つながりロシア(16)「カラマーゾフの子供たち」、聖地ヴァラームへ行く|齋須直人

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初出:2021年7月21日刊行『ゲンロンβ63』
 今年2021年はドストエフスキー生誕200年に当たる年であり、ロシアはもちろん、日本でも関連するイベントが多数行われている。私は2021年2月半ばから5月初めまでロシア第二の都市サンクト・ペテルブルクに滞在し、ロシアでのドストエフスキーイベントにいくつか参加した。その中でも、『カラマーゾフの子供たち』というドキュメンタリー映画に撮影されるために、フィンランドとの国境近く、ラドガ湖にある聖地ヴァラーム島に滞在したときの体験について記したい【図1】。
 
【図1】ヴァラーム島の位置
 

 ヴァラームは、ソロフキ(ロシア正教の古儀式派の反乱の拠点となり、ソ連時代には強制収容所として使われた)やオプチナ(『カラマーゾフの兄弟』の修道院のモデル)などと並ぶロシアの有名な聖地だ。あのプーチン大統領が毎年訪れており、2019年にはベラルーシの大統領ルカシェンコを伴って訪問した地でもある。私は、ドストエフスキーとロシア正教の関係について研究しており、ロシアの教会や修道院について知る必要があることから、それらを可能な限り見てきたが、ヴァラームの自然と修道院はその中でも最も美しいものの一つである【図2】【図3】。
 

【図2】白夜のヴァラーム修道院 撮影=ヴァラーム修道院の修道士たち Братья Валаамского монастыря
 

【図3】日没とヴァラームの修道士
 

なぜいまロシアに渡航したのか


 ロシアはコロナウイルスが国内に広まるのが比較的遅かった。急速に感染が拡大したのは2020年3月からである。ちょうどこの時期に、私はペテルブルクのゲルツェン記念ロシア国立教育大学にPh.D(カンディダート)★1の学位論文を提出し、学位取得の口頭試問を受けるため、可能な限り早くロシアに渡航する必要があった。しかし、3月末には日露間の国際線が停止する。その後半年以上が経って、2020年11月にやっと再開された。

 日本をはじめとして、多くの国の大学がオンラインでの口頭試問を認めたにもかかわらず、ロシアでは、今に至るまでほんの一部の例外を除いて、対面での試問以外を認めていない。そのため、国際線の復活は私にとって死活問題であった。だが、いざ国際線が復活しても、渡航のためには、ポスドクとして所属している早稲田大学や試問を行うロシアの大学での手続きが必要である。結局、2021年2月半ばにようやく渡航することができた。

 口頭試問の手続きをめぐって、ロシアの官僚制の最も悪い部分を存分に味わうことになる。滞在中の3カ月間、書類手続きに追われた。しかし、ドストエフスキー生誕200年にロシアに滞在できる機会は他にない。だから、毎週のように開催される学会、あらゆる地域で行われる展示会、様々な劇場で上演されるドストエフスキーの作品を原作とした劇など、数多い生誕200年イベントに可能な限り参加しようと努めた。その中の一つ、ドキュメンタリー映画『カラマーゾフの子供たち』では、主要な登場人物の一人として撮影されることにもなっていた。この作品は11月のドストエフスキーの誕生日に放送予定である。

 映画に登場することになったきっかけは次のようなものだった。『カラマーゾフの子供たち』の監督であるエッラ・トゥハレリさんは、自分の撮るドキュメンタリーに相応しい登場人物を、2020年11月に行われた、ペテルブルクのドストエフスキー博物館が主催する学会「ドストエフスキーと世界文化」のYouTube配信の中で探していた。しかし、文学研究者ではない監督にとって、有名な研究者による報告も含めて、学会は退屈だったらしい。私もこの配信を観ており、コメント欄である報告者に質問した。監督は、コメント欄に表示された珍しい外国人の名前が気になり、検索をかけたそうだ。そして、私が「ドストエフスキーとザドンスクの聖チーホン」についてロシア語で論文を書いていることを知り、Facebook経由で連絡を取ってきた。なお、ザドンスクの聖チーホンとは、長編『悪霊』の「チーホンのもとで」の章に登場するチーホンのプロトタイプになった、18世紀ロシアの聖人のことである。

 このとき私たちはZoomで少しだけ会話をしたのだが、監督は、私がタイミング良くこの作家生誕200年の年にロシアで学位を取ろうとしていることを知り、ドラマが生まれると確信したようだ。そして、インタビューと口頭試問の撮影の打診を受けた。私は知らない相手からの突然の連絡をどこまで信用できるかも分からず、また興味も湧かず、全く乗り気ではなかったが、監督の情熱と勢いに圧倒され、結局断りきれなくなった。当初、撮影は私が監督の住むモスクワに行ったときに行われることになっていたのだが、コロナウイルスの感染状況などもあり、私がなかなかモスクワに行かずにいると、監督と、監督の夫で映像カメラマンのヴァディムさんは急に計画を変え、一泊二日でペテルブルクにやってきた。私はその後も、監督の行動力と発想力に圧倒され続けることになる。

