つながりロシア(20) ロシア・バレエ──ソ連時代から現在までの歩み|村山久美子

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初出:2022年7月31日刊行『ゲンロンβ75』
「白鳥の湖」をはじめとする、現在世界で上演されている古典バレエ作品のほとんどは、19世紀後半にロシアでマリウス・プティパ(1818-1910)が創作したか、プティパ以前に初演されたものを大幅に改変したものである。ロシアは、自国で生んだ古典の上演に他の国よりも力と愛情を注ぎ、世界の手本となる舞台を作り上げてきた。それゆえ、ロシアといえば古典バレエの王国というイメージをもたれがちである。

 しかし、18世紀にバレエの上演を開始して以来ずっと、ロシアでは統治者がバレエを愛し、この芸術を国を挙げて発展させてきた。プティパ亡き後の20世紀初頭の帝政時代も、1917年のロシア革命以降のソ連時代も、ソ連崩壊後も、古典作品に劣らぬ優れた、世界をリードする創作を続けてきたのである。

1 ロシア・アヴァンギャルドの振付家たち



機械と人間──ニコライ・フォレッゲル

 まず、1917年の十月革命を経て1930年代前半に至るまでのロシア・アヴァンギャルド芸術の時代を取り上げよう。舞踊界でも、新時代にふさわしい新しいダンスを求めて様々なスタジオや私立の舞踊学校が設立され、実験的な創作が盛んに行われていた時期である。

 この時代の舞踊創作活動で最も際立った振付家が、演出家のメイエルホリドが唱えた「演劇の十月」に匹敵する「ダンスの十月」を唱えてダンス革命のリーダーとなったニコライ・フォレッゲル(1892-1939)、モスクワのボリショイ・バレエ出身のカシヤーン・ゴレイゾフスキー(1892-1970)、そしてサンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエ(現在名)首席バレエマスター(振付、指導、運営を行うバレエ団のリーダー)を務めたフョードル・ロプホーフ(1886-1973)である。

 フォレッゲルは、1921年に劇団マストフォル(フォレッゲル工房)を結成したのち、世界的に注目を浴びるようになる。マストフォルのレパートリーで最も有名になったのが、「メカニック・ダンス Механический танец」と「機械ダンス танцы машин」だった。
「メカニック・ダンス」では、機械が人間的な「生きた存在」として描かれた。たとえば、『パストラル』という作品では、No.1とNo.2と呼ばれるダンサーが、愛し合う機械の役を踊った。ダンサーは幾何学模様のメーキャップを施し、音楽はミニマルなピアノ曲を用いた。

 一方「機械ダンス」は、人間の内面は見せずに、機械の動きを身体で表現したものである。たとえば、『トランスミッション』という作品では、3メートル離れて立つ2人の男性のそばを、女性たちがベルトコンベアのように細かい歩みで動く。『ノコギリ』では、同じく2人の男性が体の柔らかい女性の腕と脚をつかんで、弓形に体を曲げたポーズで揺らすという動きが行われた。音楽には、ホイッスルや金属、ガラス等を使用した騒々しい「擬声音」が用いられた。

「芸術は生産と結び付く」という当時の人々を捉えた理念をフォレッゲルの作品は見事に具現した。さらに鍛え抜かれたダンサーの動きが美しく、「メカニック・ダンス」と「機械ダンス」は絶賛された。

 美しく強靭な動きのダンサーを育て上げたのは、フォレッゲルが考案したトレーニング・メソッド「タフィヤトレナージュ」だ。このメソッドは、「ダンサーの身体を機械と考え、意思通りに動かせる筋肉を機械の操縦者と考えるならば、情熱が機械を動かす燃料となる」という考え方を基にしている。ここには、機械と人間の動きの関係を追究した、アヴァンギャルドの芸術家の考え方が反映されている。「タフィヤトレナージュ」には、400ものエクササイズがあり、脚だけ腕だけでなく、身体全体が均一に発達してゆくように、そして、強度の高い踊りを生み出すことができるように、筋力や跳躍力、攻撃性をつける訓練、パートナーの重さを負荷したうえでの訓練などが含まれている。マストフォルのダンサーたちの写真を見ると、その無駄のない身体フォルムや柔軟性からも、優れた訓練が行われていたことがうかがえる。

