日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(8) 未来の芸術と倫理の未来のため?──7月30日から8月27日|田中功起

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初出:2021年8月30日刊行『ゲンロンβ64』
 先週金曜(2023年7月28日)、アーティストの田中功起さんのシラスチャンネル「田中功起の社会と抽象しらす」にて、いわゆる「アーツ前橋問題」を取り上げて検証する番組が配信されました。「アーツ前橋問題」とは、前橋市の文化施設であるアーツ前橋が2019年に起こしのちに発覚した、おもに2つの問題(①借用作品の紛失問題、②出展アーティストの展覧会記録集をめぐる問題)を指します。
 田中さんの番組では、②の問題の当事者であるアーティストの山本高之氏らをゲストに迎え、開示資料をもとに2つの問題の検証が行われました。このたび、その関連記事として、田中さんの連載「日付のあるノート、もしくは日記のようなもの」で①の問題に触れられた回を全文無料公開します。下記の番組とあわせて、ぜひお読みください。(編集部、2023年8月3日)
 
[ゲスト回]アーツ前橋問題、あるいはアーティストの労働環境について with 山本高之+居原田遥
URL= https://shirasu.io/t/kktnk/c/sas/p/20230728
 連載をはじめてから1年がすぎた。

 その間ずっとコロナ・ウイルスは人びとのあいだで感染拡大し、変異し、世界はそれに翻弄されたままだった。ぼくは妻と育児をしながらこの1年をすごした。子どもが保育園に行くことでさまざまなウイルスや病気を持ち帰り家族で病気になってたいへんとか、でも離乳食めちゃめちゃ食べているよとか、そろそろ歩きはじめそう、みたいな話もある。それと、ここにきてなかなか精神的に不安定になり、男性にも産後鬱があるってことを知る。それについて書こうとも思っていたんだけど、時事問題でどうしても気になることがあってね……。ちなみに東京オリンピックのことではない。

 ぼくはそもそもあまりスポーツに興味がなく、スポーツ選手のこともよく知らない。オリンピックの開会式もいままで見たことがなく、今回ぐらいはしっかり見てみようと録画したけど、妻の早送りにより15分程度で見終わってしまった。そんなぼくに、開会式について批評する資格はないけど、早送りで見た限りでは、より貧相さが際だってしまっていたかな。いずれにしても、せつない、寂しい、悲しいという印象だった。

 オリンピックそのものよりも興味があるのは、文化庁がオリンピックに向けて数年前に提示した「文化芸術立国」実現に向けた文化プログラムの基本構想。5万人のアーティストが20万件のイベントを行い、5000万人の集客を目指すというものだ★1。これは2015年ごろの目標だから、それからオリンピックまでの5年間に達成されるはずだった。コロナもあってこの構想はあまり省みられなくなっているけど、実際はどの程度目標がクリアされたのだろうか。

 ひとつのわかりやすい事例は東京都が行っている Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)という数年前に新設された賞だ★2。中堅アーティストを支援する(特に海外発信を目指す)というプログラムだけど、毎回男性ひとり、女性ひとりが選ばれていて、しかもかならず社会批評性をもつアーティストが少なくともひとりは含まれているという印象がある。実は、ぼくもこれに応募したことがあるのだが、中堅であっても既に海外でのキャリアがあると判断されたのか、書類審査で落とされてしまった。

 この賞で気になるのは、社会批評性をもつアーティストがどのように立ち振る舞うのかという点だ。受賞すればオリンピック関連の国家予算を受け取り、小池百合子都知事と並んで授賞式の写真に収まることになる。読者は疑問に思うかもしれない。例えばオリンピック批判の作品を作っているアーティストがいるとして、どのようにダブルスタンダードな自分を納得させて受賞するのだろう。ぼくはそれがどのように解消できるのか、自分が受賞することで考えてみたいと思っていた。

