardson The Breath of a Wok: Unlocking the Spirit of Chinese Wok Cooking Through Recipes and Lore. New York: Simon & Schuster, 2004. 以下、外国語書籍からの翻訳はすべて筆者による。共著者のアラン・リチャードソンはカメラマンで、すばらしい写真を何枚も提供している。
★3 Ibid., pp. 60-62.
★4 Ibid., p. 60.
★5 Ibid., p. 64.
★6 López-Alt, J. Kenji. "The Elements of Wok Hei, and How to Capture Them at Home," The New York Times, 4 Sep. 2020. URL=https://www.nytimes.com/2020/09/04/dining/stir-fry-recipe-wok-hei.html(2021年2月25日閲覧)。なお、「トーチ・ヘイ」に慣れていない一般読者に対し、ロペス゠アルトは、慣れないうちは炒め終わりのタイミングで料理をベイキングシート(アルミ製のトレー)などへ移してからガスバーナーであぶってもよいと言っている。とはいえ、「トーチ・ヘイ」に熟達してしまうほどにこの奇妙な技を何度も繰り返すひとがはたしてどれほどいるのか、ぼくには疑問である。ちなみに上記のサイトでは、ロペス=アルトがじっさいに片手で鍋を振りつつもう片方の手でガスバーナーを点火している映像がみられる。たいへん迫力がある。
★7 Needham, Joseph. Science and Civilisation in China, Vol.2. 1956. Cambridge: Cambridge University Press, 2005, p. 471. 邦訳の該当箇所は、ジョセフ・ニーダム『中国の科学と文明 三(思想史 下)』、東畑精一・藪内清監修、吉川忠夫ら訳、思索社、1975年、512頁。
★8 Hui, Yuk. The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics. Falmouth: Urbanomic, 2016, pp. 141-142.
★9 引用箇所以降、この段落の記述は小島毅『朱子学と陽明学』、ちくま学芸文庫、2013年、83-84頁を参照した。
★10 Young, Grace. Stir-Frying to the Sky's Edge: the Ultimate Guide to Maestery, with Authentic Recipes and Stories. New York: Simon & Schuster, 2010, p. 3. 強調は筆者。なお The Breath of a Wok とは異なり、グレイス・ヨンはこの本に中国語のタイトルをつけていない。日本語にすれば「天の端まで炒めて」とでもなるのかもしれないが、どうも舌足らずである(そしてなぜか妙にライ麦畑がちらつく)ので、ヨンのいう「Sky's Edge」が「天涯」という語の英訳であることを受けて、筆者が中国語でタイトルをつけておいた。
★11 Young. The Breath of a Wok, p. 60.
★12 周惠民:"炒饭并非起于隋代"、《世界博览》二〇一六年第一二期、八八页。ここでは、炒飯の起源が隋の「砕金飯」であるという通説に対し、より広い視野から米の炒め物一般の歴史を検討するべきだという問題提起がなされている。
★13 Chef Ropia「山野辺シェフ直伝【基本のチャーハン】基礎を固めたいならこの動画!」、YouTube、2020年10月24日。URL=https://youtu.be/ygnYusTVljM(2021年2月25日閲覧)。さきに本文を最後まで読んだかたはお気づきだろうが、この動画の日付も「10月24日」である。
★14 陳建一『鉄鍋の掟――陳家の料理作法』、KKベストセラーズ、2002年、158-159頁。
★15 玉村豊男『料理の四面体』、中公文庫、2010年、74頁。
★16 王刚:"厨师长教你: '扬州炒饭' 非家常做法、官方行业标准版、味道一级棒"、YouTube、2020年10月23日。URL=https://www.youtube.com/watch?v=ZgdCMwDLhq0(2020年2月25日閲覧)。
 

伊勢康平

1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。
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