贈与と失敗がつくる社会──文化人類学と哲学の対話(後篇)|小川さやか+東浩紀 司会=福冨渉

初出:2022年5月30日刊行『ゲンロンβ73』
 全5回を数えた『ゲンロン12』刊行記念イベント。最後にお招きしたのは、著書『チョンキンマンションのボスは知っている』(2019年、春秋社)が大きな話題を呼んだ、文化人類学者の小川さやかさん。東浩紀との対談形式で、司会はゲンロンの福冨渉が務めました。
 タンザニアでのフィールドワークをもとに、路上商人たちの資本主義経済との独特な関わり方を研究している小川さん。チャーミングな語り口から繰り出されるアナーキーなエピソードの数々に、放送終了直後からたいへんな反響がありました。タンザニアの行商人たちの「いいかげん」な生き方が、資本主義経済のなかでわれわれが「人間らしく」生きるヒントになる。それは東の哲学とも深く呼応するものでした。記事前篇とあわせて、お楽しみください。なおイベントのアーカイブ動画はシラスで11月25日まで公開中です。(編集部)

与えられる分人、返される分人

小川さやか 路上商人たちは「人生の保険」という言葉もよく使います。自分ひとりでたくさんスキルを身につけるのではなく、貸しを与えることで、外付けハードディスクみたいにいろいろな種類の人間を周りにつくっていくことです。自分はやりたいことをやりますが、なにかのついでに、周りのひとたちを支援もする。そして、たとえばパソコンが壊れたときに、「昔ラーメンを奢ったあいつはたしかパソコンが得意と言っていた」と思い出して、電話で助けを求めるわけです。

福冨渉 それはコミュニティを作るのとはちがうんですね。

小川 そうです。ただ個人的なネットワークが重層的につながっているだけです。

東浩紀 実践としては、とにかくいろいろなひとに奢っておくということかしら。

小川 奢っておくのはもちろんですが、貸しをすぐ返してもらわないのが大事です。自分が必要となるときまで放置しておく。借りのあるひとたちも、相手が必要とするときまで忘れておく。彼らにとっての貸し借りは、返済の機会が訪れてはじめて、どう返ってくるかがわかるものなのです。偶然に約束が果たされてようやく、約束の存在も意識される。機会が来なければ、貸し借りはたんに「なかったこと」になります。贈与をしてもなにが返ってくるかわからないから、自分に借りを持つ相手をどんどん増やしておく。これこそ「人生の保険」です。彼らはとにかく、稼いだ金を多様な人間というかたちの保険に変えていきます。

 貯蓄はしないのですか?

小川 ぜんぜんしません。チョンキンマンションを例に挙げると、1億円を転がしている商人もいれば、たった10万円くらいしかない商人もいますが、銀行口座を開設していない人すらいます。でも、その1億円を転がしているひとは、その金で貸しを増やし、いろいろなビジネスに投資します。ビジネスに投資すれば、たとえその商売に失敗したとしても人間関係だけは広がる。だから貯金はないけれど、なにかアイデアを実現したいと思ったときにぱっと頼れるひとはたくさんいるのです。

福冨 返済の段階まで意識されないのであれば、ほんとうはそんなに大きな貸し借りはなかったんだ、ということにもなりえますよね。

小川 実際、貸しはなんでもよくて、びっくりしないくらいのもののほうがいい。ただ、借りを返す機会がやってきたときには、その返し方が問われます。

『チョンキンマンションのボスは知っている』にも登場する、携帯商のシュワという人物の話がわかりやすいです。彼は日本円で月額600万円ほどをひとりで稼いでいましたが、2020年に別の事業に投資して失敗し、さらに奥さんに離婚を迫られて財産を失い、香港に亡命希望者として逃げてきた。彼はタンザニアで羽振りがよかったころ、いろいろなひとに奢ったりビジネス資金を貸したりしていましたが、返済はうやむやになっていました。その相手のひとりのAは、その後に農機具の貿易業に転業して成功していたので、シュワは再起を図るときにAに支援を頼んだわけです。でも、返ってきた内容がおかしいとブチ切れていた。彼いわく、「おれがAを助けていた期間は3年で、やつが香港に来るたびに食事を奢ったり商売の相談に乗ったり、交易のついでにやつの商品を無料で密輸して危険を冒したりしてきた。しかし、おれが香港に逃げ込んで支援を求めたときには、ポンと800ドルの金をくれただけだった」と。でもこれは、Aが返してくれた金額が少なくて不満だというわけではないんですよ。「おれが欲しいのは金じゃない。おれがもう一回やりなおすチャンスなんだ」と。

