つながりロシア(19) ロシアと、ロシア最大の少数民族タタール──結束と分断の狭間で|櫻間瑞希

初出:2022年4月28日刊行『ゲンロンβ72』

「私たちは団結力を示し、国の指導者の決定を支持するべきだ」──2022年2月24日、ミンニハノフ・タタールスタン共和国大統領★1は共和国農業食糧省の会合でこのように述べた。プーチン・ロシア大統領によってウクライナに対する「特別軍事作戦」の実施に関する発表がなされてから、わずか数時間後のことだった。ロシア国内の他の共和国の首長たちの反応はさまざまだった。ミンニハノフ氏は「特別軍事作戦」への賛意を即座に表明した地域のトップのひとりとなった。この数日前には、ウクライナ東部やクリミア半島からの避難民の受け入れもいち早く表明していた。

 他の共和国の首長たちの反応はといえば、たとえばニコラエフ・サハ共和国首長も、決定を支持する発言をしたのが2月26日と比較的早かった。他方、タタールスタン共和国の隣に位置するバシコルトスタン共和国のハビロフ首長は長らく沈黙を貫いた。妻のカリネ氏は自身のSNSアカウントに明確な批判と反戦のメッセージを投稿していた。ハビロフ氏はその後、3月4日に特別軍事作戦という名のもとでのウクライナ侵攻を支持する人々のシンボルとなっている「Z」の文字を掲げ、形式的にプーチン氏への連帯を示した。しかし4月1日現在に至るまで明確な支持のことばは発していない。

 ミンニハノフ氏の反応は、現在のタタールスタン共和国のロシア連邦のなかでの立ち位置をよく表しているともいえる。2014年のクリミア併合の際には、クリミア・タタール人の強い反発に共鳴するように、タタールスタン共和国でも独立の機運が高まるのではないかという見方があった。しかし、ミンニハノフ氏はいち早くクリミアへの支援を表明し、ロシアへの併合を後押しする姿勢をとった。なお、民族名称から混同されることが多いが、クリミア・タタール人はタタール人とは異なる民族である。この民族名称は帝政期にテュルク系ムスリム諸民族がタタールと総称されたことの名残で、近年では「クリミア人」「クリム人」(qırımlar)といった「タタール」を用いない名称も見られるようになった。

 話題をミンニハノフ氏とタタールスタン共和国に戻そう。今回のような言動からミンニハノフ氏はモスクワに従順で逆らわないという評価がある一方で、タタールスタン共和国という民族共和国の存在感と価値をロシア連邦のなかで示し、したたかに権限を確保しようとしているという見方もある。同様にムスリムが人口の多数派を占める共和国でも、長きにわたり独立をめぐる火種が燻るチェチェン共和国やダゲスタン共和国と、タタールスタン共和国との最大の違いには、外国と国境を接していないことが挙げられる。非現実的な独立を目指すのではなく、ロシア連邦という国家のなかにとどまりながら計算高くその存在感を示し、駆け引きを通じて実利を取るスタンスをとり続けてきたともいえるだろう。

 ここでは、ロシアのなかの民族共和国タタールスタンについて、ロシアと各地のタタール人にとっての位置付けに注目しながらご紹介したい。
 

【図1】首都カザンの中心カザン・クレムリンの敷地内に鎮座するクル゠シャリフ・モスク

ロシアのなかの民族共和国タタールスタン:多文化・多宗教の共存空間

 タタールスタン共和国は、ロシア連邦を構成する83の連邦構成主体★2のひとつである。ロシアという国は連邦国家で、ロシアを構成するそれぞれの行政区(連邦構成主体)は「地域」と「民族」のふたつの概念から成り立つ。地域からなる連邦構成主体には、たとえばモスクワ市などの連邦市やサハリン州などの州がある。そして、民族からなる連邦構成主体には、本稿が注目するタタールスタン共和国のほかにも、たとえば極東のユダヤ自治州、ネネツ自治管区などが挙げられる。