 以前、似たような疑問を友人に投げかけたときの一番納得のいく答えはこれ──相手がいやがるお金の使い方をすればいいんじゃない? これって、政権批判をするアーティストが公的助成金をもらう、という捻れた状況に対するひとつの回答でもある。アーティストと公的支援についての疑問は別の機会にもっと掘り下げて考えたいかな。あいちトリエンナーレ以降、ずっと気になっている。けど、なかなか難しい。

 



 ところで、今年も諦めずにこの賞に応募しようとホームページをチェックしていたんだけど、審査員のリストが応募開始直前になって変更された。キュレーターの住友文彦さんの名前がリストから消え、別のひとになった。これが今回の本題に関係する。いったい何が起きているのか。

 



 住友さんとは古い知り合いで、例えば2004年、ぼくはニューヨークにいて、調査に来ていた彼と二人でスクエアプッシャー(あるいはデリック・メイだったかも。うろ覚え……)のライブに行ったことがある。ロサンゼルスに住んでいたころも、やっぱり彼は調査に来ていて、一緒にご飯を食べたりした。キュレーターとアーティストという仕事の関係としては遥か昔に1度か2度ぐらい(?)展覧会に呼んでもらったこともあったけど、それ以降はどちらかというと仕事よりは、たまに意見交換するみたいな間柄だった。彼が群馬県前橋市にあるアーツ前橋の館長になったときも、若くして館長になってすごいなあと、同世代として(ぼくは少し後輩だけど)、着実に力をつけているなあと思っていた。

 ある用件で前橋に行ったとき(ちなみにアーツ前橋とは関係ない企画)、偶然会ったアーティストから、どうもなんかやばいらしい、という話を聞いた。まあ、誰に対してもやっかみはある。きっと住友さんに対してもそういうふうに言うひともいるのかな、ぐらいに思っていた。「あいつやばいよ」みたいな話は、業界内の噂として誰に対しても言われている。ぼくだって言われている。ある程度の立場になるとみななにかしら悪い噂を流されたりもするから……。

 いやいや、どうもこれはぜんぜん違うらしい。

 



 それからしばらくしてアーツ前橋で作品の紛失事故があったというニュースが流れた★3。このときはまだその全貌を知りえなかったけど。

 



 情報開示請求によって公開されている700頁にもおよぶ調査資料には、アーツ前橋の副館長とI学芸員(名前が黒塗りされているから仮にIとしておく)の会話の書き起こしが出てくる。時系列的には作品紛失がわかってすぐ、二人が現場に向かう車のなかでの会話だ。これが録音されていたということにまず驚く。副館長は前橋市の事務方職員で、なにかしらの不穏さをかぎ取っての行動だろう(録音や文字ベースの資料は証拠になるので、みなさん、重要事項はメールでのやりとりとか録音しておきましょう)。美術館はアーカイブ施設だし、資料管理はそのメインの仕事のひとつ。でもここでは行政(副館長)のほうがよりアーカイブに対するスキルと倫理があり、美術の専門家の側はむしろ事態を甘く見ていたようだ。紛失作品を借用リストから除いて改ざんし、更新された偽造リストを借用先の遺族に渡せばバレない、と計画していたわけだから(公文書改ざんと偽造は市の事務方職員が制止したことによってまぬがれている)。

 こうしてアーカイブの逆襲がはじまる。以下、前後を省いて必要な部分を再構成してみる★4

(副館長) まあ、良い方法はないんだよ。どっちにしても(公表を)覚悟しなきゃダメだよ。
(I学芸員) 全てを正直に話すっていう選択肢ももちろんあるけど。それをやったらアーツの信頼は全部失墜する。
 だから、寄贈の作品を、結局だって、遺族から借りてきた時には一先ずこのまとまりを借りてきますって言って、借りてきて、私が全部リストを作っているわけだから、遺族もそこに何があったかっていうのはきちんと把握してないんですよ。
(副館長) でもやっぱり正直に言うほうがいいんじゃないかなと思うけどね。
(I学芸員) 私は調査をしている人間だから、結局、だって私しか知らないじゃんみたいな。リストを作った人間しか作品見ていないから。遺族は完全にうち(アーツ前橋)に信頼をおいてくれてはいるから。
(副館長) 余計だませないと思うよ。
(I学芸員) だから、例えばね、今個展を開催したいって、であれば何の問題もないかなと思う。
(副館長) どっかいちゃった[原文ママ]って話しないわけにいかないんじゃないかな。


