いまこそ「史論家」が必要だ──百田尚樹、つくる会、歴史共同研究再検証(後篇)|呉座勇一+辻田真佐憲+與那覇潤

シェア
初出:2022年6月24日刊行『ゲンロンβ74』


 2022年1月14日、中世史家の呉座勇一さん、近現代史研究者の辻田真佐憲さん、そして評論家の與那覇潤さんをゲンロンカフェに迎えたイベント「歴史修正と実証主義──日本史学のねじれを解体する」を開催しました。
 百田尚樹氏の『日本国紀』についての議論から始まったイベントは、歴史における「事実」と「物語」、国民国家とポストモダン、学術書と新書、専門家と史論家など、さまざまなものの「あいだ」を検討していくものになりました。「いまここ」の正しさばかりを主張する論争が繰り返される現代社会で、歴史を語り直すことのさきに見えるものとは。必読の鼎談です。前篇は「ゲンロンα」で無料公開中です(URL= https://webgenron.com/articles/article20220607_01/)。本イベントのアーカイブ動画は、7月14日までシラスで公開中です(URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20220114)。
 なお、6月10日には、呉座さん、辻田さん、與那覇さんによる鼎談シリーズの第2弾「開かれた歴史実証主義にむけて──日本史学のねじれを解体する2」をゲンロンカフェで開催しました。ふたたび生まれた白熱の議論のアーカイブ動画も、シラスからどうぞ(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20220610)。(編集部)

近代とポストモダンのねじれ

呉座勇一 「国民の物語」を考えるときに論点となるのは、他の国民の物語とどのように接続するかです。ここで触れておきたいのが、それぞれの両国政府が主導して2000年代に行われた「日中歴史共同研究」と「日韓歴史共同研究」です。  日中歴史共同研究の座長をつとめられたのは北岡伸一さんです。彼はかつて、日本の研究者と中国の研究者とのあいだで最初からその目的や方法がすれ違っていて、まったく話が噛み合わなかったと語っていました。  そこでこのような図を作ってみました【図1】。日本と中国・韓国の研究者たちのあいだにあったのは、「近代とポストモダンのねじれ」だったのではないかとの見立てです。  
【図1】作成=呉座勇一
 
 日本側には、あくまでも実証主義で歴史的な事実をあきらかにしようという目的意識がありました。これは近代的な発想です。それに対して中国や韓国は、歴史的な事実をあきらかにすることそのものではなく、「植民地主義を清算する」ことを目的としていた。これはポストモダン的な発想で、ここにズレがあります。

 さらにややこしいのは、もうひとつのズレが存在したことです。日本の研究者たちは、歴史学の方法論としては、国民国家という枠組みはもはや古いという、むしろポストモダン的な発想を持っていました。対照的に、中国や韓国の研究者が持っていた「植民地主義を清算する」という目的は、ナショナリズムに結びついていて、その点では近代的な発想に根ざしているものと言えます。

 つまり、あるところでは日本の近代的な発想と中国・韓国のポストモダン的な発想がズレを来し、別のところでは日本のポストモダン的な発想と中国・韓国の近代的な発想がズレを来していた。これが「近代とポストモダンのねじれ」と表現したものです。

 このねじれが象徴的に現れたのが倭寇の問題でした。これはたいへん政治的にデリケートな問題で、倭寇が日本人主体だったか朝鮮人主体だったかが論争になるわけです。たとえば、これはいわゆるネトウヨのひとたちが喜んで引用する史料ですが、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の正史(公式の歴史書)である『朝鮮王朝実録』のなかに、倭寇のなかに倭人(日本人)は1割か2割しかおらず、じつは朝鮮人が倭人の服を着て暴れまわっているのだ、という記述があります★1

 実際、田中健夫さんなどの対外関係史研究者はこの史料に基づいて、倭寇は朝鮮人主体だったか、少なくとも朝鮮人と日本人の混合体だったのではないかと主張していました。当然、韓国側はそれに反発するわけです。その後、日本側の研究でも、前掲史料の数字そのものについては、朝鮮の官僚が誇張して記したものではないかと否定されています。
 しかし日本側の研究はそこに留まらず、さらに進展しました。たとえばわたしの師匠でもある村井章介が主張したのが「マージナルマン(境界人)」という概念でした。国境という概念がなかった中世の、対馬や朝鮮半島南岸の海域には、もはや朝鮮人と日本人といった区別は存在しなかっただろうというのです。この海域では日本人も朝鮮人もいっしょにマージナルマンとして独自の風俗や習慣を作っており、それは日本の習俗とも朝鮮のそれとも違う。倭寇は日本人か朝鮮人かという区別をつけようとする近代的な価値観じたいを批判したわけです。

