日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(13) 手放すこと──5月10日から6月23日|田中功起

初出:2022年6月24日刊行『ゲンロンβ74』

 生きることは、自分にできないことを手放し「まあ仕方ないか」と受け入れていくプロセスなんだと思う。

 滑り台が好きでそれを何度も滑りたいとしても、家に帰る時間はいずれやってくる。ぼくは自分が子どものころのことをあまり覚えていないけど、無性にだだをこねて地面を転がっていたことは覚えている。もちろんそうしても何も解決しないことは分かっていた。それでも、できないということを受け入れるために少し時間が必要だったんだと思う。

 娘も延々と滑り台をくり返す。帰る時間になっても、もう1回と指を立て、結局、何度も滑る。それでもぼくが時間をかけて説得すると、最後には仕方ないと状況を受け入れる。状況を受け入れたあとは自分から電動アシスト自転車の方に走っていき「いぶんで(自分で)」と言いながら、後ろ側に取り付けてあるチャイルド・シートによじ登ろうとする。状況の受け入れは一見受け身に思えるかもしれない。でも彼女は「受け入れ」として消極的に対応するのではなく、できないことを「手放す」という積極的な行動へと変換している。消極性と積極性が入り交じる不思議な行為がそこにはある。

 

 実は今回は、ウクライナ侵攻についてグローバリズムとナショナリズムの関係からまとめるつもりだった。参考になるのは東浩紀さんの議論、『ゲンロン0 観光客の哲学』★1で描かれている両者の関係だ。グローバリズムが世界を開いていくとすれば、ナショナリズムは世界を閉ざしていく。どうしてこの対立する2つの考え方が同時に世界を覆うのか。東さんは二層構造にしてとらえる。グローバリズムを論理的な帰結、つまり理性、そしてナショナリズムを感情的な帰結、つまり欲望にわけ、頭で分かっていても欲望が暴走する「人間」のアナロジーとして「世界」をとらえる。

 ロシアは、近代主義の帰結であるグローバリズムを「西側」による価値観の押しつけととらえ、虚構としての帝国主義的価値観を自らのナショナリズムとして召喚する。ウクライナは、ポリティカル・コレクトネスというグローバルな価値観に訴えることで世界的な支持を獲得し、ユーロマイダンなどによって養われたナショナル・アイデンティティを推し進める。世界の二層構造はこのウクライナ情勢にもそのように適応できると思った。

 でも、もっと気になることがある。

 戦争から遠く離れたこの日本では、もはや緊急性を失って、そのニュースが日常のなかに埋没しているように見える。戦争のショッキングなイメージやニュースを追いつづけることは精神的にきつい。そう感じるひとも多かったと思う。非日常の連続から身を引かなければ「いまここ」での生活をつづけることはできない。ものごとへの関心はそうやって遠のいていくものだ。

 

 先日、「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」★2という展覧会を見た。久しぶりに見る展覧会にこれを選んだのには理由がある。社会的なもの、あるいは政治的なものから距離のある作品たちは、疫病(コロナ禍)と戦争(ウクライナ情勢)下でどう見えるのかと気になっていたからだ。

 いわゆるコンセプチュアル・アートというのは論理的な展開だけで成り立つ、言ってみればその論理さえ整っていれば誰であっても原理的にはつくることができるアートを指す。例えば、指示書があればどこであっても再現可能な幾何学的なドローイングであったり、工業製品の組み合わせ(例えば鉄板とか)の立体物であったり、その日の日付を描く絵画であったり。通例の解釈でいけば、そこにはアーティストの出自や感情とは無関係に作品の論理だけがある。

 ところが、あたり前だけれども、60年前のアート作品の制作はその60年前の環境に依拠していた。例えばインターネット以前にはどうやって展覧会の依頼は行われていたのか。ドイツにあるギャラリーでの展覧会をアメリカにいるアーティストに依頼する場合、当然それは手紙と電話のやりとりになる。この「ミニマル/コンセプチュアル」展には多くの手紙のやりとりが作品とともに展示されている。それも手書きである。手書きの文字にはそのひとの個性が表れる。あなたが手書きで手紙を書いたのはいつだろうか。

 当時、画期的だったのは、費用節約のために、作品を輸送する代わりにアーティスト本人を現地に呼んで制作を頼んだ点だ。コンセプチュアル・アートは素材に縛られないからこそ、それが可能である。脱スキル化し、思考を中心に据えることで、アトリエでの制作からアーティストを解放したとも言える。もしくは別の経済の仕組みを開発したとも言える。多額の輸送費用はアーティストの旅費と地産地消の素材調達費へと変わった。