 この連載を「日記」のような形式にしたのは自由に書くためである。論理の飛躍やエピソード同士の不連続も「日記」と言われればそれほど気にならないだろう。あるいは、緻密にプログラムしていたとしてもエピソードの繋がりを窮屈に感じさせず、読者には自然なフローとして受け取られるかもしれない。ま、そもそも人間の思考なんて適当なんだけど。

 



 美学者の伊藤亜紗は道徳と倫理の違いについて以下のように整理している。道徳は「絶対的で普遍的な規則」(「嘘をついてはいけない」とか)であり、倫理は「現実の具体的な状況で人がどう振る舞うか」に関係する。「嘘はついてはいけない」けれども、現実の状況のなかでは「真実は彼女を傷つけてしまうかもしれないから、いまの私には伝えられない」というような「迷い」や「悩み」を含むものが倫理であり、その意味では答えのないものである★5

 これはぼくがこの「日記」のなかで書いている抽象と具体の違いに対応する。道徳は抽象的であり、倫理は個別具体的である。伊藤はさらに道徳は「すべき」、倫理は「できるかどうか」に関係すると言う。嘘はつくべきではない(道徳)。しかし、守るべきものがあり、それが失われてしまうことがわかるとき、真実を伝えることができるだろうか(倫理)。道徳に反しても、具体的な状況次第では、倫理/矜持として実行されることもある。ここで重要なのは何が守られているのか、何が賭け金になっているのか、ということだ。覚えておこう。

 



 市民がテーブルを囲んで話しているモノクロの写真の下に、その文化施設、アーツ前橋の基本理念が書いてある。「創造的であること、みんなで共有すること、対話的であること」★6

 いちおう確認しておきたいのは、「創造的であれ」というメッセージは現在の社会においてはそれほどポジティブなものではないということだ★7。この第三次産業(サービス産業)全盛の時代、人びとはむしろ「クリエイティブ」であることを強いられている。雇用は大部分が非正規となり、多くの人が不安定労働者として、フレキシブルに時間を使い、さまざまな工夫をして、仕事しなければならない。先の見えない暗闇を手探りで歩くようなそのあり方は、アーティストもそうだし、文化的な仕事に携わる多くのひとが経験している。この労働環境は精神的なストレスしか生まない。「創造的であること」はこうして労働に関係する。

 その意味でアーツ前橋は、皮肉にも「創造的であること」という基本理念を守っていたといえる。なぜなら以下の労務問題を抱えていたからだ。アーツ前橋では、残業が過労死ラインを越えて行われていた上に、非正規雇用の学芸員は無賃残業していた。労働環境が悪くても、各自が創造的に工夫して残業してください。まして創造性を守るためには各自が犠牲になってください、というように(ちなみに、市職員の働きかけによりこの無賃労働問題は、現在、解消されている★8)。

 つまり「創造性」を担保することが、すなわち過労死ラインを越える超過労働を強いるという道徳というか常識に反する賭け金だったのだろうか。

 一般的に言って、日本国内の美術館を含む文化施設は人手が足りない。ゆえにひとりに多くの仕事を任せすぎになるらしい。だからこれもよくある話、と片付ける人たちもいるようだ。しかし、無賃残業の解消も含めて、市からの働きかけで変えられたということは、アーツ前橋を監督すべき館長(当時の館長はスクエアプッシャーだかデリック・メイを一緒に聞いたあの住友さんです)がチームの労働環境を気にしていれば変えられたはずだった。一緒に働くチームの、それも非正規という不安定労働者であるその人たちの、労務問題さえ顧みなかった元館長……。