 これは、国民国家批判を起点にしたじつにポストモダン的な発想だと思うのだけど、韓国側からすると「責任逃れだ」という感情を引き起こします。日本人の海賊がおれたちの海や沿岸を荒らしたのに、その責任をごまかすつもりなのかと。日中・日韓歴史共同研究がなかなかうまくいかなかったのは、このように複雑なねじれが存在したからだろうと思います。

 
呉座勇一

 

與那覇潤 つくる会に親和的な右寄りの雑誌だと、よく「中韓」と一括しがちですが、実は中国と韓国のあいだでも壮絶な歴史論争があるんですよね。たとえば高句麗の事績を、中国・韓国どちらのものとして語るべきなのか。あるいは日清戦争で日本に駆逐される直前の時期には、中国だってかなり朝鮮王朝の内政に干渉しており、それは実質的に植民地支配と変わらなかったんじゃないかとか。

 ぼくはこうした歴史観の衝突に対して、なんらかの事実(史実)を突きつけて解決しようというモデルそのものがまちがいだったと、最近は考えているんですよ。もし、事実と価値観とを完全に切り分けることが可能なら、「これがファクトですよね、だから日中韓みんなで認めましょう」といった合意の仕方もあり得るけれど、実際にはそんなことは起きえない。平泉澄から西尾幹二、上野千鶴子まで立場を超えてさまざまな学者が論証してきたとおり、数多くある事実から「どれを選ぶのか」という時点で、もう価値観が入ってしまうわけですから。特定の史実だけを持ち出して「これが事実だった点はご同意いただけますね」と言ったところで、「いや、そこを切り出すのは不当だろう!」という堂々巡りになってしまう。

 だからたとえば倭寇の問題にしても、事実で争うのではなく、価値観を刷新していくしかないと思います。つまり「どこの人がいちばん多かったんだ!?」といった問いをスルーして、「倭寇って海賊王みたいで、ぶっちゃけカッコよくないですか? しかも国家も民族も超えて、仲間を増やしてたんですよ」という価値観を作ってしまう。そうした視点に基づく小説なり映画なりを「たしかにカッコいいね」という形で共有するタイプの合意なら、まだ可能なのかもしれません。作家の出番が増えて、歴史学者の出番は減りますけど(笑)。
呉座 ただこれも厄介な問題で、韓国は、新羅海賊のチャン保皐ボゴなどの朝鮮側の海賊のことは英雄視しているんですよね。

辻田真佐憲 混ぜ返してしまうようですが、そもそも共有の歴史なんて無理して作る必要もないんじゃないでしょうか。それぞれの国にそれぞれの国民の歴史があるのだから、それらを無理にすり合わせようとしたら、揉めるのは当然です。そのような試み自体をやめて、「相互に違いますよね」というところを落とし所にするしかないのではないかと思います。

與那覇 “Agree to disagree” (同意できないという現実があることに同意する)と呼ばれる方法ですね。

呉座 「日中歴史共同研究」や「日韓歴史共同研究」はおそらく、ドイツとフランスで共通の歴史教科書が作られたことに励まされ、それを目指したんだと思います。

辻田 そこにボタンの掛け違いがあったのでしょう。フランスとドイツは、かつてともに植民地を持っていた。それにドイツはナチズムの経験があるからひたすら謝ってくれるという関係があります。だから共通の歴史教科書を作ることができた。

呉座 たぶん、日中も日韓も飲み会での議論だったら合意できたのですよ(笑)。国家を背負っていなければ。

辻田 でもそれは顕教と密教のような話であって、民主的な国家では不可能です。政治家がいくら飲み会で合意しても、民衆から突き上げられてしまいますから。

 やはり、国民の物語を前提に始めるしかないのだと思います。こちらに国民の物語があり、悲劇の経験があるように、相手にも物語と経験がある。いまはお互いに理解できなくても、国民の物語が共通に存在するのだというところから始めて、その点ではむこうのことを理解できますよね、とつぎの段階に進んでいく。そういう方法しかないんじゃないかと思います。

