贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(前篇)|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉

初出:2022年4月28日刊行『ゲンロンβ72』
 全5回を数えた『ゲンロン12』刊行記念イベント。最後にお招きしたのは、著書『チョンキンマンションのボスは知っている』(2019年、春秋社)が大きな話題を呼んだ、文化人類学者の小川さやかさん。東浩紀との対談形式で、司会はゲンロンの福冨渉が務めました。
 タンザニアでのフィールドワークをもとに、路上商人たちの資本主義経済との独特な関わり方を研究している小川さん。チャーミングな語り口から繰り出されるアナーキーなエピソードの数々に、放送終了直後からたいへんな反響がありました。タンザニアの行商人たちの「いいかげん」な生き方が、資本主義経済のなかでわれわれが「人間らしく」生きるヒントになる。それは東の哲学とも深く呼応するものでした。アーカイブ動画はシラスで11月25日まで公開中です。(編集部)

東浩紀 今日は文化人類学者の小川さやかさんをお招きし、弊社編集部の福冨渉を司会に、お話をうかがいます。小川さんには『ゲンロン12』に、「反自動化経済論──無料はユートピアをつくらない」という興味深い論考を寄せていただきました。今日はよろしくお願いします。

小川さやか よろしくお願いします。

福冨渉 今日のイベントは「生存と不確実性の経済──スケールしないお金の話」というタイトルです。いま資本主義の規模はどんどん拡大していて、その運動を推し進めることで逆に資本主義を乗り越えられるという、加速主義と呼ばれる議論も出てきています。ただ、ほんとうにそれでわたしたちの未来はつくれるのか。

 小川さんはタンザニアでのフィールドワークで、「マチンガ」と呼ばれる路上商人たち、ギグワーカーたちの関係のなかに入り、まったく別のかたちの資本主義のあり方を見ている。一方の東さんは資本主義に対して「観光客」という立場を提示するとともに、動画プラットフォーム「シラス」でそれを実践しています。おふたりの対話をとおして、単純な否定でも肯定でもない資本主義との向き合い方を提示できればと思います。

なぜタンザニアなのか

福冨 まずは小川さんが、なぜタンザニアを研究のフィールドにされたのか伺えますか。

小川 「なぜ文化人類学を選んだのか」とか「なぜアフリカなのか」とよく聞かれますが、あまり具体的な理由はないんです。ただ、物心ついたころから、ここではないどこかに行きたいという感覚が強く、大学生のときにはバックパッカーのようなことをしていました。最初に行ったのはインドで、女子3人、1ヶ月くらいの旅程でしたね。はじめこそみんなで寺院をまわったりしていたのですが、流れ解散になって、そこからはひとりで現地のひとたちと交流していました。市場に行ってたまたま会ったひとと仲良くなって、そのまま家に泊まって、結局しばらく住んでみたり。

 いきなりすごい。

小川 そういうことは結構していて、モロッコに友だちと行ったときには、カサブランカで解散して、そのあと現地で迷子になって、どこかわからない、言葉もまったく通じない村にしばらくの間いたり……。

 ええっ!

小川 でもなんか、楽しかったです(笑)。ほかには中国や、メキシコやグアテマラなどの中南米、タンザニアを含む東アフリカ3国にも行きました。

 いろいろ行かれたんですね。そこからなぜタンザニアを選ばれたんですか。

小川 指導教員の調査地がタンザニアで、調査するために必要な許可証や現地の大学の推薦状の便宜を図ってくれたからです。路上商人をテーマにしたのも偶然で、もともとは「都市部のインフォーマルな零細製造業における徒弟制度」にするつもりでした。でも、現地で大工さんに会ってみると、50キロや100キロもするセメント袋をかついだりしていたんですね。参与観察とは人々といっしょに活動するものだ、というイメージを抱いていたので、「これは持てないな」と(笑)。結果として、そこにやってくる行商人に目移りして、テーマが決まりました。でも振り返ってみて、それこそもともと関心があったことだと気づくんです。

福冨 学問的な関心よりも、具体的な動機のほうが先にあり、あとから両者がつながったんですね。

互酬性と「適度な失敗」

小川 アフリカの都市の路上商人と暮らしていると、人間関係が流動的でいい加減で、だからこそ居心地がいいんです。彼らの暮らしには、とにかく「ないもの」がたくさんあると気づきます。国家は頼りにならないし、お金もない。契約書も住民票もなくて、持続的なコミュニティも意外とない。本人たちは、お互いの信頼もないみたいなことすら言っている。すると当然、どうして社会が崩壊しないのかを考えることになります。でも、現地に馴染んでくると、こんどは、国家って、契約書やコミュニティって本当に必要なんだろうかという気分になってくる。そういう経験のうちに、ある条件Aがなくてもなんとかなる条件Bを考えるのが楽しくなるんです。そういう「無条件の条件」がわたしの研究の関心です。