 この枠組みに当てはめると、タタールスタン共和国はタタール人の民族共和国といえるだろう。タタール人はテュルク系の一民族で、その多くはスンナ派ムスリムである。多くの民族が住まうロシアにおいて、タタール人は民族的ロシア人に次ぐ人口を占めており、つまるところロシアで最大の少数民族でもある。ロシア国内には約530万人のタタール人がおり、その半数に近い約200万人はタタールスタン共和国に暮らしている。タタール人が各地に散らばっていることから、タタールスタン共和国は各地のタタール人の中心地としての位置付けを強めようともしてきた。他方で、共和国内にはさまざまな信仰をもつ諸民族が暮らし、タタール人は人口のうち約半数を占める程度であることから、いたるところで多様性と寛容性も強調されている。
 

【図2】ロシア連邦におけるタタールスタン共和国の位置
 
【図3】タタールスタン共和国とその周辺の地図
 

「共和国」とはいっても、一般的にイメージされるような独立した国ではないことにも触れておきたい。多民族国家であるロシアには、民族的ロシア人ではない少数民族にも権利を認めるという建前があり、民族共和国という枠組みは建前上の民族自治を確保しようとする取り組みの一環ともいえる。ゆえに、「共和国」は独自の憲法を制定し、ロシア語とならんで民族語を国家語とする権利、独自の政府を持つ権利などを有している。ただし、あくまでロシア連邦のなかの一行政区であることから、連邦政府に背くような行動、たとえば独立運動を起こすといった連邦法に矛盾する行動は許されていない。今回の戦争でも、ミンニハノフ氏をはじめ、各共和国の首長たちが次々と政府の方針に従ったのは、実際的には強力な中央集権体制のロシアのなかで生き残るための術でもある。

 筆者のタタール人の友人たちを見ても、ロシアという国のなかでマイノリティとして生きるうえで、どう振る舞えば損をしないかと常々考える人は少なくない。そして、かれらの多くは、タタールスタン共和国は地政学的・経済的な視点からロシアのなかの共和国でいるほうが得であると考えている。1990年代は独立派のタタール人の声は小さくなかったが、その後の経済的な発展を背景に今ではずいぶんと少数派となった。独立の声が上がっていたのは、かつてはソヴィエト国民だった人々が、偉大な祖国を失くした時代のことだった。今のロシアに住まうタタール人の多くは、タタール人やムスリムという自己認識だけでなく、プーチンの「偉大なロシア」の名のもとでロシア国民としての意識を強く持っている。

 タタールスタン共和国が現在の体制に落ち着いたのは、1994年のことである。もっとも、前身のタタール自治共和国が主権宣言を行い、タタールスタン共和国となったのは1992年だった。80年代末にペレストロイカが進められると、ソ連を構成した共和国が次々と独立を果たしていったのに対し、タタールスタンの前身は当時ソ連のロシア共和国内の自治共和国だったため、独立ではなく主権を宣言することで権限の拡大を目指す方針をとった。ロシア連邦とのあいだで権限分割条約締結に向けた交渉がまとまったのが1994年で、このときタタールスタン共和国は外国政府との関係構築の権利などを手に入れている。現在、ロシア国内外にタタールスタン共和国の代表部(大使館のような機関)が設置されているのには、このような背景がある。

 タタールスタン共和国の人口の民族比率は2010年の時点でタタール人52.9%、民族的ロシア人39.5%、チュヴァシ人3.4%、ウドムルト人0.6%と続く。タタール人の多くがムスリムで、民族的ロシア人やチュヴァシ人、ウドムルト人の多くは正教徒であることが示すように、タタールスタン共和国は単に多民族であるだけでなく、多宗教地域でもある。そして近年では、ロシアのなかでもさまざまな民族や宗教が比較的平穏に共存する地域として注目を集め、とくに首都カザンは国内観光ブームも追い風となってか多くのロシア国民が訪れる街となった。その象徴となっているのが、カザンの中心カザン・クレムリンの敷地内に並びたつ、クル゠シャリフ・モスクと生神女福音大聖堂である。

