革命と住宅(最終回) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(後篇)|本田晃子

初出:2022年4月28日刊行『ゲンロンβ72』
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3.社会主義的住まいを求めて

 ソ連型団地の登場は、建国以来の住宅難の緩和と人びとの生活水準の向上に大きく寄与した。だがその反面、これらの集合住宅からは、革命当初の社会主義住宅の理念は失われていた。家事や育児を家庭の外へ移して公共化・集団化し、「家」という私的空間を最小化ないし抹消する──革命直後から1920年代まで広く共有されたそのような社会主義住宅と新しい生活様式(ブィト быт)の理想は、コストパフォーマンスを何よりも重視するフルシチョーフカの登場の前に、完全に忘れ去られたかに見えた。

 けれども1960年代に入ると、西側と大同小異のソ連型団地を問題視する動きがソ連建築界の中心部に出現する。直接のきっかけとなったのは、1961年の第22回共産党大会だった。同大会では新しい党綱領が採択され、改めてソヴィエト的人間──共産主義への忠誠、集団主義と相互扶助の精神に基づく存在──が定義された。そしてこの新綱領の採択とともに、労働者の余暇の拡充と社会活動への参加の促進、そしてそれらを可能にする「新しい生活様式」の導入が提案された。「新しい生活様式」という言葉は、1930年代初頭にはソ連の公的言説からすっかり姿を消していたのだが、ここにきて再び復活したのである。

 このような党側の発表を受けて、たとえばソ連で最も権威ある建築雑誌『ソ連建築』の主幹コンスタンチン・トラペズニコフは、「共産主義的生活様式のための戦い」★1を主張した。中央研究所代表のボリス・ルバネンコも、「集団的生活様式(公共食堂、保育、文化・福利厚生サービス)の発展は、新しいタイプの住宅、公共サービス施設との複合体としての住宅を生み出す」★2とし、そのような複合的住宅「ドム・コンプレクス дом-комплекс」の必要性を説いた。そこで問題視されたのが、家族単位の住宅の弊害、すなわち住人同士の交流の減少と内向きの姿勢であり、とりわけ女性たちの社会活動に対する消極性だった。当時の調査では、都市に住む女性が家事に費やす1日当たりの時間の平均は、男性の倍近い4時間45分で、そもそも女性たちには社会活動に取り組む余暇などほぼ存在しなかった★3。スターリンがソ連における女性の問題の完全解消を宣言して以来、社会や家庭における女性の待遇についての問題は「存在しないもの」として扱われてきた。だが第22回党大会を経て、風向きは変わった。作家のナターリヤ・バランスカヤが、小説『ありふれた一週間』(1969年)において仕事と家事・育児の「二重の重荷」に引き裂かれる女性労働者の過酷な実情を告発するなど、この時期には女性の置かれた状況を問題視する動きが活発化した。ドム・コムプレクスの狙いもまた、住宅に各種公共施設を併設することで、女性が家事や育児に費やす時間を短縮することに向けられていた。

 一見するとこのような方針は、20年代のドム・コムーナの理念への回帰のように見える。しかし、少なくとも公式の建築言説では、ドム・コムプレクスとドム・コムーナは慎重に差異化された。たとえば建築家のゲオルギー・グラドフは、ドム・コムーナのように住宅部分と公共食堂や保育園などの公共サービス空間のより緊密な連携を重視する一方で、ドム・コムーナを失敗した試みとみなした。彼によれば、それが機能不全に陥った原因は、周囲の都市環境との齟齬、そして家族を否定し、「家」を「寝室」にまで切りつめた点にあった★4。すなわち、集団的生活様式の必要性は強調されながらも、「家」や家族制度を批判し解体する装置としてのドム・コムーナは、否定されたのである。

 この新しい社会主義住宅ドム・コンプレクスをいち早く具現化したのが、ノーヴィエ・チェリョームシュキの開発を指揮した建築家のナタン・オステルマンだった。オステルマンは元構成主義建築家のアンドレイ・ブーロフの下で学び、1953年より特別建築設計局(САКБ) 、ついでモスクワ市標準設計研究所 (МИТЭП)で集合住宅の設計と都市計画に取り組んでいた。その彼が標準設計研究所第3スタジオを率いて臨んだのが、ノーヴィエ・チェリョームシュキ第10地区に計画された、《新しい生活様式の家 Дом нового быта》(1965-1971年)計画【図1】だった。

