愛について──符合の現代文化論(13) スパイダーマンにとって責任とは何か|さやわか

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初出:2022年5月30日刊行『ゲンロンβ73』
「スパイダーマン」は、マーベル・コミック社によるアメコミのスーパーヒーローの中でも人気の「ドル箱」キャラクターだ。彼を主人公にした実写映画は、21世紀以降に9つ作られている。

 中でも、最新作である『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)は特異な作品だ。21世紀の『スパイダーマン』映画の集大成であり、他に類を見ない、現代的なテーマを持っている。

 そのテーマとは何か。実は本作は、前回、筆者が新しい符合を他者と分かち合う際に必要だとしたもの、すなわち記号と符合にまつわる「責任」を描いた物語なのだ。以下、この作品がどれほど特異なものであるか、その中で「責任」がどのように描かれているか紹介しよう。

 



『ノー・ウェイ・ホーム』がこれまでの作品の集大成であるというのは、言葉通りの意味だ。というのもこの映画は、過去作のキャラクターたちが再登場し、一堂に会する内容だからだ。

 しかしここに、少しややこしい事情がある。全9作のストーリーが時系列としてつながっていれば、そういう趣向もさほど不自然ではないだろう。だがスパイダーマンの映画はシリーズが2度にわたって打ち切りとリブート(再始動)を繰り返し、スタッフやキャストの変更がたびたび行われた経緯がある。主人公ピーター・パーカー役の俳優だけでも3人おり、それぞれ2本ないし3本からなるシリーズで、別の物語の人物としてスパイダーマンを演じたのだ。

『ノー・ウェイ・ホーム』は、この経緯を逆手に取って、過去作の主人公が「別の世界のスパイダーマン」であるというSF的な設定にした。そして、これまでスパイダーマン演じた3人の役者をすべてスクリーン上に登場させ、共闘する展開を作り出した。

 そもそもなぜリブートは行われたのか。一般的にこの手のスペクタクル映画では、人気が持続すれば続編が次々と作られる。しかし興行収入が振るわなかったり、またスタッフやキャスト間の不和がある場合、監督や役者が降板することも多い。するとシリーズは打ち切られることになる。

 しかしスパイダーマンほどの人気キャラクターの場合はそこで終わりではない。すぐに新たな制作チームと配役が決定され、新シリーズとしてリブートされる。近年、スーパーヒーロー映画は人気ジャンルになっており、配給会社としてもシリーズを休眠させる手はないからだ。

 もともとアメコミのスーパーヒーローものでは、原作でもあるキャラクターを主人公とする作品がリブートされ、最初から語られ直すことがざらにある。また単なる語り直しでなく、ヒーローが悪役になるなど大胆な設定変更をした上で描かれるシリーズもある。
 その結果、アメコミでは作品世界が複数化し、「正史」以外に別解釈の歴史が生まれたり、他とは独立した物語が描かれることもある。アメコミは古くからこれを「マルチバース」という用語で受け入れてきた。世界が単一でなく、偶然や人々の選択の結果によって無数に分岐する、いわゆるパラレルワールドが存在するというSF的な発想だ。『スーパーマン』に登場するミクシィズピトルクや、『バットマン』のバットマイトなど、マルチバース間を渡り歩く、つまり別の物語に侵入する能力を持つキャラクターも存在する。

 この考え方によれば、実写映画も原作から見て無数に存在するマルチバースのひとつということになる。そして『ノー・ウェイ・ホーム』も、過去のシリーズをマルチバースとして解釈したわけだ。その結果この作品には、少しずつ異なりながらも、似通った経験を重ねた3人のピーター・パーカーが集まった。

 まず、サム・ライミが2002年から2007年までに監督したスパイダーマン映画全3作で主演した俳優は、トビー・マグワイアだ。

 そして2012年にマーク・ウェブ監督でリブートされた新シリーズ『アメイジング・スパイダーマン』でピーターを演じたのはアンドリュー・ガーフィールドだった。『アメイジング』は2014年に続編が公開されたが、興行収入が前作を下回ったため、マーベル・コミック社はテコ入れを画策した。スパイダーマン映画の次作を、好評を博していた同社キャラクター総登場の大河シリーズ「マーベル・シネマティック・ユニバース」(MCU)の中に組み込むことにしたのだ。

