当事者から共事者へ(12) リア充と共事|小松理虔

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初出:2021年7月26日刊行『ゲンロンβ63』

 小松さんはリア充だから賛同できない。 

 

 



 ゲンロンカフェで行われたトーク番組で、そんな便りが読み上げられたのは、批評家のさやわかさんと辻田真佐憲さん、そしてぼくの鼎談企画「シラスと酒」の中盤だったか★1。ちなみにその前には「さやわかさんと辻田さんはオタクで陰キャだから信用できるけど」という趣旨のコメントも書き込まれていた。つまり、小松は陽キャでありオタクではない。だからやつの意見には賛同できない、ということのようだった。それはさすがに粗い括りではないかと疑問を呈してもよかったけれど、できなかった。思い当たる節があったからだ。 

 ここのところ、仕事の関係で新聞をよく読むようになった。新聞にはいろいろな社会課題が取り上げられている。政治、社会、ジェンダー、福祉、あるいは人権。日本の課題の根源が日々鋭く伝えられている。記事には、偏見や差別に苦しんでいるマイノリティや当事者も登場する。そして、なんらかの異議申し立てをしたり、社会に対するメッセージを発したりする。記事を読むたび、ああ、この問題で苦しんでいた人がこんなにもいたとは。問題があると気づかずに済んだのは自分が恵まれた環境にあったからであって、もしかしたら、どこぞの局面では加害者の側に立ってきたのかもしれないなあと、自分を恥じるような気持ちになる。 

 悲痛な声を数多く聞き、ぼくは、今さらながら、自分が常にマジョリティの側にいたんだと気づかされた。そもそも男性であり、健常者であり、なんらかの障害や困難があるわけではない。それに、先ほどのコメントが指摘しているように、ぼくには我を忘れて没頭できる趣味や特技もなければ、何かのオタクと呼べるほど熱中しているものもない。おまけに、自分の家があり、妻子がいて、仕事もそれなりに順調と言えるかもしれないし、人前で喋るのは得意なほうだ。つまり、ぼくは現実として「陽キャでリア充」性が強い。コメントがついた時には、たしかになあと納得するほかなかったし、イベント中だからそこで怒ってしまうのもよくない。さやわかさん、辻田さんと対話を続けるほかなかった。

 



 だが、イベントの数日後、家で酒を飲んでいるときにふとそのコメントを思い出し、なぜか怒りというか悲しみというか、情けないというかなんというか、身悶えするような気持ちが湧き上がってきた。「あいつはリア充だから」という言葉が、「ここはお前みたいなやつが来る場所じゃない」という言葉に聞こえ、議論の場から締め出されたような気持ちになってしまったのだ。次第に、過去に参加させてもらったほかのイベントでも同じように思われていたんだろうな。あいつ、知識もないくせにゲンロンカフェに出てきやがって、専門家でもオタクでもないのに。なーんて思っていた人も多かったのかもなあと思えてきて(酒のせいもある)、それからずっと、うじうじと「リア充問題」を考え続けることになった。 

 自分に寄せられた批判的なコメントから考えていくのは難儀である。が、ぼくはこれまでの連載で、自分の身に降りかかってきたものや、自分が直面した現場から社会について考えてみよう、自分を起点に、社会について考えることが「共事」だと主張してきた。だから、今回もここから考えを膨らませてみようと思う。そのためにもまずはとにかく筆を走らせてみることだ。 

 

圧倒的「強者男性」


 ここ最近、フェミニズムに関係する本を何冊か読んだ。ぼくは朝日新聞のパブリックエディターという仕事をしているのだが(最近新聞をよく読むようになった理由がこれ)、その朝日新聞の論壇時評の書き手が、津田大介さんから東京大学教授の林香里さんに変わった。林さんはジャーナリズムやメディアの研究者として知られるが、同時に、メディア企業や報道のジェンダーについて舌鋒鋭く語るフェミニストでもある。それで、林さんの考えを伺い知るためにも、まずは何冊か書籍を読んでおかねばと思い、アマゾンに勧められるがまま読んでみたわけだ。なかでも印象的だったのは、彼女が編者を務めた『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房、2019年)という、メディアとジェンダーについての本だった。学術的な論文より、対談の書き起こしやエッセイに力が感じられた。なんというか、目の前で異議申し立てをされているかのようだった。 

