つながりロシア(17) 宝塚歌劇はロシアをどう描いてきたか──コサックは雪にきえる|横山綾香

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初出:2021年8月27日刊行『ゲンロンβ64』

はじめに


「どうしてロシア?」、ロシア語を学んでいる者であれば100回は聞かれる質問である。私はいつも「宝塚で『カラマーゾフの兄弟』を上演していたことがきっかけです」と答える。15歳のときに宝塚版『カラマーゾフ』の映像を観た後なんとなく興味を持って、「大学でロシア語を勉強して、ペテルブルクに留学して、ロシア文学研究者になる」と将来を思い描くようになっていった。気がつくと、それ以外の進路は何一つ考えられなくなるほどロシア文学と文化に取り憑かれていた。もちろん語学習得は簡単ではないし、研究者を志すことは茨の道そのものである。なぜもっと慎重に進路を考えなかったのかと15歳の自分を恨みながらも、その時想像していたとおりの人生を歩んでいるのが今の自分である。

 さて、宝塚がきっかけでロシア語を選んだと話すと、たいてい会話が終わってしまう。しかし一人だけ反応が違った人物がいた。それはゲンロン代表の上田洋子氏である。私と同じくロシア文化の世界に足を踏み入れる一因が宝塚歌劇だったそうだ。そのような宝塚が結んだ縁で本稿を書くことになったのだ。

 



 さて、2019年夏から2021年冬にかけての2年半は、十数年にわたる私の宝塚ファン生活のなかでも思い入れの強い時期となった。2019年7月、梅田芸術劇場主催でブロードウェイミュージカル『アナスタシア』(以下「梅芸版」)が2020年3月に上演されることが発表になった。こちらは宝塚歌劇ではなく、通常のミュージカルである。そして、約半年後の11月には、宝塚歌劇団宙組そらぐみで2020年6月から8月に上演されることが発表された(以下「宝塚版」)。

 この作品はアナスタシア生存説を下敷きとした作品である。アナスタシアはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の四女で、ロシア革命後一家全員が処刑された。ところが、彼女一人生き延びたという伝説が存在する。実際にアナスタシアを自称する人物が何人も現れた。この騒動は、イングリッド・バーグマン主演の映画『追憶』(1956年)など、いくつかのフィクション作品の元となった。なお、2007年に遺骨が発見され、今ではアナスタシア生存説は完全に否定されている。

 ミュージカル『アナスタシア』の第一幕は1927年のレニングラード(現:サンクトペテルブルク)を舞台としている。そんな『アナスタシア』の上演は、宝塚がきっかけでロシアの道に進み、2016年、学部3年次にペテルブルク留学をした自分にとっては、非常に嬉しいニュースであった。

 しかし、COVID-19の影響で、2020年3月の梅芸版は全公演の半分以上が中止となった。私が観たのは3月27日ソワレで、翌日から公演中止となったため、事実上の千秋楽であった。宝塚版は4月から7月までの全公演が延期となり、予定を遅らせて同年の11月から2021年2月に上演された。2020年の緊急事態宣言下、ただでさえ鬱屈していた私に、ロシアにしばらく行けないという事実が突きつけられたことは、絶望的なできごとだった。そのような状況下では、宙組の『アナスタシア』を観ることだけが楽しみだったのだ。

『アナスタシア』の二つの公演は、筋書きは同一であるが、宝塚版では宝塚の専用劇場に合わせて舞台美術が大幅にアレンジされている。梅芸版では、スクリーンに冬宮(現:エルミタージュ美術館)や「血の上の救世主教会」などペテルブルクの風景を本物そっくりに映していたが、宝塚版では映像を使った手法はごく一部のシーンでしか取られなかった。それにもかかわらず、宝塚版を最初に観たときにはペテルブルクに戻ってこれたかのように感じたのであった。
 それはなぜか。おそらく自分がロシア語を学び始める前から宝塚を通してロシア文学や文化に触れていたためではないか。宝塚流のロシア表現を内在化しているのだろう。ペテルブルクに留学した後も、その感性は上書きされていないのだ。

