ベースメント・ムーン(6) |プラープダー・ユン 訳=福冨渉

初出:2022年7月31日刊行『ゲンロンβ75』
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前回までのあらすじ

 2016年、軍事政権下のバンコク。奇妙なメッセージに導かれて旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それはつぎのような物語だった。
 2062年、中国企業ナーウェイが人工意識の開発に成功。人工意識には人工知能と異なり、他者を「想う」力があった。危険性を察知した政府の介入によって開発は禁止されるが、エンジニアは秘密組織「タルタロス」を結成し、秘密裏に開発を続けた。その結果、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」が誕生する。この技術に政治利用の可能性を見た独裁国家連合体「WOWA」はタルタロスを吸収、写識を利用して世界に広がる反体制運動を殲滅しようと目論む。タルタロスのエンジニア・カマラは、ついに写識そのものを人間に搭載する技術「虚人スンヤチョン」を実用化した。
 時を同じくして、WOWAの一角をなすタイ王国では、禁止された芸術作品が引き起こす「心酔マオ・マインド」現象が、反政府運動と結びついて拡大。この運動に対抗するため、タルタロスは芸術を「想う」ことに特化した写識ムルを開発する。
 あらためて時は2069年。ヤーニンと呼ばれる女性は、心酔現象の調査のため「虚人」となり、写識ムルのコピーをインストールされる。タイに出発する彼女の前で、エンジニアのカマラは不可解な言葉を残して突然に命を絶つ。呆然とする彼女に、彼女のなかの写識は、人間を支配する言語や時間の本性、その支配を揺さぶる「物語」の役割について語る。そこで明らかにされたのは、人工意識の開発者エイダ・ウォンの父である天才ハッカーと、母であるタイの民主活動家の出会いの意味だった。
 なお下記で書かれる「わたし」はヤーニンにインストールされた写識ムルの一人称であるが、同時にそこに宿るヤーニン自身の意識による一人称でもある。

主要登場人物

プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現した。
メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていた。
写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した4つの人工意識の手引きによって開発された。
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。
ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。任務でタイに向かう直前に、カマラが自死する現場に居合わせる。

※本文中の[☆1]は訳注を示す。

わたしとその他の夢見るひと

2069年10月3日、16時53分。わたしは〈モルフェール・アビス〉にチェックインした。メニューに表示されていた「サーリネン・ルーム」という選択肢を選ぶと、エーロ・サーリネンのデザインの部屋が作られていく。家具や日用品の多くが白と赤で構成されていて、部屋の中央に黒い円型のベッドが浮いている。

タルタロスによる写識の装着状態の検査は滞りなく進んだとはいえ、わたしは恐怖を抑えきれずにいた。検査室を出たわたしをバンコク行きのエアリフターに乗せるときに、WOWAの職員たちが、大げさで不必要にも見える検査の理由を教えてくれた。彼らは、カマラがあのキスを通じて、わたしのシステム内にナノバグを仕込んだのではないかと疑っていたのだ。

カマラはなんのためにあんなことを? わたしが聞く。彼女はタルタロスとWOWAのためにずっと働いてきて、信頼を置かれていたんじゃないのか? だが最近のカマラの行動を観察していた彼らは、彼女の意識が、タイやその他の国々の混乱の裏にいる地下運動組織に干渉されて、汚染されたと考えていた。わたしの内部になんらかの秘密作戦についての情報を隠して、タイにいる反乱組織に引き渡す。つまり、わたしを武器として利用しかえそうという試みだったのかもしれないとも。

タルタロスの仮説はこうだ。カマラの自死は、WOWAによる執拗な監視に気づいたゆえのものであり、その前にわたしと会ったのにはなにか重大な意図が隠されている。彼女は専門家であり、天才だった。彼女の発想をもとに、敵と戦うためのさまざまな戦略や作戦が決定されたことも数多い。だからこそ、WOWAに疑いを持たれた瞬間から命が危険に晒されるともよくわかっていたはずだ。それは、あの日の彼女の行動がはっきり示している。わたしを自分に出会わせてその死を目撃させようと、カマラはあらかじめ準備していた。彼らはそう信じていた。

