イスラームななめ読み(8) ニッポンのムスリムが自爆するとき|松山洋平

初出:2022年9月12日刊行『ゲンロンβ76+77』

「イスラーム」と「テロ」は、その本質的な結びつきを認めるにせよ、否定するにせよ、セットで言及されることが多い。本稿ではこの「イスラームとテロ」という問題を、「ムスリムは日本でテロを起こすか?」「どのように防ぐべきか?」という治安の問題としてではなく、起こり得る〈テロ〉後、あるいは〈テロ〉前における、日本におけるムスリムとの共生の問題、あるいは、日本社会におけるムスリムへの差別の問題を考える切り口として捉えてみたい。

 本題に入る前に、2つのことをあらかじめ確認しておく。1つ目は、筆者である私のポジションについてである。私は日本人であり、同時にイスラームを信仰している。したがって、テロ・イスラーム・共生の問題系においては、一人の当事者として──日本社会の一員としても、ムスリムの一人としても──日本社会がムスリムとの共生を許容する方向に変化することを願う立場にある。

 しかし、後述するように、しばしば見聞きする「大多数のムスリムは穏健で、テロなど起こさない。だから共生が可能である」という主張には危うさも感じている。なぜなら、イスラーム・テロは日本でも十分に起こり得るからである。「テロは起きないから共生は可能だ」という共生論は、テロがひとたび起きれば吹き飛んでしまう。

 それ故、テロが起きる可能性を認めた上での共生論、つまり、ある種の悲観論に依拠した共生論が必要になる。仮に日本でイスラーム・テロが起きたとしても、それでもなお共生が志向されるためには何が求められるのか。本コラムの中心的な関心はそこにある★1

 確認しておきたい2つ目のことは、本コラムの性質についてである。以下では、私が重要であると感じる2、3の問題を取り上げている。しかし、本コラムは差別論や共生学の専門的見地から書かれたものでもなければ、在日ムスリムの総意が反映されているわけでもない。私の個人的経験に基づいて述べている箇所もあり、必ずしも読者が事実を確認できるわけではない部分もある。何らかの有効な答えを提示しているわけではなく、論点を提示しているだけだと言ってもよい。本稿で素描しようとした問題を、いつかどなたかが、より適切な形で発展的な議論に昇華させてくれることを願っている。

1 日本におけるイスラーモフォビアの可能性

「日本社会におけるムスリムへの差別」などと書くと、「ムスリムへの差別など日本にはない。今後も起こらない」と感じる人も多いかもしれない。たしかに、日本ではムスリムの存在自体が可視的でないため、必然的に、彼らへの差別も見づらくなる。「イスラームと聞くと、テロや戦争などのマイナスなイメージを想起しがちである」「暴力的な宗教だという印象を持ってしまいがちである」という決まり文句はよく使われるが、常日頃からイスラームに対して差別的・否定的な感情を抱いて生活している人は珍しいだろう。大多数の日本国民は、イスラームに関して、全く、いかなる関心も持っていないのが普通だ。「イスラーム」と聞いても、「テロ」の連想を除けば、「イスラム……豚が神様でしたっけ」「インドの宗教ですよね」くらいの言葉が返ってきてもおかしくはない。

 しかし、マイクロアグレッションのレベルに留まっているとはいえ、ムスリムに対する差別や排除を指向する力は日本にも存在する。

 第1に、日本の公的なレベルにおいて、「イスラーム」は、治安維持のために監視すべき対象として認知されている。日本にあるモスクなどの宗教施設、場合によっては特定の個人は、警視庁公安部や公安調査庁などの監視対象となっている。2010年には、警視庁外事第3課が保有していた「内部資料」がネット上に流出し、国内のムスリムがテロリスト予備軍として捜査対象とされていたことが明らかとなった★2。この「内部資料」から読み取れる公安の捜査方法には、尾行による個人の行動の監視や、イスラーム団体への潜入調査も含まれていた。