 無神論が標榜されたソ連期には多くの宗教施設が政権に接収されたものの、1990年代以降は全露的に復興が進み、タタールスタン共和国では2000年代以降は新たな宗教施設の設置も顕著に見られるようになった。現在にいたるまで、共和国政府は信仰の垣根を超えてさまざまな宗教施設の修復や新設を支援しており、多文化・多宗教の共存空間の実現と維持に積極的な姿勢を共和国内外にアピールしている。
 

【図4】左から生神女福音大聖堂の玉ねぎ屋根、クル゠シャリフ・モスクのミナレット、そして各地のタタール人の象徴にもなっているスュンビケ塔。大聖堂とモスクはいずれも2005年に修復・再建された。スュンビケ塔は、イヴァン雷帝にカザンを占領されたときにこの塔から身を投げたカザン・ハン国最後の王妃スュンビケの伝説にちなむ。誇り高い王女の伝説は、国境を超えて各地のタタール人に愛されている
 

 このような穏健な多宗教共存と、そのイメージ戦略も手伝ってか、タタール人の表現者たちはロシアの理想的な諸民族友好のイメージを表に打ち出す際に重宝されるきらいもある。たとえばモスクワであれサンクト゠ペテルブルクであれ、ロシア国内で開催される国際大会や国際フェスティバルといった、とくに外国人の参加が見込まれる場には、タタール人の民族アンサンブルがしばしば招かれる。民族的ロシア人のそれとは一味違ったタタール人の煌びやかな衣装と、独特のこぶし回しやガルムン(ボタンアコーディオン)の音色★3はロシアの多様性を示すのにうってつけ、というわけである。タタール人の多くもまた、このような立ち位置にあることを好意的に受け入れ、自分たちが民族的ロシア人とは異なる固有の民族であり、穏健なムスリムであることを強調する。
 

【図5】民族衣装を着て歌う人々。好まれる着こなしは地方や年代によって微妙に異なる
 
【図6】タタール音楽にガルムンは欠かせない

タタール人にとってのトゥガン・テル、タタール語

 タタール人の歌はロシア語ではなく、タタール語という言語で歌われる。タタール語はテュルク諸語に分類される言語で、掻い摘んで言えばトルコ語やウズベク語、カザフ語などの仲間である。現代タタール語はロシア語と同じくキリル文字で綴られるが、ロシア語のキリル文字にはない六つの文字(Ә, Җ, Ң, Ө, Ү, Һ)を加えた39字で表記されるので、ロシア語を学んだ経験があればすぐに見分けがつくだろう。

 そのタタール語を取り巻く環境はといえば、厳しい。2016年6月、筆者がカザンに滞在していることをSNSに投稿したところ、目ざとくそれを見つけたタタールスタン国営放送の番組制作担当者が撮影への参加を持ちかけてきた。タタール語を話す外国人は非常に珍しいため、SNSにタタール語で文章を書くだけでも取材依頼が来るのは嘘のような本当の話である。なお、打診のメッセージはかろうじてタタール語で書かれていたが、所々ロシア語が文章単位で混じるものであった。それはさておき、肝心な依頼の内容は、カザンで最も大きな目抜き通りの商店街でタタール語だけを使って買い物ができるかどうか実験してみないか、というものであった★4。結局カメラクルーと共に8店舗を訪れ、そのうち5店舗では何らかの反応がタタール語で返ってきたものの、3店舗では一貫してロシア語での対応だった。もっともこれは筆者の体感としては、思わず番組の仕込みを疑ってしまうほどよくタタール語が通用した経験だった。おそらく、市内のほかの場所であればタタール語が通じる確率はさらに低いだろう。