 



 おっと、順番が逆だった。アーツ前橋のよい面を先に書くべきだった。

 アーツ前橋は、社会包摂を目指したり、地域のなかに入り込んでいくような、いわゆる社会関与型芸術(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)を取り上げ、社会変革に繋がるような方向性をもつ、新しいタイプの文化施設だった。ぼく自身もそういう印象をもっていたし、期待もしていた。先の三つの理念は、市民に開かれた美術館を実現するために考えられたものだ。だから理念が掲げられているサイトには芸術作品やアーティストのイメージではなく、市民のイメージが必要だったんだと思う。

 ならば、もし仮に道徳に反することが行われるとすれば、「社会変革」や「ソーシャル・グッド」などの大義がその賭け金になっているということだろうか。

 



 情報開示された公開調査資料に記録されているさまざまな会議の文字起こしを読む限り、残念ながらこの三つの理念がいかに表面的なものでしかなかったのかがわかってくる。

 



 作品紛失問題について、前橋市の事務方職員たちとの会議が開かれたとき、元館長は欠席する。自分の進める問題解決の「ストーリー」と相容れないことが理由であり、かわりに「館長からの手紙」が提出された。ここに住友さんの倫理(?)の賭け金がしっかりと書かれている。それは「専門性」である。


 学芸員の仕事は効率的なものではなく文化のケアのようなものです。価値が変わり、多様なものを相手にするため、清濁併せ呑み判断するために長い時間をかけて相手との信頼を作る仕事です。それを手続きとしての正しさを優先することで否定されるのであれば、専門的な判断への不当な介入と見なさざるを得ません。★9


 そして、元館長のこの重要な「手紙」は、記録のために事務方職員が代読する。

 行政と美術館の対立はよくある話だ。それぞれに守るべきものが違う。行政は「手続き上の正しさ」を、元館長は「専門性」を守ろうとしている。美術館への行政からの介入に強い態度で臨み、同時に柔軟に交渉するなかから公共性が問われ、芸術の豊かな可能性が模索される、そんな道筋もあった(過去形ね)。

 



 ここで言われている「専門性」とは何かを考える前に、三つの「創造的であること、みんなで共有すること、対話的であること」というアーツ前橋の基本理念のほうからまず片付けておく。

 言われなくてもわかると思うけど、会議とは対話的な場でもあり、問題を共有するための場でもある。「みんなで共有すること」と「対話的であること」。この二つの理念は、会議を欠席するという元館長の謎の態度ですぐさま反故にされている(これこそアーツ前橋の評判を裏切る行為?)。先のI学芸員による隠蔽を示唆する車でのセリフもそうだ。問題を共有せずにここだけの話にしてしまえばいい、って。いや、そもそも隠蔽を止め、紛失問題を組織として受け止めるべきだという副館長の言葉は、問題を「みんなで共有すること」を前提にし、再発防止に向けての「対話的」な道筋を示そうとしていたと思う。行政の事務方は美術館の理念を理解している。

 



 さて、元館長がいう「専門性」とは実際はなんだろうか。

 彼がいう「専門性」は、作品の価値を「清濁併せ呑み判断」し歴史的に位置づけることである、と「手紙」には書かれている。これはなんかわかる気もする。「清濁併せ呑む」という態度が何を意味するのかよくわからんけど。しかしこの作品の「価値判断」が「紛失」という失態に結びつくととたんに様子がおかしくなる。


 今回は、作品価値に比して公開することで失うものが多すぎると判断しています。それは当館の6年間の活動すべてを失い、おそらく回復するのに10年ほどかかり、専門職員としてキャリアが長い者がいなくなる可能性が高いことと考えます。★10


 紛失した作品はたいしたことないから、紛失を隠して美術館の評判を守るほうがいい。えっ、マジで? いや、でもさらにその一ヶ月前のメモに口頭で話されたことが残されている。それにしても、これはなんと正直な(?)……。