 ムスリムに警戒するこうした公安の姿勢については、佐藤優のような影響力のある識者がこれを高く評価し、公安の取り締まりがなければ日本からテロリストが生まれてもおかしくない、と述べている★3。イスラーム研究者の飯山陽──氏は現在、日本のイスラーム研究者の中で最も著作が読まれているであろう気鋭の論者である──は、「イスラームにはテロリズムを生みだす内在的な要因がある」、「日本社会に対する脅威として、ムスリムに警戒せよ」というメッセージを発信している★4

 日常生活のレベルでも、日本に暮らすムスリムはマイクロアグレッションを受けている。警察から頻繁に職務質問を受けた経験や、職場や学校で、あるいは見知らぬ他人から軽度の嫌がらせを受けた経験を持つ人は多い(もちろんそれらの嫌がらせは、必ずしもムスリムであるために向けられたものではなく、外国人一般に対するヘイトに基づく場合も、「宗教」の信者一般に対するヘイトに基づく場合もあるだろう)★5。モスクやムスリム墓地などの施設を建設する際には、必ずと言っていいほど地元住民との間に施設コンフリクトが生じる。「自分はイスラームに偏見を持っていない」と考えている人であっても、実際に自分の隣人としてムスリムの集団を快く受け入れるかどうかはわからない★6

 以上のことを一言でまとめれば、「日本の公権力はムスリムをテロリスト予備軍とみなしレイシャル・プロファイリングを行っており、そうした方針を肯定的に評価する影響力を持つ知識人がいる。多くの国民は、〈テロ〉が発生していない段階ではイスラームとテロの問題に無関心であるが、潜在的にはムスリムの存在を好ましく思ってはいない」ということになる。

 ムスリムによるテロがいったん国内で発生すれば、それは、テロと無関係の者を含むムスリム一般への差別と暴力を発生させるトリガーとなるだろう。イスラーム研究者の塩尻和子は、「日本のイスラーモフォビア(イスラームに対する嫌悪感)も西洋に負けず、深刻な問題を含んでいる」と断言し★7、日本においても、ムスリムに対する差別や暴力が活発化する高い蓋然性があることに警鐘を鳴らしている。もっとも、本邦でもこれまで──「イスラーモフォビア」という言葉を用いるかどうかは別として──イスラームへの偏見・差別感情を解消することに繫がるような、様々な研究・提言がなされてきた★8。しかし、こうした誠実な試みの成果が波及する範囲は未だ限定的である。実際に日本でテロが起きれば、その成果は吹き飛んでしまうだろう。

 差別や排除を生み出す力は、ときに、善意に基づく活動によっても、あるいは、ムスリム自身による、テロとイスラームを結び付ける言説を取り除こうとする努力によってさえ強化され得る。一部の在日ムスリムの間には、ムスリムが犯罪者・テロリスト予備軍とみなされることにある程度の正当性を認める者がいる。現実問題として、今日国際的に認知されているテロリストの多くはムスリムであり、日本人がムスリムに対して負の感情を持つのは自然なことである、と彼らは考えている。「悪いのは差別する日本人ではなく、差別を招く要因を作るテロリストのムスリムである」というわけだ。しかし、テロによる加害が存在することは、差別による加害を正当化する根拠にはならない。2つの加害は峻別して考えるべきである。差別する「理由」が存在することは、差別を正当化しない。

「理由」に基づく差別に「理解」を示すムスリムたちには、往々にして、「テロリスト」を激しく、そして頻繁に非難する傾向がある。普段は政治的問題に積極的に関わらない日本のイスラーム団体も、欧米諸国で「テロ」が起き、それが日本で報道されると、一早くテロ非難声明を発表するのが常となっている。自分たちがテロを支持しないことを明示する意図で行われているのだろう。

 しかし、このような態度は反対に、テロとは無関係のムスリムがテロの責任を共有するかのような認識を強化する可能性がある。こうした態度はちょうど、フランスのムスリムが「私はシャルリー」と声高に叫び続けなければならないのと同じように、ムスリムは、常にテロを非難する態度を表明し続けなければ、テロへの賛同者と思われかねない状況を作りだすことに加担しているかもしれない。この問題は林によって適切に指摘されている。少し長くなるが以下に引用したい。