福冨 金額の不満ではないんですか。

小川 金額としてはむしろ高額です。でもシュワは不満だった。彼らは贈与を通じて人生の保険をつくりますが、それは出世払いや投資のような感覚とはちがいます。

 わたしはマルセル・モースが大好きなのですが、彼の『贈与論』の図式でこのシュワの不満は説明できるように思います。モースは、「贈り物に対する返礼が起きるのは、贈り物に取り憑いた精霊が与えたひとの元に戻りたいと望むからだ」というマオリ族の話にこだわっていました。仮に、わたしが東さんに贈り物をして、そこにわたしの一部が取り憑いているとします。受け取った東さんは、それを返してくれるまでわたしの一部とともにずっと生きることになる。そうやって、わたしという個人が、「分人」としていろいろなところにすこしずつ散らばっていく。

 そのわたしの一部は、わたしに戻りたいと望むときに、なにかのかたちで返ってくる。でも、それはこちらが与えた時点で相手が持っていたものではありません。託された「小川さやか100分の1」みたいなものは、その相手のもとで育まれて、わたしのあずかり知らないかたちに変身するんです。与えた相手のだれかは成功するかもしれないし、別のだれかは落ちぶれるかもしれない。でもいずれにせよ、わたしはわたしの一部を持つだれかとともに、未来にいたる道を分かちあっている。

 さきほどの「シュワのおかげで成功した見返りに800ドルをあげる」というAのふるまいは、預かっていたシュワの分人を、まるで配当金のように扱う振る舞いです。だからシュワは屈辱を感じたんだと思います。シュワの一部が800ドルという金額に換算されたようなものだからです。Aがすべきだったのは、かつてのシュワとおなじように、自分だからできることについて考えることです。その役目はひとによってちがう。

 なるほど、Aは手切れ金を渡したように感じられたわけですね。だとすると怒るのは当然ですね。

小川 その直感を突きつめて、みながたがいに贈与して、必要になるまで借りは返してもらわないということをしたとする。すると、ひとりの個人が複数に分割され、みなが部分的にシェアされた世界が遡行的にできあがります。これこそ「基盤的コミュニズム」にもとづいたシェアの世界です。わたしの部分はだれかのもので、だれかの部分はわたしのものというイメージで、贈与に対する見返りを即時的に期待せず、借りを計算することもできない人格を想定して社会をつくる。

 わたしたちがなんのために金銭や物を回すのかというと、自分の人生をそれぞれのやり方で生きていくことを可能にするためだと思います。べつにお金がたくさんあることが幸せなわけではない。人間が幸せな経済とは、全人格的な取引が非人格的な取引に変化しない経済のことです。人格を貨幣やモノのように扱わず、互酬に失敗しても怒られずに生きていける。働いても働かなくても、与えても与えなくても、他人と生きてもひとりで生きても、「まあいいや」で回る経済です。そこに、善とか倫理で規定される理想的な人間性によって回るのではなく、それぞれの人間がそれぞれの自然を謳歌できる世界が立ち上がるんじゃないでしょうか。

福冨 経済的なパフォーマンスや透明性、広く行き渡る福祉に担保されるような世界より、よほどユートピア的に見えます。
 

【図1】小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(2019年、春秋社)

生と死の複数性

 あらためて、ぼくの人間観はとても小川さんに近いと思いました。これは西洋哲学の限界とも関係します。

 ときどき言っていますが、西洋哲学のひとつの究極はハイデガーです。その哲学を一言で要約すると、「人間はみなひとりで死ぬ」となる。そのとおりなのですが、ここには生まれることについての思考が欠如しています。人間はひとりで生まれてこない。みなだれかの子どもとして生まれ、教育されることで市民になる。さきほどの分人の話は、ぼくのなかでは親子の問題に近いです。

小川 素晴らしいですね。まさにグレーバーの人間経済的な理解です。彼の言う人間経済とは、人間らしい温かい経済ではなく、「人間の創造や破壊に主要な関心が置かれている経済」のことを指します。東さんの言うとおりです。