ペテルブルクでの撮影とアレクセイ・ドストエフスキーさん


 ペテルブルクで二日間にわたりいくつかの場面を撮影した。美しい書斎のあるホテルで私が真剣に学位論文を書いている場面(実際は書き終えてから1年以上経っている)や、私がドストエフスキーの胸像を段ボールのペーパークラフトで作り、その胸像に対して「ロシアの魂とは一体何ですか?」と問いかける場面など【図4】【図5】、私が学位論文を書く際の情熱や試行錯誤を劇的に映像化するためのやや荒唐無稽な撮影が続く中、ドストエフスキーの子孫アレクセイ・ドストエフスキーさんとの会話は、私の研究にとっても重要となる、さらなる展開を導くこととなった。
 

【図4】段ボールのドストエフスキー像
 

【図5】博士論文の執筆シーンを撮影したホテルの書斎
 

 アレクセイさんは、ラドガ湖の船乗りで、エレクトリックベースギターの演奏家でもある。年齢は40代後半に入ったばかり。父は作家の曾孫ドミトリー・ドストエフスキーさんで、日本にも講演に来たことがある。ドミトリーさんはドストエフスキー研究者木下豊房氏を介して日本製の癌の特効薬を得て、健康を取り戻すという経験をしたこともあり、日本や日本の研究者との関わりが深い。アレクセイさんは、子供の頃、ドミトリーさんが顧問となって『カラマーゾフの兄弟』の一部分を映画化した『少年たち』で、コーリャ・クラソートキンを演じたこともある。

 ドキュメンタリーでは元々、アレクセイさんとはウラジーミルスカヤ駅のドストエフスキー像の前で少し会話するだけの予定だった。それが、アレクセイさんが思いのほか友好的で協力的だったので、計画を変更して、ドストエフスキー博物館の向かいの建物の中庭で対話を撮影することになった。中庭の壁には、最近描かれたドストエフスキーの肖像がある【図6】。脚本の都合上、私はアレクセイさんに、「ドストエフスキーを深く理解するためにはどうしたら良いか?」といった大雑把な質問を投げかけるはめになったが、アレクセイさんはこのような難問にも雄弁に回答して下さり、その中で、「ロシアの修道院を見るべき」というアドバイスをいただいた。話が弾んだので、撮影後、監督夫婦、アレクセイさん、私の四人でセルビア料理屋に行って、ラキ(セルビアの酒でアルコール度数が40度程度)を飲みながら話を続けた。アレクセイさんは、船乗りとして出会ったラドガの修道士たち一人一人について語ってくれて、信心深い監督夫婦はそれを熱心に聴いていた【図7】。
 

【図6】ドストエフスキー博物館向かいの建物の中庭
 

【図7】セルビア料理屋での話し合い
 
 アレクセイさんは、4月にヴァラーム島に行くという。監督は、私がヴァラームに行ってアレクセイさんに会い、アレクセイさんの案内で修道士たちと交流し、本物の修道士の生活を知ることで学位論文のヒントを得る場面を撮影するというアイデアを思いついた。なお、船乗りのアレクセイさんとは深い繋がりのあるヴァラームだが、あのフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー本人との繋がりはあまりない。『作家の日記』の中でクインジの絵画《ヴァラーム島で》に言及しているくらいだろうか【図8】。
 

【図8】アルヒープ・クインジ《ヴァラーム島で》Public Domain URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kuindzhi_At_Valaam_island_1873.jpg
 

 このとき、撮影地の他の候補として、ラドガ湖の別の島で、コネヴェツという島も挙がった。コネヴェツの場合はアレクセイさんと会うことはできないが、そこの修道院には、監督と知り合いの修道士の方々がおり、ゾシマという名前の修道士もいるということだった。コネヴェツもおそらくドストエフスキーとはほぼ関係がなく、『カラマーゾフの兄弟』に登場する有名なゾシマ長老と名前で連想ができるのみである。本来なら、撮影場所としてオプチナ修道院など、ドストエフスキーと深く関わりのある場所を選択することもできたはずなのに、それをあえてやろうとしないのも今思うと面白かった。

 もっとも、通常私の身分では修道院の共同体の内部にアクセスするのは簡単ではなく、これが撮影を通して可能となったのは幸運であった。このような経験は、2018年にリーペツクで行われたザドンスクの聖チーホンの名を冠した宗教学会に参加して、宿泊地として提供された修道院でのイベントに参加して以来だった。キリスト教徒ではない私が自分のテーマの研究をするには、現代の修道院の様子を知ることは実際に重要なのである。