與那覇 つくる会ができる直前の時期の論争で、加藤典洋さんが高橋哲哉さんに対して主張した論点ですね★2。他者を敬えと言っても、自己が確立していないのに他者を敬うことはできないだろうと。相手の側にも「相手なりの自己があるから、配慮しないといけないよ」というロジックは、そもそも自己が確立しているひとのみが持ちうる。自分がなにものかもわからないようなひとが他人を敬おうとしても、それは無理だ、というのが加藤さんの指摘でした。

辻田 だから、いろいろ問題があることを知ったうえでも、それでももういちど国民の物語を作って、それでようやく他国と交渉することができるのかな、とわたしは考えています。

亜インテリを受け止める


呉座 それでは、そうした「国民の物語」「国民の歴史」と大きく関わる歴史修正主義とどう対峙するかという話に入っていきましょう。これは、歴史学界があまりちゃんと取り組んでこなかったことが大きいのではないかと思っています。

 歴史学界が歴史修正主義と戦う姿勢を見せるのは、近代史が中心です。とくにいわゆる「歴史認識問題」、南京大虐殺や従軍慰安婦といった問題に集中して、あとはスルーしがちなんですね。

 スルーされた問題の典型例がいわゆる「江戸しぐさ」です★3。わたしが陰謀論や偽史といったものをどうにかしないといけないと思い始めたのは、じつはこの問題がきっかけでした。江戸しぐさは江戸時代の江戸っ子のマナーとして喧伝されたものなのだけど、史料的な根拠がまったくない。たとえば、江戸っ子はそもそもあまり傘をさす習慣がなかったのに、江戸では人とすれ違うときに傘を傾げる習慣があったと主張していた。また、江戸時代には腕時計なんてないのに、江戸っ子は時間厳守だったと言いだした。あげくは、そのような嘘が道徳の教科書などにまで載せられてしまった。しかし、そうした動きに歴史学者は反応しませんでした。江戸しぐさを批判したのは、原田実さんなど在野の研究者だけでした。

 どうして歴史学者がこういう問題をスルーするのかといえば、権威主義があると思います。西尾さんの『国民の歴史』にはすぐに批判が出たのに、百田さんの『日本国紀』には批判が出にくいという違いは、結局は教科書が関わっているかどうかの違いです。つくる会のインパクトは、要するに「新しい教科書をつくる」というところにあったわけです。それは歴史学者たちの権威を脅かすものでした。だから批判にはすごく気合いが入ったし、そうでなければなにもやらない。

 それに、もうひとつの権威主義として、素人を相手にするのは格が落ちるという発想もあると思います。つくる会のときもさすがに批判には動きましたけれど、会自体よりも、それに利用されていた網野善彦さんの学説のほうを批判した。つくる会に反応したのも、教科書というおれたちの領分が侵されるという話だったからであって、民間でなにが言われていようとスルーする。トンデモなひとたちを批判するのではなく、むしろ自分たちに近い研究者や書き手の批判に力を入れてしまう。ここで考えるべきなのは、こうした学界内部での潰しあいによっていちばん得をするのはだれかということです。

辻田 学界から遠いひとのことは「刀の汚れ」のように思ってしまうのですよね。マトモに取り合って批判すると、格が下がると考えている。

呉座 歴史修正主義と対峙するためにわたしが必要だと考えているのは、中間層を取り込むことです。正直なところ、歴史修正主義の「信者」をこちらに引き戻すのは無理です。でも、『日本国紀』はあきらかに「ちょっと日本史を学び直したい」というひとたちをターゲットに作っている。だからこそ教科書っぽい。そのような読者層をどうやって、歴史修正主義ではなく、歴史学の側に取り込むか。
與那覇 東浩紀さんがある時期からよく、「亜インテリ」こそが大事だといった言い方をしますよね。この用語を作った丸山眞男をはじめとして、とにかく戦後のアカデミズムの学者たちは、インテリが直接大衆を啓蒙することが大事だと考え、中間的な「ちょっと物知り」「耳学問」で知識を得ている層(亜インテリ)を邪魔もの扱いする傾向がありました。そこに盲点があったのではないでしょうか。