 

【図1】《新しい生活様式の家》(1965-1971年)
 

 16階建ての2棟の高層棟とそれらをつなぐ低層棟からなるこのプロジェクトでは、その名が示すように「生活様式の刷新」が目指された。全体の想定住民数は2200-2300人程度で★5、単身者向けのワンルーム×428戸、2人向け用の1DK×244戸、3人向けの2DK×442戸からなる住戸が、2本の高層棟の3階以上のフロアに配置された。ワンルームの居住面積は16.9平方メートル、1DKは23.5平方メートル、2DKは34.7平方メートルと、各住戸の面積は比較的コンパクトに抑えられた★6。その代わり家具は最初から据え付けられており、居室は固定壁ではなくパーティションや移動可能な家具によって仕切られ、家族構成の変化に柔軟に対応できる可塑性の高い空間が目指された。また、同居できる上限は4人までとされ、住人が5人以上になる場合は分かれて住むことが推奨された★7

 この《新しい生活様式の家》の最大の特徴は、ドム・コムーナが目指したような、家事や育児の公共化である。オステルマンらは想定される住人数や家族構成から必要とされる食事の量を計算し、すべての住人にとって最もアクセスしやすい中央の低層棟の1階部分【図2】に、1日に14000食を提供できる共同食堂(250席)を配置し、さらに高層棟の各階にもカフェなどを設置する計画を立てていた★8。加えてまだ珍しかった電気洗濯機や掃除機なども各階の家事室に配置され、住人が自由に使用できることになっていた★9

 

【図2】1階部分のフロア・プラン(中心部分が低層棟の食堂)
 

《新しい生活様式の家》では、400-450人の子どもの居住が想定されていた。これらの子どもたちは、日中はノーヴィエ・チェリョームシュキの第10地区の幼稚園や学校に通うが、未就学児や放課後の小学生は同じく中央棟の1階部分にある「児童センター」で過ごすことになっていた★10。中央棟には他にも11歳-成人向けの余暇過活動(音楽、演劇、模型製作、ラジオ、文学等々)のための各種クラブ室、図書室、ビリヤード室、映画を上映できる視聴覚ホールや屋内スポーツ競技場が配置される予定だった。人びとの労働時間だけでなく余暇の時間も管理・組織化しようとする試みは1920年代にも顕著だったが、ここにきて復活する。その狙いは、「そこで暮らす人びとの生活様式の集団化、自治組織の形成、共産主義精神を涵養する活動によって、集団の影響から個々の家族が孤立する可能性を排除する」★11ことにあった。20年代と同じく、家庭の閉鎖性を打破することが念頭に置かれていたのである。

 住空間とこれら家事・育児を代替する公共施設の組織化は、「時間予算 бюджет времени」と呼ばれる概念に基づいて行われた。オステルマンらは実際に団地型集合住宅に住んでいる住人の1日の行動パターン、とりわけ家事や育児に費やす時間を計量し、数値化した。そして食堂やカフェなどの設置、掃除機や洗濯機などの家電の導入、保育所や学童などの施設に対するアクセスの簡便化により、それがどの程度低減できるかを、膨大なケーススタディによって試算した。それによれば、この《新しい生活様式の家》に住んだ場合、1日当たりの家庭内労働にかかる時間を、2.74時間から最大4.88時間程度短縮できることになっていた★12

 オステルマンは建築の果たすべき社会的役割について日頃より活発に発言し、それまで封印されていた20年代のアヴァンギャルドの建築・都市理論を率先して学んでいた。彼は住環境全体の組織化を目指したアヴァンギャルドの理念を継承する一方で、しかしさらに歩を進め、さまざまな統計・調査データを設計に利用し、20年代の前衛建築家たちが直感的に処理していた問題に対してより科学的なアプローチを試みた。ただしオステルマンらの《新しい生活様式の家》は、核家族を主たる住人として想定するという点で、アヴァンギャルド建築家たちのドム・コムーナとは異なる前提に立っていた。建築家のヴィクトル・ブィコフは、とりわけ子どもの養育には、家庭と社会の相互補完的な働きが不可欠であるとした。そして多くの公共施設を包含したドム・コムプレクスこそが、個々の家庭を維持・強化しながらも、「大きな家族」=共産主義に基づく集団を作り出すことができると主張した★13。一見するとドム・コムプレクス構想はドム・コムーナへの回帰のように映るが、それは「家」や家族の解体を目指すのではなく、むしろそれらを社会の基礎として強化する点で、実は正反対の立場にあったのである。