聖地ヴァラームの修道士たち


 ヴァラーム島には、ラドガ湖畔のプリオゼルスクという町の港から行くことができる。4月は観光シーズン前で、まだ船が行き来し始めたばかりだ。この時期は船の本数が少ない。今年最初のヴァラーム行きの船は4月16日、帰りの船は一番早くて21日なので、五泊六日の長い滞在となる。

 私は4月15日に滞在地のペテルブルクからプリオゼルスクに移動して一泊し、16日の朝はホテルから日本の大学のオンライン授業でロシア文化についての講義をした。そして授業終了30分後に出発するヴァラーム行きの船に駆け込んだ【図9】。現在地を受講生に伝えながらロシア文化論の授業をしたので、授業内容にいつもよりも興味を持ってもらえたかもしれない。どうにか撮影を実行するためのタイトな計画だったが、ホテルから港までが予想以上に距離があり、危うく遅刻しかけた。
 
【図9】プリオゼルスクの要塞
 
 航海者の守護聖人の名前を冠した、聖ニコライ号という船で湖を渡り、3時間ほどでヴァラーム島に着いた【図10】。じつは私はヴァラームを訪れるのは2回目である。1度目は2016年にペトロザボーツクからの日帰りツアーで行った。通常はヴァラーム島へはツアーでしか行くことができない。しかも大概のツアーは短時間である。そのときはガイドに案内されて2、3時間観てまわるだけで、自由時間もほぼなかった。たまたまツアーを見つけて参加を決めたのだが、これほどの短時間では主要な施設の外観と、メインの聖堂の中の見学に留まったので残念であった。しかも天候が悪かった。
 

【図10】ヴァラーム到着
 

 だから、今回五日間にわたり、しかも最初から最後まで晴天の中で滞在できたのはとても貴重なことだった。当初の約束では、撮影は一日二日程度で、残りは自由に過ごせるという話だったのが、撮影すべき場所や人物が次々と見出されて、結局毎日朝から晩まで休みなしとなったのだが。

 ヴァラームからもオンラインで日本に向けて授業を行ったが、その模様も撮影した。撮影された授業は、「哲学塾カント」という哲学者中島義道氏が主宰する民間の哲学学校で行ったもので、参加者8人とドストエフスキーの初期短編『白夜』を精読した。日本人たちによるロシア文学のテクストの講読は、ロシア人からしたら興味深い光景だろう。監督やスタッフはそれ以外の時間も無駄にせず、ヴァラーム島の自然や奉神礼(礼拝)の撮影をしていた。ドキュメンタリーで、私の映像に割り当てられた時間は20分だ。この短時間のためにこれだけ長時間の撮影をしなければならないとは、大変な仕事である。

 ヴァラーム島で行った撮影の中でも、周辺の島にあるスキートを2箇所、アレクセイさんの船マリヤ号で案内して頂いたのは印象深い体験だった【図11】【図12】。スキートは露和辞典の訳語では「小礼拝堂」、あるいは「隠遁所」と訳される施設で、礼拝堂、寝泊まりする場所など、複数の施設から成る。ヴァラーム島周辺にはいくつもの小さな島がある。アレクセイさんに伺ったところ、8の島に小さなスキートがあって、それぞれ2、3人の修道士が瞑想の暮らしをしているそうだ。我々はそのうち、「預言者イリヤのスキート」【図13】と「聖アレクサンドル・スヴィルスキーのスキート」【図14】を訪れた。これら小さな島にあるスキートに加え、ヴァラーム本島には6のスキートがある。
 
【図11】ヴァラーム島周辺
 

【図12】アレクセイさんの船、マリア号
 
【図13】預言者イリヤのスキート
 

【図14】アレクサンドル・スヴィルスキーの住んでいたとされる洞
 
 どちらのスキートにも、礼拝堂と寝泊まりする場所、井戸がある。預言者イリヤのスキートでは犬や猫も飼われていた。礼拝堂は二つとも撮影禁止だった。人里離れた小島に数人で暮らし、修道生活を送るには、食料や日用品の受け渡し、また移動手段が必要になる。修道士たちの生活が成り立っているのは、アレクセイさんのような船乗りが人やものを渡すのを助けているおかげである。今回も、ヴァラーム本島に用事のある見習修道士のコンスタンチンさんを船に同乗させたり、養殖所に寄って魚を受け取っていた。小島に暮らす修道士たちも今は全員スマートフォンを持っているので、連絡の問題はない。

 ヴァラーム本島も静かな場所であるが、周辺の島のスキートは一層静かで、静寂そのものだ。聖アレクサンドル・スヴィルスキーのスキートでは、そこに暮らす元軍人のダミアン神父に会った。神父にドストエフスキー作品を読むかと質問してみると、世俗の本は読まない、読むのは聖書や教父の書いた著作、聖人伝とのことだった。なお、事前に、小さな島のスキートに暮らす修道士たちは撮影を許可しない可能性があると聞かされていた。コンスタンチンさんもダミアン神父も、かなり長いこと撮影を拒んでいたが、何度も頼み込み、ほんのわずかな時間しか使わないということで承諾してもらった。謙虚な生活を心掛ける者にとって、撮影されることは望ましいものではないようだ。