 実際、宝塚歌劇は、性別も国境も時代も次元の壁も超えて、現実とはかけ離れた世界を表現することに長けている。宝塚で扱われる演目の題材は幅広い。2021年を例に取ると、4月に行われた公演の主人公はローマ皇帝アウグストゥスで、5月は日本の南北朝時代を舞台とする楠木三兄弟の物語、6月下旬からはシャーロック・ホームズの公演中で、8月からは北条司の漫画『シティーハンター』が上演される。おまけに、脚本、演出、音楽、振り付け、舞台美術、衣装……ほぼすべてを座付きのスタッフでまかなっている。そして、舞台となる時代や国の専門家が時代考証をするという考え方がない。

 しかし、宝塚歌劇の時代考証には専門家が関わっていないからこそ、独自のロシア観を提示する宝塚歌劇のロシア表象を分析することによって、日本におけるロシア像の変遷の一端を掴めるのではないか。本稿ではそれを宝塚の歴史、およびいくつかの作品のなかに見ていきたい。

大正・昭和初期宝塚少女歌劇団★1とロシア


 具体的な作品紹介に移る前に、宝塚とロシアの長い繋がりを紹介したい。

 宝塚歌劇は、1914年に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)創業者の小林一三が、宝塚新温泉★2の集客施策として宝塚唱歌隊を結成したことに始まる。これは三越少年音楽隊をヒントにしたもので、創立当初は現在のように大人数によるミュージカルやレビューを上演してはいなかった。室内プールを改造した劇場で、『桃太郎』★3などの民話や歌舞伎・文楽の演目を中心に、当時の関西に暮らす人々にとって親しみのある筋書きの音楽劇が上演されていた。小林は優秀なスタッフを集め、徹底的な教育を行なった。劇団の歌や舞踊の技術がきわめて確かであったため★4、創立2年目から大阪市内で、5年目からは東京で出張公演が行えるほど人気となった。

 転機となったのは、1923年に劇場が焼失したことを契機に、4000席を擁する宝塚大劇場(初代)が建設されたことだった。現在、日本国内のミュージカル用劇場が多くとも2000席程度であることを考えると、宝塚大劇場がいかに大きかったかが理解できる。この大劇場の建設によって、宝塚歌劇は発展期へと突入する。大きな舞台でも見栄えがするようにヨーロッパの舞台芸術の技法が取り入れられた。また、独特の宝塚メイクが誕生したのもこの時期である。

 創立当初の宝塚のダンスは日本舞踊の影響が強かったが、大劇場の建設を機に西欧のテクニックの導入が本格的に進められた。この流れで2名の白系ロシア人がバレエ教師として招聘された。一人目はルイジンスキーという男性ダンサーで、1923年に来日するが、2年後には病死してしまった。次に雇われたのは、エレーナ・オソフスカヤ(1880-1964)という元ポーランド国立歌劇場のプリマで、来日前はハルビン在住であった。来日後14年間宝塚でバレエを教え続け、ロシアの帝室劇場と同じ振り付け★5でボロディンの『イーゴリ公』を上演するなど、数作のバレエ作品を発表した。
 演目では、日本人にとって身近な内容だけでなく、20世紀初頭のヨーロッパにおける最新の流行が取り入れられるようになった。よく知られているのは、日本初のレビュー作品である岸田辰彌作『モン・パリ』(1927年)や、白井鐵造作『パリゼット』(1930年)である。「レビュー」とは、歌と踊りなどに時事風刺劇を組み合わせた舞台芸術で、当時パリを中心にヨーロッパで盛んに上演されていたものである。『パリゼット』では、パリの劇場で実際に流行していた歌曲を主題歌として取り入れたほか、ムーランルージュのポスターを模倣した宝塚歌劇のポスターも存在した。

 そのような変化のなかで、同じパリで活躍する、ロシア人のセルゲイ・ディアギレフ率いる「バレエ・リュス」の流行も注目されることになった。ロシア帝室バレエ団のダンサーを中心に、舞台美術にピカソやマティス、台本にコクトー、衣装デザインにココ・シャネルら錚々たるメンバーが参加して、クラシックバレエの枠を超えた革新的な舞台でパリに大旋風を巻き起こしたのがバレエ・リュスである。戦前の宝塚少女歌劇の上演記録では、『牧神の午後』や『薔薇の精』といったバレエ・リュス作品のタイトルを見ることができる。オリジナルと振り付けがどの程度一致していたのかは不明だが、雑誌『歌劇』★6の1929年9月号には『薔薇の精』を踊るニジンスキーと同じポーズをした団員の写真が掲載されている。このことから、バレエ・リュスを積極的に取り入れようと試みた時期があったことがわかる。
 音楽面では、どの座席からでも十分に音楽が聞こえるようにオーケストラの導入が行われた。指揮者としてヨーゼフ・ラスカ(1886-1964)というオーストリア人が雇われた。彼は、第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜となった後、長くウラジオストクに生活しており、ロシア革命を機に国外脱出した人物である。