 しかしいずれにせよ、オステルマンらの社会主義住宅と新しい生活様式の実験が、完全な形で日の目を見ることはなかった。彼らは《新しい生活様式の家》を一般労働者向けのパーマネントな住宅として設計したが、紆余曲折を経て、その用途はモスクワ大学の大学院生・研究生向けの寮へと変更され、併設予定だった数々の公共施設も建設の過程で省略された。結果的に、それはあくまで単身者や若いカップルが「一時的に」住まうための集合住宅に終始した。「新しい生活様式」を示す普遍的なモデルには、なりえなかったのである。そしてオステルマン自身も、《新しい生活様式の家》の竣工を見る前に、この世を去った。

4.最後の実験

 しかし、オステルマンの死と同プロジェクトの不完全な実現とともに新たな社会主義住宅をめぐる実験が下火になったわけではなかった。同様の試みは、むしろさらにスケールを拡大し、都市のレベルで展開された。その中心にいたのが、フルシチョフ・ブレジネフ両時代にわたって活躍した建築家、ミハイル・ポソーヒンである。ポソーヒンは「スターリンの七姉妹」の一員であるクドリンスカヤ広場のアパートメントの設計を手掛けてスターリン賞を受賞するなど、スターリン時代から頭角を現していたが、他方でいち早く大型パネル工法や架構式パネル工法などを用いた実験住宅の建設に着手し、スターリンの死後はフルシチョフに厚遇された。そして1960年にはモスクワ市の首席建築家となり、カリーニン大通り(現・新アルバート通り)の開発をはじめとする首都改造やモスクワの衛星都市の建設を指揮した。そのポソーヒンが、新しい社会主義住宅、ひいては新しい社会主義都市のモデルケースに位置づけたのが、北チェルタノヴォ開発計画(1975-1982年)【図3】だった。

 

【図3】北チェルタノヴォ開発計画模型写真
 

 北チェルタノヴォとはノーヴィエ・チェリョームシュキの北に位置する一帯で、モスクワを全共産圏のモデル都市とするという第24回党大会のブレジネフ発言を受けて、重点的な開発の対象に選ばれた。その背景には1980年に開催予定であったモスクワ五輪の影響もあった。ソ連首脳部は、西側メディアが大量に流入するオリンピックに合わせて、北チェルタノヴォをソ連の先進的なベッドタウンとして世界にアピールしたいと考えたのである。

 北チェルタノヴォ計画では合計48ヘクタールの土地が開発対象となり、想定人口20万人(約7000戸)の集合住宅群を核に、交通網、教育施設、商業施設、各種サービス施設を最大限効率的に組織することが目指された。計画にあたってはポソーヒンを筆頭に専門部局が設けられ、300人以上の建築家やエンジニアが動員された★14。こうして北チェルタノヴォでは、ドム・コムプレクスの理念を小地区(микрорайон)の規模に拡大する実験が開始された。

 まず、敷地全体は南東部(図3の右上部分)と北西部に分割され、南東部はショッピング・センターや交通網の拠点に、北西部は住宅地にゾーニングされた。住宅は9-30階建ての高層集合住宅が中心となり、大部分が架構式パネル工法によって建設された。間取りには1DKから5DKまで40のバリエーション【図4】があり、上下に分かれたメゾネット・タイプの住戸も存在した。居住面積も、既存の集合住宅より25パーセント程度拡張された★15

 

【図4】間取りのバリエーションの一部
 

 地下鉄駅やバス停など公共交通機関の集まる南東部には、大規模なスーパーマーケットやショッピング・センター、ホームセンター、薬局などが配置され、住まいと駅の間を移動する途中で、あらゆる生活必需品が購入できるよう計算されていた。のみならず、各居住棟の1階部分にもスーパーマーケットの支店やカフェテリア、クリーニング店などのテナントが入り、望めば居住棟から出ることなく生活できるようになっていた。さらに居住棟のエントランスにはコンシェルジュのような窓口が設けられ、各種商品の注文・受取りから劇場や鉄道のチケットの予約まで、幅広いサービスを受けることが可能になる予定だった★16

