観光客の哲学の余白に(25) リベラルと保守を超える|東浩紀

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初出:2021年7月26日刊行『ゲンロンβ63』
 この連載は「観光客の哲学の余白に」と題されている。2017年に出版した『観光客の哲学』で書き漏らしたことを中心に、もろもろ思いつくままに随想を綴る連載という意味でつけた。 

 いま、その『観光客の哲学』を本格的に改訂する作業を進めている。現行の『観光客の哲学』は2部7章(補論を含めて8章)から成っているが、そこに新たに2章を加えて、増補版が来年春に刊行される。うち1章はこの秋刊行の『ゲンロン12』に先行掲載される。先行掲載分だけで8万字(原稿用紙200枚)を超えているので、増補版はかなりの分量になるだろう。期待されたい。 

 先行掲載される内容は、シラスの放送などで小出しに語っているし、著者としては論文そのものを読んでほしいので紹介しない。けれども、ひとことだけ記しておけば、それは同書の増補のためだけでなく、いまの思想的な閉塞感を打破するためにも書かれた文章になっている。

 



 2021年現在、この国の論壇の中心が、新聞や論壇誌にではなくSNSにあることは疑いがない。新聞や論壇誌の役割はけっして失われたわけではないが、速報性や動員力ではSNSに匹敵していない。その変化は議論の内容にも影響を与えている。さまざまな研究があきらかにしているように、SNSは原理的に立場の分極化を推進するメディアである。日本の論壇もまた、SNSという環境に適合し、たえずリベラルと保守に分かれて罵詈雑言を浴びせあう殺伐とした場に変貌しつつある。 

 リベラルと保守の対立はほんらいはイデオロギーの対立だ。それは国家観や政策の対立に連動していなければならない。 

 けれども現実の対立は様相が異なっている。そもそも冷戦構造が崩れて30年以上が経ついま、左右の思想的な対立には実質がなくなっている。保守が資本主義やナショナリズムを肯定し、リベラルはそれらを批判するという構図は成立しない。いまでは多くのリベラルは資本主義に親和的だし、他方で福祉の充実や多様性推進に積極的な保守も数多くいる。投票行動をみても、三浦瑠麗が『日本の分断』で示したように★1、日本の有権者の政策志向と支持政党は、安保や憲法など少数の論点を除けばほぼ相関しなくなっている。 

 それらの事実が示唆しているのは、ひとことでいえば、リベラルと保守の対立は、いまや一種の「ゲーム」でしかなくなってしまっているということである。毎日のように新たな「問題」が発見され、有名無名のユーザーが入り乱れて論戦が展開されるものの、それらはほとんど現実の生活と結びついていない。論争のための論争でしかなく、じっさいあっというまに忘れ去られていく。しかし瞬間瞬間をみれば熱量だけは大きいので、政治やビジネスの側も安易に無視することはできず、そこだけをとれば「ネットが社会を動かした」かのようにみえる。けれどもほんとうはなにも変わらない。いまの日本では、政治的な問題提起は、内容以前に、そのような「迷惑」としてしか機能しなくなり始めているのである。 

 この状況はよくない。なんとかして変えるべきである。ではどうしたらいいのか。むろん理想をいえばSNSが消滅するのがいい。けれどもそれはありえない。だとすれば、せめてゲームのルールを変えることはできないか。ぼくはそのような問題意識のもとで、件の論文を書いた。

 



 リベラルと保守の対立はイデオロギーと連動していない。ではなにが対立を生み出しているのだろうか。

 ぼくの考えでは、その源にあるのは、結局のところ、自分に近い仲間を優先するか、遠くて普遍的な原理を優先するかの「感性の差」である。この認識は宇野重規の『保守主義とは何か』から示唆を受けたものだが★2、「感性の差」はぼくの表現だ。福祉の充実にしても多様性の推進にしても、保守はまず仲間の利益や安全のことを考える。他方でリベラルは最初から普遍的な「正しさ」を追求する。そのちがいが、同じ目標を定めていたとしても、法や政策の優先順位にさまざまな差異をつくり、衝突を生み出しているのではないか。 

 この点で論壇の歴史においてわかりやすいのは、もう20年以上まえの事例であり、SNSで起きたものでもないが、1990年代末から2000年代にかけて文芸評論家の加藤典洋と哲学者の高橋哲哉のあいだで交わされた「歴史主体論争」だろう。同論争は、戦後50年の節目である1995年、これを機に国内の戦死者を追悼しようと論じた加藤に、さきにアジアの死者を追悼すべきではないかと高橋が批判を返したことで始まった。当時は保守とリベラルの「歴史観」の対立と受け止められたが、そもそも加藤はリベラルの護憲派であり、靖国神社の役割にも批判的で、第二次大戦の評価が両者でそれほど異なるわけでもない。問題はまさに、追悼を近くから始めるか遠くから始めるか、その感性の差でしかなかったのである。 

 保守は仲間を優先する。リベラルは原理を優先する。だからリベラルからみれば保守は自己中心的で他者を排除するようにみえるし、保守からみればリベラルは共感に欠け理想ばかり語っているようにみえる。リベラルと保守の対立は、冷戦崩壊後、徐々にそのような感性の差の表現でしかなくなっていき、SNSの登場でそれが一気に純化した。ぼくはそうみている。 