 いま相手方に話してマスコミに公表されてしまうとアーツ前橋の信用が落ち、他館からの作品借用などができなくなり、館運営に支障をきたす。
 自分も辞職することになるだろう。★11


 つまり「専門職員としてキャリアの長い者」には自分が含まれている。「専門性」という言葉に隠されていたのは、つまりは「評判と身の上」ってことだった。作品紛失という個別具体的な状況に対する倫理の発動において、賭けられていたのは「社会変革」や「ソーシャルグッド」や、まして「創造性」といった大義ですらなく、「専門性」というマジックワードに包まれた「評判と身の上」という保身でしかなかった。

 



 美術館の評判と自身をも含む学芸員の身の上を、紛失作品の価値と、天秤にかける。この二つを比較検討するというのが「専門家」としての「清濁併せ呑む判断」なのかな。でも、検討された形跡もないまま、たんに前者が守られたように見える。紛失がニュースにならないようにしたい。そのためには借用リストを「更新」するしかない(というか「改ざん」です)。──ここで主張されているのは、明確にこういう考え方だ。

 手紙全体を読むと、「リストの更新」という文言がはっきりとした意図をもって書かれていることがわかる。3月13日の面談で語られた言葉はメモとして記録されているが、一ヶ月後の4月15日の手紙ではそれが書くことによって洗練され、思考の推敲が行われている。迷いがない。文章を書くという行為は、書きながら自分の考えを練り上げ、相手に伝えようとする行為である。住友さんもいままで多くのテキストを書いているから「手紙」も自身の主張がストレートに伝わるように練り上げられて書かれたものだろう。つい、口が滑って言ってしまった、わけではないと思う。ぼくは、意見交換をする間柄として言わせてもらうけど、この態度はさすがにどうでしょう。倫理的に間違っていることが堂々と主張されていますよ。

 



「専門性」というのは確かに価値判断ができることかもしれない。歴史(美術史)や社会状況(地政学)などの背景を知り、アーティストのキャリアの変遷も考慮した上で、「作品」を位置づけ、評価する。ときに、間違うこともあるだろう。ただ、その間違いに気付けるのも「専門家」だからだ。「専門家」は、その意味で、後戻りできるひとでもある。自らの行動を遡行的に自省し、(価値)判断する。作品を紛失したならば、過去の美術館での紛失問題や対処の間違いを比較検討し(つまり「歴史」を参照し)、自らの行為を評価し位置づけることができるはずだ。そこで「専門家」の本領が発揮される。

 



 この紛失問題の肝は、元館長とI学芸員が職業倫理を踏み外しまくっているっていう話でしかない。それは700頁の調査資料を読めばわかる。しかし、当事者たちの逃げ道としてありえるのは、行政からの介入だーってことで矛先をそらすとか、運営が問題だーって目線をそらさせるとか、そう印象操作をしてごまかすこと。元館長の友人たちも、周囲の人びとも、あるいは業界関係者も、おそらくこの印象操作に踊らされて、彼を信じているのだろう。とはいえ一次資料を見てもまだ信じられるのだろうか。行政に都合のいい部分しか公開されていない、と言い張るだろうか。

 美術評論家連盟の常任委員たちも印象操作にのった。この一次資料が手に入る前に、「これは中立性のない調査であって、行政から美術館への介入だー」っていう、住友さんの主張を鵜呑みにしてしまった。ほんの数名が事態の深刻さを知っていたけど、それは当初理解されなかったようだ。評論家や学芸員など錚々たる面々で、一次資料の大切さがわかっている人たちなのに……。踊らされた関係者はしっかりと猛省してください。