 フォレッゲルの「メカニック・ダンス」と「機械ダンス」は、国内外で高く評価された。しかし、1923年に教育人民委員ルナチャルスキーが芸術の古典への回帰を訴えたことが大きな要因となって、彼の実験的な作品は非難の嵐にさらされるようになる。そのうえ24年末には、彼らの劇場が、客席で発生した原因不明の火災により焼失してしまった。こうしてマストフォルは解散に追い込まれた。その後、フォレッゲルはペトログラード、ハリコフと拠点を移し、細々と実験を続けるが、1939年に亡くなってしまう。死因は今も不明のままである。

 
ニコライ・フォレッゲル URL=https://ru.wikipedia.org/wiki/Файл:Николай_Михайлович_Фореггер.jpg

 
フォレッゲル『機械ダンス』 提供=村山久美子

 
イデオロギーから離れて──カシヤーン・ゴレイゾフスキー

 次に、カシヤーン・ゴレイゾフスキーを紹介しよう。彼は、サンクトペテルブルクの帝室マリインスキー・バレエ、モスクワのボリショイ・バレエでダンサーとして活躍したのち、1915年から創作を開始し、バレエの改革者として際立つ存在となった。

 ゴレイゾフスキーの活動は、大きく3期に分けることができる。第1期は、1920年代までの、アヴァンギャルドの芸術家と行動を共にして、新しいバレエの探求に取り組んでいた時期。1915年に、マモントフ劇場、キャバレー・シアター蝙蝠などのモスクワの様々なミニアチュア(小品集上演の)劇場で振付を開始する。この時期にマヤコフスキーら未来派との活動も始まった。16年には、自分の小劇場を創設して、そこで実験的作品を続々と発表していった。この小劇場は22年以降、モスクワ・カーメルヌイ・バレエの名で、ロシアの実験芸術の中心的役割を果たすようになる。同年、メイエルホリド演出の芝居『リュリ湖』『D.E.』で振付を担当。その後はフリーで活動し、1925年、第1期の頂点に立つ作品『美しきヨセフ』を、モスクワのボリショイ劇場支部などで初演した。

 第2期は、1930年代から50年代までのスターリン時代で、ゴレイゾフスキーは地方の共和国に左遷され、辛酸をなめた。本来の活動ができない中、民族舞踊の採集を行い、民族舞踊のバレエ化に取り組んだ。

 そして第3期が、59年にモスクワのボリショイ劇場に復帰してから、亡くなる1970年まで。この時期に、それまでの探究の総まとめと言える作品を、ボリショイ劇場のレパートリーに残している。その頂点に立つ作品が、64年初演の、古典にはない実験的な演出と民族舞踊の要素を融合させた『レイリとメジヌーン』である。ウラジーミル・ワシーリエフ(1940-)ら彼を信奉する大スターが主演して大きな反響を呼んだ。

 古巣でのさらなる活躍が期待されたゴレイゾフスキーだが、復帰後6年で死去してしまった。『レイリとメジヌーン』などの第3期の作品は、90年代初めに復元され、今でも踊られている。現在は、その才能が多くの人々に崇敬されている。