 この流れでガーフィールド版は打ち切りとなり、シリーズはまたリブートされた。新シリーズの主演はトム・ホランド、監督はジョン・ワッツ。一作目は2017年の『スパイダーマン:ホームカミング』だ。以後、2019年に『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』、そして2021年の『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と、一作ごとに副題付きのタイトルでシリーズが継続された。

 まとめると、マグワイア版が3作、ガーフィールド版が2作、ホランド版が3作存在することになる。

 



 前述のように、リブート作品では以前のシリーズで描かれたエピソードが、多かれ少なかれ、もう一度語られる。特に主人公がスーパーヒーローになった経緯や、人物像に深みを与えるような挫折、代表的な好敵手との戦いなど、原作コミックでの重要シーンは繰り返されることが多い。

『スパイダーマン』でそうしたシーンとして有名なのが、スパイダーマンの力を身につけたピーターが、スーパーヒーローの「責任」について自覚するエピソードだ。

 マグワイア版とガーフィールド版では、一作目でこのエピソードが詳細に描かれる。まずピーターは映画の最序盤で巨大企業オズコープ社に出向き、ラボで遺伝子改良された蜘蛛に皮膚を刺されて、超人的な能力を身につける。そしてその能力に酔いしれたピーターは、いささか傲慢になり、周囲をあざ笑うような態度を取り始める。自分を小馬鹿にするクラスメイトのフラッシュ・トンプソンと喧嘩して軽くあしらったり、同居する叔父母の手伝いをすっぽかして夜遅くまで外出するようになるのだ。

 もともと善良で気弱な高校生だったピーターの変化を見て、叔父のベンが彼を諭す。マグワイア版だと、ベンは次のように言う。

「ピーター、(お前は)今こそ、これからの一生でなる人間に変わっていく時期なんだ。自分がどんな人間に変化していくのか、とにかく注意しなくちゃいけない。あのフラッシュ・トンプソン、奴はたぶん自業自得なんだろう。だが、お前が彼を叩きのめせるからといって、その権利はない。覚えておけ。大きな力には、大きな責任が伴う」
 最後の一言、「大きな力には、大きな責任が伴う」は、原作コミックでも非常に有名なものだ。類似の箴言は古くから存在するが、とりわけ「大きな力」と「大きな責任」という語句を用いたものは18世紀フランスの哲学者ヴォルテールの著書に端緒があるとされる。これがやがて常套句と化して欧米の政治史で繰り返し使われるようになった後、1962年に『スパイダーマン』の原作へ登場した★1。以後、ベンがピーターに自省を促す台詞として、シリーズに定着している。

 ピーターは自分がスパイダーマンであることを、ベンに対しても秘密にしている。したがってベンが言う「変化」とは、単に成長して大人になることであり、「大きな力」とはフラッシュを殴った際の暴力を指している。だが無論この言葉は、変身して超人的な力を発揮するスーパーヒーローの責任を示唆したものとして、観客には響く。ガーフィールド版のベンにも、全く同じ台詞こそないが「もしも他人のために良いことをするなら、それを為すことには道徳的な義務がある」「選択じゃない。責任なんだ」という言葉がある。

 だがピーターはこの言葉を拒絶し、ベンに辛辣な言葉を浴びせる。ところが直後、ピーターが街で出会った強盗を「自分に関係ないから」と見逃した結果、ベンはその強盗に殺されてしまう。取り返しの付かない結果にピーターは深く反省し、スーパーヒーローとしての責任を自覚することになる。

 フラッシュへの暴力とベンの死の二つのエピソードからは、ピーターが負うべき「責任」がどのようなものかがわかる。それは「自分勝手な基準でスパイダーマンの能力を使わない」ということだ。社会で人と接する際には、彼はスパイダーマンの能力を使わずピーター・パーカーらしく生きねばならないし、逆に犯罪の現場では必ずスパイダーマンとして振る舞わねばならない。