 世界のどこかでムスリム(と思われる人)がいわゆるテロ事件を起こしたというニュースがあると[……]ムスリムの側も「本当のイスラームはテロを認めない」などと声明を出すことが多い。さらに、新たなテロ事件が起きたわけでもないのに、ムスリムの側から「テロ撲滅」などというメッセージを出すこともある。このようなテロリズムについてムスリムが非難することが外部から求められ、ムスリムの側からもしなければならないように感じることを Collective Guilt(共同責任・集団的罪悪感)と呼ぶ。これについては、どのように考えるべきか。

 たしかに、テロリズムの原因として少なからずイスラーム自体が非難されている現状において、イスラームの側からの説明をすることも必要であろう。しかし、テロ事件がある度にムスリムが非難をすることを続けることには、大きな問題がある。まず、そもそもこれは、テロリズムという極悪卑劣な行為について、ムスリムであるというだけで非難しなければ賞賛していると認識するということであり、相手を良心ある人間と思っていないに等しい。また、テロリズムを積極的に非難していないムスリムは、これを賞賛していると思わせる可能性がある。さらに、テロリズムについてムスリムだけが非難する姿を晒し続けることにより、見ている側に、逆にイスラームとテロリズムとのつながりを暗に感じさせる結果となる。ムスリムの側はテロリズムを非難し偏見を解消しているつもりであっても、実際は、偏見を助長していることになりかねないのである。★9

 このような形での偏見の助長は、ともすれば、好意的にイスラームを「理解」しようとする人々によってもなされ得る。たとえば、教育機関などで、少数の在日ムスリムを学校・大学に招き、生徒・学生の側から彼らに対して質問を投げかる形での「対話」を通して「イスラーム理解」を促す試みがしばしばなされる。この種の「対話」の中で、テロとは直接的にも間接的にも関わりのないムスリムに対して、テロについて意見を求めることがよくある。「テロについてどう思うか」という何気ない質問だ。質問を受けたムスリムは、テロとイスラームの(無)関係性について説明することになる★10。こうした「対話」は多くの場合善意で企画されているため、ムスリムの側も喜んで協力することが多い。しかし、このような形の「対話」が、ムスリム全体がテロへの共同責任を負うとの認識を、教育現場において再生産している可能性は否定できない。

2 イスラーム・テロをめぐる「楽観論」と「悲観論」

 ところで、そもそも日本でイスラーム・テロなど起きるのだろうか。

 この問いについては、大きく分けて2つの主張がある。「ムスリムによるテロは日本でも起きる」という主張と、「ムスリムによるテロは日本では起きない」という主張である。前者を「悲観論」、後者を「楽観論」と呼んでおく。悲観論者は、「ムスリムはテロを起こす可能性があり、共存は困難な課題である」「日本社会はムスリムに対する警戒を怠るべきではない」と言う。楽観論者は、「大部分のムスリムはテロを起こさない穏健な信者であり、日本社会でも共存できる」と主張することが多い。

 当然の前提として、ムスリムによるテロは、起きるかもしれないし、起きないかもしれない。どちらの可能性も完全に否定することはできない。もちろん、組織的かつ大規模なイスラーム・テロが日本で発生する蓋然性は極めて低いと言ってよいだろう。しかし、「テロリスト」であり、同時に「ムスリム」である人間がたった一人存在すれば、日本でもイスラーム・テロは起こる──この、可能性として日本でも起こり得るイスラーム・テロを、〈テロ〉と呼んでおこう。

〈テロ〉が起こる未来と、〈テロ〉が起こらない未来がある。この2つの可能な未来を想像することは、先ほどの「悲観論」と「楽観論」のそれぞれの立場に対して、以下のような非対称的な評価の枠組みを付与する。まず、仮に〈テロ〉が起きた場合、それを予見していた「悲観論」が(はじめから)正しかったことになり、「楽観論」は(はじめから)誤っていたことになるだろう。少なくとも、そう世間では判断される。

 しかし反対に、〈テロ〉が発生しない場合、つまり、ある時点でそれが発生していない場合はどうか。この場合も、未来において〈テロ〉が発生する可能性は常に残っている。そのため、「悲観論」が誤っていたことにはならない。同時に、「楽観論」が正しいことにもならない。「悲観論」はどちらに転んでも「負ける」ことはなく、「楽観論」はどちらに転んでも「勝つ」ことはない。本来的に、そのような構図になっている★11

