革命と住宅(6) 第3章 スターリン住宅──新しい階級の出現とエリートのための家|本田晃子

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ゲンロンα 2021年9月21日配信
 革命は「家」を否定したはずだった。実際、1920年代のソ連の都市部では、旧来の意味での住宅の概念は破壊された。家族単位の住まいに代わって、台所やトイレなどの水回りを他の住人と共有するコムナルカ、大部屋に複数のベッドが置かれただけのバラック、独身者が複数人でルームシェアする寮などが、革命後の都市住宅の新たなスタンダードとなった。もちろん、コミューン建設の理想に燃えて、自ら他者との共同生活を選んだ人びとも存在した。だが大多数の人びとは、圧倒的な住宅難によって、赤の他人と住空間を共有することを、あるいは夫婦や親子であっても別々に生活することを強いられたのだった。

 しかし1930年代に入ると、革命以来の反「家」イデオロギーは劇的な転換を見せる。スターリンが独裁体制を確立したこの時期、旧来の婚姻と血縁からなる家族のための家が、突然ソ連社会の表舞台に舞い戻ってくるのである。その背後にあったのが、労働への競争原理の導入と、新たな階級社会の出現だった。

1.社会主義的競争とエリート階級の誕生


 1928年から翌29年にかけて、ソ連の若者向けの新聞『コムソモーリスカヤ・プラウダ』は、「家庭のがらくた追放キャンペーン」を展開した。ここでいう「がらくた」とは、ロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの詩のタイトル、「がらくたについて О дряни」にちなんでいる。詩人はこの詩の中で、黄色いカナリアに代表されるような前世紀の中産階級のキッチュな趣味をこき下ろした★1。そのような俗悪な「がらくた」からなる部屋に対して、マヤコフスキーは壁にレーニンの写真のみが掛けられたミニマルな部屋を理想とした★2

 けれどもロシア・アヴァンギャルドが掲げた反装飾・機能主義のストイックな美学は、間もなく他でもない党指導部によって否定されることになる。1933年、都市の住宅難のさらなる深刻化にもかかわらず、スターリンの右腕であるラーザリ・カガノヴィッチは、「プロレタリアは単に快適なだけでなく、美しい家をもつことを欲しているのだ」★3と主張した。さらに翌1934年の第17回共産党大会では、コミューンに対する批判も行われた。労働者同士の連帯によって形成されるコミューンから、婚姻と血縁からなる家族へ、党自らが一大転換を図ったのである。このような変化の一因となったのが、1920年代後半から労働の現場に導入された「社会主義的競争」の概念だった。
 革命から1920年代前半にかけての時期には、「競争」には資本主義社会の「不健康なブルジョワ的風習」というネガティヴな烙印が押されていた。それに対してソ連の中央労働研究所では、「科学的労働の組織化 Научная организация труда(通称はNOT)」、すなわち人間と機械の運動を合理的に組織し、効率的な生産を可能にする方法が研究されていた。人間の身体もまた一個のメカニズムであると考えた同研究所のアレクセイ・ガスチェフらは、人間の集団と機械とが連動し混然一体となって生産活動を行う、ユートピア的協働の世界を目指したのである。

 しかしスターリンによる第一次五カ年計画の開始とともに、風向きは変わる。1920年代末にいたっても、大多数の生産の現場では高度な機械化は実現されず、原始的な道具と人力に頼った作業が行われていた。そのような状況下で、人間と機械の協働モデルとは正反対の、肉体の限界を超えて働くことを美化する一種の精神論が喧伝されるようになったのである。その際導入されたのが、「社会主義的競争」であり、「突撃労働」★4と呼ばれる働き方だった。企業同士が互いに互いを潰しあう不毛で不健全な「資本主義的競争」に対して、社会主義的競争は国全体の生産性を向上させるものとして、イデオロギー的に正当化されていった。

 突撃労働の「突撃 удар」とは、英語でいうところの shock に当たり、強烈な打撃を意味する。1920年代に労働の合理化を唱えたガスチェフらが、労働を人と機械の正確で効率的・反復的なリズムとしてとらえていたのに対して、突撃労働は──生産や建設を目的としているはずにもかかわらず──攻撃や破壊といったニュアンスを多分に含んでいた。そこでは安定的・恒常的な生産よりも、短期間の突貫労働によるノルマの超過達成や、ライバル工場を打ち負かすことが重視された。その結果も、決して生産的とは言えなかった。たとえば第一次五カ年計画の目玉だった北海・バルト海運河の建設では、強制収容所の政治犯らを労働力として利用し、右岸と左岸で建設速度を競い合わせた。それによって運河は予定よりも早く竣工したが、大型船舶が航行できないほど水深は浅く、慢性的な食糧不足と過労や事故のために、囚人の死亡率が10パーセントを超えることもあった★5

 このような社会主義的競争は、1930年代半ばには、「スタハーノフ主義運動」へと引き継がれる。スタハーノフとは、1935年にドンバスの炭鉱でノルマの14.5倍の石炭を切り出し、労働英雄と呼ばれたアレクセイ・スタハーノフのことを指す。1940年までには、ソ連の工業労働者のおよそ半分に当たる300万人がこの運動に参加していた★6。彼らのうち特に優秀な成績を収めた者には、給与の増額やボーナス、食料配給クーポン、日用品や時計、自転車、ラジオなどが与えられた。中でも最大の賞品が、家だった。大都市の住宅難がピークに達しようとしていた時期に、彼らには工場の予算によって家具つきの豪華な住宅が支給されたのである★7

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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