革命と住宅(8) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(後篇)|本田晃子

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初出:2022年1月26日刊行『ゲンロンβ69』
 2022年1月6日、本田晃子さん、鴻野わか菜さん、上田洋子による、ソ連の共同住宅「コムナルカ」をテーマにしたイベントがゲンロンカフェで開催されました。コムナルカについては本連載の第2章で詳細に取り上げられています。あわせてお楽しみください。アーカイブ動画はシラスで公開中です。(編集部)
 
鴻野わか菜×本田晃子×上田洋子「社会主義住宅「コムナルカ」とはなんだったのか──ソ連人が描いた共同生活の夢
 
後篇

3.速く、安く、大量に


 これら1950年代後半から1960年代前半にかけて普及したフルシチョーフカで追求されたのが、住宅をいかに「速く」、「安く」、そして「大量に」供給するか、だった。

 最初期のフルシチョーフカでは、(日本の団地と同じく)高価なエレベーターを必要としない五階建て構造が主流を占めた。また当初は、1つの階段を共有する3~4戸からなる1セクション内に1DK、2DK、3DKの異なる間取りの住戸が配置される場合と、2DKの住戸のみが配置される場合があった。これらの間取りからもわかるように、フルシチョーフカの想定する主たる居住者は、両親とその子どもからなる核家族だった★1(ただし後で論じるように、住人たちは必ずしも建築家の想定通りに住んでいたわけではなかった)。

 フルシチョーフカには水道(冷水および温水)、電気、ガス、セントラルヒーティング・システムが標準装備されており、そして何より、多くの住人にとっての念願だった戸別のキッチン【図1】、浴室、トイレが備え付けられていた。コムナルカやバラックでは、毎朝マイ便座を持った人びとがトイレに列を作り、あるいは共同キッチンではわずかなスペースをめぐって諍いや嫌がらせが繰り広げられていたが、それらから解放される日がついにやってきたのである。なお、これら水回りのデザインも規格化・標準化され、工場で事前に組み立てられていた。特に浴室とトイレ、洗面所はサヌーゼル(санузел)と呼ばれる一つのユニット【図2】にまとめられ(いわゆる「ユニットバス」である)、現場ではこのキューブ状のユニットが構造に直接挿入された。
 
【図1】フルシチョーフカの標準的キッチン


【図2】サヌーゼル(水道の配管は隣のキッチン・ユニットとつながっている)

 
 その一方で、建設費の抑制のために、初期フルシチョーフカでは部屋数もその面積も最小限まで切り詰められた。内外壁を構成するパネルないしブロックは軽量化が進んだが★2、その一方で必要以上に薄くなり、防音や気密性の問題が生じることもあった。廊下や階段などの「通過空間」は極力排された★3。浴室などを除いた居住面積も、1950年代前半の2DKの平均は40~45平方メートルだったのが、30~32平方メートル程度(10坪弱)まで縮小され、3メートル前後だった天井は、2.7メートル程度まで低くなった★4。たとえば最も普及したI-464シリーズの場合は、1DKで約17平方メートル(約5坪)、2DKで約31~32平方メートル(約9坪)、3DKで約45~46平方メートル(約13~14坪)となった。ダイニング・キッチンは約6平方メートルで、調理台と食卓を置くとほとんど身動きができなかったという★5
 また、部屋数の少なさを補うために、1室が複数の機能を兼ねる必要があった。たとえば1956年の設計コンペをもとに国家建設局に認可された間取り案【図3】では、各戸の中心に置かれた居間が、寝室やダイニング・キッチンをつなぐ廊下の役割も果たしている。また居間は、家族の団欒の空間として利用されるだけでなく、夜間は寝室へと早変わりした。前回見た映画『もしそれが愛なら? А если это любовь?』(1961年)でも、主人公の少女が住むフルシチョーフカでは、居間には食卓に加えて妹のためのベッドや机までもが置かれており【図4】【図5】、居間がダイニングのみならず妹の勉強部屋や寝室も兼ねていたことがわかる。しかもこの住戸には廊下はほとんど存在せず、居間からすぐに玄関へと通じている。
 