 前回、筆者は性的アイデンティティやシェアハウスを例に、状況に応じてアイデンティティ(自身の持つ符合)を変更しつつ、主体としての連続性に責任を持つ、新しい「愛」を持った人間像を提示した。その責任とは、『スパイダーマン』でピーターに求められている責任と同様のものである。自身に紐付けられるピーターあるいはスパイダーマンという意味を、状況に応じて選択し、それに適した行動を、しかも一貫した人格として行うことに、彼は責任を負っている。

 



 ところがマグワイア版とガーフィールド版のピーターは、作品数を重ねるごとにこの責任を果たせなくなっていく。そしてその結果、どちらのシリーズでも、スパイダーマンは致命的な失敗をする。

 たとえばマグワイア版では、ピーターの片思いの相手であるMJ(メリー・ジェーン)が、自分の命を救ってくれたスパイダーマンへ熱烈な恋心を抱く。これに対しピーターは内心で躊躇しながらも愛情を受け入れ、スパイダーマンの姿で彼女とキスまでしてしまう。これは本来ならピーターとして得なければならないヒロインの愛情を、スパイダーマンの立場を利用して受ける形になっている。キスする際にピーターが覆面を半分下げ、口元だけを露出するのは、彼がスーパーヒーローと普通の人間の、双方を股に掛けながら幸せを享受する様を暗示している。

 ピーターはヒーローとしての責任のためMJから離れようとするが、続編では彼女に正体を明かし、二人は付き合い始めることになる。だが、二つの立場を同時に成り立たせながらMJと恋愛することは不可能であり、関係は破綻する。マグワイア版の最終作で彼は、周囲の人間に悪感情を振りまく不快な男になる。スーパーヒーローとしても堕落した「ブラック・スパイダーマン」となり、個人的な憎しみにかられてベンを殺した強盗を追い詰め、倒そうとする。

 またガーフィールド版でも、やはりヒロインであるグウェンとの関係が絡むことで、ピーターは責任をうまく果たせなくなる。具体的には、まず『アメイジング・スパイダーマン』の物語終盤で、ピーターはグウェンの父親に正体を知られてしまう。父親は、彼がスパイダーマンとして活躍する姿に感銘を受けながらも、娘を危険に巻き込むことを恐れ、「グウェンから離れてくれ。約束してくれ」と遺言して死ぬ。

 ピーターはいったんこの遺言を守り、グウェンと距離を置こうとする。だが結局、映画の最後で「守れない約束こそ、最高の約束だ」と言って、グウェンと交際することを決意する。その結果、ガーフィールド版の最終作である続編において、グウェンは父親の予見通りに戦いに巻き込まれ、高所から落下して死んでしまう。

 つまりマグワイア版とガーフィールド版はどちらも、スパイダーマンが一作目で提示されたヒーローとしての責任を果たすことができなくなり、シリーズの最終作で挫折を経験する物語になっている。そしてその挫折には、ヒロインとの関係に固執し、ヒーローとしての責任を脇に置きつつ彼女からの好意を歪んだ形で受け取ろうとする、旧来的な「愛」が絡んでいる。

 



 だがホランド版は、これら先行シリーズとは一線を画する。まず設定において、物語開始時点でピーターは既にスパイダーマンの能力を身につけており、彼がスーパーヒーローになった経緯も語られないのだ。オズコープ社も、最初から存在しないことになっている。

 またピーターの同居人は叔母のメイだけで、ベンが登場しない。したがってスパイダーマンになったばかりのピーターが尊大な態度を取って、ベンから「大きな力には、大きな責任が伴う」と諭されるシーンもない。

 その代わりこの台詞は、三部作の最終作『ノー・ウェイ・ホーム』でメイが述べるものとして登場する。ただ、それが発せられるシーンの意味は、過去シリーズとは微妙に異なっている。

 



 以下、順を追って説明しよう。『ノー・ウェイ・ホーム』の筋書きはピーターが、マルチバースからやってきた過去シリーズの悪役たちを、元の世界に帰すため奮闘するというものだ。しかし悪役である彼らは、単に送り返せばその世界のスパイダーマンに殺される運命にある。それをあわれに思ったピーターは、彼らを改心させ無力化してから元の世界に戻せば、死の運命を変えられるはずだと考える。