 哲学者は国家や貨幣がない状態での人間の生を、原理的に理屈によって考えるものです。小川さんは、現地での体験からそれを考えていくところがすごいですね。

小川 わたしは哲学や社会学が苦手で、ある問題を突き詰めて考えるとすぐ行きづまってしまいます。すでにこの世界に存在しているオルタナティブを探しに出かけるほうが好きなんです。

 都市が心地いいというのも、逆に言えば農村のようなコミュニティが好きではないからです。さらに掘り下げれば、それを支える互酬性が嫌いなんだと思います。人類学者のマルク・アンスパックが書いていますが、互酬性とは、相手が自分とおなじことをするという前提でなにかをすることです★1。それはともすると「わたしはあんなにがんばったのに、彼はこれだけしかしてくれない」という悪い結果に陥ってしまうし、そうならないように努力するのも息苦しい。そもそも、お互いが同質的な人間でないとその前提は機能しません。それであるときから、互酬性を乗り越えるというテーマを意識するようになりました。

 参考になるのが、同じく人類学者のデヴィッド・グレーバーが言う「基盤的コミュニズム」です。これはふつうのコミュニズムと違い、生産手段の共有は行われず、各人がその能力に応じて貢献して、そして必要性に応じて与えられる、という発想です。彼のいう基盤的コミュニズムは「いかなる収支計算(損得計算)もなされていないのみならず、それを考慮することすら不快だとみなされている」ものです★2。わたしもそういう基盤的コミュニズムは、人間の社交の基盤だと思います。

 グレーバーはそういう「人間の経済」が「商業の経済」に取って代わられてしまうと、人間がモノや数字のようにやりとりされるようになり、そこから負債が生じるとも言っていますね。そこには、社会的文脈から個人を引き剥がす暴力が介在している。それが、わたしの論考の根本にある問題意識です。

 哲学の言葉で言えば、贈与と交換の問題ですね。贈与は収支計算なく行われるものだと考えられていますが、じつは相手が「贈与を受けた」と思った時点で、その感情は一種の負債となり、交換に変わってしまう。だから贈与とは不可能なものだと主張する哲学者もいるのですが、それだと議論が神秘的になり進まなくなってしまう。ここにパラドックスがあります。

 ちなみにぼくは、贈与とは交換の「失敗」において生じるものなのではないかと考えています。たとえば、交換だと思ってなにかを贈ったけれど、相手から返礼が届かなかったとする。そういうときに、結果的に贈与が成立したことになる。小川さんが紹介されているタンザニアの経済がおもしろいのは、そこには信頼がないというより、むしろ信頼が失敗しつづけていて、みながそれを前提としているからだと言えないでしょうか。

小川 なるほど。とても面白いですね。

 現代の経済では失敗も計算してしまいます。リスクヘッジのために保険を用意する。保険とは、失敗すら交換のロジックで解消しようとする思考法です。しかし、小川さんが注目している社会では、失敗は失敗のままで放置され、にもかかわらず秩序が成立する。ぼくの言葉で言えば、「誤配」がどう秩序をつくるかという話につながっているので、小川さんの本はとても興味深く拝読しました。

 これは物を売る場合でもおなじです。よくする話ですが、いまこの対話は番組として配信されていますよね。うちの番組がカルチャーセンターなどとちがうのは、たとえば「2時間3000円で授業を買う」というような、わかりやすい投資と対価の関係が成立していないからなんです。すごくいい話が聞けるときもあるけど、テーマと違って雑談に終始することもある。そこをわかって購入してほしいと言っています。というのも、ぼくはその失敗のプロセスも、コミュニケーションや教育において重要だと思うからです。

 でもそれは交換の論理に入らないので、安定させるのがむずかしい。ただほんとうに失敗し、視聴者を失望させつづけていたら、会社が潰れてしまうわけです。だから、「適度に失敗するとはなにか」をつねに実践のなかで考えています。そこにこそ本質があるはずなのですが、その「適度」とはどの程度なのか、ぼくにもよくわからない。でも小川さんの本を読むと、タンザニアのひとたちも、チョンキンマンションのひとたちも、適度な失敗を心がけているように見えます。