【図3】大ブロック工法による間取り案


【図4】主人公の右側には妹の机とベッドが配置されている


【図5】【図4】と同じ空間に置かれた食卓、奥は玄関

 
 部屋の面積の縮小と多機能化に対応するために、家具も同様に縮小・簡素化され、複数の機能を持つようになった。昼間はソファとして、夜はベッドとして使用できるソファベッドに始まり、机にもなる棚や収納できる折り畳みベッドなど、フルシチョーフカ向けに多様な家具がデザインされ、やはりそれらも工場で大量生産された【図6】。
 
【図6】ベッドにもなるソファ、机代わりにもなる棚

 
 住み心地の点はともかく、これらの努力の積み重ねによって、1963年にはフルシチョーフカの1平方メートル当たりの建設にかかる費用は、1958年時点から約5.7%下落し、新規に建設された集合住宅のおよそ95%がフルシチョーフカによって占められるまでになっていた★6

 19世紀のブルジョワの住宅のような1室=1機能を否定し、部屋を多機能化すること。それに合わせて家具もコンパクト化かつ多機能化すること。これらの主張は、しかし実のところフルシチョーフカから始まったものではない。本連載の初回で論じたドム・コムーナの設計者であるモイセイ・ギンズブルグらは、1920年代から既にこのような住宅の合理化を唱えていた。1940年代になっても、彼ら元構成主義建築家らは、コンパクトで機能的な集合住宅モデルを提案し続けていた★7。だがこれらアヴァンギャルドの集合住宅の理念と、フルシチョーフカの間には根本的な前提の相違があった。
 ドム・コムーナで居住面積が最小限化されたのは、経済効率の観点からだけでなく、住宅に併設された公共空間──共同食堂や共用のレクレーション・ルーム、図書館、スポーツ施設──で時間を過ごすことを住人たちに推奨するためだった。そうすることで共同体への帰属意識が涵養され、家や家族よりも共同体を優先する社会主義的人間を形成できると信じられていたのである。フルシチョーフカでも同様に居住面積は圧縮されたが、それはあくまで経済性の追求のためだった。ゆえに切り詰められた空間が、併設された公共空間で代替されることはなかった。食堂や保育施設はしばしば居住区内に建設されたものの、それらは女性たちを家事・育児といったいわゆる「家庭のくびき」から解放するという社会主義の目標を達成するには、あまりにも不十分だった。


4.小さな家族のための空間?


 住宅デザインの標準化は、翻ってその住人の構成や住宅内での振舞いにも、一定の標準化を求める。日本の初期団地が、その主たる住人として夫婦と子ども1人~2人からなるミニマムな家族を想定していたように、フルシチョーフカもデザインの標準化の際に前提としていたのは「小さな家族」、すなわち核家族だった★8。具体的には、1DKには3人まで、2DKには4人まで、3DKには6人までという定員の目安が設けられており★9、フルシチョフ時代には1世帯当たりの構成人数が平均4人程度まで減少していたこともあって、特に2DKの間取りの住宅が量産された。

 ただ現実には、フルシチョーフカにおいてもコムナルカと同様、このような明らかに1家族向けに設計された住戸に複数世帯(親世帯と子世帯)が、想定定員数を超えて同居することは珍しくなかった。フルシチョフ時代には未だ都市部の住宅不足は完全には解消されておらず、また子どものいる家庭に優先的に住宅が配分されたため、独身者や子どものいないカップルが住宅を受け取るのは困難だった。そのためにこれらの世帯は、成人したり結婚したりしても親世帯と同居し続けることが多かった。1960年代後半の時点でも、8~10パーセント程度の人びとが1家族向け住宅に複数世帯で住んでいたという★10。またたとえ子どもがいたとしても、保育施設の不足から乳幼児の保育を親世帯に任せたい子世帯の事情もあって、住宅難がほぼ解消された1979年時点になっても、未だ半数の若者が結婚後も親との同居を望んでいた★11