 教育や保育に関する施設も充実しており、保育園・幼稚園は居住棟に直接接続されることになっていた。小学校は住宅街から最大で600メートルほど離れた南西部に配置された★17。また、交通の合理化や排気ガス問題の抑制だけでなく、子どもたちの安全面への配慮からも、住宅街では車道と歩道の分離が徹底された。歩行者は地上の歩道を、自動車はその下に作られた地下トンネルを通行し、各集合住宅の地下にある駐車場に駐車された★18

 北チェルタノヴォ計画は、ソ連住宅の優越性をソ連国内のみならず国際的にも広く喧伝するために着手されたはずだった。しかしその完成は(ロシアあるあるだが)当初の予定よりも遅れ、オリンピックの開催には間に合わなかった(もっとも、当のモスクワ五輪自体が、ソ連のアフガニスタン侵攻によって、アメリカはじめ多くの西側の国からボイコットされたわけだが)。数々のサービス施設も建設の過程で省略された。さらに言えば、北チェルタノヴォ計画それ自体も、当初目されていたような社会主義都市や「新しい生活様式」のモデルケースにはなれなかった。竣工とともにその集合住宅の大部分は一部のエリート層に独占され、同様の水準の計画都市がソ連の他の地域に出現することはなかった。それはあくまで、エリート向けのラグジュアリーなベッドタウンに終始したのである。そしてこの北チェルタノヴォ計画の終焉とともに、新しい社会主義建築と生活様式を希求する試みも、徐々に退潮していった。この後も大都市周辺には無数の団地や小地区が建設されたが、住環境の再編成によって社会を変革しようという意識は、それらからは失われていた。社会主義住宅をめぐる実験は、こうして静かに終わりを迎えたのである。

おわりに

 社会主義的住宅によって、「家」を、さらにはその住民たる家族を解体する。

 産業化と都市化が急速に進展した20世紀前半、労働者住宅の建設はロシアにおいても深刻かつ喫緊の課題だった。社会主義はこの課題に、住宅の私的所有の廃止と、家庭の私的機能の公共化によって応えようとした。そして、不透明な私的空間としての「家」を解体し、家庭という中間項なしに個人がそのまま集団に属する、どこまでも透明で可視化された共同体を夢想した。けれども、十月革命を経てソ連の前衛建築家たちが社会主義住宅の実現に着手しようとしたまさにその時に、状況は根底から覆されることになった。スターリンは強権的な統制によってのみならず、指導者を象徴的な家父長とみなす家族国家観を利用することで、ソ連という「大きな家」の絶対的な父の座に就いたのである。

 一方で「小さな家」──現実のソ連の住宅と家族は、エンゲルスやチェルヌィシェフスキーらの想定とは全く異なる形で、解体の危機に瀕していた。革命とそれに続く内戦、スターリンの大粛清や世界大戦は、膨大な数の住宅を破壊し、家族をバラバラに分断した。加速する住宅難によって夫婦や親子が別居を強いられる一方で、超過密状態のコムナルカやバラックでは、赤の他人との同居も珍しくなかった。ザミャーチンのディストピア小説『われら』が描いたような透明なガラスの集合住宅が建設されることはなかったが、口論からセックスまですべてが筒抜けになる空間は、スターリン時代のコムナルカやバラックで実現された。アヴァンギャルドのユートピアあるいはディストピアは、皮肉にも彼らを抑圧したスターリン政権下において、現実のものとなったのである。

 第二次世界大戦後には、日本や他の西側諸国と同様、ソ連でも異性愛と生殖によってのみ結びつく核家族へと、家族の規模は縮小していった。その主たる要因となったのは、イデオロギーよりも第一次産業から第二次、第三次産業への転換という産業構造の変化だった。そしてスターリンからフルシチョフへとソ連の指導者が変わると、このミニマムな家族はソ連型団地と結びつけられた。最小限の構成員からなる家族とそれを収容する最小限の住宅が、人びとのスタンダードとなったのである。これによって、住宅は家族の私的生活と労働力の再生産に特化された、極めて排他的な空間へと変容した。そして住人たちは、この閉ざされたマイ・ホームで、彼らの住まいと同じく大量生産された商品に囲まれ、資本主義国と比べればささやかなものだったが、消費生活を謳歌した。