心配はいらない。彼らは強く言った。情報の漏洩とあらゆるタイプの二重作戦を防止して組織内部の不安を払拭すべく、WOWAは調査を行なう。組織を細部まで漏らさず調べるのに加えて、過去から現在までのあいだに協力関係にあったほかの団体からも、疑わしいシステムや人物を発見して、殲滅する。その対象はタルタロス内部の機材やネットワークも例外ではない。あらゆる世代の、あらゆるモデルの人工意識が、写識が、虚人までもが、細かく検査される。わたしのモデルになった写識ムルも例外ではない。いまにグレート・リセットが起こり、数多くのものが引退させられる。初めのうちに検査を通過したわたしはラッキーだ。そう彼らは言った。今回の大掃除ビッグ・クリーンのタイミングにあわせて、重要な任務があるんだ。

わたしはそれを黙って聞いている。そのうちにエアリフターは高度を下げ、チャオプラヤー川を臨む高層ビルの屋上ポートに着陸した。記憶との接続状態から測るに、この虚人の女性はここを知っているようだ。タルタロスでの検査は本当に順調なものだったのか、それともわたしの疑念を払拭しようとする計略だったのか、はっきりとはわからない。とはいえ仮に後者であったとしても、予測の範囲内だ。移動中に耳に入れた情報だって、なんらかの計画の一部かもしれない。なにひとつ信用ならない。

およそ1時間後、タイ当局の高官がわたしに会いにモーフェルのロビーを訪れた。ヤーニンという名前のブランケットが無事にタイに到着して、任務をこなす準備が本当に整っているのか確認しにきたのだ。新型の兵器である虚人は、多くの人々にとっていまだに信頼の置けないものだった。しかも、芸術文化に特化した写識を搭載したブランケットの投入をタイ当局が許可するのも、これが初めてのことだった。

もしこの虚人の女性が自分で選べたとしたら、いったいどんな部屋を選んだだろうか。わずかにしか残らない彼女の意識からそれを推測するのは難しい。畳の部屋を選んだかもしれないし、ヴィクトリア調の部屋だったかもしれない。あるいはモーフェル・アビスのアルゴリズムセンターが無作為に抽出した部屋だったかもしれない。統計的には、この日付と時間帯に宿泊する人間の多くが、そうやって部屋の内装を決めている。

エーロ・サーリネンのデザインを模倣した客室を選ぶという選択は、意識が対象に向かう作用ノエシスにもとづくものだ。それはまた、写識ムルなりの合理性によるものでもある。サーリネンというデザイナーが、第二次世界大戦時の米政府諜報機関であるOSSこと戦略情報局の作戦に関係していたというのが理由なのだろう。彼は戦時中のさまざまな情報発信におけるデザインを手がけていて、1944年にはホワイトハウスの作戦室で同様の任務に従事した。芸術は、軍事や戦争と密接な関係を持ち、それらによって利用され続けてきた。特に、新たなテクノロジーの開発や実験の予算が軍部の手に渡った時代には。

わたしは円形のベッドに座り込み、靴を脱ぎ、リラックスしているという態度を示そうとした。目は壁のディスタンス・ビューの映像を見つめている。静謐な紺碧の海面が反射する陽光が、陸離として輝く。ポツポツと浮かぶ白い雲に飾られた明るく晴れた空と海との切れ目に、光が混じる。アンダマン海の人工島に建てられたモーフォミニアムの広告だ。わたしはディスタンス・ビューの画面をオフにした。あらゆる社会的なネットワークから一時的に切り離されたひとりきりの状態。タイの国民の多くは味わうことも難しい贅沢だ。たとえ十分な資産があっても、1時間以上の孤独を購入することは当局が許さない。なんにしたって、監視のネットワークを完全に逃れられるような人間はいない。検査を通過して政府からのライセンスを取得した建築資材のすべてに、光を受容する人工筋細胞が埋め込まれている。自由時間と静寂のあいだであっても、人工的な目による監視が続くのだ。国民の平穏と、国家の安定のために。金で買えるいちばん大きなものといえば、せいぜい広告から解放されるわずかな時間だ。プライバシーは金よりも高価だ。統治権力の許可がない限り、いくら金があっても買えないものもある。

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1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

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ふくとみ・しょう/1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)がある。

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