 ロシア語とならんでタタールスタン共和国の「国家語」に位置付けられるタタール語だが、タタールスタンの人口のうち約4割を占める民族的ロシア人のほとんどはタタール語を知らず、タタール人であっても全員が知っているとは限らないのが現状である。民族共和国とはいえロシア連邦の一部であるので、政治、経済、教育などあらゆる分野で優位な言語はロシア語だ。残念ながら、タタール語は一部のタタール語を知るタタール人にしか通じない。

 この言語状況の背景には、ソ連期に多くのタタール人がロシア語を習得したことがある。ソ連期には民族自決の理念が謳われ、タタール語教育の場もあった。しかし、社会的上昇を目指すにはロシア語が必要だった。親は子にロシア語教育を受けさせたがり、結果的にロシア語を得意とし、タタール語を知らないタタール人は増えていった。たとえば、近年のロシアを代表する俳優のチュルパン・ハマートワ氏や、作家のグゼリ・ヤーヒナ氏はいずれもカザン出身のタタール人だが、両氏ともにタタール語よりもロシア語をはるかに得意としている。

 

【図7】カザンの街中で見られるタタール語看板たち。タタール語単独のものは少なく、ほとんどはロシア語や英語と共に併記される
 

 とはいえ、たとえば首都カザンの街中を歩いてみると、ロシア語の案内表示や看板などのなかにタタール語が併記されているのを頻繁に目にすることになる。公共交通機関のアナウンスも、ロシア語、タタール語、英語の順で流れ、道ゆく人々の話し声に耳を傾けるとロシア語での会話が突然タタール語に切り替わることも珍しくない。近年のタタールスタン共和国ではタタール語の振興を目指した取り組みが官民を問わずさまざまなレベルで展開されている。こうした支援の影響によるものと短絡的に断定することはできないが、若い世代のなかには積極的にタタール語を話そうとする人たちも、少しずつではあるが増えてきているように感じられる。

 なかにはタタール語でヒップホップやラップを歌い、タタール語を「イケている若者」のものにしようと奮闘する若いアーティストもいる★5。そして、今日かれらの仕事にSNSは欠かせない。以前はタタール語を話すタタール人だけが聞いていたタタール音楽も、近年では拡散力のあるSNSを用いることで、多くの人に届くようになりつつある。今や、タタール音楽は言語的に共通点の多いテュルク諸語の話者たちにとって身近なものとなり、さらに優れたものは言語の枠すら容易く飛び越えて、文字通り世界中で視聴されるようになった。この勢いが続けば、タタール音楽をきっかけにタタール語に関心を持つ人も増えるのではないか、と筆者はつい夢見てしまう。
 

【図8】カザンではタタール語が書かれたストリートアートも増えつつある。「木は実をなし、人は仕事をなす」
 

 なお、タタール語の振興プログラムの一環として、タタールスタン共和国教育科学省はオンラインのタタール語学習ポータルサイト「Ана теле★6」(Ana tele、 “母語” の意)を開設している。タタール人に限らず、誰でも無料でタタール語を学習することができるので、興味が湧いた方は挑戦してみてはいかがだろう。

 タタール語振興が盛り上がる一方で、たとえば街中に溢れるタタール語の誤表記追放を目指して設置者を責め立てるようなキャンペーンや、タタール語誤表記や未表記を放置する機関や企業に「アンチ・タタール賞」を授与するといったやや過激ととれる行為もある。筆者が何度も経験したように、国営放送がタタール語を話す外国人を捕捉しては、「外国人もタタール語を話すのだから」とでもいわんばかりのタタール語学習の広告塔として利用するような報道も珍しくはない。しかし、こうしたあり方はタタール語を話さないタタール人や、親しみを持っていてもさまざまな理由から学ぶ機会がなかったタタール人にとっては居心地の悪いものに感じられ、却ってタタール語に対する反発を生むきっかけになるのではないか、とも思えてならない。