 ゴレイゾフスキーは舞踊だけでなく、広く芸術に才能を発揮した。幼少から詩を愛し、詩集も出版していた。また象徴主義の画家ヴルーベリに絵画を学んでいる。さらに、1915年には、マヤコフスキーを中心とする未来派の芸術グループに加わったことは前述の通りである。振付は、ペテルブルク舞台芸術学校(現在のワガーノワ・バレエ・アカデミー)で、20世紀初頭のバレエ改革者と言われるミハイル・フォーキン(1880-1942)に学んだ。卒業後には、モスクワでバレエ改革者のアレクサンドル・ゴールスキー(1871-1924)らにも学んでいる。
 それゆえ彼の創作には、象徴主義や未来派の芸術、それにフォーキンやゴールスキーのバレエ改革の影響が様々な形で表れている。フォーキンが19世紀バレエに反発して試みた一幕ものなどの小品の創作やフォーキンやゴールスキーなどが行った、バレエの語彙(表現のための種々の動きの総体)であるクラシック舞踊に新たな動きを加える試みと、人間の個人的な感情の表現、そして、それとは対極にある、未来派的な、集団による大規模なエネルギーの表現等々が挙げられる。しかし、これら、先人や他の芸術ジャンルの影響は、模倣にも折衷的にもならなかった。

 ゴレイゾフスキーはつねに「バレエで語る詩人」であり続けた。そのバレエは、豊かなイメージと瑞々しい感情をはらんだ象徴的な表現に満ちていた。20年代後半には、ミュージックホールでのマス・ゲームのような集団のショーで成功を収めたはずが、やがて、作品のもつ個人的で繊細微妙な感情表現や詩情が革命後の時代にふさわしくないと批判されるようになっていく。感情表現や詩情こそが、彼の芸術の本質であったからだろう。

 感情やイメージを表現するために、ゴレイゾフスキーは、物語(台本)という言語表現から離れ、音楽のみを振付の基盤とする「ダンスシンフォニー」のジャンルへと向かった。後述するロプホーフもこの音楽を視覚化するジャンルを試みたが、彼がリズムやポリフォニーなどの音楽の構造を舞踊化しようとしたのに対し、ゴレイゾフスキーは、自分の鋭い感性のプリズムを通して音楽から汲み取った感情やムードを舞踊化するという、全く異なるアプローチをとった。たとえば聖書を原作とする『美しきヨセフ』は、骨組みのみの硬質な構成主義美術を用いたアヴァンギャルド時代の作品だが、未来派的な集団のエネルギーの表現でもなく、物語の具体的な説明でもなく、スクリャービンのスタイルに類似するワシレンコのバレエ曲から感じ取った、心の綾の表現だった。

 ゴレイゾフスキーは、芸術にイデオロギーとは離れた繊細な詩的世界を求め続けた。ダンスのアヴァンギャルド運動の旗手としてこの時代を駆け抜けたのは、革命のイデオロギーへの共感からではなく、表現手段の新たな可能性を渇望するゆえのことだった。
 
カシヤン・ゴレイゾフスキー public domain URL=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Goleyzovski-1-wiki.jpg

 
崇高な世界を求めて──フョードル・ロプホーフ

 アヴァンギャルド期を代表する振付家の最後の1人がフョードル・ロプホーフである。ロプホーフは1905年にペテルブルクの帝室マリインスキー・バレエに入団。モスクワのボリショイ・バレエやアメリカでの活動を経て、22年に、国立ペトログラード・オペラ・バレエ(現マリインスキー)の芸術監督となった。

 芸術監督就任から10年間、ロプホーフは、アヴァンギャルド・バレエと言われる作品の制作を精力的に行った。それは、それまで皇帝や貴族に愛されてきたバレエは、革命後の新しい時代に存在価値があるのかと盛んに議論された時期だった。そのため、マリインスキーのような国立の大劇場は、伝統あるバレエを守るために、新時代におけるバレエの発展の可能性を必死で証明しなければならなかった。

 この時期のロプホーフの創作で、バレエ史上とくに大きな意味をもつのが、1923年初演の、ベートーヴェンの交響曲第4番による『宇宙の偉大さ』である。このバレエは、新しいジャンル、「ダンスシンフォニー」の誕生という画期的な事件となるはずだった。すでに述べた通り、これは物語を基盤とせずに、音楽の構造を分析して音楽を舞踊として視覚化するジャンルである。ダンスシンフォニーは、後に「シンフォニック・バレエ」という名で20世紀以降の世界のバレエの主要な潮流の1つとなることになる。だが、『宇宙の偉大さ』は、舞踊や音楽の専門家を集めた試演では高い評価を得たものの、一般公開初演では全く理解されず、1回公演をしただけでお蔵入りになってしまった。