 先ほど述べたように、「楽観論」には通常、ムスリム住民の受容と彼らとの共生を指向する声が伴う。その中ではしばしば、「過激派はごく一部の信者だけであること」が強調される。こうした主張は、日本に在住する信者自身の声であることも多い。しかし、「テロを起こさないから共存できる」と訴えることは、受容と共存を本当の意味で希求する方法として、果たして妥当なのだろうか。

 くりかえすが、テロの発生についての「楽観論」は、その正しさを証明することはできないし、〈テロ〉はいつ起きるかもしれない。仮に〈テロ〉が発生した場合、楽観論者はどう申し開きをするだろうか。「沈黙」という選択をとらなければ、おそらく彼らは次のように言うことになるだろう──「テロリストは、一般のムスリムとは違う」。しかしこれでは、「ムスリムは日本でテロを起こさない」という彼らの当初の主張が、「私がムスリムと認める人(つまり、日本でテロを起こさないムスリム)は、日本でテロは起こさない」との無意味な主張に過ぎなかったことになってしまう。齟齬が生じてから言辞の意味を調節する人間の言葉は信用されない。彼らの主張は、〈テロ〉後においては、その無意味さが際立つだけでなく、欺瞞さえ帯びてくる。「楽観論」は、〈テロ〉が起きた後の世界においては、ムスリムの受容と彼らとの共生を妨げこそすれ、助けることはない。

 したがって、ムスリムの受容と彼らとの共生を指向する立場が、「ムスリムは日本でテロを起こさない。だから共生できる」という主張のみに担われている現状には、問題があるだろう。可能であれば、〈テロ〉前にこの状況から抜け出すのが好ましい。それが難しいのであれば、せめて、〈テロ〉後の方向転換の可能性を高めるべく、準備を進めるべきである。重要なのは、〈テロ〉後を見据えることだ。それが起きた後、何を、どう議論するべきなのだろうか。

「テロを起こすから排除すべき」という意見と、「テロは起きないから受容すべき」という意見が対立するだけの状態が維持されれば、〈テロ〉後には、対話も議論も起こり得ない。受容と共生への呼びかけは、〈テロ〉は起きないという希望的観測に基づいて行うのではなく、〈テロ〉が起こる可能性を想定しながら、あるいは、〈テロ〉はおそらく起こるだろうと推測しながら、あるいは、必ずや〈テロ〉は起こるだろうと諦観しながらも、なされ得る。楽観論ではなく、悲観論に依拠した共生論が語られなければならない。さもなければ、〈テロ〉後におけるムスリムへの差別や暴力は、たがもなく、増幅することになるかもしれない。

3 対話の主体は誰か

「ムスリム」という主体の問題についても、今一度考えておきたい。

〈テロ〉後を見据えた対話は、誰となされるべきだろうか。当然、「ムスリム」となされることになるわけだが、非ムスリムの側は、この「ムスリム」という対話の主体をどう認識するべきだろうか★12

(1)ムスリムは日本の他者か

〈テロ〉が発生する潜在性を「リスク」として処理しようとすれば、日本からムスリムを排除することは、1つの妥当な「解決」方法とみなされるかもしれない。そもそも〈テロ〉の主体となるムスリムが存在しなければ、ムスリムによるテロは起こり得ない。存在自体がリスクであれば、イスラーム諸国出身者を日本から追い出してしまおう。そう考える人がいてもおかしくはない。もちろん、日本政府がこうした政策を採用することは現実的にはあり得ないだろうが、このような主張が一部の(しかし、けして少なくない)国民の間でゆるやかな支持を集めることはあり得る。そして、そのような声が大きくなれば、排除を指向する権力が醸成される。