辻田 『日本国紀』の事例が示しているのは、亜インテリのひとがみんな百田さんたちに持っていかれてしまったということですよね。

與那覇 歴史修正主義と呼ばれる在野の書き手の、商工会議所・青年会議所といった団体への浸透力は相当すごいわけですよ。「地元の有力者」というか、選挙で頼りになるタイプのひとたちに語り掛けて、勉強会の名目でファンクラブに組織したりもしてきた。大学の歴史学者はそれを上から目線でバカにするだけで、なにもしなかったから、彼らに言わせれば「トンデモ歴史観」の安倍晋三に連戦連敗の日々を送ることになったわけです(苦笑)。

辻田 経営者のひとたちは、ふだんは忙しいけれど、専門家から話を聞いて勉強したいという意欲をかなり持っています。その気持ちにちゃんとした専門家たちが応えてこなかったから、トンデモなひとたちに独占されてしまった。経営者向けに開く講演は謝礼がかなり大きい。だからトンデモなひとたちがますますお金を持って、子分を増やし、業界やメディアを乗っ取っていくわけです。そこで奪われている読者こそ、中間層のひとたちです。

 かつては中間をつかむ書き手というのがいたのだけど、いまの専門家たちは、トンデモなひとたちではなく、そういうエッセイストや評論家のほうを攻撃して潰してしまう。その結果、そのような書き手がつかんでいた亜インテリ層が、すべてトンデモなひとたちに持っていかれてしまった。

 
辻田真佐憲

 
呉座 それに関連して歴史教育と歴史研究の齟齬という問題もありますね。『教養としての歴史問題』のときも議論しましたが、ここが鬼門になると思います。

 学習指導要領を読むと、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」などと書いてあります。そこでは「国民」が前提になっている。ところが現在の歴史研究が前提にしているのは、「国民というものは近代に作られたものだ」ということであって、それはナショナルヒストリーを解体する方向に向かいます。教育と研究のあいだに、大きな断絶があるわけです。

辻田 ナショナルヒストリーを否定しているひとたちも、もともとはナショナルヒストリーで教育を受けているわけですよね。その教育を踏まえているから、批判することができている。

呉座 ナショナルヒストリーを批判する教育は、大学に入ってから始めてもいいのではないかと思っています。

 そこで押さえておきたいのは、このような議論もやはり昔からあったということです。三上参次という、明治後半から大正末にかけて東大の日本史の教授をつとめた人物がいます。歴史学者で文部省編修官の喜田貞吉が執筆した国定教科書『尋常小学校日本歴史』は、南朝と北朝を並立させていました。そのことがマスコミや議会で問題視され、結局は明治天皇の勅裁により「南朝が正統である」という結論が出ました。「南北朝」は「吉野の朝廷」と書き直すことになり、喜田は休職処分になりました。このとき国定教科書の起草委員だった三上はつぎのように所見を述べています。「普通教育上の歴史は史学とは別である。我輩が史実として信ずる所は右の如(ごと)く両朝並立であるとしても、之(これ)を風教の上、殊に小学校教育に施すに当(あた)っては彼と此(これ)とは自(おのずか)ら別物である」★4。これは、教育と研究は切り離して考えようという発想です。

 ここまで割り切ってしまうことには問題もあるかと思います。でも同時に、やはり教育と研究には一致できない部分も残る。

與那覇 久野収が戦前の知的な二重構造を「顕密体制」に喩えたこととも重なりますね★5。いわゆる大正デモクラシーの時期までは「顕教」と「密教」があった。一般庶民には「日本は天皇主権の国であり、天皇は神だ」(顕教)と教えていても、東大や京大に来るエリートには天皇機関説(密教)を教えていて、両者の棲み分けでそこそこうまく回っているように見えた。しかし、それは昭和に機能不全に陥り、戦争へと向かっていったと。

辻田 現在の問題は、かつて天皇機関説を不敬だとして批判した国体明徴運動のようなかたちで、顕教が密教を討伐しようという動きが強くなってきていることです。教科書とはべつに民間の読み物があるように、顕教と密教のあいだにさまざまなレイヤーを作っておくことが重要だと思います。

厚みを増す新書、消えゆく座談会


辻田 その意味では、新書というフォーマットが大事な意味を持ちます。いまでは分厚い新書が相次いで出版されるようになりました。

呉座 『応仁の乱』で実証主義ブームが始まったのかもしれませんが、わたしは素朴な実証主義のつもりであの本を書いたわけではありません。むしろ、『応仁の乱』のなかでは、第一次世界大戦に似ているといったことを論じています。そのまえに書いた『戦争の日本中世史』も戦後レジームの話をしているんです。