 この作品は、交響曲4番の構成に従って、プロローグ「光の形成」、第1部「死の中の生と生の中の死」、第2部「熱エネルギー」、第3部「存在の喜び」、第4部「永遠の運動」に分けられている。さらに各部がいくつもの場面に分けられ、それぞれの場面には「前の生命の死の中での生命体の形成と繁栄」「ピテカントロプスのはしゃぎ」といったタイトルがついている。

 ダンスシンフォニーは音楽のみを作品の基盤にするジャンルであるはずだった。しかしロプホーフは、各シーンに意味を付した。しかもそれは、ソ連時代には禁じられていた宗教的テーマが根底にあるとも受け取れるものだった。上演時のプログラムには抽象的で簡単な説明しか記載がなかった。たとえば第3部の「存在の喜び」では、唐突に「刈り手」(農夫)や「ピテカントロプス」(ジャワ原人)が登場するなどして、観客は混乱した。

 プログラムの「熱エネルギー」と「永遠の運動」の部分には、「工場での生産のように平坦なリズムで」という未来派的な説明がなされている。そもそも「宇宙」という未来的なテーマの作品のためになぜ、牧歌的なベートーヴェンの交響曲4番が選ばれたのだろうか。また、「存在の喜び」にはなぜ農夫や原始の人間が登場するのか。彼と親交のあった舞踊学者ドブロヴォーリスカヤは、この作品を「ロプホーフが信奉していたジャン゠ジャック・ルソーの自然状態を描いたものと考える」と、著書『フョードル・ロプホーフ』(1976)の中で書いている。
 革命後は宗教が事実上禁じられていたにもかかわらず、ロプホーフは生涯神を信じていたということも、現在では知られている。「無宗教の世紀の中で信仰の擁護者であった」ルソーに、ロプホーフは共感を抱き、ルソーの語る「社会がまだ人間を堕落させるだけの時を消費していない状態」を、ロシア革命後の新しい世界と重ね合わせていたのではないだろうか。クライマックスの「存在の喜び」で、ルソーの理想とする、動物との差異を少なくした原始人が登場するのはそれゆえだろう。そして、自然の象徴として蝶が戯れ、自然人=農夫が登場して草刈をし、やがてすべてが和合して、舞台にユートピアを形成するのである。

 1920年代には、農民の世界にユートピアを求め、消えつつある世界の美しさを抒情的に謳い上げる作品が、ロシア革命を壮年で迎えた芸術家たちによって発表された。自然人を賛美しながら、同時に工場の機械のリズムを描こうとした『宇宙の偉大さ』も、懐古趣味的側面と未来派的側面が折衷的に結び付けられていた。それは、振付自体にも表れており、クラシック舞踊の動きの中に混ざっている、モダン・ダンスを思わせる重心を低くして弾む原始人などの動きは、観る者に不思議な印象を与える(2000年復元版)。

 このような折衷的な内容には、前述したように、愛する古典バレエの伝統を擁護しながら、バレエが新時代に生きてゆく価値をアピールしようとする当時のロプホーフの苦悩が反映されていたように思う。彼はさらに、自分の望む革命後のユートピアの姿をも描こうとしたのである。

 しかし、後にロプホーフ自身が語っていたように、音楽を緻密に視覚化する「ダンスシンフォニーに内容を盛り込むべきではなかった」。ロプホーフが発案した新しいジャンルは、『宇宙の偉大さ』では生まれなかった。このジャンルは、ロプホーフの意図を引き継いだ弟子ジョージ・バランシンが「シンフォニック・バレエ」として完成させることになる。『セレナーデ』などのバランシンの「シンフォニック・バレエ」は30年代からアメリカで大成功を収め、現在も世界中で踊られている。
 