 このような主張に伴う排他性を批判することは簡単だが、そもそもの話、この主張の抱える前提には、2つ瑕疵がある。

 第1に、イスラームは世界中の国・地域に信者がいる宗教であり、非イスラーム諸国出身のムスリムも多い。私もこれまで、日本国内で、フランス、アメリカ、中国、韓国など、様々な非イスラーム諸国出身のムスリムに出会ったことがある。「ムスリムを日本に入国させない」という主張は、「イスラーム諸国の出身者を日本に入れない」ことだけでは達成されない。あらゆる国籍の人間を宗教に基づいて分類しなければ、ムスリムを排斥することなどできない。

 第2に、より重要な事実は、日本国内には現在、数万人の日本人ムスリムがいるということである★13。ムスリムを排斥するということは、これら数万の日本人を排斥することを意味する。当然、そのようなことはさらに非現実的だ。おそらく、日本人ムスリムの数も今後も徐々に増えていくだろう。世界的に見ても、ムスリムの数は絶対値としても相対値としても増加傾向にあり、今世紀中にイスラームは、世界最多の信者数を抱える宗教になることが予測されている。日本においても、日本人ムスリムが、今日における日本人キリスト教徒と同程度には、「自然な」存在になっていくかもしれない。「イスラーム」を日本の「他者」として捉え、ムスリムをめぐる共生の問題を「外国人との共生」の問題の枠内で考えようとする視点そのものに、修正が必要である。

(2)ムスリム内の重層差別

 日本で「宗教」と言うと、信者を統括し指導する「教団」の存在がイメージされるかもしれない。ともすれば、トップダウンで構成員の考え方や行動が統一されると考える人もいるだろう。しかし、イスラームにはそもそも教会組織のようなものがない。モスクはあくまで礼拝する場所を提供しているだけで、氏子や檀家のように、礼拝する信者が登録されているわけではない。ムスリムの中には、モスクやイスラーム団体と日常的にはあまり関わらずに生活している人もいる。

 ムスリムとの共生を目指し、ムスリムとの対話を試みるときに、一体誰の話を聞けばよいのかという問題はあまり意識されていない。研究者や行政関係者、教育関係者が在日ムスリムにアクセスする際には、モスクやイスラーム団体に連絡をとり、そこを介して人を紹介してもらうのが一般的な手順である。

 しかし、その他のマイノリティ集団と全く同じように、在日ムスリムもけして一枚岩ではない。同じムスリムの中にも、当然、考え方の違いや、力の不均衡が存在する。ムスリムを「代表」し、表立って意見を表明することができる人たちだけが、ムスリムというわけではない。

 彼らの背後には、対話の相手にもされず、インタビュイーにも選ばれず、意見を表明する場さえない、様々な「サバルタン」(従属的存在)がいる。こうした「サバルタン」は、複数のマイノリティ性を有する複合マイノリティであることも少なくない。

 交差性(インターセクショナリティ)を有する、ムスリム・コミュニティ内で権力を持たないムスリムは、「対話」の局面から排除されてしまう傾向がある。ケースバイケースで様々な理由があるが、一般的に、モスクやイスラーム団体で決定権を持つムスリムは、マジョリティから見て、扱いやすい、話のわかる、「良いマイノリティ」として自分たちを表象しようと努めるためである。彼らは、「私たちは日本で不自由なく暮らしている」「差別や偏見は感じない」と述べ、「マイクロインバリデーション」(無効化)に加担するようなコミュニケーションを促してしまう★14。そのため、日本社会により少なく順応・包摂されている(ように見える)ムスリム、あるいは、日本社会への不満や、ムスリムへの偏見についてのマジョリティ側の責任に言及しかねないムスリムを、意識的にではなくとも、対話の場から遠ざけようとする。

 加えて、イスラームのより「正統」とみなされている教説が、同性愛者のような一部のマイノリティ属性に対して非親和的な場合がある★15。このことも、複数のマイノリティ性を有するムスリム(たとえば同性愛者のムスリム)の存在が可視化されにくい背景となっている。この状況は、ムスリム・コミュニティ内の重層差別と言ってもいいだろう。