 ヴァラーム島本島では、一般人の立ち入りが許されないスモレンスク・スキートで、聖体礼儀★2に参加させてもらった。このスキートは1914年から17年の間に、第一次世界大戦の戦没者の記念碑として、ロシア大公ニコライ・ニコラエヴィチによって建設された。その後、この礼拝堂はあらゆる戦没者のために祈る場所となっている。ここではスキート長のダヴィド神父の美しい聖歌を聴き、礼拝堂内の壁やイコノスタスに描かれる聖像画の一つ一つを説明してもらった【図15】。YouTubeでヴァラームを検索すれば、聖歌の動画が沢山出てくるはずだ。ダヴィド神父はその中でも特に素晴らしい声の持ち主で、それらの動画にもしばしば登場する。
 
【図15】スモレンスクのスキート
 

 その後、礼拝堂の近くの建物に移動し、1時間ほどダヴィド神父と対談する機会を得た。最初にダヴィド神父に講話のかたちで20分から30分ほど、修道院における霊的な教導について語って頂く。質問の時間に、「導き手や教師は本当に必要か? 真摯な心構えがあれば個人の努力で真の信仰を獲得することができるのではないか?」と尋ねてみた。私は学位論文で、ドストエフスキーの作品におけるニヒリズムに囚われたロシアの若者が、自身の傲慢さを克服して信仰を獲得するという筋書きと、その際に果たす教導者の役割について論じている。そうした教導者の役割を担っている登場人物としては、『悪霊』のチーホン、『未成年』のマカール・ドルゴルーキー、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマなどが該当する。修道生活は師弟関係を基礎としているので、修道士にとって教導者の必要性は当然と感じるはずだ。ただ、それが実際の修道院の場ではどのように説明されるのかを知りたかった。

 ダヴィド神父はエジプトの聖マリアの例を出し、次のように語った。──エジプトの聖マリアは、荒野で孤独に47年間の長い年月を過ごし、身近に教師となるべき人物を見つけることができなかった。そのため、神は救いの手を差し伸べた。もしも、身近に教師を探すことのできる者がそれをしないとしたら、それは傲慢な態度であり、また危険な道でもある、と。エジプトの聖マリアは、ドストエフスキーの作品『ポルズンコフ』、『罪と罰』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』でも言及され、罪深い生活の後、真の痛悔と霊的再生を遂げた存在として、スヴィドリガイロフやドミトリー・カラマーゾフの再生のテーマとも結びついている★3。そして、このダヴィド神父の導き手の必要性についてのお話は、ドストエフスキーの作品世界とも大きく関係している。『悪霊』のスタヴローギンは、早急で自己本位、奇妙な「偉業」にこだわり、あるスヒマ僧のもとで長年にわたる修行をするべきというチーホンの勧めを拒絶し、最終的に自殺した。また、『カラマーゾフの兄弟』で描かれる、修道院の厳格な師弟関係を基にした制度である長老制★4のことを考えれば、ドストエフスキーが、自己の力にのみ頼った道の危険性を強く意識していたことが伺われる。

 ダヴィド神父はヴァラームでお話しした修道士の方々の中でも最も雄弁で、撮影にも慣れていた。また、ドストエフスキーにも詳しかった。ドストエフスキーについて聖職者が論じる、あるいは一般に正教関連での読解がされる際には、列聖されたセルビアの神学者ユスティン・ポポヴィチ(1894-1979)の『ドストエフスキーの哲学と宗教』(1923年)が引用されるのが常である。ダヴィド神父もやはりこの有名なドストエフスキー論を引用していた。

ドストエフスキーの格言とロシア正教


 すでに述べたように、ドストエフスキーはヴァラームを訪れてもいないし、ほぼ言及もしていない。しかし、ヴァラームにおいても、他のロシアの多くの地と同じように、ドストエフスキーが残した影響は小さくなかったと言える。

 ヴァラーム島の「全聖人のためのスキート」の敷地内には礼拝堂がある。その玄関にドストエフスキーの肖像が掲げられているということで、見せて頂いた。このスキートは一般公開をされておらず、女人禁制で、女性が入ることができるのは年に一度だそうだが、女性であるトゥハレリ監督にも気軽に入場を許可してくれた【図16】。礼拝堂の玄関の壁には、ドストエフスキーの肖像があるだけではなく、作品の引用がアフォリズムのように書き込まれていた。
 
【図16】全聖人のためのスキート敷地内の礼拝堂。中にドストエフスキーの肖像が飾られている
 

 ドストエフスキーはソ連時代には評価が低く、宗教的見地からの読解に制限があった。ソ連崩壊後はむしろ、ドストエフスキーをロシア正教の作家として読むことが流行し、ロシアの学会の主要なテーマとなっている。ドストエフスキーを好み、この作家について書いたり講演したりする聖職者も珍しくはない。しかし、このスキートのように、聖人でも聖職者でもないはずの作家の肖像を礼拝堂の中に飾る例は稀ではないだろうか【図17】【図18】【図19】。
 