 この展覧会には手紙だけでなく、作品設置、あるいは作品制作のための厳密な指示書も展示されていた。厳密といっても、定規を使って描かれたものや手書きの文字が並ぶもの。作品がひとの手を離れた工業製品のような見えを目指すのに、指示書には意外にも人間的な味がある。いまのPC環境で整えられた仕様書と比べるとむしろ暖かみすら感じる。

 

 そう、厳密な論理でのみ生成されていたはずのコンセプチュアル・アートが、人間くさい味わい深いものとしてこの展覧会では扱われている。手紙、現地滞在による制作、そこに生じる人間的な交流。手作り感と手触り感。論理的帰結として制作された作品たちそのものも、素材の経年劣化やアナログな機材(スライド・プロジェクターなど)の使用によって、なんだかノスタルジックな情緒さえ漂っている。

 カール・アンドレはドイツ滞在を終えた後の手紙に、こう食べ物の思い出を書いている。

私はあなた方の仲間に迎え入れられたように感じました。アルトシュタットと、ベンダース・マリーのニシン、クリームチーズのアルトビールが恋しくて仕方ありません。★3

「ミニマル/コンセプチュアル」展はコンセプチュアル・アートをアーティストとフィッシャー夫妻との人間的な交流として語り直す。そうすることでいわば作品とアーティストを脱神話化し、現実感を伴うものに変化させる。アーティストとしての存在をパブリックから遠ざけていた河原温でさえも、この展覧会のなかでは、自身の存在証明のために制作をしていたように思えてくる。「I Am Still Alive」という電報を送る行為なんて、まさにそう。

 

 少し寄り道をすれば、コンセプチュアル・アートの脱神話化はその始まりから宿命づけられている。ぼくが言っているのは、ここでもカール・アンドレのことである。知っているひともいるかもしれないけど、彼はパートナーであったアナ・メンディエータの死への関与がずっと疑われている。美術史上の重要人物であるカール・アンドレをどのように扱うのか、それはコンセプチュアル・アート、あるいはミニマル・アートを語る上でなかなか困難な課題を提供する★4。芸術上の功績と犯罪(の可能性)をどのように扱うのか。男性アーティストと女性アーティストの非対称性についてどのような態度を持つのか。カール・アンドレとアナ・メンディエータをめぐるこの件については、また別の機会に書いてみたい。

 

 いずれにせよ、コンセプチュアル・アートは一義的な強い論理によって生み出されるものであり、ある意味では表現主義的なアーティスト像と真っ向から対立するものだった。破滅的でロマン主義的なアーティストの天才神話は、ここでは疑問に付される。逆にいえば、コンセプチュアル・アートはロジカルなアーティスト像を提示する。感情か、論理か、ここでも双方は対立的にとらえられている。

 だからこそ「ミニマル/コンセプチュアル」展で展示された手紙や指示書には、人間的な感情と作品の論理の両方を繋ぐ視点を見いだせて新鮮に感じられたのかもしれない。

 論理によって導きだれる一見味気ない作品たちは、手紙や指示書を介して個人の物語として書き換えられる。

 

 ここで、この連載で何度も触れている、アネマリー・モルの『ケアのロジック』に迂回してみよう。彼女は「物語」を以下のように語る。

糖尿病のある人びとは、(糖尿病を含めた)生活について、大切な人や家族や友人と話す。ケアの物語を新聞や雑誌やテレビで紹介するために、ジャーナリストはインタヴューをしたりドキュメンタリーを作成する。専門家は、重要な成果を専門誌に出版する。社会科学者は「資料」を少し異なる方法で集めて、糖尿病のある人びとの生活に何が起きているのかに、新たな光を当てる物語を語る。これらはすべて、論争的なスタイルというよりむしろ物語的なスタイルで、公共的な意見交換の一部となる。二つのスタイルはとても異なる。よい議論は一義的だが、よい物語はさまざまな解釈の余地を残す。正当な議論は明快で透明でなければならないが、力強い物語は人びとの想像力や共感やいらだちを喚起することによって作用する。矛盾した主張は足を引っ張り合うが、矛盾した物語は互いを豊かにする。そして、主張は足していくことで結論に至るが、物語を足していくことは、さらに多くの問いへとつながる可能性が高い。ここでうまくいかなかったことを、別の場所で予防するにはどうすればいいだろう。ここで成功したことを、どのように別の場所や状況に移すことができるだろう。何もできることがないとしたら、何をしても改善につながりそうにないとしたら、物語は慰めを与えてくれるかもしれない。★5

 以前にも触れたように、『ケアのロジック』は糖尿病病棟をフィールドワークして書かれたものだ。ここではその文脈を外れ、論争/議論の一義性と物語の複数性の関係に焦点を当てて考えてみたい。