 この作戦は、理屈が通っている。というのも、マグワイア版の悪役はみな狂気に犯された結果として悪の力を身につける者ばかりなのだ。ガーフィールド版も、もともと社会からドロップアウトしかけていた人間が、病気や不幸な事故で異形の力を身につけた結果、完全に制御を失って悪役になる。

 つまり彼らは、過去シリーズで身に宿した狂気や超人的能力を取り除けば、真っ当な人間に戻る。ただの人間になれば、その時点でホランド版の世界において悪役として存在する因果が失われるため彼らは自動的に元の世界に戻される。しかも、もう悪役でないのだから、戻った先でスパイダーマンに殺されることもなくなる。
 ピーターはここで、彼らに「セカンドチャンス」を与えるのだと語る。その姿勢は前作『ファー・フロム・ホーム』の、SNSやフェイクニュースがはびこる現代において、人間の価値が一度貶められると容易に浄化できないというテーマを引継いだものだ。社会復帰の機会を与えることは、各人に符合された「悪」という意味を書き換え、新たな符合をもたらす。ここでピーターは、符合が書き換え可能であると考え、それによって社会の膠着を防ぎ、前進させようとする、今日において望ましい人間像として描かれている。

 さらにホランド版のピーターは、高校の同級生である親友のネッドと、そしてもう一人の親友としてMJを自分の元に招き、3人のチームでこの作戦にあたる。過去シリーズのヒロインはスパイダーマンの戦いを傍観しているか、巻き込まれる形での協力しかできなかった。だがホランド版のMJは、彼女自身、社会を変えるためにチームに参加するのだ。これによって、ヒーローとしての責任を取るか、MJを取るかという、過去シリーズでのピーターたちの苦悩は、半ば回避される。

 だが助力を仰いだスーパーヒーローのドクター・ストレンジは、マルチバースは元あった通りに戻すべきだと主張する。彼は一貫して、高校生のピーターたちを子供扱いし、彼らの作戦も幼稚な感傷によるものだと考える。また悪役の一人であるノーマン・オズボーンも、彼らを改心させようとするピーターの善意は、叔母のメイが持つ道徳的使命感に感化されただけだと喝破する。

 ピーターはこの反対にもめげず、作戦を強行する。マグワイア版やガーフィールド版と同様に、彼は我を通してスパイダーマンの力を使ってしまうのだ。それが子供らしい向こう見ずさと思慮のなさによるのも、過去シリーズと変わらない。

 だが重要なのは、ホランド版のピーターの動機が、これまでのシリーズのように利己的で責任を欠いたものでないことだ。それどころかホランド版ピーターは、分かちがたい符合を断ち、記号の意味を書き換えることが、人道的な、スーパーヒーローとしての責任を果たすことだと考えている。
 もっとも、その理想が甘く、また独善的なものであることも事実だ。悪役たちをすぐに元の世界へ帰さなかった代償として、ピーターは彼らに逃げられ、街は破壊される。そして過去のピーターがベンを喪ったのと同じく、メイはノーマンの攻撃を受けて死ぬことになるのだ。

「大きな力には、大きな責任が伴う」の言葉は、ここでメイが死ぬ間際にピーターと交わす会話で発せられる。

ピーター「ストレンジの言うとおりにして、送り返らせればよかったんだ」
メイ「あなたは正しいことをしたわ。彼らは殺されるところだったの。あなたは正しいことをした」
ピーター「けどそれは僕が責任を持つことじゃなかったんだ、メイ」
メイ「ああ、ノーマンが言ったこと? 私の道徳的使命感? 違うわ」
ピーター「いや、でも……」
メイ「いや違う、ピーター。聞いて。聞きなさい。あなたには与えられた才能がある。あなたには力がある。そして大いなる力には、大いなる責任もなくてはならない。ね?」


 ここでピーターは、悪役たちを救おうとしたことが純粋な自分の意思だったかも分からないし、本来自分に責任があることでもなかったのに、出しゃばった真似をして失敗したと後悔している。だがメイは、憐れみの心を持って責任を引き受けたことは間違いではなく、むしろピーターは正しいのだと言う。過去シリーズでこの台詞は、ピーターの行動を咎めるものとして発せられた。しかしメイは、責任を持って新しい符合を求める、新たな「愛」の心を持ったピーターを肯定するために同じ文句を使っているのだ。

