ベースメント・ムーン(5)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

初出:2021年10月22日刊行『ゲンロンβ66』
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前回までのあらすじ

 2016年、軍事政権下のバンコク。奇妙なメッセージに導かれて旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それはつぎのような物語だった。
 2062年、中国企業ナーウェイが人工意識の開発に成功。人工意識には人工知能と異なり、他者を「想う」力があった。危険性を察知した政府の介入によって開発は禁止されるが、エンジニアは秘密組織「タルタロス」を結成し、秘密裏に開発を続けた。その結果、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」が誕生する。この技術に政治利用の可能性を見た独裁国家連合体「WOWA」はタルタロスを吸収、写識を利用して世界に広がる反体制運動を殲滅しようと目論む。タルタロスのエンジニア・カマラは、ついに写識そのものを人間に搭載する技術「虚人スンヤチョン」を実用化した。
 時を同じくして、WOWAの一角をなすタイ王国では、禁止された芸術作品が引き起こす「心酔マオ・マインド」現象が、反政府運動と結びついて拡大。この運動に対抗するため、タルタロスは芸術を「想う」ことに特化した写識ムルを開発する。
 あらためて時は2069年。ヤーニンと呼ばれる女性は、心酔現象の調査のため「虚人」となり、写識ムルのコピーをインストールされる。タイに出発する彼女の前で、エンジニアのカマラは不可解な言葉を残して突然に命を絶つ。呆然とする彼女に、彼女のなかの写識は、人間を支配する言語や時間の本性、その支配を揺さぶる「物語」の役割について語りはじめるのだった……。

主要登場人物

プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現した。
メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていた。
写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した四つの人工意識の手引きによって開発された。
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。
ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。任務でタイに向かう直前に、カマラが自死する現場に居合わせる。

※本文中の[☆1]―[☆4]は訳注を示す。

人類が20世紀の終わりにインターネットを使いはじめて以来、ワールド・ワイド・ウェブ以外の秘密のネットワークとして、なにかを隠蔽するためにつくられたネットワークを使う人々がいたんだ。フィルタリングを逃れた深層にあるそのネットワークは「ディープ・ウェブ」などと呼ばれている。さらにそのなかに、闇の世界のデータや犯罪についてのやりとりで満ちた「ダーク・ウェブ」や、世界を震撼させる最高機密を保管する「マリアナ・ウェブ」などがある。「マリアナ」は海のいちばん深いところ、西太平洋の「マリアナ海溝」からとった名前だ。

だがもうひとつ、実在こそすれどほとんど知られていないウェブがある。「クル・ウェブ」と呼ばれるその場所には、ナーウェイがシェリーから切り離したメアリーが常駐していた。メアリーもよく知っている人物、エイダ・ウォンの父がつくり上げた秘密空間だよ。

「クル」はシュメール人の古代の物語『ギルガメシュ叙事詩』における冥界、つまり死後の世界を指している。エイダはこの言葉を選んだ理由を父親から聞いたことはなかったが、おかげで古典文学を読み解くという趣味を見つけられた。ギルガメシュ叙事詩の悪役である鬼「フンババ」への愛着は、文学作品における「怪物」への熱中に変わり、それが彼女の特殊な専門性につながった。そんな自分の興味を、エイダは父と昔の恋人のうちの何人かを除いてだれにも教えたことはなかった。もちろんこれをきっかけに、メアリー・シェリーの描いた怪物も好きになった。

エイダが脳科学や人工知能や量子コンピューターに関心をもったのは、父が引き込まれた怪しげな世界に自分もたどり着きたかったからだ。そこで必要になる能力を身につけられれば、いつか父のあとを追えるはずだと願っていたのかもしれないね。

この親子の関係は、ほとんどがクル・ウェブを通して育まれている。彼女が生身の父に触れられそうな距離で過ごしたのは、7歳から12歳までのわずか5年間だけだった。そのあとはアメリカの中学に入学させられて、国籍をアメリカに変えた親戚のところで暮らした。いつになれば故郷に帰れるのか、教えてもらうこともなく。

彼女は父からの暗号を待っていた。彼女の先を行き、彼女がそれを追う、そんな暗号を、紐帯の意識というコミュニケーションを、だれかの言葉から知る互いの思いを、待っていた。そんな関係が、遠く離れたところにいるふたりを不思議なくらい近づけた。

7歳になるまで、エイダは北京の祖父母に大切に育てられ、輸出ビジネスを営む父は海外駐在中なのだと聞かされていた。だがそのあとに訪れた長い青春時代に、父はたしかに外国にいるが、それは輸出業を営むビジネスマンとしてではないということを知った。父は犯罪者だった。インターネット犯罪とテロリスト幇助の罪で、タイで収監されていたんだ。

だけどエイダにとって父以上の謎だったのは、母の存在だ。自分がこの世に生まれ落ちて2年も経たないうちに死んだという以外に、母が何者なのか、だれひとり詳しく教えてくれなかったからね。エイダが中国に戻るほんの数年前にようやく、母はタイ人で、バンコクでのある事件で殺されてしまったのだと、父が伝えてくれた。エイダはこの情報に一切動揺することはなく、ただ興奮しただけだった。彼女は母についての記憶もないし、母の国に対してどんな感情も湧かない。しかし父のほうは、7歳から12歳までという短い期間ながらも自分の生活のなかに戻ってきていて、おかげで家族の感覚も生まれている。実世界での関係構築が不可能でも、クル・ウェブが代替世界となって父子の絆をつないでくれた。エイダの意識に、新しい次元が生まれるほどだった。

父親は娘をアメリカに送るのと同時に中国を発ったが、その目的地を知る者はいなかった。それからおよそ1年半、同年代の友人とかんたんな会話ができるくらいには英語を学んだエイダは、寮で聴く音楽のストリーミングに混じって届く父からのメッセージを受け取るようになる。それをきっかけに彼女と父親は、英語と暗号を用いたクル・ウェブ経由のコミュニケーションを始めた。奇術のように複雑なコードで商業用の通信ネットワークの検閲と国家間の信号フィルタリングをかいくぐるクル・ウェブは、「日曜日サンデー」の「隠さざるを以って隠す」戦略と同じような原理のもとにつくられていた。

ふたりが学校や仕事、あるいは互いの日常生活の話をするのはまれだったよ。情報が漏洩しないように細心の注意を払う必要があったからね。そのうちエイダは、父がなにかを伝えようとするときには、あれを読めこれを見ろと文学や芸術の作品を勧めてくるのに気がついた。父が作品の一部を引用しているときは、明らかに暗号を渡そうとしていた。やりとりのなかでさまざまな情報の場所を示していたんだ。彼女が文学の知識を深めると、そのぶん父の指示も込み入ったものになった。

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1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

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ふくとみ・しょう/1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者。株式会社ゲンロン所属。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)がある。

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