 タタール人とタタール語の関係について、個人的に興味深いと感じていることがある。暮らす場所を問わず、タタール語を話すタタール人はもちろんだが、タタール語を話さないタタール人に「あなたの母語(родной язык)は?」とロシア語で訊ねても、多くが「タタール語」と答えることである。たとえタタール語を話さないとしても、タタール語はタタール人にとっての「トゥガン・テル」であり、タタール人らしさの象徴のひとつと捉えられることが多い。

「トゥガン・テル」とは何か。トゥガン(туган)は日本語への翻訳が難しい語だが、あえて訳を与えるのであれば「生来の、一族の、生まれ故郷の」と訳しうる。テル(тел)は「言語、舌」を意味する。つまり、トゥガン・テル(туган тел)という語は、そのニュアンスを考えれば英語の native language に近いものと考えることができ、辞書的には「母語」とするのがよいのだろう。ただし、既にご紹介したタタール語学習ポータルサイトの名に冠されているように、タタール語には「母語」「母の言語」と直訳することができるアナ・テレ(ана теле)という語もある。両者に概念的な大きな差異はないというが、タタール語にどっぷり浸かった身としては、その語感には違いがあるように感じられ、トゥガン・テルにどんな訳を与えるか、あるいは与えないかは、今のところ筆者の積年の課題となっている。

 そもそもロシア語世界における「母語」(родной язык)の概念には、複数の解釈の可能性があり、単純に第一言語というわけではなく、不確定性をはらんだものであることが指摘されている。ロシア語世界の影響を強く受けるタタール語世界においても、トゥガン・テルは不確定性をはらんだ概念であり、タタール語を「トゥガン・テル」としながら、ロシア語もまた「母語」と捉えるタタール人は少なくない。

 たとえば、フィギュアスケートのカミーラ・ワリエワ選手はタタールスタン共和国出身のタタール人、そしてアリーナ・ザギトワ選手はお隣ウドムルト共和国出身のタタール人である。ザギトワ選手は同居する祖母とはタタール語で話すという。実際に、彼女がメディアに露出するようになった初期のころは、そのロシア語には少しばかりタタール語話者特有のアクセントが感じられるほどだった。元新体操選手のアリーナ・カバエワ氏は現在のウズベキスタン出身のタタール人、そしてバレエ好きにはよく知られるソ連の名ダンサー、ルドルフ・ヌレエフ(故人)もまた、タタール人である。かれらのトゥガン・テルを学ぶことは、タタール人表現者たちの精神性や哲学をより深く理解する助けにもなるかもしれない。

 ロシア語には「ロシア人、一皮剥けばタタール人★7」というよく知られたことわざがある。タタール人はロシアおよびその周辺国の社会や文化、言語とも密接に関わってきたのだ。もっとも、このことわざでいう「タタール人★8」はかつてユーラシアの広い範囲を支配した人々のことを指し、必ずしも現在のタタール人を指すわけではない。とりわけ西欧では、かつてこの土地を支配した野蛮な「タタール人」の血がロシアの人々に流れていると考え、それをロシア嫌いの根拠とする人もいる。ロシアのなかにも自虐的に自分たちをこのように見る人がいる。一方で、このことわざはロシアの多様性や寛容さを表していると解釈する人もいる。実際に、信仰や民族を超えた婚姻は珍しくなく、自分を民族的ロシア人だと考える人のなかにも、タタール人の祖父母や曽祖父母を持つ人は珍しくない。

 ことわざの解釈はともあれ、長い歴史のかかわりのなかで、今日のタタール人の祖先にあたる人々が、ロシア人やその社会と深く関わり合い、さまざまな影響を与えてきたのは確かなことである。そして、それはロシア語の日常的な語彙の語源を辿るだけでも感じられるだろう。たとえばロシア語における経済や軍事、装飾品などの語彙の多くは、今日のタタール人の祖先たちがもたらしたものと考えられている。ロシア語を知る人は時にタタール語のなかに見知った語彙を見つけることができる。タタール語はタタール人の精神のみならず、ロシア社会やロシア文化をより深く知る足掛かりにもなるかもしれない。

タタール・ディアスポラ:分断、結束、そしてまた分断?