 西洋哲学は、なぜかこの親子の問題についてほとんど考えていません。リベラリズムなども、基本的に「個」あるいは「子」であるということから始めて、自分がいかに親から自由になるかを考えている。政治的にも、そういう立場を正義だと考えている知識人はすごく多い。しかし、そこで「親」であることから始めると、子をどう生み出すかを考えることになります。さきほどの、周りにたくさん貸しをつくる話は、いわば、たくさん子どもをつくるということです。子どもをいっぱいつくっておけば人生なんとかなるというのは、人生の基礎的な保険ですよね。自分の分身をばらまいておくと、確率的にそれなりに機能する。それは、ぼくから見れば、親の立場の思想です。ぼくはそういうタイプの思考が大切だと思っています。

小川 親的なひとがばらまくひとなのはそうだとしても、そのばらまかれたひともまたばらまくことがありますよね。『その日暮らしの人類学』にも書きましたが、タンザニアに行ってほんとうに驚いたのは、みんなだれかに貸しがあると同時に借りがあることです。日本だと、だれかにたくさんお金を貸しているけど、同時に借金もすごくあるということはありえない。貸しているものを取り立てて、借金を返せばいいと考えるはずです。でもタンザニアのひとたちにとって、それは望ましくない。むしろ、たくさんのひとから借りているからこそ貸せるわけだし、貸せるひとだからこそ借りられると考える。彼らの世界では、ばらまく中心とばらまかれた子どもたちという構造にはなっていない。だれかにばらまいているひとは、おなじようにばらまかれてもいる。

 いいですね。それはぼくの関心で言うと、「世代」の問題になるかもしれません。ぼくたちは存在しているだけで親や先行世代から莫大な贈与を受けています。その贈与を次の世代につなげることでしか人間は存在しない。

小川 遅延的互酬性ですね。

 ただ、いまの時代はそういう考え方を嫌うようになっています。人々は親からの贈与ですら負担だと思っている。それをきっちり返して貸し借りゼロにするのが望ましいということになると、当然のことながら、子どもに贈与を与えること自体も倫理的に良くない暴力だという議論になる。反出生主義がそういう議論ですね。とにかく次の世代に負債を残さないということが、強力な倫理として働いている。

 これは人類の歴史のなかでも新しいことだと思います。21世紀の先進国社会は「貸し借りゼロ」を倫理規範にしようとしていて、贈与や出生を耐え難い暴力だとみなしはじめている。わたしたちが生まれたことの負債も返したい、人類の存在した痕跡そのものを消滅させたいというかんじです。

小川 変ですよね。どんな贈与も返礼も、過剰だったり過少だったりします。だからこそ人間も存在するし、社会も世代も回っていく。

 環境問題も同じパラダイムを共有しています。最近は「炭素中立」とか「気候中立」という表現がありますね。中立がいいことになっている。

 でも、そもそも、酸素だって最初は生物にとって有害物質のようなもので、植物が廃棄物としてやむなく放出していたわけです。ぼくたちはそれを利用するように進化した。石炭や石油も過去の生物の廃棄物なわけで、それら生物の死体のうえにまた次の生物も生まれていく。大きく見れば、環境が変わっていくことによって次の時代が来るというプロセスの一部でしかない。

小川 人類学者のアナ・チンが書いた『マツタケ』もそういう発想だと思います。マツタケって日本では高級食材ですよね。でも、マツタケは資本主義経済の進展によって荒廃したオレゴンの大地でも育つんです。それは人間以外の生物種によって生み出された世界です。そして、そこに住むヒッピーのような自由民がそれを採集している。資本主義経済が廃棄した場所で人間と人間以外のマルチスピーシーズ(複数の生物種)の協働によって生まれたマツタケが、なぜか高級食材になって新しいグローバルフローを生んでいるわけです。そこでクリーンに経済を回すだけになってしまうと、不確実に胚胎するかもしれない過剰なものや新しい経済も生まれてこない。だから、地球資源ときっちり向き合って負債なく生きていこうとするより、過剰であるか過少であるほうがいいのではないかとわたしも思います。なにかちょっと不備があったり腐敗したりしている大地に、つまり、すべての不確実性を規格化し、そうして資源を競争原理で簒奪していく資本主義経済によって死にかけた大地に、マルチスピーシーズによるコモンズが胚胎していく。資本主義経済がその偶発的な多種間の営みを取りこぼしていくのが希望なのです。