【図17】玄関のドストエフスキーの肖像
 

【図18】礼拝堂の壁に引用されたドストエフスキーのテクスト
 

【図19】シルアーン神父と筆者の対話の撮影風景
 

 我々が訪れた際には、スキート長であり、肖像画を飾った当人でもあるセラフィーム神父は残念ながら不在だった。そこで弟子のシルアーン神父に、修道生活やドストエフスキーについて尋ねてみた。神父は、小さな島のスキートのダミアン神父のように、撮影に対してためらいながらも質問に答えてくれた。神父は、厳しい修行に耐え、10年以上ヴァラームで生活している40代初めくらいの修道士である。ドストエフスキーは読んだことがあるという程度だそうで、特に思い入れはないようだった。シルアーン神父のおかげで、この世代のごく一般的な修道士がドストエフスキーをどのように思っているのかを知ることができたように思う。

 このスキートにあったドストエフスキーの引用をいくつか紹介しよう。

 まずは肖像の上に大きく書かれていた、「美は世界を救う Красота спасет мир」。この言葉は原文では、「世界を救うのは美だ Мир спасет красота」である。『白痴』の中で、主人公ムイシュキンが述べたセリフとして別の人物が引用するものだ。しかし、「美は世界を救う」はあらゆる場所でドストエフスキーの言葉として引用されるようになった。『白痴』の創作ノートには「世界は美によって救われる Мир красотой спасется」、『悪霊』の創作ノートには「世界を救うのはキリストの美だ Мир спасает Красота Христова」と、似たフレーズも書かれている。
 ドストエフスキーは創作ノートでムイシュキンを「キリスト公爵」と記している。ムイシュキンはペテルブルクに現れたキリスト的な存在として創造された。このことを踏まえた上で、聖書の、ヨハネ福音書の次の言葉を見てみよう。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:17)、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(12:47)。「美は世界を救う」というフレーズに用いられる「美」という言葉は、もちろん審美的な意味でも用いられているのだが、他に霊的な意味での美も含意されている。まさに礼拝堂の玄関の壁に大きな文字で引用するに相応しい言葉だ。

 また、『カラマーゾフの兄弟』ゾシマ言行録の中に出てくる「僕たちは誰もが、万人に対して全ての点で罪があるんですが、なかでも僕は誰よりも罪深いんですよ」という言葉も引用されていた。この言葉は、ゾシマが信仰の道へ入っていくきっかけになった、幼くして死んだ兄マルケルの言葉である。これは『カラマーゾフの兄弟』を理解するために最も重要な鍵となるフレーズの一つとされている。「全ての人が全ての人に対して罪がある」ことを理解し、その中でも「自分が最も罪深い」という自覚を得ることができるかどうか。そのキリスト教的な問いは、ドミトリーが自分の犯していない父殺しの罪に対する罰をあえて引き受けようとするなど、この作品の個々の登場人物の運命にとって重要なものとなっている★5

 シルアーン神父に、この言葉は、『カラマーゾフの兄弟』のみならず、伝統的なロシア正教にとっても重要な思想なのかどうか尋ねてみると、まさにその通りだと答えが返ってきた。礼拝堂では、「世界を救うのは美だ」や罪の連帯性に関わるマルケルの言葉、または「共苦」(『白痴』で特に重要な概念)に関する言葉など、ドストエフスキーの作品の中でも有名で、作家のキリスト教的な理解の核となっている箇所が引用されていることが分かる。

 他にも、「お前の喜びの涙で大地を濡らし、お前のその涙を愛することだ。大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがいい。自分の生まれた大地を拒否したものは、自分の神をも拒否したのだ」という言葉もあった。最初の2文は『カラマーゾフの兄弟』のゾシマの言行録の別々の箇所から取られたものである。最後の文は、『白痴』のエパンチン家の夜会の場面におけるムイシュキンのセリフで、ムイシュキンが古儀式派の商人の言葉を引用している箇所だ。この引用は、ドストエフスキーのテクストの複数箇所から、大地に関する言葉を貼り合わせたものになっている。他の引用においても、若干恣意的かつ、わずかな不正確さを含むものがあった。セラフィーム神父は、ドストエフスキーの宗教観に関連しそうな言葉から、「ロシア」「大地」「民衆」等について書いてある箇所を拾っているようだ。

 ドストエフスキーの作品以外から引用されたものもあった。その中でもチュッチェフの詩は、ドストエフスキーの宗教観と呼応するものだ。

この哀れな村たちよ、
この貧しい自然──
長い忍従の故地、
ロシアの民の地よ!
異民族の驕れるまなざしは
理解しない、気づかないだろう、
おまえのつつましい裸身の
内奥にひそかに輝くものを。
十字架の重荷を背負い、
故郷よ、おまえの地をすべて
奴隷姿の天帝が
祝福し、遍歴していたのだ。(坂庭淳史訳)