 美術評論家連盟によって前橋市市長に送られた抗議声明文は★12、一ヶ月も経たず撤回が決まり、美術評論家連盟は謝罪のためのもうひとつの声明文を発表する★13

 そう、これはまったく行政からの介入ではない。先にも書いたように公文書改ざん/偽造を止めたのは市の事務方職員だし(介入ではなく常識的な判断でしょ)、問題を組織として受け止めようとしたのも市の事務方職員だ(みんなで知恵を出しあって対処する、っていうあたり前)。「正しい手続き」を捨ててまで謎の「専門性」を発揮したいのならば、そんな「専門性」はやめてください。芸術や文化の、本来の専門性への信頼がなくなってしまいます。

 運営問題については、一般的に言えば、美術館の収蔵庫は小さいから、別の施設(廃校の一室とか)に作品や資料が仮置きされることもあるかもしれない。ある意味では地方美術館あるあるなのかもしれない。管理体制が不十分でモノが紛失することもあるのかもしれない(サイテーだけど)。それでも、借用作品のリストもなく(「一式」あつかいで一括で借りても、すぐにリスト作成すべき)、借用して記録写真も残してないなんて問題外だけど(一点ずつ仮で記録されていたデータは事務方職員が残している)、ずさんなやつはいる。ずさんな美術館もずさんなキュレーターもいる、だろう、どこかには。そもそも作者のサインのある借用作品を(その保存状態がどうあれ)紛失するなんて、どうかしている。

 



 でもね、ここはぎりぎり百歩ゆずって、収蔵施設を確保できない行政による運営問題なんだと逃げさせてあげることもできる(それでも監督責任は館長にいくと思うけど)。

 あー、でもさらに大盤振る舞いで一億歩ぐらいゆずれば、紛失の隠蔽を画策するってこと自体も、まだ計画しただけだから、過ちは誰でもするってことで、過失を認め謝罪し反省するならば、仕方ないとしよう。いくら頑なに「更新=改ざん=隠蔽」を主張しつづけても、それが計画段階なんだとすれば、後戻りはできるし、実際に止められて実行できなかったわけだし。

 ただ、絶対ダメなやつがある。

 それが先に書いた「専門性」をマジックワードに、紛失作品の価値を低いと判断し、「評判と身の上」を天秤にかけること。社会変革を目指すアート・センターの元館長と学芸員が、自己保身のためには隠蔽上等と思っているって。わかっているのかな、もしかすると無自覚なのかな。サノスだってこの世界の大義のために悪をなしたんだよ。

「善きこと」を行う組織や団体がその内部でハラスメントを抱えていた、という報道をここ最近よく耳にする(例えばNPO法人「soar」や社会福祉法人「グロー」、ミニシアター「アップリンク」などをググってください)。社会変革を目指すアーツ前橋内の2人による、「保身」のための隠蔽計画も、同類の事案かもしれない。なぜ「善きこと」はその内部に悪を抱えるのか。

 



 記録に残ることも想像せずに「手紙」を書いたり、録音されることを気にせずにしゃべったり、無自覚なのだろう、この二人は。だからこうしてぼくたちは小さな悪のアーカイブを手にし、そこから学ぶことができる。

 住友さんはいま東京藝術大学大学院で国内外の学生に対してキュレーションについて教えている。そう、彼は教育者でもある。

 ここからはぼくの夢想。

 アーツ前橋がアートを越えて「社会変革」を目指すような施設だったとして、それはきっと彼の教育観も反映されているだろう。そう考えたとき、この紛失問題は、長い目で見た彼の「教育」プロジェクト──自ら(小さな)悪をなし、それが糾されることで業界の闇を暴露し(自らも巻き込まれるかたちで)、結果的に社会の変革に結びつくという壮大な計画──なのかもしれない……。だから関係者も、近しい人たちも逃げちゃダメだ。ぼくらの学びでもあるのだから。ぼくも含めた、もっと彼により近い友人たちも、周囲の人びとも、あるいはアート業界も、自らも学びながら彼に対して反省を促すこともできる、かも。うーん、どうかなあ……。

 人間は果てしない。

 ぼくだって言っていることとやっていることがかみ合わないこともある。住友さんのことを一方的には責められない。人間だれしもおかしなところはある。でも反省ぐらいはできると思う。人生の危機に直面して逃げるんじゃなく、向き合ってほしい。