 人間は死ぬと死体が残りますが、言ってしまえば文化も死体のようなものです。死体を残すことで文明は進んでいく。ハイデガーと死についての話をしましたが、本当は死にとって大事なのは葬式ですよね。死ぬのはひとりかもしれませんが、その死体はだれかが処理しなければならないし、葬式もだれかがやらなければならない。そもそも人間とはなにかを考えると、意識のあるぼくが死ぬことで終わりではなくて、葬式のときもぼくはある意味で生きていると言えるんじゃないでしょうか。

小川 そうだと思います。

 個体ではない、複数の人間の連続性のなかの「わたし」のようなことは、西洋哲学のなかではあまり考えられていません。でも、さきほども言ったように、そもそもひとは生まれるときには複数性のなかで生まれてくる。死においても、周りのひとたちが死体を受け継ぐという意味で、やはり複数性のなかにいる。

小川 仮にわたしが子孫を残さずにひとりで死んだとしても、わたしの死はわたしひとりのものだとは思いません。

 当然そうですよね。小川さんの分身みたいなものは、すでにあちこちにいる。人間とはそもそもそういうもののはずです。人間がひとりであることから始めている哲学は、なにか根本的にまちがっているのではないか。そう考えているので、今日は小川さんとお話しできてとても嬉しいです。ただ、ぼくはふつうの意味では、小川さんよりもはるかにひとづきあいが苦手なひとなんですが(笑)。

霊と連帯

 ところでマルセル・モースの『贈与論』ですが、経済の本だと思っているひとが多いですね。むろん経済の話といえば経済の話なんですが、実際に読むと中核はスピリチュアリズムに近い。贈与とは、物に霊が宿ることだという話ですよね。

小川 わたしもそう解釈しています。

 そこで話を少し広げたいと思います。さきほどの人間は個体ではないという話にも関係しますが、日本の神道では霊はひとつなんです。基本的に、ひとが死んだら個人の魂はオリジナリティを失い、大きな「御霊」に統合されることになっている。靖国神社でA級戦犯を分祀できないのも、それが理由です。御霊が統合されているので、A級戦犯だけを取り出すことができない。

小川 混ざりあってしまっているんですね。

 政治的に危険な概念ですが、とてもおもしろい。日本においては、霊になると個体性を失ってみなが一体になる。霊の問題と、個体性を超えたものの問題、そして贈与の問題がすべてつながっている。

小川 わかります。祖先もそうだし、わたしたちが神様と呼んでいるものにも、なんとなくそんなものがあるように思います。御霊みたいな考え方にも、いいところはあるのかもしれません。

 わたしは、個人を特定した告発が好きではないんです。でも、御霊みたいな、集合的なものに対する告発はありかなと思っている。人間はやりなおせたほうがいいという強い倫理がわたしのなかにあるので、だれかがなにかの失敗でやりなおせなくなるのはいやです。でも同時に、抽象的に「わたしはこれが気に食わない」と口に出して言うのはいいことだと思っています。近代的な発想では「誰々が何々をした」という、ある個と別の個の明確な区別を前提として物事を考えていきます。でも人は互いになにがしかの影響を受けつつ、部分的に混ざりあっているので、場合によっては、御霊みたいな発想をとることも大事なのではないでしょうか。

 なるほど。ぼくも御霊の発想はなかなか大事なのではないかと思っています。それはべつに日本特有のものではなく、ネーション・ステートというのも御霊的な概念だと思う。ナショナリズムは宗教に近い。人間は自分がなにか大きなものの一部だと思いたいし、またそれは必要でもある。こういう問題に着目すると、リベラルからは放逐されてしまうわけですが(笑)。

小川 わたしも「あれはアナキストだ」とガン無視されていると思います(笑)。自分はどちらかというと左派だと思っていたのですが、最近、左派やリベラルのひとたちが言っていることにはピンと来ないことも多くて。だからと言って、右派のひとたちが言っていることに納得するかというと、そちらもよくわからないのですが。

 わかります。日本ではなぜか右派のほうが「地元が大切」とか「人間関係が大切」とか言っていて、そこで左派とすれ違ってしまうのですよね。そういう感情は左右の対立とは関係なく大事なもののはずなのに。

小川 大事ですよね。

 左派はむしろ人間関係がない連帯を目指している感じがします。冷戦崩壊で共産主義という理論的支柱がなくなったあと、左派には個々のイシューしかなくなってしまった。そのイシューをなんとなく緩くまとめるために、ネグリとハートは「マルチチュード」という言葉を編み出したわけですが、これはひとことで言えば、連帯の内実となる理論はもはや存在しないので、連帯するのが大事という話です。いまだとハッシュタグデモなんかがその例です。