 オーケストラ設立の当初は「宝塚交響楽団」として独立した演奏会も行われ、ラスカの指揮でブルックナーの日本初演を実施している。また、ラスカが1935年に万国音楽大会の日本代表としてモスクワへ渡航した際には、モスクワとレニングラードで開催される舞踊フェスティバルへの宝塚少女歌劇の出演交渉をしたと言われている★7。この時は第二次世界大戦まであと一歩という時代ゆえに計画倒れとなったが、そのちょうど40年後の1975年には、ソ連で最初で最後の宝塚海外公演がモスクワ、レニングラード、キエフ、ヴィリニュス、カウナスの五都市で行われることとなった。

宝塚歌劇のロシアもの ──隣国意識──


 ここまで、宝塚歌劇とロシア・ソ連の歴史的な関係について簡単に述べてきた。ここからはロシアをモチーフとした作品を紹介したい。本稿で「ロシアもの」として定義するのは、舞台設定がロシアに置かれている作品、および、ロシア人が主要登場人物である作品である。

 宝塚歌劇のロシアものは1960年代から存在していたが、日本全体でロシアへの関心が高まったペレストロイカ期には特に頻繁に上演されていた。また、2007年頃、亀山郁夫訳による光文社古典新訳文庫版『カラマーゾフの兄弟』が大ヒットして「カラマーゾフブーム」が起こるが、その際には雪組で『カラマーゾフの兄弟』が上演されている。このことからも、演目の選択は少なからず社会の流行を反映していることがわかる。それゆえ、「カラマーゾフブーム」後もロシアものの上演が続いているのは、日本社会のロシアへの関心が穏やかに持続していることの証でもあるだろう。近年はロシアという国が日本人にとって以前よりも親しみやすくなっている証拠であるとも言えるかもしれない。

 宝塚の「ロシアもの」は、西欧やアメリカを舞台とする作品とは異なる傾向を持っている。それは、ロシア人と日本人両方が登場する作品が複数存在することである。

 宝塚には「日本物」と呼ばれるジャンルが存在する。日本を舞台とした作品で「日本物」独自のメイク・日本髪の鬘・着物というスタイルで上演される演目である。「日本物」と「洋物」は明確に区別されるため、西洋人と日本人が両方登場するという状況は宝塚の基本的な枠組みにおいてかつては想定されていなかった。

 しかし、1979年にはじめての和洋混合作品が登場する。それが『白夜わが愛 ──「朱鷺の墓」より──』(1979年星組)である。

 1970年代後半は『ベルサイユのばら』(『ベルばら』、1974年月組初演)と『風と共に去りぬ』(『風共』、1977年月組初演)の大ヒットにより、日本社会で宝塚の存在感が大きくなると同時に、宝塚は豪華絢爛で西洋趣味というステレオタイプが完成した時期だった。『ベルばら』と『風共』の演出を担当した植田うえだ紳爾しんじは「フランス革命をやって南北戦争をやって、次に何をやるかって時に、ロシア革命だ」★8と、公演前の特集記事で発言している。そうした構想ならば豪華絢爛なペテルブルクの宮廷を描くことも可能だったにもかかわらず、『白夜わが愛』は金沢、ペテルブルク、ウラジオストク、イルクーツクと日露四都市を舞台とした、ロシア人将校と金沢芸妓の恋愛ものだった。
 あらすじを紹介しておこう。日露戦争で捕虜となったロシア人将校・イワーノフは金沢に送られる。そこで芸妓の染乃と出会い、二人は惹かれあう。イワーノフの帰国が決まり、1年後に染乃を迎えにくることを約束する。しかし、イワーノフが1年後に戻ると染乃は姿を消していた。彼女はウラジオストクに売られてしまったのだ。帰国後ロシア革命に身を投じたイワーノフは、イルクーツクの収容所に送られる。最後には、愛するイワーノフがイルクーツクにいるという噂を聞いた染乃が、楼閣から脱出して再会を果たすことになる。