(3)マイノリティ・ムスリムとの対話

〈テロ〉前でさえ、対話の場から排除され、いないことにされているこうした人たちが、〈テロ〉後において、なお一層の排除の対象となることは目に見えている。ここに仮に、トランス女性であり、精神的あるいは身体的障害を抱えている、「ミックス」で、シーア派に改宗した日本人ムスリムがいるとしよう★16。〈テロ〉後の日本において、彼女を、誰が、どのようにケアし得るだろうか。彼女のような交差的な被差別的属性を持つマイノリティは、そうではない「強い」マイノリティに対しては何らかの理由で行使されずに留まっている差別・暴力の被害を、一身に受けることになるかもしれない。ムスリムへの差別や暴力は、ムスリム・コミュニティ内で権力を持ち得るような人ではなく、ムスリム・コミュニティ内でもほとんど無視されている彼女のような人に、まず降りかかることになる。そして、彼女への差別を放置することによって、ムスリムへの差別はなし崩しに拡大することにもなるかもしれない。彼女の存在を無視し、その声に耳を傾けないことは、ムスリムに対する差別と暴力が拡大する道筋を、十分な形で温存する。

 だから、差別や暴力が生まれ得る〈テロ〉後を見据えたとき、彼女のような交差性を具えたマイノリティの経験にこそ、耳を傾けるべきではないだろうか★17。もちろん、ムスリムの側にとっても、ムスリムと対話する側にとっても、「サバルタン」のムスリムが有する複雑な交差性を受け止めるのは簡単なことではない。しかし、たとえば梅津の研究のように、トランス女性を含む複数の性的マイノリティの日本人ムスリムを対象としたインタビュー調査を行い、彼女らの宗教意識をくみ取ることに成功した例も存在する★18。これまでとは異なる形での在日ムスリムとの対話は、決して不可能な課題ではない。

 

次回は2022年10月発行の『ゲンロン13』に掲載予定です。

 