 この詩の最後の4行は、『カラマーゾフの兄弟』でイヴァン・カラマーゾフが引用している。また、有名な「プーシキン講演」でもドストエフスキーが引用している。「プーシキン講演」とは、1880年のモスクワでの、ロシアを代表する詩人であるプーシキンの記念碑設置に際しての講演で、プーシキンの作品の国家的意義やロシア民衆の文化的、歴史的な使命を説く、ドストエフスキー晩年の「ロシアのイデー」をかたちにしたものである。セラフィーム神父が引用したのは、ロシアの大地に暮らす貧しい民衆にこそ、神の祝福があるというこのチュッチェフの詩のメッセージが、ドストエフスキーによるロシア民衆やキリスト教についての理解に合致すると考えたためであろう。ロシアの民衆は、貧しく苦しい生活の中でも、自分自身の信仰や理想を保ってきた。西欧思想由来の無神論に囚われ、大地から離れてしまった貴族階級は、民衆と彼らの理想像から学ぶべきであると、ドストエフスキーは様々な評論の中で繰り返し述べている。ドストエフスキーは、1878年2月の『作家の日記』1章2節「民衆への愛について。民衆との不可欠な交流」の中で、その理想像として、キエフ・ペチェルスキー修道院の聖フェオドーシイ、ラドネジの聖セルギイ、そしてザドンスクの聖チーホンを挙げていた。ドストエフスキーは、ロシア民衆のことを、大地に根付いた真の信仰に近い者たちと見なしたが、彼らの理想像は、そのまま修道士たちの理想像ともなっている。

聖職者たちの世俗への姿勢


 ロシア正教の側面に選択的に焦点を当てたこのようなドストエフスキー理解は、日本の読者からすると珍しいものかもしれない。あまり極端になると一面的なものにもなりうるし、一部のロシア外の研究者が忌避するものでもある。しかしそれは、正確なテクスト読解、歴史的なコンテクストの理解から導き出される作家像からさほど遠くはない。

 ソ連崩壊後時間の経った現在のロシアでは、このようなドストエフスキー理解は、教会関係者のみならず、一般人にもしばしば見られるものとなった。ソ連時代においても、例えば、神学者セルゲイ・フーデリ(1900-1977)のような人物には、ドストエフスキーはすでにそのように見えていた。彼は、21歳で逮捕されて監獄に入れられてから、35年の間もソ連の圧政下の厳しい環境を耐え抜いた。その後、福音書や教会の神父たちの著作を鍵としてドストエフスキーの作品を読み解いた、『ドストエフスキーの遺産』(糸川紘一氏による邦訳あり)を著している。

 スキートではさらに奥の部屋も見せて頂いた【図20】。キリスト教関係だけではなく、世界の様々な絵やオブジェがあった。セラフィーム神父は日本を訪れたこともあるそうで、日本の自然を撮った写真集も見つけた。このような世界に対する広い関心は、神父の書斎からも分かる【図21】。セラフィーム神父は文学が相当好きなようで、プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフら一九世紀の古典文学が並んでいた。20世紀初頭の女性詩人ツヴェターエヴァなどの肖像も飾ってあり、ドストエフスキー全集も置いてあった。書斎の様子を見て、小さな島のスキートに暮らすダミアン神父が、世俗の本は読まないと仰っていたのを思い出し、同じヴァラームの修道士でも随分とスタンスが違うように感じられた。
 
【図20】小礼拝堂の1階の部屋
 

【図21】セラフィーム神父の書斎
 

 セラフィーム神父の書斎から感じ取れる世俗への強い関心、あるいは世俗に対して開かれた姿勢には、『悪霊』の「チーホンのもとで」における、主教チーホンの書斎についての次のような記述を思い出さずにはいられない。

最も上等な安楽椅子、素晴らしく飾り付けられた大きな書き物机、贅沢に彫刻された本棚、いくつもの机、重ね棚──これら全ては寄贈されたものだった。高価なブハラの絨毯があり、となりにはござもあった。「世俗的な」内容の、また神話時代をモチーフにした版画があり、こちらには、隅に、大きな聖像入れがあり、そこには金と銀に輝くいくつかのイコンが描かれており、その中には古代のイコンも一つあり、中には聖骸が入っていた。蔵書も多種多様で正反対なものもあったと噂されていた。キリスト教の偉大な聖人や苦行者の著作の横に、芝居の作品や、「おそらく、もっと良くないものすら」あった。(拙訳)
 礼拝堂の上の階に上がると、礼拝の部屋【図22】がある。さらに奥の部屋には、ソ連時代に強制労働などで亡くなった人々のために祈る空間があった【図23】。ダヴィド神父が、強制労働で亡くなった名前も分からない人々の、粉々になった遺骨が沢山入った箱の覆いを突然外して、中を見せて下さったときは、あまりに急だったこともあり衝撃を受けた【図24】。そこには、アフマートヴァの詩『レクイエム』を始めとする詩が壁に書かれていた。アフマートヴァは政治的抑圧にさらされ続けた詩人で、1935年に息子レフ・グミリョフが逮捕されると、叙事詩『レクイエム』を執筆し、息子を奪われた母の像を聖書のモチーフに重ね合わせた。
 