小川 そのとおりですね。彼らはお金がなくなったりして文字通り死にかけるんですけど、意外とみんなが助けてくれるという仕組みがあります。だから生き残る。

 その助けてくれるということが、適度な失敗と関係しているのかもしれないですね。みなが完全に交換の論理のなかに入り込んでしまうと、対価が想定できないときには助けなくなってしまう。ルソーは『社会契約論』で、人間のベースには「憐れみ」があると言っています。目のまえで苦しんでいるひとは助けてしまうよね、という話です。浅い理解で読めば、これはただの性善説になる。でも本質はそこではなくて、ひとはときに計算しないで行動してしまうというところが大事なんだと思います。目のまえでひとが苦しんでいると、助けることにメリットがなくてもひとは助ける。

小川 率直に言えば、厳密な交換原理を避けることが「気分による」という行動原理で実行されているんですよね。タンザニアのひとたちはそういうところでとても正直で、「自分がひとを助けるのは気が乗ったときだ」とはっきり言います。そこで、ひとはだれかを助けるものだという規範や倫理を打ち立てることは一切せず、「気分による」という不確実さを前提に回るよう、いろいろな仕掛けをつくっていく。

 その不確実さを、いわゆる功利主義やゲーム理論はほとんど扱うことができない。

小川 インフォーマル経済というのはとにかくとても微妙なバランス、領域で実践しています。一般的な定義では政府の雇用統計に載らないひとたちの経済活動を意味しますが、実践のレベルでは「違法だけど道義的にはいい」「合法だけど道義的にはいや」という認識のあいだで行われるものを指します。路上商人はドラッグの密売人とはちがうとか、ブリコラージュ的な制作ならいいけど組織的な模造品製作はよくない、みたいなことですね。前者の「違法だけど道義的にはいい」はよく注目されます。でも路上商人とは、むしろ後者の「合法だけど道義的にはいや」のほうを強調するひとたちでもあります。

透明でも公平でもない経済

福冨 商人たちは、どうしてわざわざ、インフォーマルな仕事に従事するようになるのでしょうか。

小川 タンザニアの路上商人と聞くと、都会に出てきて職が見つからなかった人々というイメージを抱くかもしれません。でも私が調査する路上商人の多くは、そもそも雇用されることを嫌っています。雇用契約は自尊心を傷つけるからいやだと。もちろん、やりたくないことをやらされて給料も安い、条件の悪い雇用は、たんに自尊心を傷つけます。でも彼らがおもしろいのは、条件のいい雇用であっても必ずしもやりたがらないことです。条件のいい雇用とは、親が子どもを養育するように、雇用主が被雇用者の面倒を見ているようなものだと言うんですね。問題は条件や給料の良し悪しではなく、それが自分や雇用主の必要性に応じて変動しないことにあると。

 おもしろいところはほかにもあります。一般的な取引では、たくさん買ってくれるひとには割引して、そうでないひとには高く売りますよね。でも、アフリカの小売店は、路上商人の売り上げが落ちるとディスカウントして、持ちなおすと高くするんです。生かさず殺さずみたいなことをしているようにも見えますが、商人たちはこの方針を、必要に応じて助けられ、能力に応じて助ける、という原則に則っていると評価します。まさに基盤的コミュニズムです。助けが欲しいと一口に言っても、その金額はひとによってちがうし、子どもが病気をしたなど、そのときの事情によっても変わります。一方で、商店主が困っているのに値下げを要求したり生活の保護を要求したりする路上商人は、たんに頭が悪いとされる。

 いいですね。まともな感覚だと思います。ただ、そういうところに着目すると、菅政権のいう「共助」のような自己責任論を肯定するのかという批判も出てきそうです。たしかに自己責任論には問題がありますが、他方で国家や企業がすべてサポートするのが正義だとも思えないんですね。個人間の助け合いは大事ですね。

小川 なぜ公助と共助や自助が二者択一になるのかと思います。第一に、路上商人たちは、「責任」のようなタームは使いません。彼らは、さきほど説明したことを、グレーバーの言うような、人間は計算できないという話として捉えています。パフォーマンスや業績といったものさしで収入を計算するのではなく、そのときどきの互いの状況に応じて考えよう、ということですね。