與那覇 『応仁の乱』のヒットのあと、呉座さんが政治学者の細谷雄一さんと対談されています★6。そこで呉座さんが「細谷さんが使う国際政治史の概念でいうと、室町幕府はいわばウィーン体制ですね」と論じているところがおもしろかった。

 鎌倉−南北朝期を主に扱う『戦争の日本中世史』では、いわば「室町日本の『国内ウィーン体制』」ができるまで、続く『応仁の乱』ではそれが破綻・自壊していく過程を描いていて、本来はワンセットなわけでしょう。しかしそういう抽象概念を書き込むと、日本の歴史学界では「実証的ではない。同時代の史料に見えない用語は使うな、安易に他の分野と比較するな」のように揚げ足を取られがちです。

 
與那覇潤

 
呉座 このまえ出版社の編集者と話したのですが、最近、歴史系のひとたちは実証重視ということでやたらと分厚い新書を書きたがるらしいです。でも、新書って本来そういうものではないですよね。

辻田 新書というと、12万字くらいで6章構成で、という基本のフォーマットがありますよね。でもそれが理解されていない。自分たちの好きなように書ける、というように認識されているんでしょう。

呉座 『応仁の乱』も登場人物が300人いるなど言われましたが、あれでも相当絞り込んでいます。ほんとうに細大漏らさず書こうとすれば、あれの倍、ひょっとすると3倍になるでしょう。でも2倍も3倍も書いてしまったら新書としては成立しません。フォーマットに収まるように書いた。でもいまは実証ブームのせいで歯止めが利かなくなって、分厚ければ分厚いほどいいだろう、という風潮になっているようです。

與那覇 大学には紀要という媒体があり、正規の教員はみな枚数も制約なしで、書きたいことを書きたいだけ書けます。それに慣れていると、「ここまで細かく書いても、その意義がわかる読者はいるのだろうか」とは考えなくなってゆく。その発想のままで一般向けの出版物(新書等)を書いちゃう人が出てくると、たいへんまずいことになるわけです。

辻田 新書というフォーマットは一般読者に大きな見取り図を示すという役割を持っていたはずなのに、その意義が見失われている。

與那覇 全体像を見渡したいという欲求じたいが、薄れてしまったような気もします。東さんが昔「データベース消費」と呼んだ現象の悪い面が出てきていて、自分が萌えている対象についての「分厚いデータブック」しか欲しがらない読者が増えているのかもしれない。

辻田 論壇誌のようなものが衰弱したこととも深く関係していると考えています。出版不況やウェブ媒体の増加で雑誌が読まれなくなり、紙の雑誌であれば紙面を埋めるために必要だったような、いろいろなひとを呼んでとりあえず酒を飲ませてしゃべらせる、という座談会記事も少なくなってしまいました。

呉座 座談会文化じたいがなくなっています。

辻田 分野を超えてしゃべる機会や、敵だけれどもあいつは話が通じるとか、そういう信頼関係を作っていける場所と文化が衰退してしまった。

與那覇 感染症に加えてハラスメントの問題もあって、いまは大学でも飲み会カルチャー自体が難しくなってきていますね。もちろんアルハラ・セクハラは絶対ダメだけど、お酒交じりのインフォーマルな会話だからこそ、しらふのゼミの場で言ったら「厳しすぎる」指摘をやんわり伝えられたりすることもある。しかし「飲み会での指導も含めてゼミだから、出席は義務だ!」というわけにもいきません。

辻田 飲み会至上主義に問題が多いことはわかります。とはいえもうすこし「ひとと会ってしゃべる」ことの意義を考えたいですね。

現代の史論家のために


呉座 いよいよ最後のトピックですが、評論家の不在について話したいと思います。歴史学の言葉だと「史論家」がいなくなってしまったということです。與那覇さんや辻田さんも憂えているところですが、どうすれば史論家は復活するんでしょうか。

 存在感が大きかった史論家といえば、やはり司馬遼太郎です。山本七平に関しては與那覇さんが仕事をされている。半藤一利さんについては辻田さんが取材されていますから、今後書いてくださるのではないかと期待しています。

 さらにさかのぼって、戦前の史論家たちを見ておく必要もあるでしょう。さきほど山路愛山の名前が挙がりましたが、山路にしても、そして徳富蘇峰についても、当時ものすごく広く読まれて影響を与えているにもかかわらず、歴史学界の「史学史」的な評価では低く見られがちです。