【図22】小礼拝堂の2階の部屋
 

【図23】強制労働で亡くなった人のために祈る空間
 

【図24】遺骨の入った箱
 

 ここまで見てきたように、この礼拝堂は、玄関に掲げられたドストエフスキーの肖像と引用に始まる。1階の会談のための空間や書斎には、世俗の文物が豊富に置かれている。しかし、さらに2階の礼拝の部屋に上がり、奥まで進むと、ソ連時代に強制労働で亡くなった人々のために祈る部屋に繋がっていくのだ。

 ドストエフスキーの作品には、イヴァン・カラマーゾフの力強い「反抗」や「大審問官」を含む無神論的な思想から、自殺者のためにも祈るように教える、伝統的な正教の教えからすると異端的な部分も含むゾシマの教えまでが描かれ、じつに幅広い信仰の在り方や思想的立場が含まれている。こうした、信仰と不信仰、さらには聖と俗のあらゆる側面を包括した作品の総体がドストエフスキーの神学である。

 ここではそれが、様々な物品や書物に彩られたこの礼拝堂の一階の部屋と書斎の様子とも響き合っていると言える。ドストエフスキーは、『悪霊』などの作品で暴力革命の恐ろしさを伝えており、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章では全体主義の危険性に警鐘を鳴らしてもいる。そのために、キリスト教の教えから踏み外し、無神論の国となったソヴィエト・ロシアの悲劇的な面を預言したと言われることがしばしばある。この悲劇の記憶を留めるのが、『レクイエム』の書かれた2階の奥の部屋なのだ。このように理解するならば、礼拝堂の、まさに玄関の部屋にドストエフスキーの肖像が掲げられていることの意味が了解されてくる。

日本人がドストエフスキーを研究するということ


 以上に加えて、とても美味しい修道院の食事を、毎回やはりラキを飲みながら頂くことができたのも良い経験だった。残念ながら食堂は撮影禁止であった。食事には、ヴァラーム島周辺で取られた魚を調理したものもあった。

 のちにヴァラームの日本文化に関心があるという修道士から、メールで質問を受け取った。「日本の魂はどのように神を探すのか語ってほしい。日出ずる国に住む人々はどのように人間の内的世界を理解し、欲を自覚し、徳を理解しているか? どのように信仰への道で誘惑と困難を克服するのか? 霊的生活を何と解釈しているか、どのように現代の環境でそのような生活を送ろうとしているか?」。今回の撮影の企画として私が理解しようと努めることになったのは「ロシアの魂」だったが、その後、反対に「日本の魂」について問われることになってしまった。

 4月21日にペテルブルクに戻り、29日には学位論文の口頭試問が行われた。幸い、討論者となったドストエフスキー研究者二人から高評価を頂き、無事学位取得が決定した。討論者の一人目は、ペテルブルクのドストエフスキー博物館副館長でロシア・ドストエフスキー協会の会長ボリス・チホミーロフさん、二人目は正教や古儀式派、あるいはセクトとの関係でドストエフスキーを研究しているタチヤーナ・カルパチョーヴァさんである。監督とカメラマンの夫妻は、予定通り再びモスクワから撮影のためにペテルブルクにやってきた。私は撮影用のマイクをつけて、カメラの前で口頭試問を受けることになった。

 口頭試問の暖かい雰囲気を思い出すと、ロシアの大学院に入ってから学位取得が決まるまで、研究に関して様々な人が助けてくれたことがあらためて思い起こされる。これは、もちろん彼らが親切であったということだが、さらに、私のテーマも関係しているように思えてならない。外国人である私がロシア正教との関連でドストエフスキーの作品研究に取り組んだということが、良い印象を持ってもらえた一因だったのではないか。私のテーマ選択は、ベテラン研究者には感心される。若手研究者には不思議がられるものの、強い印象を与えるようだ。監督が私を撮影したいと思ったのも、珍しさに加え、そうした視聴者の反応を期待したからでもあるだろう。コロナウイルス大流行の中、ロシアの人々はマスクをつけもせず、自粛もしない。この環境に3カ月滞在し、結果的には無事なまま、本来の渡航の目的も達成し、撮影も予定通り行って帰国できた。これは僥倖と人々の助けがいくつも重なったおかげである。
 ちなみに、監督は全部で1時間程度のドキュメンタリー映画のうち、最初の20分を、イギリスの編集者で作家のAlex Christofiさんに当てていた。Alexさんは今年1月にドストエフスキーの伝記 “Dostoevsky in Love” を出版した人だ。電子書籍Kindleでも読めるので、興味のある方は是非調べて頂きたい。その映像は、イギリスにいる監督の同僚が撮影したそうだ。次の20分は私で、そこにドストエフスキー研究者で名古屋外国語大学学長の亀山郁夫氏からのビデオレターも加わる。