 彼らは基本的に、自分たちのことを労働者だと思っていないんです。仕事とはなにかと聞けば、この微妙な価格操作をすることだと答える。つまり、社会のなかで金持ちからかすめとって、貧乏人や困っているひとに安く売るような価格操作をうまくやっていることに、自分たちのアイデンティティを見出している。俺たちは、社会の関節に位置して、そのあいだで仕事をしている存在なのだと。なので、一律の価格で売ることやアルゴリズムの指示に従うことは、自分の仕事の根幹を否定されることで、ありえないと思っているわけです。

 計算に還元されない、人格的な関係をとても大事にしているのですね。

小川 むちゃくちゃ大事にしています。そのうえで、その価格操作の内実を証明しないでおくことがとても重要です。あのひとは貧乏だから安く買えた、あのひとは金持ちだから高く売られた、ということを可視化しない。あくまで、個別の商取引での駆け引きの成功や失敗としておかないとまずいわけです。これが国家による再分配で、お金持ちから税金をたくさん取って必要なひとに配るという話だったら、あいつらはおれらの税金で楽してやがる、みたいなバッシングにつながるんだと思います。それは結局、だれがいま支援を受けていて、だれが支援する側かを明確にしてしまっているからです。

 おっしゃるとおりで、「公平」という概念はとてもむずかしい。みなが公平さばかりを求めると、規則が複雑化していき、むしろ分配のコストが高くなってしまう。

 ところで、いまぼくたちの話を聞いていて、そんな適当な相互扶助では国家レベルの福祉なんて実現できない、あくまでもマイナーな話じゃないか、と考えるひとがいるかもしれません。たしかにインフォーマル経済はフォーマル経済がないと成立しない。でもそれは、インフォーマル経済は二次的なものだということでもないんですね。インフォーマル経済がないと、人間は人間ではなくなってしまうからです。だからこういった対話が必要になるし、この問題は21世紀においてますます重要になっているように思います。昔はフォーマル経済と言っても、いまのような全面的な可視化や数量化も技術的に実現できなかったので、インフォーマルな部分があちこちに残っていた。たとえばコンビニではなくそこらへんの八百屋でものを買うと、そこがもうインフォーマル経済の場だった。

小川 そうですね。

 でもいまは日常生活をしていると、むしろフォーマル経済にしか出会わない。だからこそインフォーマルな部分について語らないといけない。小川さんはフォーマル経済を否定しているわけではなく、フォーマル経済が社会を覆うなかで人間的であるためにはどうすればいいのかという話をしている。

小川 ありがとうございます。日本はまさにいま、インフォーマルな部分が縮小し、ものすごく生きづらい社会になっていると思います。とはいえ、ささやかなところにはたくさん残っているはずなので、それをもっと肥大させたいですね。インフォーマル経済とフォーマル経済は矛盾するものではない。わたしがグレーバーの言葉を借りて「人間の経済」と言っているものこそ、フォーマル経済を下支えしているんです。そういう場がなくなり、透明さと公平さだけになった世界では、ひとは一度そこからこぼれ落ちた瞬間に絶望するしかなくなってしまう。

福冨 「正しさ」だけでは、人間は生きられないということですね。
 

【図1】イベント当日の様子。左から福冨渉、東浩紀、小川さやか

バグから生まれるつながり

福冨 論考にも書かれていた、商人たちによる、SNS上での「投擲行為」もとても興味深かったです。予想外のつながりの誕生とその切断で、不透明なカオスをあえて作るというお話でした。

小川 最近、香港や中国に移住したタンザニアの商人たちは、SNSを通じてアフリカと香港のあいだで交易活動をしています。インスタグラムやフェイスブックやWhatsAppなどのふつうのSNSを使って、この商品どうですかというひとと、それを買いたいというひとをマッチングしている。

 香港で暮らすタンザニア人たちは、「ついで」の助けあいをよくします。案内してほしいところが通り道なら連れていくし、ベッドが空いていたら知らないひとでも泊めてあげる。無理なくできることしかやりませんが、すごく親切です。なぜそんなに親切なのかというと、彼らのSNSプラットフォームでは、「ビジネスに関わる利己的な関心」と「他人に対する利他的な振る舞い」が合致するようになっているからです。

 このようにいうと驚かれるかもしれませんが、でも、その仕掛けをよく見てみると、ただ評価経済の仕組みを使っていないというだけなんです。最近のプラットフォームならば、仕入れコストのような経済的パフォーマンス、配送の速さや商品画像の正確さなどへの評価が数値化され、それで業者が選ばれるのが一般的だと思います。でも彼らはそんなものは参照しておらず、SNSに投稿される個々の商人のつぶやきや写真・動画をただ見て、だれと取引したいかを選択している。そこで一番効力があるのが、まさに困っている同胞への支援のようすを見せた投稿なんです。つまりは、「あいつ、めっちゃいいやつやで」という投稿を見ると、なんとなく注文したくなるわけです。ほかにも、ブランド品で着飾った自撮り写真を投稿したりします。