 



 I学芸員が作品紛失に気付くよりも前、2019年、久しぶりに住友さんを見かけた。東京で行われた、共通の友人たち、多くはアジア系のキュレーターが集まる会合に、ぼくはプレゼンテーションで呼ばれていた。終わったあと二次会に向かう途中、「元気?」と住友さん。彼は以前にも増して皺が増え、とても疲れているように見えた。「最近どう? また今度、作品見せてよ」。くったくなく聞いてくる。歳を重ねても以前と変わらない軽い調子。ぼくはそんな軽さが嫌いではなかった。

 芸術に関わること/作ることはひとを豊かにすると思っていた。保身とか自己顕示欲とか承認欲求とか名声とか権威志向とか、そんな欲まみれの人間をまっとうにするんだと思っていた。ごめん、でもそんなことはなかった。ただ欲望を増幅させるだけだった。そんな人たちを見ていると、芸術なんてどうでもいいって思っているようだ。好きでもないんだろう。自分自身が好きなだけだ。ナルシシズムの美学(byロザリンド・クラウス)、そのフィードバックループ。ここには未来の芸術も、倫理の未来もない。まあ、しゃあない。なら、ぼくらが、あなたが、はじめるしかないのか、面倒くさがらず。

 


★1 「文化プログラムの実施に向けた文化庁の基本構想」(文化庁) URL= https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/13/03/pdf/shiryo_4.pdf
★2 Tokyo Contemporary Art Award(TCAA) URL= https://www.tokyocontemporaryartaward.jp
★3 「アーツ前橋、2作家の6作品紛失 『誤廃棄の可能性も』」朝日新聞デジタル、2020年11月8日 URL= https://www.asahi.com/articles/ASNC76T27NC7UHNB007.html
★4 前橋市に情報開示請求をすれば調査資料である公文書は手に入れることができる。本文で使った部分の前後には別の会話があり、「I学芸員」は名前が黒塗りされていて、「副館長」は「新保」と名前で書かれている。例えばそれは実際の資料では以下のように書かれている。 41:05:00 ■■ 遺族の信頼関係が元々なかったものが出来てきて、今回の寄贈の件でアーツのことを遺族が評価してくれている。今後、個展を開催するっていうことを考えたらば、寄託をされている(正式には借用をしている)作品をそのまま寄託を受けるっていうのは自然な流れだと思うんですよね。それで、例えば今後、個展するっていうことにしたとすれば、その辺は住友さんと話すしかないけど。 41:39:00 新保 個展出来る?その時になかったらどうするの? 資料番号31「【書き起こし】2020.02.03 アーツ前橋借用作品紛失に係る副館長及び調査担当学芸員の会話録」(PDF329-339頁、ただし、請求の仕方によって頁数は異なるかもしれない。他の情報開示請求された資料も同じ)
★5 伊藤亜紗『手の倫理』講談社、2020年、36-40頁。
★6 「アーツ前橋について」アーツ前橋ホームページ URL= https://www.artsmaebashi.jp/?page_id=4
★7 現代の労働者は「創造的であれ、さもなくば死だ」と日々迫られていると経済学者ダニエル・コーエンは言う。非正規雇用などの不安定な立場におかれた労働者は、アーティストのような創造的で臨機応変な仕事の仕方が求められるからだ。(『欲望の資本主義 2 ―闇の力が目覚める時』東洋経済新報社、2018年、キンドル版、370頁)  美術批評家クレア・ビショップは『人工地獄』(大森俊克訳、フィルムアート社、2016年)の「社会的転回」のなかで、創造性と文化政策の関係について書いている。そこでは、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)が、イギリスの新労働党による(社会包摂を目指す)文化政策のなかに吸収されている現状が批判的に検討される。またクリエイティブ産業における不安定労働が、アートの名のもとに肯定されている社会状況も問題視する。
