ぼくはいま益子にいる。
慣れない iPad のキーボードで、こうして原稿の締め切りをすぎて慌てて書いている。いまいる実家の部屋は、ぼくが高校を卒業するまで使っていた場所。壁には高校のころに描いた風景画や自画像、ぼくが出ている新聞記事の切り抜きなどが無造作に貼られている。父が額装したり貼ったりしたものだ。しばらく前から物置状態になっていて、空き箱や壊れた健康器具たち、何に使うのかわからない複数の竹筒、放置された誰かの服などが乱雑に置かれている。
この家にはもうぼくの居場所はない。泊まる機会があれば、さながらキャンプをしている気分。自分の場所をなんとか確保し布団を敷く。窓や玄関は開放されているからさまざまな虫がやってくる。生まれながらに片足が不自由な犬(ラッキー)は屋外と屋内を自由に行き来している。ぼくはそのなかに異物として間借りをすることになる。
益子という地名を聞いて民藝運動を思い出す人もいるかもしれない。1920年代より批評家の柳宗悦と陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎が中心となって進められた日本版のアーツ・アンド・クラフト運動だ。民藝運動が市井の人びとによる創造性に着目し、国内外のさまざまな無名の作り手たちの仕事をまとめたことは、インターネット時代の、現在のアノニマスな創造性にも関連づけられて語られている。かつて柳や濱田が見出したように、現在においても、つくることはもはやアーティストが独占的に行うことではないのだろう。YouTube を漁れば、誰もが何かをつくっている。
1924年、濱田は益子に移り住む。そして亡くなるまでここで制作を続けた。自邸の一部に、自ら国内外で収集した日用雑貨などを展示し、「益子参考館」という名前で一般にも開放している。いまで言う、デザイン・ミュージアムだ。自邸も含めた敷地内の建物は近隣地域から移築された古民家で、それらの建築も、だれかの制作のための「参考」にと集められたものだった。
民藝はそうして匿名のつくり手たちを称賛する。しかし同時に、いくつかの問題も抱えている。朝鮮半島でつくられた陶磁器に対する柳の視線に植民地主義的な側面があったことは免れない。だが、より本質的な問題はこちらだ。民藝という思想はアノニマスな活動を評価していた。にもかかわらず、職人の「作家性」を認めることによって、匿名だった職人たちは結果的に「作家」になってしまった。
益子でも、現在にいたるまで多くの作り手が作家主義に転じた。もちろんそれによって「益子焼」はブランド化できたとも言える。濱田以前に、民藝以前に「益子焼」があったわけではない。益子という地域で陶器が多くつくられていた、だけだった。濱田たちは、その素朴な陶器たちに美しさを見出した。いわば批評的な視点が介入することで「益子焼」は生まれたわけだけれども、同時にその批評的な視点によって、匿名性が担保していた陶器の素朴な美しさは失われてしまったのかもしれない。
益子にあった匿名的な創造性(の美しさ)は無自覚なものだったと思う。だから匿名的な創造性を評価する民藝という思想によって(「益子焼は○○なところがすばらしい」という視点によって)、逆説的に、無名の陶工たちは自身の作家性(他との違い)を自覚するようになる。益子の匿名性は、民藝という批評を介して、皮肉にも作家主義化したと言える。いや、それはちょっと言いすぎかな。
一方、今回の滞在で気づいたことがある。何気なく ZOZOTOWN の日用品ページを見ていると、益子焼の名が出てきた。ビームスが陶芸を扱っている。そこには「濱田窯」と書かれた、濱田庄司の窯を使ってつくられたコーヒーカップなどが複数出てきた。ぼくはなんだか少し感慨深かった。益子がビームスで扱われているということに対してではない。ぼくのなかでずっと疑問に思ってきた、先ほどの「匿名性の作家主義化」の問題がここで解決されていると感じたからだ。むしろ作家主義(濱田庄司というアーティストの名前)が匿名化(濱田窯という「窯」の名前への変化)していると思えたのだ。
もちろんその窯を引き継いでいるのは濱田の家族である。しかしそこには血縁を超えた複数性がある。現在の濱田窯の背景には、実は3.11の震災によって損壊した登り窯の復活プロジェクトがあった[★1]。登り窯というのは、階段状に房状の部屋が連なる、大量に陶磁器を焼くための巨大な窯で、いまでも薪を用いて焼成を行う。登り窯は煉瓦などによってつくられているため強い揺れがあれば容易に壊れてしまう。濱田邸にある登り窯も震災の影響で壊れてしまった。その修復に多くの人びとが関わっていた。
この「復活プロジェクト」によって濱田窯は家族の外へと開かれていく。修復された登り窯の窯焼きでは、さらに多くの陶芸家たちが関わった。薪割りから後片付けまで、全プロセスにそれらの陶芸家たちが参加することで、集団による協働制作と窯焼き技術の伝達が行われた。このような背景が加わることで、濱田窯は濱田庄司という作家名を歴史的な参照点とした個人(もしくはその家族の)「窯」から、複数の作家たちが集まるためのきっかけの場所に変化し、匿名的な創作の場所として再配置されたように感じた。窯に集う人びとの集団性。益子が、というか民藝が一周回ってもう一度原点回帰している。そう思う。
つくることはどのようにしてぼくのなかで始まったのだろうか。
最初につくることを意識したのは幼稚園のときだ。ダンスで使う亀の甲羅を描くために、四角い画用紙に緑色のクレヨンでずっと円を描いていた。終いには右手が緑だらけになり、それでも色をつけていた。ぼくの目的は甲羅を描くことでもあったけど、同時にその紙が甲羅そのものになることだった。クレヨンが一面に塗りたくられ紙そのものが光ってきた。そのときに先生に言われた、「こーちゃん、丸く塗っても丸くはならないよ」。ぼくにはいまだに彼女が言った意味がわからない。ぼくはぐるぐる円を描きながら緑色を塗りつづけ、クレヨンでテカテカになった紙を丸く切り抜き、紙の裏に紐をつけて少し反らせることで甲羅にした。それは紙であると同時に少し光沢のある亀の甲羅そのものに見えた。徒労感と充実感。つくることはそうやって始まったようだった。
ぼくはコロナ禍のなか、つくることから遠ざかっていた。
規模の大きな制作をする場合、自分が何を行いたいかを他者に伝える必要がある。アイデアを言葉にし、方向性や仕上がりのイメージを伝え、それに向けて協働する。計画があり、ミーティングがあり、複数の他者が関わるからそこには調整と交渉がある。ぼくにとっての制作とはそうした過程のすべてを含むものだ。コロナ禍で映像制作をすることがどのように可能なのか、ぼくには正直わからなかった。映像制作には撮影クルーを含めて多くの人が関わる。集団制作は、集まることは、感染リスクを意味する。だからぼくはつくることから遠ざかり、そうしているうちに自分が何をしているのかがわからなくなっていた。
人を集めることの意味をコロナ禍のなかで再びつかむまでに1年以上の時間が必要だった。9月に新作の撮影をしたんだけど、これについてはまたいつか書ければと思う。
最近になってやっと気づいたのは、つくることは何もそうした制作プロセスを経なくてもできるということ。いや、そんなことは当たり前だよね、ぼくはどうかしていたんだと思う。
そう、つくる行為は日常の所作のなかにもある。
1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之