小川 「現行のアクティビズムはこれ」みたいなノリですよね。ちょっとした失言ですぐに不買という話になるのは怖いなと思います。もちろんわたしだって、「なんて酷い意見なの」と不快に思うことは多々あります。その意見はぜひとも思い直して欲しい、傷ついた人に対して謝ったりして欲しいと思うことはあります。でも、失言を即座に断罪する動きにはどうしてもついていけないです。異なる意見をもつ人とすぐにわかりあえるとは思いませんけど、人は意外なきっかけで良い意味でも悪い意味でも豹変するし、私だって豹変しないとも限らないし、その人それぞれの偶然の変身に賭けることをできる限り諦めたくないと思っています。たぶん反-設計主義なのだと思うのですが、それで回ると信じるのはユートピア的だという批判は甘んじて受けます。

 ハッシュタグ的な連帯は、小川さんが述べた「分人的なシェア」といっけん近いようにみえて、本当はかぎりなく遠いものだと思うんです。ハッシュタグでは貸し借りは生まれない。でもぼくは本当の政治は、「こちらはこれだけ時間を使ったのだから、あなたもちゃんとやってくれ」という、それこそ貸し借りの関係が基本になってはじめて成立するものだと思います。いまのハッシュタグデモには、RTをいくつされましたという数字しかないんですね。

福冨 まさに、スケール化の問題ですね。

インフォーマル経済の組織論

 小川さんの「人生の保険」の話は、組織論にもつながると思いました。斎藤幸平氏の『人新世の資本論』はおもしろい本でしたが、結論が「一人ひとりが消費者として自覚すればなんとかなる」というもので、組織論がないところに不満を覚えました。ほんとうに資本主義を変えたいのであれば、小さくてもいいからオルタナティブな組織を作るしかない。そこらあたりはどうお考えですか。

小川 インフォーマル経済は組織がなくても生まれるものだと思います。組織でなければダメなのでしょうか。

 組織というのはフォーマルな組織のことではありません。ぼくはむしろ、小川さんが描いたような個人間にあいまいな「貸し借りがある」状態というのは、組織がインフォーマルだけど持続するということだと理解したんです。たくさんの人々=細胞が完全にばらばらに動いているのではなく、相互に関係があって、秩序が生まれ、それが持続していく。貸し借りがあるということは、時間的な継続が生まれるということですよね。

 対照的なのが、ドゥルーズとガタリの「器官なき身体」の理想だと思います。のちマルチチュードにつながっていくアイデアですが、日本の漫画で言うと『寄生獣』(岩明均)をイメージするとわかりやすい。作中の寄生生物(パラサイト)は多能性幹細胞のようなもので構成されていて、状況に応じてある部分が歯になったり口になったりして変形する。ドゥルーズとガタリは、新しい組織をそういうものとして考えました。党組織のように頭があってその下で分業した人々が動くのではなく、すべてがばらばらのまま、状況に応じて一時的に最適な生物のかたちが立ち上がる。そこには時間がありません。

小川 そのモデルはだめですか。わたしはむしろ、それに近い組織形態について論文で書いています★1。あるときタンザニアの路上商人たちが組合を作ったんです。組合を作るということは政府に窓口を開いてしまうことなので、インフォーマル経済の活動にとってはほぼ死を意味します。でも実際には、彼らのその組合は、たったひとりのリーダーのもとに3万人くらいが連なる形骸化した組織になった。この形骸化がインフォーマルな政治を続ける砦なのです。だって意味不明ですから。

 アフリカの組織では、愚かなひとをあえて代表者にするということをよくします。相手方がこちらと交渉できなくなるからです。すると、それぞれの器官がバラバラに活性化し始めるんです。そして、ある器官がすべてを制御するようになる。うまくいかなくなれば、こんどはちがう器官がすべてを制御する。わたしはそういう組織のあり方がいいと考えていました。わたしはそれを境界のあいまいな集団の生計多様化戦略と呼んでいます。

 それがひとつの理想なのは同意します。ただ、そのモデルには致命的な欠点があると思うんですよ。せっかくなのでまた『寄生獣』を例に出すと、作中の設定だと、パラサイトの脳も、手や歯と同じように毎回いろいろなところで生成するはずなんですね。しかしではその記憶はいったいどこに宿るのか。