「ロシアもの」で舞台になるのはロシアでもヨーロッパ側の地域が多い。けれども『白夜わが愛』では極東のウラジオストクも舞台のひとつとなっている。日本人にとってロシアを身近に描くにあたり、極東地域の存在は重要な役割を果たしている。

 この作品の後も「ロシアもの」ではたびたび和洋混合が行われた。『望郷は海を越えて』(2000年宙組)は、アリューシャン列島に漂着し、帰国の許可を得るためにエカテリーナ2世に謁見した大黒屋光大夫の帰国譚がモデルとなった作品である。トップスターが大黒屋光大夫を元にした船頭を、トップ娘役(トップスターの相手役となる娘役)がエカテリーナ2世を演じた。

 また、宝塚歌劇で唯一ソヴィエト・ロシアが舞台となった『ロシアンブルー ──魔女への鉄槌──』(2009年雪組)は、1937年のモスクワを舞台に、出世のためにレビュー団を率いてやって来たアメリカの下院議員と、彼らを迎え入れるソ連の女性官僚を主人公にしたコメディ作品であるが、佐野さのせきという日本人の演出家が登場する。佐野は社会主義活動家で、『インターナショナル』の訳詞で知られているが、1933年頃からモスクワに滞在し、ロシア・ソ連の前衛演出家として有名なメイエルホリドに師事していた。

 近年、ロシア以外のヨーロッパの国を舞台とした作品でも和洋混合が行われた例は存在する。しかしロシアの場合は、「ロシアもの」が登場してからわずか五作目で、舞台設定がロシアと日本に跨り、ロシア人と日本人の交流を主題とした作品が登場している。その背景には、「ロシアは日本の隣国である」という、西欧諸国に対しては抱きえないイメージの存在があるのではないだろうか。

宝塚におけるロシアの視覚的イメージ ──ロシア帽とルバーシカ、そしてコサックダンス──


 宝塚は現実とはかけ離れた世界を表現することに長けている。その秘訣はアンサンブル(コーラスやダンスに加えて一人で何役もこなすキャスト)の人数にある。

 宝塚は一つの作品に少ないときには30名程度、多いときには80名程度が出演する。一般的なミュージカルと比較して出演者の人数が倍以上になることもある。通し役(作品中でずっと同じ役を演じるキャスト)の数は少し多い程度なので、自然とアンサンブルの数が多くなる。彼らは場面場面に合った衣装を身に纏い、コーラスやダンスによってその雰囲気を形作るのである。田舎の場面であれば村人、戦いの場面なら兵士、舞踏会の場面であれば貴族といったように。物語を進行させるメインキャスト以外にも多くの出演者がいるからこそ、脚本に描かれた世界の雰囲気を舞台上に存分に表現することが可能となる。
 1960年代の「ロシアもの」の写真を見ると、群衆の描写においてロシアらしさが強調されていることがわかる。多くの場合、民族衣装風のコスチュームを着て、コサックダンス風の踊りをして、ロシア民謡風のコーラスをする。他のヨーロッパ諸国を舞台とした作品では、各地の民族衣装や民謡はあまり登場しない。他方、貴族や軍人の衣装は西欧を舞台とした作品とロシアで大きな違いはない。

 ただ、そのロシアを想起させる衣装が問題であった。19世紀末から20世紀初頭にかけての二つの作品、『燃える氷河』(1960年花組)と、『カチューシャ物語』(1963年星組)を例にあげよう。前者は帝政ロシアの属領が舞台である。後者はトルストイの長編小説『復活』を原作とし、貴族の領地を中心にストーリーが展開する。両者ともペテルブルクやモスクワから遠く離れた土地が舞台であるため、農民やコサックが登場するが、彼らは揃いも揃って円筒形でモコモコしたロシア帽と生成きなりの布に刺繍を施したルバーシカを着ている。しかも、同じような衣装を着ているのに、ある作品では「コサック」役で、別の作品では「ロシアの農民」の役なのだ。帝政ロシアにおいて、コサックは騎兵として国境警備など軍務を担う集団で、農民とは異なる身分であった。しかし宝塚のなかではコサックと農民は混同されていたようだ。