 この写真ですね。

 

【図2】香港のタンザニア人ディーラー、カラマ
 

小川 じつは、この商人は服を買っていないんです。ただ店で試着しているところを自撮りして、それを投下している(笑)。すると、「それだけ羽振りがいいんやったら、高飛びせえへんやろな」みたいなかんじで注文してくれる。あるいはわたしとのラブラブ写真に見えるものを投下すると、「香港人の彼女ができたんやったら、安定的に商売してるんやろ」みたいなかんじで注文が入る。

 すごい世界ですね(笑)。

小川 彼らの根本には、仲間を経済パフォーマンスなどでは評価できないという発想があります。それには、商売の浮き沈みが激しいので過去の取引の評価なんて、未来の取引の保証にはならないというのもありますが、何より基本的な人間理解として信頼できるひとと信頼できないひとが明確に区別されているわけではないことが重要です。人間はそのときどきの状況や社会関係に応じて、うまくやれることもやれないこともあるし、裏切り者にもお人好しにもなりうる。だれと取引したいかも、そのときの気分や物理的な状況に応じて変わる。そういうあいまいな評価のまま、なんとか経済活動を回していこうとしています。そのことで失敗もするんだけど、利他的な行為をするとその恩恵を受けた人がSNSで喧伝することで儲かることも多いから、失敗したひとももれなく救われる。だから騙されるけれど、助けてもらえるし、やり直しができるというセーフティーネットもある。

 この方法で経済活動を成立させるには、とにかくいっぱい「バグ」を作らないといけません。評価経済がないということは、SNSで実際になにがウケたのかはわからないということです。そういう状態のまま進めることが、結果としてうまくいく仕組みになっている。ブランド品を着ている相手を見て「こいつは儲かっている」と思うか、「浪費している」と思うかはひとそれぞれです。ただ投稿して、あとはご自由に想像してくださいと言っているだけ。

 取引はうまく進んでいるのかもしれないし、進んでいないのかもしれない。それはわからない。

小川 そういう投稿が増えると、予想外の連続が起きます。意図を明確にしない投稿を投げ捨てっぱなしにしておき、偶然反応した相手にあわせて「そうなんだよ」と言っておけば、バグだらけのカオスになって、たくさんの知りあいができる。変な反応も来るのですが、それはしかたない。いろんなひとと偶然に関わりあったり、切れてしまったりするようなことが、短期的な商売と支援の帳尻を超えて、チャンスを分かちあうことを可能にすると彼らは語ります。

 じつにおもしろいですね。(後篇に続く)

 

2021年11月25日
東京、ゲンロンカフェ
構成・注・撮影=編集部
写真提供=小川さやか

次回は2022年5月配信の『ゲンロンβ73』に掲載予定です。

 

本対談は、2021年11月25日にゲンロンカフェで行われたイベント「生存と不確実性の経済──スケールしないお金の話」を編集・改稿したものです。

 

★1 マルク・R・アンスパック『悪循環と好循環』、杉山光信訳、新評論、2012年。
★2 デヴィッド・グレーバー『負債論』、酒井隆史監訳、以文社、2016年、149頁。

 

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立命館大学先端総合学術研究科・教授。1978年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ研究。国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同助教、立命館大学先端総合学術研究科准教授を経て現職。主な著書に『都市を生きぬくための狡知—タンザニアの零細商人 マチンガの民族誌』(2011年、世界思想社、第33回サントリー学芸賞)、『「その日暮らし」の人類学—もう一つの資本主義経済』(2016年、光文社)、『チョンキンマンションのボスは知っている—アングラ経済の人類学』(2019年、春秋社、第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞)など。

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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ふくとみ・しょう/1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者。株式会社ゲンロン所属。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)がある。

1コメント

  1. “ひとはときに計算しないで行動してしまうというところが大事”というのは、
    ここでの文脈では、商売の為のポジティブな意味で使われていたけれど、
    「悪の愚かさについて」を読んだ後では、二重の印象を受ける。
    「計算しないで」「気分で行動する」ことの善と悪の両面。
    善にはたらくきっかけが「憐れみ」だとしたら、悪にはたらくきっかけはなんというものだろう。

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