フョードル・ロプホーフ URL=https://ru.wikipedia.org/wiki/Файл:ФВЛопухов.jpg

2 スターリン期からソ連後期へ──物語を踊る



男性のバレエと群舞──ユーリー・グリゴローヴィチ

 ソ連では、1930年代なかばから独裁者スターリン政権下で、芸術は社会主義リアリズム路線に統一された。その流れの中で、伝統を捨てようとしたアヴァンギャルド芸術運動は自ら行き詰りを見せるとともに、国からの弾圧を受けて下火となった。そして、アヴァンギャルドの問題点の再検討の意味も込めて始まったのが、古典を見直し創作の糧とする動きである。

 バレエ界では、19世紀の国民的詩人プーシキンやシェイクスピアなど、文学作品を原作とする「ドラマ・バレエ」の一ジャンル「ホレオドラマ(舞踊劇)」の制作が盛んになった。古典バレエでは、ジェスチャーや記号としてのマイム(たとえば、薬指を指せば結婚の意味等の身振り)は身体表現の美しさを見せるというよりも、状況や心情の説明のために存在し、踊りの部分と分離していた。「ホレオドラマ」では、記号としてのマイムを用いず、ジェスチャーと踊りが融合した美しい身体表現が台詞のように心情を語り、物語を紡いでゆく。ホレオドラマの作法には、演劇からスタニスラフスキーの演技術が導入され、心と身体の動きの自然な連動を生み出そうとした。

 ホレオドラマは、名舞踊手でかつ演技にも長けたガリーナ・ウラーノワに力を得て、30-40年代には、『ロミオとジュリエット』(1940)などの名作を生む。ところが、50年代後半あたりから、動きで語るドラマの構築に腐心するあまり、バレエの本来の要素である、ポーズの完璧な美しさや高度で多様な技、音楽と踊りの緊密な結び付きなどがないがしろにされるという問題が露呈した。
 
『ロミオとジュリエット』より、ガリーナ・ウラノワとユーリー・ジダーノフ RIA Novosti archive, image #11591 / Umnov / CC-BY-SA 3.0 URL=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_11591_Galina_Ulanova_and_Yury_Zhdanov_in_the_ballet_%22Romeo_And_Juliet%22.jpg

 
 このような状況下で振付家としてデビューしたユーリー・グリゴローヴィチ(1927-)の新たな創作法は、ホレオドラマの問題を解決するものとして大きな注目を集めた。

 グリゴローヴィチは、1946年にサンクトペテルブルクのキーロフ(現マリインスキー)・バレエに入団し、64年までダンサーとして活躍する。創作も並行して行い、57年にキーロフ・バレエで発表した『石の花』で、振付家としての鮮烈なデビューを飾った。61年『愛の伝説』で評価はさらに高まり、64年にはモスクワのボリショイ劇場の首席バレエマスターに就任する。ボリショイ劇場は40年代からソ連を代表する劇場になり、対外的にも「美による外交」の役割を担っていた。当時グリゴローヴィチは37歳。異例の抜擢だった。

 グリゴローヴィチの作品はほぼすべてが現在も上演され続けているが、最も高い世界的名声を得、ソ連時代のロシア・バレエの代表作となっているのが『スパルタクス』(ボリショイ劇場初演、1968年)である。

 バレエの主役は時代によって男女入れ替わってきた。20世紀のとくに60-80年代に、グリゴローヴィチとフランス人モーリス・ベジャール(1927-2007)が、優れた男性のバレエを次々と発表する。そして、男性中心のバレエの時代が築かれた。ただし、そのダンサー像は対照的だった。グリゴローヴィチの描く主人公は、たくましい身体で並はずれてスケールの大きい跳躍を駆使する、雄々しい男性像だった。他方、ベジャールの男性たちは、細身の身体の美しい筋肉が踊りの要素となり、男の色気、美しさで際立っていた。