 さて、先にタタール人たちの出身地が多様であると書いたが、それを不思議に思った方もいらっしゃるだろう。今日、ロシアには約530万人のタタール人が暮らすと紹介したが、世界におけるタタール人の人口は600-650万人程度★9と見積もられる。つまり、100万人程度のタタール人はロシア国外に居住している。その大多数は中央アジア諸国などかつてソ連から独立した国々に集中するものの、さらにフィンランドやトルコ、中国西部(主に新疆ウイグル自治区)、北米諸国など、さまざまな国や地域にまたがっている。タタールスタン共和国は国内外のタタール人に対し、さまざまな支援プログラムを実施してきた。

 有名なものとして、伝統行事や文化行事の開催支援のほか、タタール語学習機会の提供(講師の派遣や教材の提供)、民族アンサンブルの活動支援、出版支援、在外タタール人学生のタタールスタン派遣プログラム、在外タタール人に対するタタールスタン共和国への移住と就労支援プログラムなどが挙げられる。ロシア国内外に暮らすタタール人をカザンに集めて開催する会議やワークショップ、コンテストは数多く、それも大半は参加者がカザンで数日間の寝食を共にする、規模の大きなものである。近年ではこうした場で居住地を超えたタタール人同士の繋がりが生まれ、やがて離れたコミュニティ同士の繋がりへと発展することも多かった。

 とはいえ、かつては居住領域の広さから共通の民族意識が生まれにくく、ソ連解体後のタタールスタン共和国は各地のタタール・コミュニティに対する支援を行うとともに、民族に共通する言語や文化、歴史観によって紐帯を強めようとしてきた側面もある。

 現代の文脈における「タタール」という民族の概念は、ソ連期に創出されたものを概ね引き継いでいるといえる。歴史的、宗教的、伝統的、文化的、言語的に多様な出自を持つ集団を領域内に抱えていたソ連にとって、この多様性は平等な社会主義社会の実現を目指すにあたっての不安材料であった。そこで、ソ連は諸集団をいくつかの「民族」に分類・画定すると、その言語や文化を振興しながらも管理し、やがて固有の言語や文化、歴史を持つ「民族」を創出していったのだ。

 実際の出身地にかかわらず、現在のタタールスタン共和国が位置するヴォルガ川中流域をタタール人の故地とする歴史観もこの頃に創られ、タタールスタン共和国は各地のタタール人の中心地であることを自負してさまざまな支援を行っている。実のところ、筆者の祖母は横浜生まれのタタール人で、そのルーツは現在のバシコルトスタン共和国北西部にある。それでも筆者はタタールスタン共和国に対してはある種の歴史的故郷という感情を抱き、強い精神的な繋がりを感じずにはいられない。こうした感覚の芽生えはまさしく、タタールスタン共和国が行う支援策の成果ともいえるものだろう。

 筆者はこれまでに、タタールスタン共和国の招待で3回カザンを訪問しており、そのすべてでロシア国内外から集まったタタール人の若者と知り合う機会に恵まれた。タタール語や伝統文化の学習と継承に熱心な若者たちとカザンで語らうことは、実に特別で、感動的な出来事であった。カザンという「想像の故郷」で身体的・感覚的にこうした経験をすることは、居住地では心の奥底に眠らせていたタタール性を強く奮い起こすだけでなく、居住地を超えた同胞意識や、タタールスタン共和国に対する特別な認識をより強いものとさせるには十分である。