 けれども逆説的に、フルシチョフによるソ連体制と住宅政策の転換は、再び社会主義的住宅のアイデンティティをめぐる議論を引き起こすことになった。ただしそれへのソ連建築家たちの回答には、20年代のドム・コムーナの実験や都市派・非都市派の論争の際のようなラディカルさはなかった。家族単位の住宅の出現が家事労働を女性化し、女性の家への隷属を強めたことは意識されていたが、ドム・コムプレクス構想はあくまで彼女らの負担の軽減という対症療法に終始した(ちなみに同時期には、家事分担を夫の義務とする法律が提案されたが、実現されなかった。家事労働の非ジェンダー化は否定されたのである)。また住宅が密室化したことは、人びとに外部から干渉されない私生活を保障したが、反面、法の介入の困難な家族間の暴力、いわゆるDVの増加を招きもした。だがいずれにせよ、既に国家の基礎として神聖化されていた家族や男女のジェンダー・ロールを批判することは、およそ困難だった。結果として、1920年代とは異なり、住宅と結びつけられた性や性差の問題が深く追及されることはなかった。「ソ連にセックスは存在しない」★19という有名なフレーズや性教育への抑圧、フェミニズムの非合法化などからもわかるように、性をめぐる問題は、いわばソ連体制の急所だったのである。

 こうして社会主義住宅は、当初の理念とは全く異なる地点に着地した。フルシチョフ・ブレジネフ時代を通して、それは家族制度を解体する住宅ではなく、逆にそれを極端まで純化し強化する、自閉的な空間となった。だがこの社会に対する閉鎖性は、他方では相対的な自由をもたらしもした。それはコムナルカやバラックとは異なり、監視からの死角を作り出したのである。わけてもフルシチョーフカやブレジネフカの独立したダイニングキッチンでは、友人同士が家族のように胸襟を開いて語り合う、「キッチン文化」が形成された★20。逆説的にも、団地のダイニングキッチンはまさにその閉鎖性ゆえに、後期ソ連社の典型的な社交の場となったのである。お世辞にも広いとは言えないそこには、しばしば気心の知れた人びとが集まり、自由な会話や論争を繰り広げた。アンダーグラウンドで活動する非公式アーティストたちは、そこで公に発表することのできない詩を朗読し、作品を展示した★21。キッチンに集まった人びとの大多数は、反ソ的だったわけでもなければ、政治的だったわけでもない。だがそこで交わされる「本音」の会話は、公的空間における言説を「建前」として形骸化させていった。このようなキッチンは、アレクセイ・ユルチャクが後期ソ連社会の特徴として示す、体制の内部にあってその一部として機能しながらも、体制の中心からは見えない外在的空間(「ヴニェ вне」空間)だったといえるだろう★22。ユルチャクはこのようなささやかな内なる外在的空間の累積こそが、しかしソ連体制の崩壊という巨大な地滑りを引き起こしたのだと考える。

 ソ連型団地は、当時の西側諸国では典型的な社会主義ないしソ連のイメージとして流通した。けれどもこれまで見てきたように、実のところそれは、ソ連体制にとっては諸刃の剣だった。団地の家族単位の住宅は、第一にエンゲルスやチェルヌィシェフスキーらの社会主義住宅の理念を裏切り、ソ連の住空間を脱社会主義化した。さらにその閉鎖性は、監視や検閲によってコントロールされない非公式の言説空間を切り開いた。この内なる外部としての空間は、公的言説の権威や信憑性を相対化し、自らを生み出した体制を内側から静かに、しかし確実に掘り崩していったのである。

