革命と住宅(3) 第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(前)|本田晃子

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初出:2021年4月21日刊行『ゲンロンβ60』
前篇
 社会主義は家族制度を否定し、家族を基本単位とした住宅も否定した。前回の連載では、十月革命後に既存の家に対するアンチテーゼとして生まれた、社会主義の理想の住宅ドム・コムーナを紹介した。これらの「社会主義的住宅」では、人びとは婚姻や血縁に基づいてではなく、同志愛によって構成されたコミューンを基盤に、共同生活をおくった。住人たちはキッチンや浴室、トイレなどの水回りを共同で利用するだけでなく、それぞれの給与を集めて共同基金を設け、生活に必用な費用はこの基金から支出された。私的財産の所有は否定され、家具から衣服に至るまであらゆるものが共有化された。また、それまで女性の無償労働とみなされてきた家事や育児などの家庭内の私的な労働は、ドム・コムーナに付属する食堂や保育園などの公共サービスによって代替されることになった(もっとも、実際にはこれらの施設はしばしば割愛されるか、不完全なかたちでしか実現されなかったが)。1920年代末には、このようなドム・コムーナの理念は都市のレベルまで拡大された。五カ年計画の開始とともにソ連各地に新しい都市の建設が決定され、これを受けて社会主義都市のあるべき姿を問う論争が巻き起こったのである。

 革命の理想に燃えるボリシェヴィキやコムソモール(青年共産党員)、一部の前衛建築家たちは、ドム・コムーナや社会主義都市を建設し、生活環境を物理的に共同化・集団化することで、社会主義的な心身をもった「新しい人間」を生み出せると信じていた。しかし彼らの壮大な実験は、まもなく他でもない党によって有害なユートピア主義と断じられた。社会主義住宅や社会主義都市をめぐる議論は、これをきっかけに急速に萎んでいった。一方、そのようなエリートたちの論争の傍らで、この時代の大多数の都市労働者は、すでに共同化・集団化された住宅に住んでいた。ただしそれはドム・コムーナの輝かしい理念の皮肉な反転像というべき、「コムナルカ」と呼ばれた空間だった。幼少期から20年以上の年月をコムナルカで過ごした詩人のヨシフ・ブロツキーは、そこでの生活について次のように述べている。


それ[コムナルカ:本田]は、人間の性質についてのあらゆる幻想を剥ぎとり、生活をその基礎まで剥き出しにする。君はおならの音量で誰がトイレに入っているのか判別できるようになるし、彼ないし彼女が朝食や夕食に何を食べたのかもわかるようになる。人びとがベッドで立てる音も、女たちにいつ生理が来るのかもわかるようになる。隣人はしばしば君に悲しみを打ち明けるし、急な痛みやあるいはもっと悪い何かが君に起きたときには、彼や彼女が救急車を呼んでくれる。君が一人暮らしの場合、いつか君が椅子の上で死んでいるのを見つけるのも彼や彼女だし、あるいはその逆も起こりうるだろう。[★1]


 極限まで人びとが互いに近接し、剥き出しの生を生きることを強いられた、社会主義住宅コムナルカ。これらの住宅はどのような経緯で誕生し、どのような住人を生み出し、どのようなイメージを与えられ、そしてどのような終焉を迎えたのだろうか。ここからは、全3回にわたってコムナルカの歴史をとりあげていきたい。

1.住宅の接収と再分配


 気候の厳しいロシアにおいて、住宅の有無は人間の生死に直結する。労働者住宅の絶対的不足という問題の解決なしにプロレタリアートの支持の獲得が不可能であることは、ボリシェヴィキの指導者たちもよく理解していた。実際にレーニンは1917年11月の時点で、住人の数より部屋数が多い住宅は、貧しい人びとのために余剰の部屋を拠出すべきだと主張していた。こうして1918年8月20日には法令「都市における不動産の私的所有権の廃止について」が制定され、ロシアの主要都市の住宅は国有化の対象となった。そしてわずか2年足らずの間に、モスクワやペトログラード(現サンクトペテルブルク)では都市のおよそ4分の3の住宅が強制的に接収され[★2]、1919年3月に行われた第8回党大会の際に、徴用の完了が宣言された[★3]。接収された住宅はそれぞれの自治体(都市ソヴィエト)の管理下に置かれ、都市近郊に暮らす労働者に再分配された。このような経緯で誕生したのが、共同住宅(коммунальная квартира)通称コムナルカ(коммуналка)である。

 多くのメディアは、ボリシェヴィキの強力な指導体制による住宅の接収と再配分を称賛した[★4]。実際コムナルカの設立は、労働者向け住宅の不足という極めて現実的かつ物理的な問題と、生活の社会主義化というイデオロギー的問題を、一挙に解決したかのように見えた。しかし実際のコムナルカの運営は、どのようなものだったのだろうか。

 国有化の対象となったのは、モスクワなどの都市部に位置する貴族やブルジョワの邸宅ないし大規模な集合住宅だった。これらの住宅では、以前の主人一家は(逮捕されたり亡命したりしていない場合は)主寝室にまとめて押し込まれ、引っ越してきた新しい住人たちは、他の寝室やダイニングや客間、書斎、召使室などに、多くの場合一室一家族単位で居住した。大きな部屋はベニヤ板などで仕切られ、複数の家族が入居した[★5]。なお、これらの住宅の分配はかなり官僚的かつ機械的に行われていたようで、職場から遠い住宅を割り当てられたり、居住に適さない部屋(廊下、キッチン、バスルームなど)を割り当てられたりといったケースが後を絶たなかった。よって実際には、住まいを獲得したからといって、必ずしも労働者たちが諸手を挙げてボリシェヴィキの住宅政策を歓迎したわけではなかった[★6]。キッチンや浴室、トイレなどの水回りは、コムナルカ内で共有された。このような環境なので、冒頭のブロツキーの引用にもあるように、コムナルカでは同室の人びとの間はもちろん、隣人同士の間にもプライヴァシーは存在しなかった。

 当然ながら、住人間の対立も熾烈を極めた。そもそもコミューンを基盤としたドム・コムーナの住人たちとは異なり、コムナルカの住人たちは必ずしも生活の共同化や集団化を支持していたわけではなかった。彼らの多くは、ただ生きるためにコムナルカを選んだに過ぎない。当初からコムナルカの隣人たちに不信や敵愾心を剥き出しにする者もいた。住宅の元の所有者は、社会階層の異なる無教養で無作法な新しい隣人たちを軽蔑し、移住者たちもこれらかつての特権階級をあからさまに敵視した。

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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