★1 イスラームをめぐる共生の問題系については、論点や今後の見通しを整理した優れた論考がすでに書かれている(桂悠介「イスラームをめぐる共生──多元的アプローチのために」、『思想』第1176号、2022年、25-45頁)。私のこのエッセイは、日本国内でイスラーム・テロが発生する事態と、その後、ムスリムに対する差別や暴力が拡大する可能性に特に着眼した上で、試論的な問題提起を行うものである。
★2 青木理ほか編著『国家と情報──警視庁公安部「イスラム操作」流出資料を読む』、現代書館、2011年。
★3 佐藤優『佐藤優の地政学リスク講座2016──日本でテロが起きる日』、時事通信社、2015年、第1章。
★4 飯山陽『イスラム教の論理』、新潮新書、2018年。飯山陽『イスラム教再考──^18^億人が信仰する世界宗教の実相』、扶桑社新書、2021年。なお、桂が考察しているように、飯山の議論は、日本とイスラームの相互理解の不可能性を示すことによって、両陣営が相手側の「理解」を目指さずに共生を指向する「棲み分け共生論」の一種と捉えることも可能である(桂「イスラームをめぐる共生」、29-32頁)。
★5 今日の日本では、「宗教」一般に対する嘲笑や嫌悪感の表明が広く許容されている。たとえば、何らかの集団的営為に対して「それは宗教(のよう)だ」と比喩的に言えば、通常、その営為に対して極めて否定的な含みを持つ評価を下したことになる。誰かを「○○の信者」と例えることは、批判的精神を具えない、盲目的で、愚鈍で、ときに危険な人物であると評価することを意味する。「宗教」「信者」という語のこのような使用について、それを疑問視する声さえほとんどあげられていない(あげることができない)状況は、比喩ではなく、語の直接の意味において「宗教」の「信者」である人間への差別を許容する、あるいは促進する土壌を形成している。
★6 國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所が実施している学生宗教意識調査(2020年度版)では、「モスク(イスラム寺院)が近所にできることになったとするとあなたは不安を感じますか」との質問に対し、8.6%が「かなり不安を感じる」、35.77%が「少し不安を感じる」との回答を選択している(國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所編『第13回学生宗教意識調査報告(2020年度) 改訂増補版』、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所、2022年、21頁)。URL= https://www.kokugakuin.ac.jp/research/oard/ijcc/ijcc-publications/csatrs2020enlarged
★7 塩尻和子「イスラーモフォビアに立ち向かう」、日本のイスラームとクルアーン編集委員会編『日本のイスラームとクルアーン──現状と展望』、晃洋書房、2020年、93頁。
★8 荒井正剛、小林春夫編著『イスラーム/ムスリムをどう教えるか──ステレオタイプからの脱却を目指す異文化理解』(明石書店、2020年)には、日本の中等教育における、イスラームへのステレオタイプからの脱却を目指した取り組みと課題が具体例とともにまとめられている。現場の実情を踏まえた上で、日本の大学における教養科目としてイスラームを教える方法を検討した八木久美子「教養科目としてイスラムをいかに教えるか」(『東京外国語大学論集』第76号、213-225頁)や、ムスリムのフィールドワーカーの立場からイスラーム問題を考察した杉江あい「イスラームとムスリムについて教える/学ぶ人のために──ムスリマのフィールドワーカーからの提案」(『E-journal GEO』第16巻第1号、2021年、102-123頁)には、実際に教育に携わる人間にとって極めて有益な提言が含まれている。また、大橋充人『在日ムスリムの声を聴く──本当に必要な〝配慮〟とは何か』(晃洋書房、2021年)のように、地域の在日ムスリムの声をすくい上げ、共生のあり方を模索する賢明な取り組みも存在する。塚田穂高「学校現場で必要な宗教上の配慮について知っておきたいこと──多文化共生・自文化理解・教育の環境づくり」(上越教育大学『「人間力」を育てる──上越教育大学からの提言6』、上越教育大学出版会、2022年、39-57頁)は、イスラームについてもページを費やし、教育現場における可能な配慮の方法をわかりやすく示している。店田廣文「地方自治体におけるムスリム住民に対する『多文化共生』施策の現状」(『人間科学研究』第32巻第二号、2019年、225-234頁)は、ムスリムとの共生のために地方自治体が果たし得る役割を検討している。近藤文哉ほか「ムスリムに対する受容的態度およびイメージに対して情報提示が及ぼす影響──脅威・類似情報の提示とその認知を中心に」(『AGLOS: Journal of Area-Based Global Studies』第8号、2019年、1-18頁)は、日本の非ムスリムの持つイスラームに対する受容的態度やイメージを変化させる要因を検証し、1回の情報提示がイメージを変化させ得ることや、「信心深さイメージ」が受容的態度の改善に効果的であることなどを示した貴重な研究である。
★9 林純子「日本のイスラーム──法曹界から」、日本のイスラームとクルアーン編集委員会編『日本のイスラームとクルアーン』、167-168頁。
★10 この種の質問をマジョリティの側からムスリムに求めること自体に、加害性や力の非対称性がある。このような「尋問」を疑問も持たず行い得るのは、質問者がムスリムのことを、テロや殺人についての意見を表明するよう求め、テロについて無罪であることの挙証責任を課してしかるべき相手であるとみなしており、自分にその当然の権利があると思っているからである。この問題については、サラ・アーメッド『フェミニスト・キルジョイ──フェミニズムを生きるということ』、飯田麻結訳、人文書院、2022年、第五章「質問の的となること」も参照。