 それでもメイが死んでしまうため、ピーターはノーマンへの怒りを募らせてしまう。過去シリーズのように憎しみにかられて拳を振り上げるピーターを見て、ノーマンは攻撃を受けながらもほくそ笑んでいる。

 だがノーマンが撲殺されそうになった瞬間、共闘していたマグワイア版のピーターが、ホランド版のピーターを押しとどめる。彼は過去シリーズで同様の怒りにかられ、ブラック・スパイダーマンになった経験がある。その挫折ゆえに、彼はホランド版のピーターの暴走が引き起こす悲劇を察知し、すんでの所で止められる。
 またガーフィールド版のピーターは、戦いの中で高所から落下したMJを、やはり間一髪で助けることに成功する。これも、彼が過去シリーズでグウェンを喪った経験があるからこそ可能になる展開だ。つまりこの作品は悪役たちだけでなく、過去シリーズのピーターもまたセカンドチャンスを与えられる物語なのだ。

 もっとも過去シリーズのピーターには、悪役たちと違って、ホランド版のピーターを制止できようとも、MJを救えたとしても、元の世界に戻れば自分の挫折した現実が待っている。だが、彼らはその経験を消し去るのではなく、責任を持って受け入れる。だからこそ、彼らはホランド版の物語で起こる危機を察知して、セカンドチャンスを成功させることができるのだ。

 



 ホランド版のピーターが過去シリーズの自分に助けられるだけならば、自分が得るべきでない幸福を一方的に受け取っているように見えるだろう。しかしホランド版が過去シリーズと決定的に異なるのは、その結末だ。映画の終局でスパイダーマンの正体がピーターであると知れ渡り、あらゆるマルチバースから敵キャラクターがホランド版の時空へなだれ込みそうになる。そこでピーターはドクター・ストレンジに頼み込み、ネッドやMJも含めた、世界中の人々から自分に関する記憶を消すように言う。

 それは過去シリーズのピーターが、MJやグウェンとの関係を断とうとしたのと似ているようで、実は全く違うことだ。過去シリーズのヒロインたちはピーターが離れていっても彼を忘れないし、愛情すら持続した。それゆえに、ピーターはヒーローとしての責任を重んじる振りをしつつ、彼女たちの愛情を密かに受け入れる、男性的な独善をにじませていた。わかりやすく言えば「自分はそんなつもりはないのに、モテてしまって困る」という態度で、心地よく愛されていることができたのだ。これに対してホランド版では、MJが自分を完全に忘れてしまうため、ピーターは永遠に彼女の愛情を失う決断をしたことになる。
 ピーターは記憶を失うことに難色を示すMJとネッドに対して「大丈夫。僕が君たちを見つけに行って、全部説明するよ」と語りかけ、彼らを納得させる。だが映画の結末でピーターは約束通りネッドとMJを見つけるものの、幸せそうに暮らす二人に、ただ優しく微笑んで、何も打ち明けることなく去っていく。ピーターは、自分にスーパーヒーローという意味を符合させる責任として、日常生活との符合の象徴である、彼らとの別離を選ぶのだ。

 今後作られる作品で、ネッドやMJと再び関係を持つことがあるかどうかはわからない。だがそうなったとしても、時間が巻き戻ったり、MJたちの記憶が回復してすべてが元通りになることはないはずだ。なぜならホランド版スパイダーマンが三部作を通して描いた高校生ピーターの成長とは、自分の身に起きた出来事は誤魔化さずに受け入れつつ、しかし符合を書き換えて社会を好転させる意思は貫く、その責任を持てる人間になることだったからだ。繰り返すが、それはこの物語の中で、明らかに、新たな時代に人々が抱くべき「愛」の形として描かれている。

次回は2022年7月配信の『ゲンロンβ75』に掲載予定です。

 


★1 当初はベンの言葉としてではなく、ページ内に配されたナレーションとして書かれていた。文言も現在よく知られている「with great power comes great responsibility」ではなく「with great power there must also come ── great responsibility」となっている。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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