 とはいえ、国境を越えたタタール人同士の交流に問題がないわけではない。とくにソ連を経験した国とそうでない国とでは言語面での断絶が大きく、しばしばコミュニケーションがうまくいかないこともある。ソ連を経験した国に住まうタタール人同士はロシア語やキリル文字表記のタタール語で交流することが多い一方で、そうでない国のタタール人はロシア語やキリル文字を知らないことも多いため、会話の輪に入れないことは珍しくない。その逆のパターンで、タタール語だけの会話やラテン文字表記のタタール語にロシア語話者のタタール人がついていけないこともある。さらに、タタール語はいずれの国でもマイノリティの言語であることから、ほぼすべてのタタール人はそれぞれの居住国においてその国の主要な言語で社会生活を送っている。さまざまな言語の影響を受けた各地のタタール語は、時に国境を越えたタタール人同士の相互理解を困難にする。しかしながら、この多様性もまた現代タタール語の実際であり、魅力でもある。

 タタール人の現在の居住地がヴォルガ川中流域にとどまらないのは、いくつかの歴史的な出来事が大きく影響している。まず、18世紀にロシア帝国が中央アジアとの貿易に力を入れたことから、中央アジアに多くのタタール人商人が移動するようになった。タタール人の祖先の多くが暮らしたヴォルガ川中流域は交易で栄えたこともあり、この頃にいたるまで商人として財を成すタタール人は少なくなかった。ムスリムの多い中央アジアにおいて、同じくムスリムのタタール商人は受け入れられやすかったのだろう。20世紀初頭にはタタール人商人が活躍する商業空間はさらに拡大し、シベリア鉄道の開通はかれらの極東進出を勢いづけるものであった。やがて1917年にロシア革命が勃発すると、商人に限らず多くのタタール人がハルビン、ハイラル、奉天など極東の諸都市に移動していった。

 それから間もなくして日本に移り住む者も現れた。横浜や神戸、名古屋などいくつかの都市にはタタール・コミュニティが形成されたほどである。神戸モスク(1935年建立)や名古屋モスク(1936年建立、1945年に空襲により消失)、東京ジャーミイ(1938年建立)の設置には、当時日本に居住していたタタール人も大きく関与している★10

 第二次世界大戦後には、先行きの見えない困難な経済状況から第三国へと移り住む者も少なくなかった。その多くはトルコ、オーストラリア、アメリカなどに渡っていき、これらの国々は現在に至るまでタタール人の主要な居住国となっている。また、ソ連解体時にも多くのタタール人が当時のソ連領域から第三国へと移住したと考えられる。タタール人がなぜこうも移動したかといえば、とくに事業を営む場合は経済的に余裕があったのに加え、商人としての実利主義的な気質も多少は影響を及ぼしていたのかもしれない。
 

【図9】来日したミンニハノフ・タタールスタン共和国大統領と日本在住のタタール人たち、関係者たち。2014年東京ジャーミイにて
 

 このように各地に移り住んだタタール人は、のちに「タタール・ディアスポラ」と総称されるようになった。とはいえ東西冷戦の時代には、国境を超えて交流することは困難で、各地のタタール人は長らく鉄のカーテンで分断されたままだった。状況が大きく変わったのはソ連解体後、タタールスタン共和国が各地のタタール人に対してさまざまな支援プログラムを行うようになってからである。実際に、かつては断絶していた各地のコミュニティ間の交流や、個人的な親族訪問は近年盛んになりつつある。世界各地のタタール人はこの約30年でようやく国境を超えて結びついたように思われた。

 しかし、今回のウクライナに対する「特別軍事作戦」は、今や各地のタタール人の結束をも断とうとしている。ロシア国内のタタール民族団体の大半はプーチン氏を支持する声明を出すか、沈黙を保ち続ける一方で、国外のタタール民族団体はタタールスタン共和国の公的資金が入るところも含め、多くがこのウクライナ侵攻を非難する声明を出した。個人レベルでも賛否は真二つに分かれ、SNSでは各地のタタール人がタタール語で、双方の主張に対する非難コメントの応酬を繰り返している。そして今や、ロシア国外のタタール人は「歴史的故郷」であるタタールスタン共和国を訪れることも難しくなってしまった。