 このような住宅事情は、たとえばアレクセイ・コーレネフ監督の映画『家庭の事情で По семейным обстоятельствам』(1977年)に端的に描き出されている。主人公の中年女性ガリーナは、早くに夫を亡くしたものの管理職としてバリバリ働き、1人娘のリーダを女手一つで育て上げ、現在は娘とその夫のイーゴリとともに暮らしている。だが間もなく、娘夫婦には第1子が生まれる。ガリーナも娘夫婦も皆それぞれに働く身なので、最初彼女らはベビーシッターを探そうとするが、なぜか募集に応じてやってくるのは奇人変人ばかりで、この試みは失敗に終わる。若夫婦はガリーナが仕事を辞め、子守に専念してくれることを期待するが、初孫が生まれたとはいえまだ若いガリーナには、子どもと一緒に1日中家にいるなど到底考えられない。そこで彼女は自身の住まいを娘夫婦に譲って、新しい住宅を探すことを決意する。しかし作中のガリーナの行動とは反対に、現実のソ連社会における保育施設の不足を無償で埋め合わせることになったのは、これら「おばあちゃん」たちに他ならなかった。

 ちなみに住宅の分配に際しては、家族構成以外にも、職場における業績や勤続年数などが判断基準として用いられた。ただしこの基準は男性労働者を念頭に置いたものだったため、当時のソ連には戦争寡婦やシングルマザーは少なくなかったが、女性は働いていても住宅を取得するのは困難だった★12。また、これらの基準はあまりにも曖昧で不透明であったため、しばしば賄賂などの不正の温床となった★13。たとえばゲルベルト・ラッパポルト監督のミュージカル映画、その名も『チェリョームシュキ Черёмушки』(1962年)は、基本的には人びとのフルシチョーフカへの移住をコメディ・タッチで描いた作品だが、住民たちが不正を働く住宅管理人(1人で2戸分の住居を手に入れようとしている)と団結して戦う場面もある。当時のソ連の人びとが、新たな住まいを享受する一方で、その官僚的で恣意的な分配システムをどのような目で見ていたのかがよくわかるエピソードといえるだろう。

 1950年代のソ連建築家たちは、フルシチョーフカを合理的に設計することによって、コムナルカやバラックの過密と混乱を克服しようとした。その際に問題視されたのが、特にコムナルカでは廊下などの本来は居住用ではない空間に、多くの人びとが住みついていたことだった。もし広い廊下があれば、そこにベッドを置いて寝起きする住人が出現する可能性がある。フルシチョーフカから廊下のような住機能(寝食)に直接関わらない空間が極力排除されたのは、単に1戸当たりの面積を縮小するためだけではなく、そのような想定外の住まわれ方を抑止するという意味もあったのである。このように建築家たちは、住まいを標準化することで、住人と住空間との関係も標準化しようとした。だが依然として解消されない住宅不足や保育などの公共サービスの欠乏といった困難な現実を前に、住人たちは建築家たちの意図とは無関係に、あるいはそれに逆らって、フルシチョーフカでもさまざまに「標準化」されない生活を送っていたのである。

5.所有の感覚


 社会主義国家であるソ連においては、原則として★14住宅を個人で所有することはできない。それは国家や地方自治体、あるいは組合などに属しており、住人はあくまでこれらの組織から一時的に住まいを借り受けることしかできないのである。フルシチョーフカもまた、これら公的機関に帰属する住宅だった。しかし赤の他人との共同生活が前提となるコムナルカやバラックとは異なり、家族だけの排他的な住空間であるフルシチョーフカでは、住人たちはあたかも住居を自らの所有物であるかのように感じ、実際そのように振舞った。現にフルシチョーフカに関しては、住人が勝手に物件を売却することは禁じられていたが、住宅の交換は認められており、さらに住戸を割り当てられた当人が死亡しても、他の家族がその住まいを引き継ぐことができた★15