 そもそも帝政時代のロシアの農民やコサックの画像資料を調べてみても、誰も宝塚の衣装のような服装はしていない。確かにルバーシカを着た農民はいるが、彼らは円筒形の帽子を被ってはいない。逆に円筒形の帽子を被ったコサックの写真は存在するが、ルバーシカを着ている写真は見つからなかった。要するに、ロシア帽をかぶりルバーシカを着る民衆は架空の存在なのである。

 20世紀初頭を舞台とした『白夜わが愛』でも、主人公イワーノフがロシア帽とルバーシカ姿をしているスチルが存在する。当時販売された『白夜わが愛』の主題歌集の表紙でもこの写真が使われている。イワーノフは貴族出身という設定のため(劇中で身分を捨てることになるが)、ファンからの需要がありそうな軍服姿のブロマイドもある。それにもかかわらずメインビジュアルとして民衆姿の写真が使われているのは、当時ロシア帽とルバーシカの組み合わせがロシアを示す強力な記号となっていたからだと考えられる。それが宝塚歌劇に限ったロシア人像だったのか、日本のなかで出来上がったロシア人像なのか、ソヴィエト・ロシアが作り上げて外国に発信したロシア人像なのかは今後の調査で明らかにしたい。

 1980年代後半から徐々に史実に寄り添った表現がなされるようになった。『遥かなる旅路の果てに』(1987年花組)や『誓いの首飾り』(1989年星組)第2幕は、ロシア帽とルバーシカの衣装で大人数がコサックダンスを踊る場面から始まる。しかし、役名はコサックでも農民でもなく「民族衣装の若者と娘」というように曖昧な表現がされるようになった。

 90年代になると、いよいよコサックと農民に明確な区別がなされる。コサック役の衣装にルバーシカは使われなくなった。1998年月組初演の『黒い瞳』(原作はプーシキン『大尉の娘』)のドン・コサックの衣装は黒や茶色を基調とした長い丈の上着で、19世紀に使用されたコサックの軍服を参考にしていることが伺える。農民の衣装に関しては、ロシア帽とルバーシカの衣装も相変わらず用いられた。しかし、娘役では帝政ロシアの農民女性と同じく布で髪の毛を覆うスタイルが見られるなど、史実に近づけようとする傾向はあったと言える。そして、同じアンサンブルでも、史実上コサックが登場するべき場面にはコサックが、農民がいるべき場面には農民が舞台上に置かれるようになった。
 しかし、振り付けに関しては例外であった。コサックと農民に区別が付いた後も、コサック以外の役がコサックダンスを意識した振り付けを踊っていることは珍しくない。極端な例ではあるが、先述の『ロシアンブルー』では共産党中央委員と手下の諜報員たちがコサックダンスをする場面が存在する。90年代以降、ロシアを表現する手段として「ロシア帽とルバーシカ」の衣装は絶対的なものではなくなった。そして、コサックダンス風の振り付けのみが生き残ったのである。

 しかし、ここ5年で新たに創られた作品ではコサックダンスも見られなくなった。そもそもコサックダンスはウクライナの伝統舞踊が始祖で、ロシア全土に広まったのは20世紀前半のことだった。宝塚で題材になるようなロシア革命前後の貴族社会や文学作品のなかで登場するのは不自然なことである。近年はダンスに関しても史実に寄り添った振り付けがなされるようになったと言える。

 ただ、1916年のペトログラード(現サンクトペテルブルク★9)を舞台に貴族社会の終焉を描いた『神々の土地 ──ロマノフたちの黄昏──』(2017年宙組)では、酒場で平民たちが大勢で民族舞踊風の踊りをする場面がある。それはコサックダンスではなかったが、野生的な激しい振り付けでコサックダンスの雰囲気と共通するものがあった。しかし、そのダンスは舞台上にロシアを顕現させるためではなく、クラシック音楽でワルツを踊る貴族たちとの対比として、虐げられた平民を象徴するものとして位置づけられている。かつて宝塚歌劇においてコサックダンスはロシアそのものを示す表現であったが、今後コサックダンスやそれを連想させるダンスが作中に登場しても、その意味づけは別のものになるだろう。

ロシアを表す音楽 ──ロシア民謡とチャイコフスキ──


 音楽に関しても衣装と同じことが言える。古い作品ではロシア民謡やロシア民謡風の曲が多用された。1980年代の終わり頃からは、そうした曲は文化史の観点で不自然ではない場合のみ用いられるようになった。たとえば19世紀末のモスクワを舞台とする場合や、貴族たちが集まっている場面ではそれらは用いられない。さらに、近年の作品ではロシア民謡はほとんど無くなってしまった。