「ミニマル/コンセプチュアル」展で描かれたコンセプチュアル・アートは、本来「明快で透明」な論理/議論としての作品たちを、「さまざまな解釈の余地を残す」ひととひととの交流の物語へと語り直していた。もちろん展覧会の動線によって浮かび上がる物語はそれほど強いものではない。

 そもそも展覧会というものは空間的なものだから、時間的にリニアな「物語」とは相性が悪い。展示空間は、本来ならそのなかを自由に移動できるもの。観客の自由な移動によって複数の物語(の解釈)が生まれるような、そんな展覧会もある。空間という特性を生かし、歩き回る観客によって動線が複数化するような方法論にぼくは可能性を感じる。モルが書くように、複数化することは観客の「共感やいらだち」を同時に「喚起する」だろう。それは互いに「矛盾」するものかもしれない。それでもそれらの「矛盾」は「互いを豊かにする」可能性もある。展覧会の空間はそうあるべきじゃないだろうか。

 

 60、70年代のコンセプチュアル・アートという過去をどのように語るのか。一義的な解釈ではなく、様々なエピソードの集積による物語として語り直すこと、例えばそれを遠い出来事(もちろんここではウクライナ情勢)をどのように語るのか、ということに繋げて考えてみることもできるかもしれない。日常への埋没による忘却に抗うには、ぼくたちには相矛盾してみえるかもしれないエピソードたちで構成されるような、豊かな物語が必要なのかもしれない。

 それは私たちに心地よい、分かりやすい議論や論争から距離をおくことも意味する。

 SNSが開いた世界は白か黒か、のるかそるかの、分断された意見の応酬で成り立っている。でもこの世界には、そもそも明快で透明な、正当な意見なんてないのかもしれない。この社会では共感といらだちが入り交じり、ものごとはなかなか先に進まない。それでも粘り強く対処し、考えつづけることが必要なはずだ。

 

 ぼくやあなたの目の前にはいまでも滑り台がある。でもいつまでも滑りつづけることはできない。状況を理解し、飼い慣らすことのできない感情を手放し、誰かに委ねること。あなたの周りにいる誰かは、きっとその問題を共に考えてくれるだろうし、何かをつづけることは、そうやって周りに頼ることでもある。

 

 できないことを受け入れ、自ら手放すことは、決して悪いことではない。それは単に受動的な行動ではなく、能動的な行為でもある。モルはさらにこのように書いている。

[……]能動的な患者は、活動的でありながら、手放すこともできなければならない。自分の手で自分を積極的にケアする一方で、飼いならせないものは手放す必要がある。したがって、ケアのロジックの要求のなかでも一番難しいのは、ここでもまた、粘り強くありながら順応することである。専門家が臨床的な態度を身につけるためには何年もかかる。患者の苦しみに対して能動的に反応しながらも、自分たちの努力が実らないかもしれないことは静かに受け入れる訓練を受けている。能動的な患者には、もっと困難なタスクがある。活動的でありながらも、みずからの苦しみについて観念しなければならないのだ。それがどれほど感情的で実践的な努力を伴うものであるか、過小評価されてはならない。しかしそれでも、世界をコントロールできるかもしれないという幻想を持つよりはましである。コントロールという夢は、あなたを幸せにはせず、神経症にする。そしてどう転んだとしても、最後は失望に終わる。★6

 モルは患者や専門家たちを行為のネットワークのなかで理解する。受動と能動はそこでは一義的な立場ではない。ものごとへの関心を、そのように日常のなかに取り込み、持続させられないだろうか。継続してものごとに関わり考えることは、何かを引き寄せることと手放すことの往復運動によってしかできない。手で触ることのできる矛盾に満ちた物語を手にすること、その上でできないことを受け入れ、能動的に「手放す」こと。その能動性として手放す行為のなかに、自らの責任を持つこと。

次回は2022年8月配信の『ゲンロンβ76』に掲載予定です。

 

★1 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年。
★2 「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」。 URL=https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2203/
★3 展覧会カタログ「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」、共同通信社、2021年、47頁。
★4 ネット記事だけでもさまざまにあるけど、例えばこちら。
Maya Gurantz, “‘Carl Broke Something’: On Carl Andre, Ana Mendieta, and the Cult of the Male Genius”, Los Angeles Review of Books, July 10, 2017. URL= https://lareviewofbooks.org/article/carl-broke-something-on-carl-andre-ana-mendieta-and-the-cult-of-the-male-genius/
★5 アネマリー・モル『ケアのロジック』、水声社、2020年、167-168頁。
★6 同書、179頁。
+ その他の記事

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之

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