 家族以外の誰とも共有することのない、自分たちだけの空間──それは大多数のソ連の人びとにとって、初めて経験するものだった。この新しい空間経験は、人びとの生活にさまざまな変化をもたらした。たとえば、インテリアへの関心である。

 それまでインテリアへのこだわりは、スターリンカのようなエリート住宅の住人にのみ許された特権だった。質の良い家具や壁紙、調度品はそもそも供給量も少なく、高嶺の花だった。だが住宅の大量生産開始とともに、これらの商品も工場生産の対象となり、庶民にも手の届くインテリア市場が出現した。

 とりわけコンパクトな間取りのフルシチョーフカは、先に述べたように、19世紀のインテリアの理念に基づいてデザインされた従来の嵩張った重厚な家具ではなく、新しい美学に基づくシンプルでコンパクトな家具を必要とした。これを受けて1950年代後半には、雑誌『ソ連の装飾芸術』誌を中心に、来るべきインテリアをめぐる論争が巻き起こる。1959年からは、模範的な家具デザインをめぐるコンテストも定期的に開催されるようになった★16。一般市民もこれらの情報を先を争うように摂取した。あるいは、画一化されたフルシチョーフカだからこそ、インテリアによって住宅を差異化したいという欲望が生み出されたのかもしれない。いずれにせよ、こうして住まいは単に生活するだけの場所から、そこに住む住人の趣味や個性を表現する場所として認識されるようになっていった。

 同様にテレビや洗濯機、冷蔵庫のような家電製品も、西側に比べると供給量・スピードは限られていたとはいえ、1960年代には徐々に市民生活に浸透しはじめていた。日本の公団団地に暮らす若い夫婦や親子からなる団地族は、インテリアやいわゆる「三種の神器」と呼ばれた家電製品──テレビ、冷蔵庫、洗濯機──の消費に熱をあげたが、社会主義体制であるはずのソ連でも、事情はあまり変わらなかった。たとえば先のミュージカル映画『チェリョームシュキ』では、新居への引越しと新しい家具や家電の購入が密接に結びつけられている。これからフルシチョーフカに引越そうとしている若いカップルは、窓ガラス越しにまだ空っぽの新居をのぞき込みつつ、これからその空間を満たすだろうテーブルやソファ、テレビなどを次々に夢想する。そして繰り返し「私たちの家! 私たちの! 私たちの部屋! 私たちの!」と歌うのだ。もちろん法的には、彼らがこの住宅を所有することはできない。しかしそんなことはお構いなしに、彼らは新居への移住と所有と消費の喜びを高らかに、どこまでも楽天的に歌い上げるのである。

おわりに


 フルシチョーフカの登場と普及は、根底からソ連社会を変容させた。スターリン時代には、家族単位の住宅も家族中心の生活も、一部の例外的なエリートの特権にすぎなかった。しかしフルシチョフ時代には、それらが一般市民にも導入された。構成主義建築家たちのような反・家、反・家族を主張する人びとは、既にスターリン時代にソ連建築界のメインストリームから追放されていたために、フルシチョーフカの導入に対して声高に反対を叫ぶ勢力はもはや存在しなかった。しかしそれは明らかに、エンゲルスらの共産主義理論の根底にあった、近代家族制度への批判や労働者住宅の理念への裏切りを意味していた。加えてその普及は、ソ連の人びとに住宅に対する所有の感覚を植え付けることになった。結果として、大量生産された住宅と大量生産された商品からなるフルシチョーフカでの生活は、西側の団地のそれと大差ないものになっていった。

 その一方で、フルシチョーフカの排他的で私的な空間は、コムナルカの相互監視空間においては不可能だった、親密な者同士のコミュニケーションを可能にしもした★17。とりわけそのキッチンは、しばしば知識人や芸術家のたまり場となり、彼らに監視や検閲のない、自由な交流や議論、作品発表の場を提供した。フルシチョーフカはこのような特殊ソ連的な非公式文化(「キッチン文化」)の土壌にもなったのである。いずれにせよ、それはさまざまな意味において、社会主義・共産主義のイデオロギーを掘り崩す危険性を内に胚胎した空間だったといえるだろう。

 フルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフが政権を握ると、ソ連では厳しい言論統制が再開された。「雪解け」は終わり、再び冬の季節が到来したのである。しかしその一方で、規格化・標準化された集合住宅は、規模をより巨大化しながら建設され続けた。1960年代中盤には、エレベーターの導入が安価・容易になったことで高層化が本格化し、9階建て以上の集合住宅が次々に登場した。主要都市の郊外には、数千戸からなるマンモス住宅も出現した。

 しかし同時に、これらソ連型団地が西側の団地とほとんど変わらない、建設効率や経済性一辺倒のデザインであることに対して、一部の建築家たちは疑問を抱きはじめていた。さらに1980年のモスクワ五輪のような国際的なイベントは、外側から社会主義住宅を見直し、社会主義的な住まいとはどうあるべきかを再び問う契機をもたらした。オリンピックを利用し、西側とは異なる(はずの)社会主義住宅の優越性をアピールしたいという、ソ連建築界や為政者たちの思惑もあった。

 こうして、さまざまな期待や目算が絡み合うなかで、ブレジネフ時代にソ連最後の社会主義住宅の実験が始動することになる。

 


図版出典
【図1】Архитектура и строительство Москвы. 1956. №6.
【図2】Архитектура и строительство Москвы. 1958. №11.
【図3】Архитектура и строительство Москвы. 1957. №9.
【図4】А если это любовь? https://www.youtube.com/watch?v=-2IhHYRXExU 19:57
【図5】А если это любовь? https://www.youtube.com/watch?v=-2IhHYRXExU 19:58
【図6】Архитектура СССР. 1962. №10.

 


★1 Бумажный Л., Зальцман А. Перспективные типы жилых домов и квартир // Архитектура СССР. 1959. №1. С. 3.
★2 Лагутенко В. В конструкциях-резервы удешевления строительства // Архитектура и строительство Москвы. 1958. №1. С. 21.
★3 Лаврик Г. К вопросу об оценке экономичности проекта жилого дома // Архитектура СССР. 1963. №4. С. 41-18.
★4 Ловейко И. За экономичные проектные решения // Архитектура и строительство Москвы. 1958. №1. С. 7.
★5 Розанов Н. Типовые проекты крупнопанельных жилых домов серии 1-464А // Архитектура СССР. 1962. №8. С. 5-13.
★6 Кибирев С. Качество типовых проектов – на уровень новых задач жилищного строительства // Архитектура СССР. 1964. №9. С. 2.
★7 Гинзбург М. Пути развития массового жилищного строительства // Архитектура СССР. 1943. №2. С. 8-11.
★8 Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 155.
★9 Федоров Е. Из опыта эксплуатации экспериментальных жилых домов // Архитектура СССР. 1963. №4. С. 33.
★10 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 156.
★11 Ibid., p. 187.
★12 Ibid., pp. 157-158.
★13 Ibid., p. 157.
★14 戦後の混乱期には、圧倒的な住宅不足のために、住人が自力で自らの住宅を建設する、セルフ・ビルドが奨励された。1946年から49年にかけて新たに建設された住宅の実に3割程度が私的に建設されたものだった。これらの住宅に関しては、例外的に建設者に所有が認められた。Gregory D. Andrusz, Housing and Urban Development in the USSR (London: Macmillan, 1984), p. 99.
★15 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 161.
★16 Майстровская М., Случевский Ю. Новации и проблемы обстановочного комплекса жилого интерьера 1960-х // Массовое жилище как объект творчества. Роль социальной инженерии и художественных идей в проектировании жилой среды. Опыт ХХ и проблемы ХХI века. М., 2015. С. 249.
★17 Мойзер Ф. Жилищное строительство в СССР 1955 -1985. Архитектура хрущевского и брежневского времени. М., 2021. С. 91.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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