 一方で、衣装や振り付けのみでは西欧を描く場合との差別化が難しかったロシア貴族の描写においては、音楽が重要な役割を果たしている。たとえば2001年雪組初演の『Anna Karenina』では、チャイコフスキーをふんだんに利用して、豪華絢爛な貴族社会を演出した。また、先述の『神々の土地』の舞踏会の場面で流れているのも『白鳥の湖』のワルツである。

 コサックダンスと同様にロシア民謡も宝塚で扱われる時代とは噛み合わない。それでも長い間ロシアを表現するにあたって民謡が欠かせない存在であったのは、一定の世代の間でうたごえ喫茶やシベリアからの引揚者の存在によってロシア民謡が身近なものであったためである。ちょうどその世代に該当するのが、『白夜わが愛』や『戦争と平和』の作・演出の植田紳爾ら1930年代生まれのスタッフであった。

 もちろん演出家も世代交代が起きるので、次第にロシア民謡は必須のものではなくなり、先述のチャイコフスキーのような新たな手法も編み出されたのであった。

 



 このように宝塚歌劇の「ロシアもの」では、ロシア帽、ルバーシカ、コサックダンスやロシア民謡といった、ステレオタイプとも言える民族的なモチーフは次第に用いられなくなった。それでもロシアを舞台とした作品には、他のヨーロッパ諸国の作品では見られない特徴的な描写がまだ存在する。それは、雪の場面である。紙吹雪やスモークといった手段もよく使われるがそれらに加えて宝塚では大人数を活かして雪を群舞で表現することが多い。宝塚のダンスは、人間だけではなく、登場人物の感情など形を持たないもの、それに風景や天候など人間ではないものを表現するものなのである。

 ロシアを舞台とした作品では、バレエ『くるみ割り人形』の雪のワルツのように、白い衣装を纏った娘役による雪を表現した踊りがたびたび見られる。『黒い瞳』の冒頭、ニコライと従僕サヴェーリィチが吹雪に見舞われる場面で★10まさにこの手法が使われている。注目すべき点は、雪を表現する群舞が白いココシニク(ロシアの女性が身につける伝統的な頭飾り)をかぶっていることである。史実に寄り添おうとした結果、人間を演じる際の衣装にステレオタイプ的ロシアモチーフを取り入れることは難しくなった。しかし、雪の群舞など人間ではないものを表現する際の衣装にはそのようなデザインが残されているのだ。ココシニクではなく、白いロシア帽のかぶった群舞が登場する作品も存在する。

 古い作品の映像の入手は難しく、この手法がいつ始まったのかはまだ把握できていない。しかし、2020年7月の公演再開から現在まで『アナスタシア』以外にも二つの作品でロシアの場面が登場した★11。その両者とも雪の群舞が使用されたのである。2021年現在、宝塚でロシアを表現する最も有力な手段は雪を降らせることなのだ。

 少なくとも20年以上にわたって、ロシアを雪の群舞で表現する手法が形を変えずに使われ続けているのはなぜだろうか。それを考えるにあたってヒントになったのは『神々の土地』の最後の場面だった。

「待っているのよ、私を。あの平原、白樺の森、雪解けの川、みな様々に景色を織りなして、いつまでも私を待っているの。あの大地は誰のものでもない。ロマノフのものでもなかったし、革命家たちのものでもない。あの大地は、そこで生まれて懸命に生きた、全ての魂たちの土地ですもの。皆が戻ってくるのを待っているのよ」という台詞の後にロシアの雪原に場面が移り変わる。雪が降りしきるなか、主人公ドミトリー・ロマノフ(ニコライ2世の従弟)がひとり故郷を思う歌を歌い上げる。そしてドミトリーが立ち去った後、ほぼすべてのキャストが革命前の在りし日の姿で舞台上に次々と現れる。同時並行で平民たちは先述の酒場のシーンのように激しく野生的に舞い、貴族たちは宮廷舞踏会のように男女のペアで踊る。そして、ラスプーチンは崇拝者たちと共に狂ったような動きをして、ロマノフ家の面々は仲睦まじく穏やかに笑いあっているのだった。