辻田 戦争協力の影響が大きいのではないですか。

呉座 そうです。山路愛山は日露戦争に際して内村鑑三と論争を行っていますが、「余は何故に帝国主義の信者たる乎」なとと、すごいことを書いています。それもあって、史学史的な研究では、民の立場から官を批判していたはずの山路や徳富がなぜ戦争協力の方向に転じてしまったのかという「転向研究」がなされがちでした。けれども彼らには戦争協力者だけではない側面もある。たとえば徳富の『近世日本国民史』は、司馬遼太郎にも大きな影響を与えています。彼らが書いたものは、三上参次などの東大の教授たちよりも、はるかに大きな影響をその後の日本人の歴史観に与えているんですね。やはりそこを見ていく必要があります。

與那覇 戦前の「在野の歴史家」と言ったとき、マルクス主義ゆえに弾圧されて在野だったひとは戦後、きちんと注目されたんですよね。たとえば非合法時代の日本共産党きっての理論家で、官憲の弾圧で殺された野呂栄太郎です。

呉座 彼は戦後のインテリから見れば軍国主義と戦った英雄で、後世に与えた思想的影響力は確かに大きい。でも同時代には徳富蘇峰のほうがずっと読まれていた。そういう社会的影響力を受け止めて、議論しなければならないという話です。

 そして、いわゆるトンデモ系のひとたちをどう考えていくかということについても、もっと議論が必要だと思います。わたしは、たとえば井沢元彦さんはやはりトンデモ系なのかなとは思いますが、その立ち位置はおもしろいのですね。反中嫌韓的な主張が強く、特に嫌韓に関しては『マンガ 嫌韓流』を10年以上先取りしています。ところが、『正論』や『Will』などには寄稿していない。いまの保守論壇とは距離を置いたうえで、80年代の日本文化論を歪んだかたちで継承しているという、ある意味で特異な史論家だと思います。言っている内容はどうしようもないのだけど、彼が売れた理由や思想的な背景は検討に値するかもしれません。
辻田 井沢さんはもともと小説家ですから、読ませる力があるのだと思います。ミステリー作家としていろいろな謎を提示して、いっしょに読者を考えさせていく力量があるんでしょう。

與那覇 ぼくが大学で教えていた頃からずっと思っているのは、歴史学者は「謎」を提示しなくなりすぎた気がするんですよ。井沢さんの場合、邪馬台国でも本能寺の変でも読者が答えを知りたくなる謎をまず示して、「歴史学者は解けていないけど、おれは解いたぞ!」と打ち出すわけでしょう。

 彼のやり方がよいとは思わないけど、一方で歴史学者は論文や著書でなんの謎も提示せず、ただ淡々と「わたしの研究対象について、今回調べたことを書きます」という風に書いてしまうことが多い。これではいかに「実証的」でも、読むほうにはその意義がまったくわからない。

辻田 井沢さんにしても百田さんにしても、「歴史学者よりおれのほうが正しい」とか言うからへんに揉める。そんな闘い方をやめて、自分たちの舞台を作ってもらえるといいなと思います。小説家なのだから、よい歴史小説を書いてほしい。

 おそらく、これは研究者が書いたもの、これは小説家が書いたもの、と本を区別して読んでいるひとのほうが少数派です。だから「こちらを読むのが正しいんだ」と指摘しても読者はついてきません。最新の研究を参照しながら、よい物語を書いてくれる小説家を応援していくほうがいいと思うのです。それに、そちらのほうが小説としてもおもしろくなるはずですよ。

呉座 わたしは、山田風太郎みたいな突き抜けた小説が好きなんです。嘘だとわかるけどおもしろいし、歴史の本質をえぐっている。そういうものを書けるのが、小説家の力量ではないかと思います。

與那覇 そもそも「実証史学」と「歴史小説」とは厳然と区別される別の存在なんだと、そう主張する規範が自明視されていた近代という時代のほうが、長い人類史を振り返ると一種の例外期だったようにも思います。

呉座 江戸時代には、みんな講談や歌舞伎や浄瑠璃で歴史を勉強していた。そこには歴史と文学を違うものとして考える、近代歴史学的な発想はありませんでした。
辻田 歴史学がそこを潔癖に分割しようとするのは、啓蒙の発想も背景にあるのかもしれません。きちんと勉強すれば小説と歴史は区別できるようになるし、史実にも詳しくなるのだと。でもそれでブックリストばかりバーンと作っても、人々は仕事をしているし寿命がある。読む時間がなければ意味がない。