★8 白坂由里「アーツ前橋の作品紛失問題はなぜここまでこじれたのか。美術館の運営状況から見えてきた労務問題も」美術手帖オンライン、2021年6月10日 URL= https://bijutsutecho.com/magazine/insight/24159 「過労死ライン」については例えば以下など。 URL= https://jinjibu.jp/keyword/detl/927/
★9 前橋市に情報開示請求された紛失問題の調査資料のなかでも、この「住友館長からの手紙」は彼の思想がよく表現されていて、もっとも重要だと思った。住友さんはそこで、学芸員の「専門性」を以下のように定義づける。「学芸員は保存管理だけでなく、歴史的評価と展示を行う」。そして作品の所有者(この場合は遺族)は、作品が丁寧に管理保存されることよりも(状態の悪い作品もあるのだから)、「一部が公開され、歴史に残されることを望」む、という。「すべてを丁寧に管理する場合は倉庫業者のほうが効率的にこなすでしょうが、遺族はそれを望みません」。  一般的に言って、美術館には多くのコレクションがあり、公開されているものは一部でしかない。作品は「破損、損傷、未登録などのまま放置されています。限られた予算と人員において評価や展示といった専門的な能力をどう配分するかを考慮した結果です」。つまり、評価と展示をすることが美術館にとってはより重要であり、保存・修復・管理については人員不足なので「放置」します、とのことらしい。  その上で、今回の作品は価値が低いと判断し、紛失問題よりも美術館の業績を守るという本文中に引用した部分が書かれ、「学芸員の仕事は効率的なものではなく文化のケアのようなものです。価値が変わり、多様なものを相手にするため、清濁併せ呑み判断するために長い時間をかけて相手との信頼を作る仕事です。それを手続きとしての正しさを優先することで否定されるのであれば、専門的な判断への不当な介入と見なさざるを得ません」と行政からの介入であると糾弾が行われる。重要なのはここで「清濁併せ呑む判断」という、必ずしも「正しい手続き」をするわけではない、いわば「悪をなす」ことが示唆される。  行政は介入せずに、自分たち(元館長とI学芸員)に任せてくれと訴えているわけである。  最後に、公文書である借用作品リストの改ざん/紛失問題の隠蔽が当然のこととして主張される。「現時点で保管リストを更新する計画は最後まで実施されていません。当初は既に遂行できるか確認されてもよかったはずですが、感染症の影響で遺族の家に出かけられていません。ただ、3月27日に●●はすでに更新することを電話で伝え了承を既に得ています。作品の再調査を行い、古いリストを回収し、新しいリストを共有する段取りは早ければひと月ほどで遂行できるはずです」。もし本当に実行されていたら、どうなっていたのだろうか。 資料番号43「『アーツ前橋借用作品(●●●●・●●作品)紛失事案に対する関係者会議資料」(2020.4.15開催)」(PDF400-401頁)のなかの、「住友館長からの手紙」部分を参照。
★10 同右。
★11 前橋市への情報開示請求では、例えば「2020年にアーツ前橋で起きた作品紛失問題についての調査を行ったときの一次資料」というような件名にすると、ぼくが友人から手渡されたこの調査資料と同様のものが手に入るはずだ。そのなかに以下の面談メモもある。 資料番号40「【要点メモ】2020.3.13 文化国際課長(当時)と住友館長の面談録」(PDF382頁)
★12 「アーツ前橋における借用作品の紛失及び前橋市の対応について」美術評論家連盟、2021年5月2日付 URL= https://www.aicajapan.com/ja/statement_2021_5/
★13 「『アーツ前橋における借用作品の紛失及び前橋市の対応について』の撤回とお詫び」美術評論家連盟、2021年5月31日公開 URL= https://www.aicajapan.com/ja/statement21_5_03/
[ゲスト回]アーツ前橋問題、あるいはアーティストの労働環境について with 山本高之+居原田遥
URL= https://shirasu.io/t/kktnk/c/sas/p/20230728
 

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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