 そう、雪はいかなる人にも同じように降り注ぐ。冬が来れば、どの時代においても広い国土のすべてに雪は降ってくるのである。コサックダンス、ロシア民謡、たまねぎ屋根の教会、エルミタージュ美術館、文学、バレエ、バイカル湖、シベリア鉄道、スターリン建築、宇宙開発…… すべてロシアを想起させる存在であるが、それぞれが誕生した地域や時代は異なる。ロシアのイメージは本来交わるはずのないものごとがごちゃ混ぜになって構成されている。そのなかで雪はロシアのあらゆる大地に、かつて存在して、今も存在し、これからも存在するだろう。そして、時代や場所に関係なくロシアの風景を形作っているのだ。だからこそ、ロシアを表現するモチーフとして幅広く用いることができる。

おわりに ──変わりゆくロシアによせて──


 ここまで宝塚歌劇のなかのロシア表象の変遷を紹介してきたが、日本社会におけるロシアをめぐる状況はもっと速いスピードで変化している。電子ビザでロシア渡航が可能になるとは、厚すぎて鈍器と名高い研究社露和辞典に電子版が登場するとは、業務スーパーでスィローク(カッテージチーズをチョコレートでコーティングしたお菓子、ロシアに留学した日本人学生がよく虜になっている)が買えるとは、大学でロシア語を学び始めた8年前の自分には全く想像も付かないことだった。

 そして、ロシアそのものの状況はさらに恐ろしいスピードで変わり続けている。留学を終えてから1年半後に再訪した際は英語の看板が増え、近未来的なデザインの新駅ができて、ヤンデックス・イダー(ロシア版Uber Eats)の黄色いリュックサックを背負った人が街中をうろちょろしていて、かつて自分が暮らした場所とは全く違う場所のように感じた。それ以降ロシア渡航は叶わず3年の時が経ってしまったが、きっと次に足を踏み入れたときにはますます見知らぬ土地になっているだろう。

 それでも、着陸態勢に入った飛行機からどこまでも続く平原を眺め、空港に降り立ち、外に出て、冷たい空気を鼻に吸い込んだ瞬間に「帰ってきた」と思うに違いない。宝塚版『アナスタシア』のラストシーン、雪が舞い降るなかアナスタシアたちロマノフ家の人々がワルツを踊る場面を目にして、まるで12月のペテルブルクに戻ってきたかのように感じたときと同じように。

 


★1 「宝塚歌劇団」に改称されたのは1940年である。本稿では、1940年以前の内容に関しては当時の名称である「宝塚少女歌劇団」を用いる。
★2 宝塚駅から徒歩10分の距離にあり、武庫川の右岸に位置する。後に動物園や遊園地も併設されて、総合レジャー施設の様相を呈していた。戦後は「宝塚ファミリーランド」の名前で人々に親しまれ、1993年に宝塚大劇場が移転するまでは宝塚歌劇はファミリーランドの中で上演されていた。
★3 1914年4月1日に行われた宝塚少女歌劇第1回公演、3本立ての1作目は北村季晴作詞・作曲の和製歌劇『ドンブラコ』(桃太郎)であった。宝塚版より前に、1912年5月歌舞伎座で催された「東京連合和洋音楽演奏大会」で作曲者と妻・初子夫人によって初演され、翌年には作曲者夫妻と帝国劇場の歌劇部員・音楽部員の演奏でレコードが発売された。
★4 渡辺裕『宝塚歌劇の変容と日本近代』、新書館、1999年、22頁。
★5 渡辺真弓『日本のバレエ:三人のパヴロワ』、新国立劇場情報センター、2013年、16頁。
★6 宝塚歌劇団の機関誌。1918年創刊。戦時下で一時休刊するが、現在も発行されている。
★7 根岸一美『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』、大阪大学出版会、2012年、126頁。
★8 「『白夜わが愛』 五・六月宝塚大劇場星組公演」、『歌劇』1979年5月号、43頁。
★9 サンクトペテルブルクは「聖ペトロの街」を意味するが、過去3回改称している。1回目は第一次世界大戦が開戦した1914年にドイツ語風の「ペテルブルク」を嫌って、ロシア語風の「ペトログラード」に改称された。2回目はソ連成立後1924年にレーニンにちなんで「レニングラード」に改称された。そして、3回目は、ソ連崩壊後1991年に「サンクトペテルブルク」に戻った。
★10 『黒い瞳』の雪の群舞の映像はYouTubeの宝塚歌劇公式チャンネルで視聴できる。URL= https://www.youtube.com/watch?v=vzo6r6E_r4c
★11 『はいからさんが通る』(2020年・花組)のシベリア出兵のシーンと、『fff-フォルティッシッシモ-』(2021年・雪組)のナポレオン敗北のシーン。両者ともプログラム上で、群舞の役名が「雪」になっている。