呉座 やっぱり歴史学者は「すぐわかる」系をバカにしちゃうんですよね。わたしも歴史学者なのでしばしば苦言を呈してきましたが、一方でそういうものを読みたくなる一般読者の気持ちも理解できます。

與那覇 おかしな話で本来、ポストモダンの思想では「人間の理性には限界があり、啓蒙だけで世の中を進歩させることはできない」と考えていたはずですよね。ところがポスト冷戦期には妙にピュアでアクティブなポストモダニストが大学や学界に出てきて、「啓蒙すれば既存の国民国家を超えられる!」みたいに張り切ってしまった面がある。

辻田 進歩を信じる啓蒙主義と、人間の限界から始める保守主義という両極端のあいだのどこで妥協するか、ということを考えていかないといけません。

與那覇 「完全な同意」と「完全な反対」しか存在しない問題というのはほとんどなくて、必ず物事には両者の中間があり、そこに働きかけることで初めて状況は変わっていくわけです。そうした変化の余地を提供してくれるのが、ほんとうは歴史を語ることの意義だと思います。

呉座 こうやって集まって、長く喋るのも大事ですね。短い言葉に無理やり意味を込めてしまったり、逆にそこを切り取られたりすると、真意が伝わらない。

辻田 そういう意味では、今日はまさに座談会的な時間を生み出せたのかもしれません。本日はどうもありがとうございました。

 
左から與那覇潤、呉座勇一、辻田真佐憲

 

2022年1月14日
東京、ゲンロンカフェ
構成・注・撮影=編集部

 

本対談は、2022年1月14日にゲンロンカフェで行われたイベント「歴史修正と実証主義──日本史学のねじれを解体する」を編集・改稿したものです。

 

*引用にあたって、旧字体のものは新字体にあらためた。
★1 『朝鮮王朝実録』世宗二十八年十月壬戌条
★2 加藤典洋「戦後後論」、『敗戦後論』、ちくま学芸文庫、2015年。初出は、『群像』(講談社)第51巻8号、1996年。
★3 江戸時代の人びとの風習とされるもの(「江戸しぐさ」)を現代人のマナーとして実践しようという主張のこと。多くが江戸時代には存在しない・根拠がない、後世の創作であると指摘されている(たとえば原田実『江戸しぐさの正体』、星海社新書、2014年)。1980年代に芝三光によって提唱され、2000年代に入って道徳教育などに取り入れられ話題を集めた。
★4 三上参次「教科書に於ける南北正閏問題の由来」、『太陽』(博文館)第17巻5号、1911年、125頁。
★5 久野収、鶴見俊輔『現代日本の思想──その五つの渦』、岩波新書、1956年。
★6 呉座勇一、細谷雄一「応仁の乱×第一次世界大戦 英雄なき時代の混沌に立ち向かう」、『中央公論』2017年4月号、34-43頁。
 

呉座勇一

1980年、東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科研究員、東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、国際日本文化研究センター助教などを経て、現在、信州大学特任助教。大学共同利用機関法人人間文化研究機構に対し国際日本文化研究センター准教授の地位確認を求めて訴訟提起中。日本中世史専攻。著書に『日本中世の領主一揆』(思文閣出版、2014年)、『一揆の原理』(筑摩書房、2015年)、『応仁の乱』(中央公論新社、2016年)など。共著に前川一郎編著『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社、2020年)など。現在、網野善彦に関する論文を執筆中。

與那覇潤

1979年生。東京大学大学院総合文化研究科で博士号取得後、2007~17年まで地方公立大学准教授。当時の専門は日本近現代史で、講義録に『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)。離職後は『知性は死なない』(文春文庫)、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環と共著、新潮社。第19回小林秀雄賞)など、自身の病気の体験も踏まえた言論活動を在野で行っている。新型コロナウイルス禍での学界の不見識に抗議して、2021年の『平成史』(文藝春秋)を最後に「歴史学者」の呼称を放棄した。近刊に『過

辻田真佐憲

1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。単著に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『防衛省の研究』(朝日新書)、『超空気支配社会』『古関裕而の昭和史』『文部省の研究』(文春新書)、『天皇のお言葉』『大本営発表』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、共著に『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(ゲンロン)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)、『文藝春秋が見た戦争と日本人』(文藝春秋)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。
    コメントを残すにはログインしてください。