 男性のバレエ以上にグリゴローヴィチの評価を高めたのが、「シンフォニック・ドラマ・バレエ」と名付けられる創作法だった。物語を重視したバレエでありながら、ホレオドラマの欠点を補うべく、台本に基づいて踊りで感情や気分を "語る" ことと、音楽を緻密に視覚化することを同時に行う。そこには、師であるロプホーフの方法論が取り入れられていた。それだけでなく、国を代表する大劇場にふさわしい多幕ものの大規模な作品にするという、困難な課題を克服してのけた。
 具体的には、感情や状況を語るために、台本を基に作曲されたバレエ曲を用いる。この音楽を緻密に視覚化すれば、音楽が振りに感情吐露を盛り込ませてくれるということになる。

 しかし、それだけでは、ドラマ・バレエで、舞踊の高度な技術を駆使する可能性は担保されない。そこで考案されたのが、群舞を用いて主要な登場人物の感情のトーンや雰囲気を大勢で増幅させ、ソリストと群舞のポリフォニックなアンサンブルを作ることである。群舞は小集団に分けられて、オーケストラの楽器ごとのパート分けのようにそれぞれ異なる振りが与えられる。そして、あたかも音楽を奏でるかのように、すべての小集団が同時に異なる踊りを踊るのだ。こうして、高度な技を用いた、スケールの大きいポリフォニックな「ダンス・オーケストラ」による、 "語る" バレエが作り上げられた。ボリショイ・バレエならではの豊富な男性舞踊手の人材を有効に使った力強い群舞が多用され、作品に大きなエネルギーを与えたのだった。

 このような、音楽を舞踊で巧みに視覚化しながら、妙技をふんだんに盛り込んでバレエの技の面白さ、美しさもアピールしつつ、ソリストと大勢の群舞の動きで内的感情の吐露を表現するグリゴローヴィチの舞踊ドラマ創作法は、20世紀後半の世界のバレエ界に大きな反響を呼んだのだった。

 
ユーリー・グリゴローヴィチ(CC BY 4.0) URL=http://kremlin.ru/, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yury_Grigorovich.jpg

 
『スパルタクス』より、イワン・ワシーリエフ、ボリショイ劇場 2011年10月28日(CC BY 4.0) URL=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ivan_Vasiliev_in_Spartacus,_Bolshoi_Theatre_2011-10-28.jpg

 
演劇とバレエの融合──ボリース・エイフマン

 20世紀後半、西欧にベジャールとローラン・プティ(1924-2011)という鬼才振付家が現れた。彼らが知的刺激に満ち斬新なアイデアに富むバレエを発表して世界を驚嘆させ、追随者を生み出していったとき、ソ連バレエ界は西側と十分に交流することができず、新しいバレエへの渇望がどんどん高まっていった。ロシアのモダン・バレエの代表者ボリース・エイフマン(1946-)が、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にエイフマン・バレエ(現在名)を創設したのは、そのようなときだった。私設バレエ団の結成が許可されていながった1977年に、新しいバレエの創造を熱望し、当時教鞭を執っていた名門ワガノワ・バレエ・アカデミーの卒業生を集めて、困難を覚悟で出発した。

 ソ連政府御用達の空疎な芸術でもなく、古典作品の王侯貴族や天上の美の世界でもない、同時代人の心に通じる不完全な生身の人間の様々な思いを、クラシック舞踊を大胆に変形させた動きで雄弁に語るエイフマンのバレエは、瞬く間に大きな注目を集めた。