 最後の20分をロシア人から誰かを選ぶことになっており、結局、監督はペルミ在住の名もないドストエフスキーの愛読者を見つけた。その人をヴォルガ川クルーズの客船ドストエフスキー号に乗せて撮影することにしたらしい。再び疑問が湧いてくるのだが、ドストエフスキー号という船の名前以外に、この作家とヴォルガ川クルーズに一体どのような関係があるというのだろうか。もしかすると、ヴァラームのように、結果的にドストエフスキーと関連付けるような事柄が見つかったりするのかもしれない。

 名もない愛読者を選んだことには、監督が研究者を面白くないと思っていることも大きいだろう。ドストエフスキーについてのドキュメンタリーを、作家の生涯や作品の説明、あるいは研究者による解説にあてるということではなく、別のアイデアで撮影しようとした点は大いに賛成できる。そのような趣旨の番組はすでに無数に作られてきたので、対抗して面白い映像を撮るのは至難の業だろう。最初からドストエフスキー本人に焦点を当てるよりも、珍しい読者を撮るという選択は新しい価値を生む可能性がある。

 一方で、このドキュメンタリーの撮影には、とてもここに書けなかったような不安要素もいくつかあり、一体どのような仕上がりになるだろうかと恐れてもいる。特に、予め分かっていることとして、自己イメージとは離れた、熱心にロシアの魂を探求しようとしている日本人としての自分の姿を見せられることになるのは恐い。これまであまり気にしてはいなかったものの、今までも私のことをそのように見たロシア人がいたはずであるということを、あらためて意識する契機となった。

地図作成=編集部
写真提供=齋須直人

 


★1 ロシアの学位制度は、日本や西欧とは異なっている。修士号の一つ上の学位はカンディダートと言って、これまで「準博士号」と訳されてきたものである。これは、日本の課程博士やPh.Dに相当する。さらに、カンディダート学位の後に取得できる上の学位としてドクトルがあり、こちらは、訳せば「博士号」となるのでややこしいが、必要とされる業績は、日本の制度で言えば論文博士に相当し、経験を積んだベテランの研究者が取得できるものである。
★2 「聖体礼儀とは、パンと葡萄酒が、イイスス・ハリストスの尊体尊血になり、それを信者が領食することととらえられる。聖体礼儀は信者の生活の中心に位置付けられる」(クリメント北原史門「正教会とその習慣」、『ロシア文化事典』、丸善出版、2019年より)。
★3 次の論文を参照した。Кавацца А. Образ Марии Египетской в творчестве Ф. М. До- стоевского // Два века русской классики. 2019. Т. 1. № 2. С. 174–185.
★4 『カラマーゾフの兄弟』では、長老制は次のように説明されている。「それにしても、長老とはいったい何だろうか? 長老とは、あなた方の魂、あなた方の意思を、みずからの魂、みずからの意思のうちに引き受けてくれる人である。長老を選んだ瞬間、あなた方はおのが意思を放棄し、完全な自己放棄とともに、おのが意思を長老へのまったき服従に委ねる。自分の運命を長老に託す人間が、この試練、この恐るべき人生修行をみずから進んで引き受けるのは、長期にわたる試練ののち、自己に打ち克ち、自己を統御して、ついには全生涯の服従を通じてまったき自由、つまり自分自身からの自由を獲得できるに違いない、そして長い一生を生き長らえながらも、結局、自分のうちに真の自己を発見しえないまま斃れる人々の運命を回避できるに違いないという希望を抱くからである。この創案、つまり長老制度は理論的なものではなく、東方圏での実践から生まれたものであり、現在ではすでに千年の歴史がある。」この文章で引用する『カラマーゾフの兄弟』の訳は、『詳註版・カラマーゾフの兄弟』、杉里直人訳、水声社、2020年を参照。
★5 このフレーズが小説の中で持つ意味については、杉里訳『詳註版・カラマーゾフの兄弟』の解説の224頁以降に詳しく的確に述べられている。

齋須直人

1986年東京都生まれ。専門はロシア文学、ロシア宗教思想史、ドストエフスキー。現在、日本学術振興会特別研究員PD(早稲田大学文学学術院)、桜美林大学、慶應義塾大学非常勤講師。京都大学経済学部経済学科卒業。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程単位取得満期退学。ゲルツェン記念ロシア国立教育大学文学部ロシア文学科Ph.Dコース(アスピラントゥーラ)修了。
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