小川 なるほど。

 『寄生獣』という作品だと、ミギーという名前のパラサイトがいて、それがずっと一貫した人格をもって存在しているのでごまかされてしまいますが、もし本当に設定どおりすべてが幹細胞でできていて毎回その一部が脳細胞に分化して脳が生成するような生き物がいるとしたら、どこにも記憶が残らないはずだと思うんです。

 実際に左翼運動がパラサイトのような「器官なき身体」になったことでなにが起きたかというと、運動の連続性が失われたのだと思います。毎回草の根的にアドホックに運動が立ち上がるのはいいのですが、運動体としての記憶を持たない。これは霊の話とも関係するかもしれません。

小川 その場合の記憶は外部にあるんじゃないでしょうか。『ゲンロン12』の論考でも言及しているのですが、わたしは感情史の議論にとても興味を持ちました。人類学では必ずしも感情を身体のなかにあるものだと捉えない社会を扱ってきました。「戦士が震えるのは臆病風が乗り移ったからだ、ゆえに臆病風を取り除けば戦争に行ける」という発想で、感情を外的なものとして考える社会もあります。「わたし」を統率している感情や記憶は、ほんとうに身体のなかにあるのか。もしかして外部にあるものを内部にあると勘ちがいしているのではないか。ならば、外部メディアにおける記憶や感情みたいなものを、あたかも内部メディアにあるかのように操作できればいいのではないかと考えたことがあります。

福冨 身体知が外部化されているという話ですね。質問なのですが、小川さんが調査された行商人の身体知というのは、どのていど継承されるものだったんでしょうか。行商人コミュニティでは、成員は出たり入ったりするわけですよね。

小川 彼らの「狡知」は、完全に個人の経験で育まれたものですね。それぞれの身体に即して、どう動くかが決まります。

 身体知が個人にとって外部化していたとしても、それを守るためにはやはり共同体が続くことが大事ということになるのではないでしょうか。キャラクターの名前に掛けて冗談としていうと、少なくとも現状では、記憶を大切にしているミギー(右派)のほうが、記憶をもたない「ヒダリー」(左派)よりも強いような気がします(笑)。

 最後に、インフォーマル経済における組織とはなにかという新しい論点が出てきました。ぼくとしては、ゲンロンやシラスはある種のインフォーマル経済の実践だと思っていますが、同時にそれを維持するために組織も必要だと考えています。そこで小川さんと意見が少し食い違うのかもしれません。また議論させていただければと思います。

小川 こちらこそ刺激になりました。そもそもインフォーマル経済といっても、全体の経済規模を国に換算したらアメリカに次ぐ第2位になるという試算があるくらいです。世界は先進国の金融資本主義によって動かされているかのように考えてしまいますが、東南アジアやアフリカ、中南米やインドといった地域を考えてみれば、インフォーマル経済の規模はとても巨大なんです。それは別にマイノリティでもなんでもなく、経済の主流であり、その意味ではきちんと持続しているものでもあります。インフォーマル経済の研究には大きな可能性があると思っています。
 

イベント当時の様子。左から福冨渉、東浩紀、小川さやか

 

2021年11月25日
東京、ゲンロンカフェ
構成・注・撮影=編集部

 

本対談は、2021年11月25日にゲンロンカフェで行われたイベント「生存と不確実性の経済──スケールしないお金の話」を編集・改稿したものです。

 

★1 小川さやか「タンザニアにおける路上商人の組合化とインフォーマル性の政治」、『文化人類学』82巻2号、2017年、182-201頁。

 

+ その他の記事

立命館大学先端総合学術研究科・教授。1978年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ研究。国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同助教、立命館大学先端総合学術研究科准教授を経て現職。主な著書に『都市を生きぬくための狡知—タンザニアの零細商人 マチンガの民族誌』(2011年、世界思想社、第33回サントリー学芸賞)、『「その日暮らし」の人類学—もう一つの資本主義経済』(2016年、光文社)、『チョンキンマンションのボスは知っている—アングラ経済の人類学』(2019年、春秋社、第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞)など。

+ その他の記事

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

+ その他の記事

ふくとみ・しょう/1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者。株式会社ゲンロン所属。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)がある。

コメント欄に表示する名前を入力してください。
コメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

注目記事

ピックアップ

NEWS

連載

その他

関連記事