 さて、最後にもう一度、北チェルタノヴォに戻ってみよう。老朽化の進んだ現在の北チェルタノヴォには、もはやかつてのエリート向けベッドタウンの面影はない。だがそのユニークな景観ゆえに、同地はしばしば映画の撮影に利用されている。例えばバクール・バクラーゼ監督の『シュリテス Шультес』(2008年)では、人造湖に立ちこめた白い靄の向こうに、北チェルタノヴォの巨大な集合住宅群のシルエットが浮かび上がる。他のソ連団地とも異質なその姿は、未来の都市のようであり、都市の廃墟のようでもある。あるいは、SF映画のワンシーンめいて見えるかもしれない。実際、2017年に公開されたフョードル・ボンダルチュク監督の『引力 Притяжение』では、北チェルタノヴォの住宅地に突如巨大な宇宙船が落下し、その衝撃で多くの建物が破壊され、同地は文字通りの廃墟と化す。このように北チェルタノヴォでは、いまだ実現されざる未来の都市と、既に喪われてしまった廃墟のイメージが交錯する。その姿は、あるいはソ連住宅史のアレゴリーのようにも見えるだろう。そこには、実現される前に廃墟となってしまった革命住宅の理想の皮肉な運命が、映し出されているのである。

 

本田晃子さんの「革命と住宅」は今号で完結となります。ご愛読をいただき、ありがとうございました。連載をまとめた単行本は弊社より刊行予定です。(編集部)

 
図版出典
【図1】 Архитектура СССР. 1965. №7.
【図2】 Архитектура СССР. 1965. №7.
【図3】 Строительство и архитектура Москвы. 1972. №9.
【図4】 Строительство и архитектура Москвы. 1972. №9.

★1 Трапезников К. Социально-экономические предпосылки планировки и застройки жилых районов // Архитектура СССР. 1964. №11. С. 20.
★2 Рубаненко Б. Основные направления индустриального строительства жилых домов и массовых общественных зданий // Архитектура СССР. 1963. №8. С. 7.
★3 Быков В. Социальное значение домов-комплексов в становлении коммунистических форм быта // Архитектура СССР. 1965. №7. С. 9.
★4 Градов Г. Этапы развития системы коллективного расселения в городах // Архитектура СССР. 1961. №6. С. 36-37.
★5 Остерман Н., Петрушкова А. Жилой дом-комплекс с общественным обслуживанием // Архитектура СССР. 1965. №7. С. 14.
★6 Там же. С. 32.
★7 Там же. С. 34.
★8 Там же. С. 15-16.
★9 Там же. С. 23.
★10 Там же. С. 18.
★11 Там же. С. 21.
★12 Там же. С. 30.
★13 Быков, Социальное значение домов-комплексов в становлении коммунистических форм быта. С. 9.
★14 Дюбек Л. Москва, Северное Чертаново // Строительство и архитектура Москвы. 1972. №9. С. 2-8., Мойзер Ф. Жилищное строительство в СССР 1955-1985. Архитектура хрущевского и брежневского времени. Берлин, 2021. С. 220-224.
★15 Дюбек Л. Северное Чертаново строится // Строительство и архитектура Москвы. 1975. №6. С. 5-6, Дихтер Я. Чертаново Северное: Начинается пусковой период. Новое качество крупноэлементного жилища // Строительство и архитектура Москвы. 1979. №2. С. 27-30.
★16 Кастель И., Красильникова К. Для жителей Северного Чертанова // Строительство и архитектура Москвы. 1973. №3. С. 21-22.
★17 Дюбек, Москва, Северное Чертаново. С. 8.
★18 Мойзер, Жилищое строительство в СССР 1955-1985. С. 225.
★19 1980年代後半に放映された、米ソの市民が衛星中継を通じてそれぞれの生活や文化を語り合う番組の中で出た発言。アメリカ人女性がアメリカのCMはセックスまみれだが、ソ連ではどうかと質問したのに対して、一人のソ連女性がこのように答え、話題となった。
★20 この「キッチン文化」の先鞭をつけたのは、皮肉にもフルシチョフその人だったといえるかもしれない。1959年の夏、彼はモスクワで開催されたアメリカ展で、訪ソした米副大統領リチャード・ニクソンと、アメリカの住宅を模したモデルハウス内のキッチンで非公式の論争を行っている。この全くの即興の会談では、米ソ両国の生活の優劣が論じられた。
★21 スーザン・バック・モース『夢の世界とカタストロフィ──東西における大衆ユートピアの消滅』堀江則雄訳、2008年、岩波書店、251頁。
★22 アレクセイ・ユルチャク『最後のソ連世代──ブレジネフからペレストロイカまで』半谷史郎訳、みすず書房、2017年、153-155、180-181頁。 
+ その他の記事

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学文学部准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会)。

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