★11 もっとも、破局を予言する立場は、現実に破局が実現するまでは「ペテン師」扱いされてしまう恐れもある(ジャン゠ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき──賢明な破局論にむけて』、桑田光平、本田貴久訳、ちくま学芸文庫、2020年)。そのような状況下では、「楽観論」が「悲観論」よりも優位な立場をとることもあり得るだろう。しかし、イスラーム・テロの可能性について言えば、実際に世界各国でイスラーム・テロが発生していることが認識されている以上、「悲観論」の方が賛同を得やすい。
★12 なお、サラ・アーメッドの指摘するように、マジョリティが設ける「対話」や「議論」の場は、ときに、差別の被害者の口を封じ、彼らを排除する方策にさえなり得る(サラ・アーメッド「ハンマーの共鳴性」藤高和輝訳、『現代思想』2022年5月号、青土社、99-101頁)。ここで私が考えたいのは、そのような類の「対話」に誰を物理的に招くべきか、ということではない。そうではなく、マジョリティの側が、顔をどこに向け、耳をどこに傾けるべきなのか、という問いである。共生を志向した対話──あるいは会話──のあり方をめぐる議論については、桂悠介「創発的パラダイムとしての『共生学』の確立に向けて──共生の諸課題とメタ理論的視座の必要性」(『共生学ジャーナル』第4号、2020年、1-29頁)も参照。
★13 日本人ムスリムの数ははっきりとはわからない。日本国籍を持つ者と永住者を合わせて4万人とも6万5千人ともいわれる(店田廣文「日本人ムスリムとは誰のことか──日本におけるイスラーム教徒(ムスリム)人口の現在」、『社会学年誌』第59号、2018年、109-128頁。店田廣文「世界と日本のムスリム人口2018年」、『人間科学研究』第32巻第2号、2019年、253-262頁。大橋充人『在日ムスリムの声を聴く』、223−225頁)。この数は、ムスリムと推定される外国人を配偶者や親に持つ日本人や、日本のイスラーム関連団体の日本人会員数などを基に推計されている。しかしながら、実際には、モスクなどの団体に認知されていない日本人ムスリムも多い(実際、私の知人にもそうした日本人ムスリムが大勢いる)。また、周囲にイスラームへの入信の事実を隠しているムスリムもいる。そのため、私の個人的な感覚では、日本人ムスリムの実数は店田や大橋が示す数よりも多い。
★14 「マイクロインバリデーション microinvalidation」とは、マイノリティの人間が経験したリアリティや感情を無視し、なかったことにするようなマイクロアグレッションの形態である(デラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション──人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』、マイクロアグレッション研究会訳、明石書店、2020年、78-81頁)。
★15 たとえば、以下を参照。青柳かおる「イスラームにおける同性愛──伝統的解釈を中心に」、『人文科学研究』第147巻、Y1-Y19頁。
★16 このようなモデルは極端に感じられるかもしれない。しかし私は、このようなモデルを極端なものと考え、「彼女」を存在しないことにはしたくない。実在するにもかかわらず、いないことにされる人間は、「実在する可能性はあるが、実際には存在しないだろう」との私たちの安易な推測によって生まれるからである。
 私の知人の範囲にも、シーア派の/「ミックス」の/性的マイノリティの/身体的障害を持つ/精神的障害を持つ日本人改宗ムスリムがいる。彼/彼女らの中には、イスラームコミュニティの中でさえ生きづらさを感じる人がいる。白石雅紀ほか「複合マイノリティに関する諸課題の検討──ムスリムSOGIマイノリティ」(『東京未来大学研究紀要』第15巻、2021年、79-92頁)のように、「非イスラーム世界におけるムスリムのSOGIマイノリティ」というモデルを取り上げ、日本における課題と、彼らに対する可能な配慮・支援の方向性について考察する研究がある。しかし、国内のムスリムの間ではこの種の話題はあまり好まれていない。今日、性的マイノリティのムスリムを積極的に受け入れることを表明するインクルーシブなモスクや活動が様々な国に存在するが、日本にはまだそのような場所はない。
★17 弱いマイノリティに目を向けることは、ムスリムへの差別の抑止のためだけではなく、何らかの形で、日本で〈テロ〉が起きるリスクを下げることにも寄与するかもしれない。オリヴィエ・ロワ(Olivier Roy、欧州大学院)は、現代のフランスで「テロ」を起こしたムスリムのほとんどが、あまりモスクに熱心に通っていないか、むしろ、モスクの提示する制度的なイスラームから何らかの形で弾かれてしまった人たちであることを指摘している(オリヴィエ・ロワ『ジハードと死』、辻由美訳、新評社、2019年、70-71頁)。フランスの事例を日本にそのまま当てはめることはできないが、モスクやイスラーム団体の代表者の声を聞くことを「イスラームとの対話」ののほとんど唯一の通路としてしまうことの問題性を考える上では、参考になるだろう。
★18 梅津綾子「日本人LGBTムスリムと同性愛的行為・同性婚──信仰とセクシュアリティの両立に関する予備的考察」、『年報人類学研究』第13号、2022年、137-149頁。
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1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。

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