言葉のままならなさに向き合う──一義性の時代の文学にむけて(後篇)|矢野利裕

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初出:2021年6月25日刊行『ゲンロンβ62』
 矢野利裕さんによる〈一義性の時代〉をめぐる特別記事の後篇をお送りします。
 前号掲載の前篇(https://webgenron.com/articles/gb061_06/)では、言葉が文脈から切り離されて解釈される〈一義性の時代〉に、はたして多義性を擁護する文学者の態度は有効なのかが議論されました。矢野さんは国語科の教員を務める立場から、「文学を一義的な契約書のように読もうとしている」と批判を浴びた新学習指導要領にも、自閉症スペクトラムの生徒への「合理的配慮」に則った進歩的な面があると指摘します。
 文脈を重視しない一義的な読解のほうが多様な他者へと開かれる〈一義性の時代〉に、文学はどのようにありえるのか。後篇では実際に現代の文学作品を読みながら、さらに探求を深めます。(編集部)
 

文学的な多義性の困難


 実際、中高一貫校の国語科教員という立場から現場主義的に考えたとき、文学の多義性を言いつのる類の言説は、エリート主義的で閉鎖的に映らなくもない。もう一度、前篇で紹介した阿部公彦の言葉を見てみよう。

複雑なことを表現しているテクストはしばしば多義的に書かれています。テクストが「異読」を誘発するようにして出来ているということです。それがテクストの中でいろんな意味が拮抗しているということの意味です。「これだけが正解だ!」という決めつけは、そういう場合、有効ではありません。むしろ、いかに異なる読みが生じうるかを一望の下にするような読みこそが必要になる。言うまでもなく文学作品はこうした読みの練習には最適ですが、別に文学にこだわる必要はありません。大事なのは、たとえ「正しい読み」にたどりついたと思ったときにも、あえて「別の読み」を想像するということです。★1


 間違っていることを言っているとは思わない。「多義的」で「複雑」な表現であることは、小説の魅力の大きなひとつである。しかし、これをそのまま科目としての「国語」に適用しようとする姿勢には、安易さを覚えてしまう。阿部は、「『人間というのはわからないものだ』『謎に満ちている』『いったい何をするかわかりゃしない』という状況を、言語的な『感動』として体験させる。これこそが国語という科目の芯となるべき理念ではないでしょうか」と述べるが、これは、新学習指導要領批判が先立ちすぎてはいないだろうか。

 そもそも、正解主義的な性格を強くもつ国語教育に対して文学の多義性をもって対抗する、という身振り自体、すでにひとつの型として出来あがっている。それは、今回の教育改革をめぐる議論以前からしばしば見聞きするものであり、今回も、その批判のパターンが、あらためて「論理国語」「現代の国語」に対して適用されている。歌人の俵万智による「契約書が読めることとは違う色どりや潤いが、言葉にはあるんだよということを、子どもたちには知ってほしい」という主張も、そのヴァリエーションと言えるだろう★2
 このような文学観や世界観についてとりわけ反対する気持ちもないのだが、国語教育との関連で考えたとき、ここには、現に国語の授業で成績を付けなければならない、というリアリティが抜け落ちていると感じる。解釈の多様性や小説の自由を謳いつつも、実際は教員主導の読解を押し付けるような不誠実さは、いちばん避けなければならないものだ。文学の自由を謳っておいて、その「自由」がしょせん教員の求めている〈正解〉の枠内だと見透かされてしまったら、そっちのほうがよほど、文学の自由さに対する不信を生む可能性がある。個人的には、教育の本領はむしろ、そのような矛盾や葛藤のさきにこそ存在すると思っている。正解主義的な授業を引き受けつつ、各々が抱く文学の喜びや世界の不思議さを伝えることは可能だし、多くの人がその身をもっておこなっていることだ(その具体的な実践については、ここでは措く)。

 文学の現代性を重視する本稿において批判的に問い直したいのは、このような多義性を根拠に文学を擁護しようとする態度である。解釈の多様性を擁護する態度と言い換えても良い。前篇でも述べたように、多義性の擁護それ自体が人によっては過剰な負担とされてしまう、という社会的な視線があるからだ。自閉症者に限らない。ポリティカル・コレクトネスの意識が高まった現在においては、言葉の多義性を言うことがむしろ特権的な物言いとして欺瞞的に響く、ということを理解しなければならない。

 このような言葉をめぐる特権性は、例えば、フェミニズムなどの社会運動におけるトーンポリシングをめぐる議論などとも通ずる。その意味でこのたびの教育改革には、マイノリティ運動が一般化してきた時代との同時代性を見出すこともできる。社会学者の富永京子は、「社会的に弱い立場になればなるほど、勉強の機会が与えられなかったり、理論立てて説明できないがゆえに、整理された言葉が使えず、過激な表現を使わざるをえない」と指摘したうえで、トーンポリシングについて次のように説明する。

わかりやすく説明することそのものが、ある種すごく限られた人、今の社会で「賢い」と評価される人のスキルなんです。だからそれをだれにも等しく求めることが、ある人にとってはすごく差別的に感じられてしまう。★3


 現代においては、文脈を読むことも「わかりやすく説明すること」同様、限られた人の「スキル」として捉えられる。スマホの画面から離れ、活字の本を読むことに慣れ親しむ環境自体が、文化資本の高さとともにあると考えられる。「合理的配慮」的な発想からすれば、前後の文脈が読まれにくい、SNS的な言葉の流通を前提にしたうえで、個々人の言語運用の仕方を考えることが求められる。それは、「文脈を読んで言外の意味を察知できるようになりましょう」ということではなくて、「可能な限り一義的な文章を読める/書けるようになりましょう」ということだ。

 だとすれば、新学習指導要領的な言葉のありかたのほうこそ、《一義性の時代》を見すえた現代的なものだと言わざるをえない。一連の教育改革に否定的な筆者であっても、いや否定的な立場だからこそ、少なくとも文学の多義性によって新学習指導要領を批判するのは、クリティカルではないと思える。《一義性の時代》においては、非-文学的すなわち多義的でないことが求められている。そこが出発点だ。

 筆者がいらだちを覚えるのは、文学とされるものが、リベラル的な「他者」への寛容さを謳っているように見えながら、実際は同時代の社会とそこに生きる「他者」に対して鈍感で、狭いサークルの言葉を弄しているように映るからだ。一連の教育改革論議をめぐっては、反-正解主義的な立場としての多義性擁護が頻繁に見受けられたが、意地悪く言えば、それ自体、時代状況や教育現場という具体的な文脈が抜け落ちたまま、一義的に浮遊し続ける言葉に見える。

 では、そんな《一義性の時代》において、文学はどのようなものとして考えられるのか。言葉が表面的な意味だけを抱えて拡散される時代に、文学はどのように対応しうるのか。中等教育の現場に身を置いている筆者からすれば、多義的であることがそのまま良いこととは、素朴には思えない。むしろ、多義性が目的化していくなかで、文芸誌を主戦場とする文学は、結果、スモールサークル化しているのではないか。少なくとも、ごく単純な事実として、教育の現場に耐えうる現代文学は少ないと感じている。

矢野利裕

1983年生まれ。批評家、DJ、イラスト。文芸批評・音楽批評など。著書に『コミックソングがJ-POPを作った』(Pヴァイン)、『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、『SMAPは終わらない』(垣内出版)。共著に『ジャニ研! Twenty Twenty』(原書房)など。

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