 ぼくは、地方局とはいえ、テレビ局に3年ほど勤めた経歴がある。だから、林さんたちが語るさまざまな体験や怒りの声は、そのまま、かつてメディア企業に男性として所属していたぼくにも向けられている。ぼくはぼくなりに仕事に悩み(だから3年で辞めた)、毎月かなりの残業をした。優秀な記者ではなかったので上司にはいつも怒られていたし、デスクやキャップともなかなかうまくいかなかった。その点ではとてもつらい記者生活だったと言える。けれど、そんな弱音を吐露するのが憚られるほどの過酷な経験を、書き手たちは吐き出していた。 

 エッセイストの小島慶子さんのコラムは、元「女子アナ」が書いているだけに説得力があった。小島さんの文章を読むと、ああ、よかれと思ってしたあのアドバイスも、盛り上がると思ってやったあの宴会芸も、フォローしたつもりで言ったあの一言も、知らないうちに女性たちを苦しめていたのかもしれないと思い出され、次第に、自分自身に吐き気を催すような気持ちになった。ぼくは、テレビ局を辞めてからも、つい数年前までツイッターやフェイスブックで下ネタをつぶやいていたし、デリカシーのない投稿を何度となくしている。完全に同書で批判されている加害男性そのものだ。ぼくはぼくなりに頑張ってきたつもりだったが、やはりだれかを踏みつけていた張本人でもあったのだ。もしかしたら、あの「リア充」コメントを残した人は、ぼくに対して「男性の加害性」を見てとったのかもしれない。

 



 いや、女性に対して、という以前に、ぼくは男性社会のなかでも、ほとんど何不自由なく人生を送ってきたように思われる。そもそもメディア企業に勤められるという時点で恵まれていたのだろうし、私立大学に4年間通うことができたのも、「太い」実家のおかげだろう。大学進学率が決して高くはない地域で進学校に入学できた時点で勝ち組だと言えるかもしれない。部活が個人種目である陸上部だったこともあってか、男性社会にありがちな強い上下関係やいじめのようなものもほとんど経験しなかったし、たまたま身体も大きかったので、ハラスメントの被害者になることもほとんどなかった。男性のなかでも優位な立場にあったわけだ。 

 ここ数年、ジェンダーや性の多様性、フェミニズムが語られるのに合わせ、男性にも被害者性はあるはずだ、押しつけられた「男らしさ」や、男性が持つ社会的弱者性(非正規雇用や低所得など)にも目を向けるべきだという「弱者男性論」が論じられるようになった。マジョリティとされる男性の端のほうで、生きづらさを抱えた男性たちが声を上げることもできずに弱り切っている。彼らは、制度的支援も社会的支援も受けられず、男なら弱音を吐くな、父親なのだから耐えろと言い立てられ、必死になってなんとか日々を生き抜いている。そればかりか、男性たちもまたルッキズムの視線を浴び、体型や髪型、ファッションなどを揶揄されたり、心ない言葉を浴びせかけられることもある。そこに人としての尊厳はあるのかと論者たちは問いかける。 

 四十路に入り、かつてのような体型でも髪型でもなくなったぼくにも多少の困難はある。けれど、どうだろう。やはり「弱者男性」とまでは言えまい。こうして、フェミニズム本を読んでも、弱者男性論を読んでも、結局のところぼくは日本の「ザ・マジョリティ」であると同時に「強者男性」であり、「加害男性」でもあったと気づかされる。 

 小学校で運動が苦手だった人たち、中学や高校で「非体育会系」だった人たちは、まさにぼくのような人間から有形無形のハラスメントをされたのだろう。ぼくたちは、たまたま恵まれた環境にあっただけなのに、周囲を見下して「オレは自力で頑張ってきた」などと吹聴し、何か不得意なものや苦手なものを持った人たちを自覚なく見下してきたのだろうと思う。あの投稿者にとって、ぼくの言動やふるまいが、かつて自分に危害を加えたいじめっ子のように見えた可能性もある。そう言われても仕方がない何かを、ぼくはきっと自覚せずに表に出してしまっているのだろう。

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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