 とはいえ、観客に支持されても、反動のブレジネフ時代に、私設のバレエ団を結成し、社会主義リアリズム路線を無視した作品を発表するユダヤ人のエイフマンの活動は、困難を極めるものだった。本拠となるスタジオを何年も得られず、毎回、検閲で作品の大幅な改変を迫られた。国外退去も求められた。しかし、80年代後半のペレストロイカの時代に、ついにモスクワ公演を行うようになると、有力紙プラウダとイズヴェスチヤの批評家がこぞって絶賛した。こうして当局が彼のバレエ団を認めるようになったのである。やがてこのバレエ団は国立となり、数多い外国公演で世界的な評価を得、現在は、エイフマンはロシア独自のモダン・バレエ創作者として、国内外で崇敬されている。

 エイフマンは、物語るというロシア・バレエの伝統を継承し、身体による語りで物語を紡ぎながら、単なるダンスではない、総合的な意味での "舞台芸術" と言える舞台創りを目指す。
 エイフマンは自ら台本を書き、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』のような長編小説も2時間ほどのバレエに仕上げてしまう。彼の台本の原則は、物語を説明するのではなく、登場人物の心理や感情の流れを舞台に載せることである。その演技=舞踊の根底にあるのは、演劇のスタニスラフスキー・システムである。

 道具を人間と同様に扱うという演出もエイフマン・バレエの特徴だが、これは、前述のゴレイゾフスキー、ロプホーフを含めたアヴァンギャルド時代からのロシア舞台芸術の伝統を継承したものだ。たとえば、『チャイコフスキー ~光と影』での人間とともに動かされるベッドなどがある。

 エイフマンの作品が、1980年代以降の欧米の多くのダンス作品と異なり、強い感情や掘り下げられてゆく心理が身体で劇的に語られるのは、彼が、ロシア舞台芸術の優れた伝統を活用して、独自性のある新しいダンスを創造している結果なのである。
 
ボリス・エイフマン 2013, photographer Dmitriy Dubinskiy(CC BY 3.0) URL=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Борис_Эйфман._Boris_Eifman.jpg

 
エイフマン『チャイコフスキー ~光と影』 提供=村山久美子
 

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 ロシア・バレエは、ソ連時代、このように西欧とは異なる独自の優れたバレエ文化を築いていたのである。

 しかし、1991年のソ連崩壊後、芸術にも東西の垣根がなくなった。2022年2月24日にプーチン政権ロシアがウクライナに侵攻する直前まで、グローバル化の流れを受けて、ロシアのみならず世界のバレエ団が、国内外を問わず同じ優れた作品を上演する傾向が続いていた。しかし、ロシアが孤立化を強める現在、良くも悪くも自国の若手振付家に、作品上演の機会を与えることが多くなっているように思われる。

 ボリショイ・バレエとマリインスキー・バレエは、言わずと知れた世界最高峰のバレエ団である。だから、ダンサーたちはこれらのバレエ団に所属することを誇りとして、自分の芸術を淡々と磨いている観がある。戦争に反対し国外に出たロシア人ダンサーは、ボリショイのプリンシパルだったオーリガ・スミルノーワのみである(もともと数多くはいないが、ロシアで働いていた外国人は、かなりロシアを去った)。目下のところ、バレエ団としてもダンサー個人としても、欧米、日本との間の招聘は互いに行われていない。

 踊り手の舞台生命は短い。世界にその力をアピールする機会、他の国の芸術や文化から様々な糧を吸収する機会を奪われているロシア・バレエの人々は今、外国公演は行っていた反動のソ連時代よりも悲惨な状況にあるように思う。

 



図版提供=村山久美子

村山久美子

舞踊評論家、舞踊史・ロシア舞台芸術史家。早稲田大学大学院博士課程満期終了。ハーバード大学大学院、ロシア国立プーシキン記念ロシア語大学留学。早稲田大学ほかで非常勤講師として、舞踊史、ロシア・バレエ史、ロシア語、ストリートダンス実技を担当。舞踊評論家として、日経新聞、読売新聞、ダンスマガジン等々に、1980年代前半から寄稿。著書に、「二十世紀の10大バレエダンサー」(東京堂出版)、「バレエ王国ロシアへの道」(東洋書店新社)他。
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