付録:宝塚歌劇ロシア関連作品一覧

上演年タイトル作品の時代背景/原作
1960大劇燃える氷河 ●20世紀初頭、ロシア帝国の属領
1963大劇カチューシャ物語 ★ (トルストイ『復活』)
1965大劇スペードの女王 ★ (プーシキン)
1971大劇ペーター1世の青春 ○ピョートル大帝のオランダ留学(17世紀末)
1974※ベルサイユのばら 初演
1977※風と共に去りぬ 初演
1979大劇白夜我が愛 ー朱鷺の墓よりー (五木寛之の小説)日露戦争〜1920年頃
1981大劇彷徨のレクイエム ○アナスタシア生存説
1983大劇オルフェウスの窓 (池田理代子の漫画)
1987大劇遥かなる旅路の果てに19世紀末、モスクワ(一部の場面はウクライナ)
1988大劇戦争と平和 ★ (トルストイ)
1989バウロマノフの宝石 ●1930年代欧州、亡命ロシア人
1989バウ誓いの首飾り ★ (ツルゲーネフ『春の水』)
1989バウシチリアの風 ★ (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)舞台設定のみシチリアに置き換える
1992バウドニエプルの赤い罌粟 ●19世紀、ドン・コサック
1994大劇冬の嵐 ペテルブルクに死す ★ (プーシキン『スペードの女王』)
1996※エリザベート 初演
1998大劇黒い瞳 ★ (プーシキン『大尉の娘』)
1998バウイコンの誘惑 ●ソ連崩壊後のモスクワ
2000大劇望郷は海を超えて ○大黒屋光大夫
2001バウAnna Karenina ★ (トルストイ)
2004バウ送られなかった手紙 ●19世紀末
2007バウAnna Karenina ★ (トルストイ)※再演
2007DCカラマーゾフの兄弟 ★ (ドストエフスキー)
2009大劇ロシアン・ブルー ー魔女への鉄槌ー ●1937年、モスクワ
2010バウオネーギン ★ (プーシキン)
2010全ツ黒い瞳 ★ ※再演 (プーシキン『大尉の娘』)
2011バウニジンスキー ー奇跡の舞神ー ○
2012大劇復活 ー恋が終わり、愛が残ったー ★ (トルストイ)
2014バウかもめ ★ (チェーホフ)
2014バウノクターン ★ (ツルゲーネフ『初恋』)
2017大劇神々の土地ーロマノフたちの黄昏ー ○1916年、ペトログラード
2018DCドクトル・ジバゴ ★ (パステルナーク)
2019バウAnna Karenina ★ ※再々演 (トルストイ)
2019博多座黒い瞳 ★ ※再々演 (プーシキン『大尉の娘』)
2020大劇アナスタシア(ブロードウェイミュージカルの潤色作品)
大劇:宝塚大劇場で上演。組全員が出演する。 バウ:宝塚バウホールで上演。組の半分が出演する。もう半分は別の劇場で別の作品に出演する。 DC:梅田芸術劇場シアタードラマシティーで上演。組の半分が出演。 全ツ:全国ツアー。各地の公共劇場で上演。組の半分が出演。 博多座:福岡県にある博多座での上演。組の半分が出演。 ●完全オリジナル作品 ○史実を元にした作品 ★ロシア文学を元にした作品 下線付きの作品は、新聞社のサイトに掲載された舞台写真やYouTube宝塚歌劇公式チャンネルでの舞台映像が閲覧可能。タイトルをクリックするとページが表示される。

横山綾香

1995年東京都生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程在学中。専門はロシア演劇と文学。ブレジネフ期以降の演劇作品を対象として、ロシア文学作品(小説・詩)が演劇化される過程を研究している。その他、国・年代問わずロシアをモチーフをした演劇作品に広く関心を持つ。東京外国語大学 MIRAIフェローシップ1期生。
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