 それでは、この感性の差は乗り越え不可能なのだろうか。ぼくはそうは思わない。仲間から始めることと原理から始めること、近くから始めることと遠くから始めることは、哲学的に厳密に考えるとそもそも対立できないからである。『ゲンロン12』に掲載される論文では、そのような視座のもと、リベラルと保守の対立そのものを「脱構築」することを試みた。 

 その試みが成功しているかどうか、またそのような議論が『観光客の哲学』とどう関係するのか、そこは『ゲンロン12』の刊行を楽しみに待っていただきたいと思う。ぼくはその論文で、プラトンからウィトゲンシュタインやアーレント、ローティまで、さまざまな哲学者たちを参照しつつ、これからの保守主義は「保守すべき価値をたえず更新し再定義しなければならない」という意味で再帰的になるべきで、これからの公共性論は「たんに他者への開放を訴えるだけでなくその維持も考えなければならない」という意味で持続性の価値に目をむけるべきだという結論で、8万字にわたる考察を終えている。ぼくたちは、そろそろ、リベラルと保守の対立というSNSのゲームから本格的に身を引き離さなければならない。

 



 ところで、さきにも述べたように『観光客の哲学』の増補は2章から成っている。『ゲンロン12』に先行掲載されるのは1章で、残りの1章はこれから書く。そこではひさしぶりにルソーをとりあげるつもりである。 

 ルソーは考えれば考えるほど奇妙な人物である。そして複雑で多面的な人物である。彼はたしかに『社会契約論』で近代民主主義の礎を築いた。「一般意志」の理念はフランス革命の原動力になり、2世紀半後のいまも輝きを失っていない。 

 けれども彼は同時に近代教育学の創始者であり、また恋愛文学の創始者でもあった。ルソーは『社会契約論』とほぼ同時に『エミール』と『新エロイーズ』という2冊の著作を刊行している。じつは当時はこの2冊のほうがよほど世間の関心を集めている。『エミール』は架空の子ども「エミール」を主人公にした児童教育論で、そのなかの宗教批判がセンセーションを巻き起こし、ルソーはパリから追放されることになった。他方で『新エロイーズ』はスイスのレマン湖畔を舞台とした書簡体の恋愛小説で、熱狂的な多くの読者を獲得した。著者の死後も版を重ね、最終的に18世紀フランスで最大のベストセラーにまで育っている。いまでいう「聖地巡礼」も引き起こし、観光学者によれば、そもそもアルプスの美しさはこの小説をきっかけに発見されたものらしい★3。加えてルソーはまた、文学史的には告白文学と自然主義の創始者でもある。『告白』は彼の死後出版された著作だが、赤裸々な性を含むタブーのない内心吐露の文体は革命的で、後世に絶大な影響を与えた。つまりルソーは、近代的な民主主義の原理を発明しただけでなく、それとともに、大人ではない「子ども」の観念、世俗に汚されない「恋愛」の観念、嘘と虚飾を排した「告白」の概念、そして文明から離れた「自然」の美しさといった観念をすべて一気に発明しているのである。偉大な哲学者や文学者は多いが、こんな人物はぼくの知るかぎりほかにいない。 

 ぼくの考えでは、これらルソーの「文学的」な側面は、近代民主主義の本質を理解するうえで決定的に重要である。古代アテナイの民主主義が、ポリス(都市)の広場や劇場に集まる戦士たちの平等に支えられていたことはよく知られている。それになぞらえていえば、ルソーが考えた民主主義は、いつまでも子どもの感性をもち、恋に破れ、しばしば傷ついてはひとり旅して自然の美しさに癒されるような、とても柔弱な市民の「内面」を前提としていた。いまふうにいえば、「陰キャ」の民主主義こそが、彼が理想としたものだったのではないか。

 



 古代ギリシアの民主主義は、ポリスとオイコス(家政)、公的領域と私的領域の峻別を前提としていた。ルソーはそれに対して、私的な思いが私的なままオイコスの外に染み出し、ポリスの意志を不可避的に形成してしまうメカニズムを構想した。それが『社会契約論』のもっとも革命的なところである。 

 その革命性は、従来は全体主義に近いものとして否定的に語られてきた。けれども、そこにはもう少し可能性があるのではないか。 

 ぼくはさきほど、リベラルと保守の対立はいまでは感性の差でしかなくなっていると記した。それは人格の差といってもよいのかもしれない。じっさいこの20年ほど、「ネトウヨ」や「インセル」といった、新しく勃興した保守層を人格的批判を込めて名指す言葉はいろいろと生み出されてきた。逆もまたしかりである。2021年のいま、リベラルといえばこういうひとで、保守といえばこういうひとといった類型は、それが政治的に「正しい」かどうかはともかく、あるていど社会のなかで共有されている。その類型はときに国境をも超えている。リベラルと保守の対立は、いまや人格の対立にみえてしまっているのだ。 

 この状況下において、陰キャこそが民主主義をつくり、ポリスに出ることができない人々こそがポリスの意志をつくるという『社会契約論』の構想にはどのような可能性があるのか。それもまた、仲間から始めることと原理から始めること、近くから始めることと遠くから始めることの対立の脱構築と深く関係している。 

『観光客の哲学』の最終章ではそんなことを議論できたらと思う。こちらも期待されたい。

 


★1 三浦瑠麗『日本の分断』、文春新書、2021年。 
★2 宇野重規『保守主義とは何か』、中公新書、2016年、204頁。 
★3 石井昭夫「近代ツーリズムへの助走 第2章 ツアーからツーリズムへ」、「石井昭夫の観光研究室」。URL= http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/t4chap2new.pdf

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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