 とはいえ希望がまったくないわけではなさそうだ。戦争に反対し、ロシアからの移住を希望するタタール人のなかには、国外のタタール・ネットワークを頼る例が散見される。各地のタタール人からもまた、新天地での仕事や住む場所を探すロシアやウクライナの民族同胞に対し、助けになりたいと申し出る例が相次いでいる。カザフスタンで物流業を営み、困っているタタール人の同胞を受け入れたいと、SNSのタタール人向けグループに情報を載せた男性はこう書いた。「私たちに国境はないからね」。

 タタール人の目前には、またも分断の時代が迫っているようにも見える。しかし、人々はこの分断をこの30年のあいだに国境を超えて育まれた強い結束により、しなやかに、したたかに、乗り越えていくのかもしれない。日々報道を追いながら、各地のタタール人の友人とやりとりをするなかで、筆者はそう感じている。

 

★1 ロシア連邦内の共和国トップの役職名は首長(глава)とすることになっているが、タタールスタン共和国だけは長らく大統領(президент)のままであった。2022年6月1日からタタールスタン共和国大統領の職位は廃止され、首長となる。
★2 連邦構成主体の数については、2014年のクリミア併合によって新たに加わったクリミア共和国とセヴァストポリ連邦市を含めて85とロシア連邦政府は主張する。
★3 独特の情緒(モン:моңという)を含んだタタール音楽は、日本の演歌にも似た雰囲気を持つ。気になった方はぜひとも一度聴いてみてほしい。たとえばオンラインのタタール音楽ラジオ「タタール・ラジオ(Татар радиосы)」(tatarradio.ru)や、「ロクサナ・ラジオ(Роксана радиосы)」(roksanaradio.ru)で気軽にタタール音楽を視聴することができる。
★4 このときの詳細については拙稿「タタール語を探して:タタールスタン共和国のタタール語事情」『日本中央アジア学会報』第13号、77-82頁、2017年に記述した。
★5 たとえば、民族的ロシア人の父とタタール人の母を持つ女性ヒップホップアーティストのTATARKAは、「ALTYN」(タタール語で “金”)というタタール語ラップで世界的に有名になった。
★6 アクセスおよび登録は https://anatele.ef.com/ から可能。2022年現在CEFRでA1〜B2に相当する9の学習コースがあり、これらは全288課からなる。登録・利用ともに無料で、ロシア語、タタール語、英語の3言語を通じて無料でタタール語を学習することができる。
★7 原文は《Поскреби русского – найдешь татарина》であり、直訳すると「ロシア人をちょいと剥いてごらんなさい、タタール人を見つけるだろうから」となる。
★8 タタールという民族名称は、用いられる時代と場所によって指す対象が異なることから注意を要する語でもある。中世の文脈においてはジョチ・ウルスの諸民族を、そして帝政期にはムスリム諸民族を総称する名称として汎用されてきた。たとえば、ロシアでは13世紀ごろに東方から襲来したモンゴル系遊牧民とかれらの支配下にあったテュルク系諸民族をタタールと総称したことから、しばしばタタールとモンゴルが混同されるが、現代の文脈におけるタタールとは一致しない。
★9 タタールスタン共和国および官製民族団体「全世界タタール会議」の推計に拠る。
★10 たとえば日本において昭和期に外国人タレントの草分けとして活躍した俳優ロイ・ジェームスは、出生名をハンナン・サファという東京生まれのタタール人であった。日本のタタール人ムスリムの活動については、松山洋平「イスラームななめ読み(3)大日本帝国の汎イスラム主義者」もあわせて読んでいただくことで、理解が深まるだろう。
+ その他の記事

1993年茨城県生まれ。筑波大学大学院博士後期課程修了、博士(社会科学)。日本学術振興会特別研究員PD。専門は各地のタタール・ディアスポラの母語継承・維持・復興問題を中心とした社会言語学研究。共著に『タタールスタンファンブック』(パブリブ)など。2016年第5回国際タタール語オリンピック優勝。

コメント欄に表示する名前を入力してください。
コメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

注目記事

つながりロシア

ピックアップ

NEWS

関連記事